大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年06月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1028> かもめのジョナサン

           人生の一つのかたち示しつつ 烈風(かぜ)に向かひてジョナサンが飛ぶ

 四半世紀ほど前のことであるが、現役時代、何年の何月であったかはよく覚えていないが、ある企画のため夏の青森を訪ねたことがある。下北半島の恐山から津軽半島の川倉地蔵へ、みちのくの地蔵信仰を探求のための旅であった。早朝に奈良の自宅を出て、大阪空港から青森空港まで飛び、空港で車をレンタルして青森の旅を始めた。

 青森市から下北半島を睦奥湾に沿って一路北上し、恐山まで。途中、貝柱定食の昼食を摂り、恐山に着いたのは午後二時過ぎだった。早速、仕事に取りかかり、夕暮れまで賽の河原の地蔵尊や神秘に満ちた宇曽利山湖などの写真を撮った。その日は恐山の宿坊に泊めてもらい、次の朝、脇野沢の瀬野港からフェリーで津軽半島の蟹田まで平舘海峡を渡り、金木町の川倉地蔵に回った。

  風土とは斯くあるものか夏津軽 冬は厳しきところと聞きぬ

  地吹雪を語る津軽の人の声 短き夏の旅の夕暮

  この日は太宰治の生家で知られる斜陽館に泊まり、翌日は竜飛崎まで足を延ばし、一日かけて津軽半島を往復した。十三湖などを見て青森空港まで引き返し、そこで車を返して帰路についた。このときの仕事はそんな二泊三日の旅だった。

                                                          

 この旅の途中、瀬野港で『かもめのジョナサン』(リチャード・バック著、五木寛之訳)の主人公ジョナサン・リヴイ ングストンに出会ったのである。それは確かに強風の中で訓練するかもめのジョナサンことジョナサン・リヴイングストンだった。海に突き出た突堤の上空三十メートルくらいのところでただ一羽、ヘリコプターがホバーリングするように長い間強風に向かってじっとひとところに停まっていた。それは本当に長い間だった。

 突堤の彼方には平舘海峡と睦奥湾が広がり、海は空を映して青く、その濃紺とも言える青色の海面にずっと彼方まで白波が立って見えた。一点に停まってほとんど動かずにいるジョナサンには羽に相当な力がかかっているはずであるが、それほど風を気にしている様子はなかった。もしかしたら風の力を利用する訓練をしていたのかも知れない。

 とにかく、長い間だった。フェリーを待つ三十分ほどの間、ずっとひとところに停まっていた。何のためであろう。ジョナサンには群を離れてただ一羽でいるということにどんな意味があるというのか。その姿には孤独が感じられたが、決して、暗くはなく、その姿には漲る力のようなものが見受けられた。これこそジョナサンのジョナサンたるところ。私にはジョナサン・リヴイングストンを見たという気持ちになった。

  フェリーが入港してからもジョナサンはホバーリングの姿を変えることなく、ただ一羽、突堤の上空に停まってほとんど動かなかった。あれは確かに羽の少し大きめなかもめのジョナサンことジョナサン・リヴイングストンに違いなかった。

 「すべての生活の隠された完全な原理をすこしでも深く理解するために、研究と練習と努力とを決して途中でやめてはならぬ」と、かもめの長老がジョナサンに言って聞かせたあの言葉が蘇って来た。「すべての生活の」「隠された完全な原理を」「すこしでも深く」「理解するために」「研究と練習と努力とを」「決して途中で」「止めてはならぬ」と、言葉の断片が詩人の言葉さながらに私の記憶の中で蘇って来た。

 ジョナサンは長老の言葉をよく理解した。いまの存在は生まれてこの方の努力の結果である。ジョナサンは確かに人生の一つのかたちを示すものであり、その行動は教訓に満ちている。かもめのジョナサンことジョナサン・リヴイングストンの空中静止はフェリーが出航してからもなお続けられただろう。おそらくはその日以後も。で、それは、私にとって記憶に残る一つの眺めだった。

 以上は二十数年前の雑記であるが、今もよく覚えている。人生には努力の結果が反映される。かもめのジョナサンの物語はこのことを語り、パート3で完結したものと納得していた。だが、このほどパート4を加えた完結版が出たという。まだ、読んでいないが、話によると、ジョナサンは孤独な訓練の努力によって高度な技術を習得し、成功者になるが、そこから堕落が始まり、どん底へと向かう。しかし、また、そこから立ち直って本来の自分を取り戻すという筋立てのようである。

 ジョナサンはかもめであるが、人間に等しい存在であることはわかる。内容は哲学的であるが、人生に迷いが生じて来るということは宗教的問題も含んでいると言ってよかろう。一は十に及び、十は百、千、万の多数に及び、社会の傾向に結びつき、影響して来る。このかもめのジョナサンは孤独な存在であって、完結部分のパート4は既に四半世紀前に書き上げていたようであるが、そのときには、ジョナサンが成功者になったパート3までを発表しのだという。

 つまり、その時代は、パート4が受け入れられないような発展途上の社会状況にあったと作者のリチャード・バックは考えていたようである。だが、時代が進み、堕落と反省と出直しが必要な時代現象が現在の社会に見られるに至り、このパート4を加え、完結版として今回出版し直したということらしい。

 これは、いつかどこかで触れたことであるが、真理のようにいつの時代にも変わらない不変なものがある一方、評価とか価値観といったものは時代や個々人によって異なりを見せるものがある。『かもめのジョナサン』の今回の出版し直しは、このことをよく表しているのではなかろうか。現代社会に訴え得るパート4を当時既に書き上げていたということは、作者リチャード・バックの洞察力が思われるところである。

 この話は大和に直接関係のないことであるが、この度、『かもめのジョナサン』の完結版が出版されたということで取りあげてみた。写真は『かもめのジョナサン』の文庫本。昭和六十三年五月の版で、三十一刷とあるからそのころに読んだものである。

 


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