<894> 十 善 戒
日々相の ニュースに見ゆる もののあり 十善戒の 戒に重なり
仏前勤行に十善戒のあることはよく知られる。
弟子某甲(でしむこう) 盡未来際(じんみらいさい) 不殺生(ふせっしょう) 不偸盗(ふちゅうとう) 不邪淫(ふじゃいん) 不妄語(ふもうご) 不綺語(ふきご) 不悪口(ほあつく) 不両舌(ふりょうぜつ) 不慳貪(ふけんどん) 不瞋恚(ふしんに) 不邪見(ふじゃけん)。
殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、悪口、両舌、慳貪、瞋恚、邪見。これは仏教で言う十悪であり、これを戒めるのが冒頭に示した十善戒である。十悪はみな人間の身口意(しんくい)、即ち、三業によるもので、日々新聞が報じる事件には多種多様の要因が見られることながら、これらはみな人間の身口意、即ち、三業より発するものということが出来る。私たちには、心耳を開いて感得し、真意を汲んで慎むこと。これよりほかになかろう。私たちには、仏前のみならず、日々刻々において十善戒は求められる。みな身口意を慎めとは言われるところである。
思うにつけても、人の世の哀れなるところ。またしても、聞こえて来る。不殺生(殺してはいけない)。不偸盗(盗んではいけない)。不邪淫(淫してはいけない)。不妄語 (嘘をついてはいけない)。不綺語(言葉を巧みに飾ってはいけない)。不悪口(悪口を言ってはいけない)。不両舌(二枚舌で人を惑わせてはいけない)。不慳貪(もの惜しみをして貪ってはいけない)。不瞋恚(怒り恨んではいけない)。不邪見(邪推してはいけない)。ああ、何れにも言えること。我が身にも。で、十善戒は上述のように戒めるのである。
新聞は読者のニーズに合わせて作られるわけであるが、すべてが読者に迎合して作られるわけではない。これだけは伝えておかなければならないという公器としての使命を感じさせるところも大いにある。世の中の人々に向って示唆し、戒めにする類の記事も多い。とりわけ社会面の記事などは十善戒をもって教示するようなところがうかがえる。
それだけのことだと言へば それだけのことだが そこに見ゆる戒め
というような次第で、新聞の記事などは、当人としてではなく、ほとんどが傍観者の立場で読まれるわけであるから、それだけのことだと言ってしまえばそれだけのことに終わるが、心して読めば、記事は幾らも深みを増し、こだわりのあるものになる。「心して読むべし」とは言えることである。
事件の有り様などは時代によって変遷するから、新聞もその時代に沿って作られ、今は今の姿を写すものであるが、事件における十悪の存在は昔も今も変わらず、十善戒は今も望まれるところで、新聞にはこれが求められる次第である。このほどのニセ作曲家の一件なども、言わば、身口意の三業よりの十悪に照らし糾弾されるべくあるものと言ってよかろうと思う。 写真は勧行で唱えられる十善戒と花。