大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年02月13日 | 写詩・写歌・写俳

<894> 十 善 戒

          日々相の ニュースに見ゆる もののあり 十善戒の 戒に重なり

 仏前勤行に十善戒のあることはよく知られる。 

弟子某甲(でしむこう) 盡未来際(じんみらいさい) 不殺生(ふせっしょう) 不偸盗(ふちゅうとう) 不邪淫(ふじゃいん) 不妄語(ふもうご)        不綺語(ふきご) 不悪口(ほあつく) 不両舌(ふりょうぜつ) 不慳貪(ふけんどん) 不瞋恚(ふしんに) 不邪見(ふじゃけん)。

                                    

 殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、悪口、両舌、慳貪、瞋恚、邪見。これは仏教で言う十悪であり、これを戒めるのが冒頭に示した十善戒である。十悪はみな人間の身口意(しんくい)、即ち、三業によるもので、日々新聞が報じる事件には多種多様の要因が見られることながら、これらはみな人間の身口意、即ち、三業より発するものということが出来る。私たちには、心耳を開いて感得し、真意を汲んで慎むこと。これよりほかになかろう。私たちには、仏前のみならず、日々刻々において十善戒は求められる。みな身口意を慎めとは言われるところである。

 思うにつけても、人の世の哀れなるところ。またしても、聞こえて来る。不殺生(殺してはいけない)。不偸盗(盗んではいけない)。不邪淫(淫してはいけない)。不妄語 (嘘をついてはいけない)。不綺語(言葉を巧みに飾ってはいけない)。不悪口(悪口を言ってはいけない)。不両舌(二枚舌で人を惑わせてはいけない)。不慳貪(もの惜しみをして貪ってはいけない)。不瞋恚(怒り恨んではいけない)。不邪見(邪推してはいけない)。ああ、何れにも言えること。我が身にも。で、十善戒は上述のように戒めるのである。

 新聞は読者のニーズに合わせて作られるわけであるが、すべてが読者に迎合して作られるわけではない。これだけは伝えておかなければならないという公器としての使命を感じさせるところも大いにある。世の中の人々に向って示唆し、戒めにする類の記事も多い。とりわけ社会面の記事などは十善戒をもって教示するようなところがうかがえる。

      それだけのことだと言へば それだけのことだが そこに見ゆる戒め

 というような次第で、新聞の記事などは、当人としてではなく、ほとんどが傍観者の立場で読まれるわけであるから、それだけのことだと言ってしまえばそれだけのことに終わるが、心して読めば、記事は幾らも深みを増し、こだわりのあるものになる。「心して読むべし」とは言えることである。

  事件の有り様などは時代によって変遷するから、新聞もその時代に沿って作られ、今は今の姿を写すものであるが、事件における十悪の存在は昔も今も変わらず、十善戒は今も望まれるところで、新聞にはこれが求められる次第である。このほどのニセ作曲家の一件なども、言わば、身口意の三業よりの十悪に照らし糾弾されるべくあるものと言ってよかろうと思う。 写真は勧行で唱えられる十善戒と花。

 


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2014年02月12日 | 写詩・写歌・写俳

<893> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (60)

          [碑文]          わが背子と 二人見ませばいくばくか この降る雪のうれしからまし                                     光明皇后

 この歌は、『万葉集』巻八の冬の相聞の項に「藤皇后の天皇に奉る御歌一首」の詞書をともなって見える1658番の歌で、原文では「吾背兒与 二有見麻世波 幾許香 此零雪之 懽有麻思」とある。藤皇后は光明皇后のことで、天皇は聖武天皇である。歌は「わが夫の君と二人で見ることが出来るなら、この降る雪はどんなにか嬉しかろう」という意で、天皇が何処にか出かけ、留守にしていた間に降り出した雪であることが想像される。天皇を「背子」という庶民的な言葉をもって歌にしているところなど、この歌からは二人の仲睦まじいところがうかがい知れる。

     

 光明皇后は藤原不比等の三女で、藤三娘(とうさんじょう)とも呼ばれ、光明子とも呼ばれる。母は県犬養三千代(橘三千代)で、大宝元年(七〇一年)に生まれ、霊亀二年(七一六年)に聖武天皇が皇太子のとき、十六歳で妃となり、天平元年(七二九年)、二十九歳のとき皇后になった。聖武天皇は文武天皇と藤原不比等の長女宮子との間に生まれた第一皇子で、宮子と皇后は異母姉妹であるから、聖武天皇と皇后は甥と叔母の間柄になる。また、皇后は皇室の血縁でないから、皇室出身のこれまでの皇后と異なり、初の人臣皇后と言われ、以後、外戚になった藤原氏の権勢に大きく影響したことも推察される。

 以上のように、聖武天皇と光明皇后は極めて近しい間柄にあったが、ともに大宝元年生まれの同年齢で、より一層の親しみをもってあったのだろうことが思われる。皇后になってからは、頻発する飢饉に対処し、各地から薬草を集め、施薬院や悲田院などを設け、孤児や病人などの救済に当たり、皇后のお寺として知られる奈良市の法華寺には、病人の手当てに用いられたという当時を物語る唐風呂が残されている。

 これは帰依する仏教の影響が大きく関わったと思われるが、その慈悲に満ちた資質は聖武天皇が行なった全国各地に配置した国分寺と国分尼寺の事業にも影響し、皇后の意向が反映されたとも言われる。国分寺をまとめる総国分寺の東大寺建立にも関わったとされ、大仏も作られたのであった。ほかにも、皇后の発案により、藤原氏の氏寺である興福寺の五重塔を手がけ、天皇の病気平癒を願って香薬寺(新薬師寺)建立にも関わったと伝えられる。

 天平宝字四年(七六〇年)に六十歳で没したが、天皇とは二人三脚で政治を進め、仲の睦まじいことは天武・持統の天皇皇后時代と比肩して然るべき姿として見ることが出来るように思われる。このような背景をもってこの碑文の歌を見ると、また、格別な趣が感じられて来る。この歌碑は、二人の意向が強く反映されて建てられた東大寺本堂・大仏殿の戌亥(乾)、つまり、北西側の植え込みの中に建てられている。平成七年、奈良市に万葉歌碑を建てる会によって建てられたもので、碑陰にうかがえる。写真は大仏殿を背にして建てられた光明皇后の歌碑(左)と寺院の屋根に降り積もる雪。   降る雪も 雅にあれば 雅なり


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2014年02月11日 | 祭り

<892> 廣瀬神社の砂かけ祭り

        どことなく 春めく神の 庭に立つ

 この時期、大和地方では一年の五穀豊穣を願い、予祝の意味を込めて行なわれる御田植え祭が見られる。殊に建国記念日の二月十一日は祝日とあって各地でこの行事が見受けられる。中でも有名なのは北葛城郡河合町の廣瀬神社(廣瀬大社)に伝わる砂かけ祭りである。

 廣瀬神社は大和平野の中央を東西に流れる大和川と支流の飛鳥川や曽我川が合流する地に位置する神社で、『日本書紀』によれば、天武天皇四年(六七五年)四月十日の条に、天皇が風の神を龍田の立野に祠(まつ)らしめ、大忌神(おほいみのかみ)を広瀬の河曲(かはわ)に祭らせたとあり、その後、行なわれるようになった大忌祭が御田植え祭の砂かけ祭りであるという。

     

  前述したように、廣瀬神社の辺り一帯は河川の合流地点に当たり、低地が広がるところで、洪水が頻繁に起き、一方では、降水量の少ない気侯帯に当たるため、川の流域が短いこともあって旱魃も頻繁に起きた。ということで、この地では「水浸(つ)き一番 日焼け一番 嫁にやっても荷はやるな」というほどであったと言われ、洪水や旱魃の自然災害に悩まされて来たところであるという。

  この言い伝えは、洪水も旱魃もよくあるところで、嫁にやっても嫁入り道具の荷物は持って行かせるなという意味であるという。現在は河川改修などが行き届き、どちらも見られなくなったが、一昔前まではよく見られたのであった。殊に、日照りによる旱魃には悩まされたようで、河合町の隣の川西町の神社には江戸時代の雨乞い踊りの大絵馬が残されているほどである。

  龍田の風神は風水害から人々の暮らしを守り、広瀬の水神は恵みの雨をもたらし、豊作の願いを叶えてくれるという。で、天武天皇は、大和平野の安寧を願って大和川の両岸にこの二神を祀らせたのである。この廣瀬神社の祭りが砂かけ祭りで、砂がかけられるようになったのはいつごろかはっきりしないようであるが、砂には恵みの雨が表わされ、かけられる砂が多ければ多いほど豊作になると言われ、広く知られるところとなり、大和の奇祭の一つに数えられるに至った。

  祭りは、午前十一時から「殿上の儀」が行なわれ、拝殿において田人や牛役による御田植えの所作が披露され、午後二時から「庭上の儀」の砂かけ祭りが行なわれた。砂かけは注連を廻らせた砂場に田人や牛役が現われ、参拝者らと砂をかけ合うもので、何回も繰り返され、広い境内は超満員になった。田人も牛役も誰彼となく砂をかけて回るので中には逃げ惑う参拝者も見られた。今日は絶好の祭り日和になり、砂も一段と多く飛び交ったように見えた。写真は砂かけ祭りの模様と牛の面を被った牛役。

 


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2014年02月10日 | 写詩・写歌・写俳

<891> 情愛の系譜

         冬の鹿 寄り添ひゐたるは 命なり

 1は2、2は4、4は8、8は16、16は32、32は64、64は128、128は256、256は512、512は1024……。一人の私は父母二人から生まれ、父母二人は四人の父母から生まれ、この四人の父母は八人の父母から生まれた。こう数えて遡ると、私の十代前の父母たる人はその血筋において千二十四人を数えることになる。各世代平均二十五歳で子供を生んだとすると、その間二百五十年ということになる。

 つまり、二百五十年の間に千二十四人が関わりをもって私という一人はここに存在しているということになる。このような見方で言えば、もっと昔からもっと多くの人の関わりがあって私という一人は今ここにあるということになるわけである。そして、その間の各父母の関わりは、単なる関わりではなく、生命の息吹である情愛によってあり、その情愛の継続によるものであることがわかる。

  言わば、地球上の全人類は、この私と同じ系譜の持ち主であることが言えるわけで、聖書にはイエスの系図が長々と述べられているが、私たち一人一人にもイエスに勝るとも劣らない系譜があって今ここに命を繋いでいることが言える。この系譜の間には諸事情があったに違いないが、その諸事情をクリアして、私たちは今ここに至っている。

                            

  その系譜の根本にあるのが、命の息吹である個々の情愛というものであろう。情愛なくしては二百五十年の間の千二十四人の血筋たる系譜の一人である私の存在はなかった。所謂、私は過去幾多の生命が交歓して来た情愛の軌跡の末端にあり、未来に向かう存在であると言ってよかろうと思う。写真は仲のよさそうな鹿。雌と雄。(奈良公園で)。


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2014年02月09日 | 写詩・写歌・写俳

<890> 大和寸景 「お水取りが近い二月堂」

        春は先 霙雪降る 二月堂

 東大寺二月堂の南の石段下、登り口のところに御手洗(みたらし)があり、その御手洗の前に祭事の予定や法話を書き出す黒板様の掲示板がある。今、その掲示板いっぱいにはみ出すほどの力強さをもって絵と文字が書かれている。絵は金剛力士(仁王)の阿形像で、文字の方は「日中開白すぐそこに 我等 阿吽も 気合いを入れねば」と見える。

 聞くところによると、狭川普文(さがわふもん)東大寺経学執事の筆によるという。訪れる一般者には絵手紙のような印象で目に飛び込んで来る。そこで文字を辿ることになる。最初に「日中」とあるから、今、政治的に気まずい関係になっている日本と中国のことかと、それがふと脳裡を過ぎったが、文字を辿って何となくわかった気がした。これはもうすぐ始まるお水取りに関して言っていることである。

  だが、「日中開白」がよくわからない。で、後で辞書等によって調べてみると、仏教用語としてあることがわかった。即ち、日中(にっちゅう)は、六時の一つである正午に行なわれる勤行を言うものであり、開白(かいびゃく)は、法会または修法を始めるときを本尊に申し上げることで、法会の初日を言い、啓白、表白、開啓とも呼ばれ、法会の最後に用いられる結願の対語として用いられる言葉のようである。

  つまり、日中開白(にっちゅうかいびゃく)は、例年三月一日より二月堂で行なわれるお水取りの修二会の始まりを指す言葉で、最初に行われる六時修法を言うものと思われる。次に続く「我等阿吽も」とあるのは、お水取りの二週間は人がわんさと訪れ、大松明の火を扱うこともあって、そのことに注意を払わなければならないところから、これには、お寺を守護する役目にある阿吽の金剛力士(仁王)を頼みとする思い入れがあるからと推察出来る。

                             

  これらの言葉を調べているうち、東大寺のホームページに見られる狭川執事の一文に出会い、この掲示板の言葉の内容が理解出来たような気がした。その一文というのは、「法華堂の柱」と題して書かれたもので、東大寺の火難の歴史に触れている。この一文に掲示板の言葉が重なって見えるところがある。東大寺の火難と言えば、平重衡の南都焼討ちがよく知られるところであるが、その昔から現代に至るまで、東大寺というのは相当の火難に遭っていることがこの執事の一文からはうかがえる。

  で、一文はその火の怖さについて述べているわけであるが、その火をもって修二会のお水取りも行なわれるということを肝に銘じていることが掲示板の言葉からは読み取れる。金剛力士(仁王)を我等と言っているのは、擬人法による表現と見るべきか。お水取りを主催する東大寺の関係者自身を金剛力士(仁王)と見なして言っているものか、掲示板からは、修二会のお水取りが期間の長い法会であるから、気を引き締めてかからなくてはならないという声かけのようなものに見て取れる次第である。なお、九日、お水取りに用いられる大松明の竹が二月堂に届けられた。写真は仁王の阿形像と決意の文字が書かれた東大寺二月堂の掲示板(左)とお水取りが近い二月堂(右)。