<897> 所 感
移りゆくのが 世の常だ
継がれ 継がれて
みんなゆき
今を生きいる ものがいて
この世のすべては
成り立っている
見よ 生れ来るものたちを
見よ 老いて逝くものたちを
どちらも この世の真実だ
どちらも 自然の現れだ
この世は つまり 時の旅
芭蕉は『奥の細道』の冒頭に、この旅の決意を「漂泊の思ひ」と題して述べているが、その末尾に「草の戸も 住替る代ぞ ひなの家 」の一句を掲げている。この句は、住んでいる草庵を人に譲って旅立つことを言っているものであるが、移り代わるのが世の常であるという思い、言わば、生に対する諦観を詠んでいると知れる。
時の流れ、時代の移り変わりは何処にもあって、「住替る代」はいつの時代にも言えることで、この言葉は普遍性をもってあることが言える。私が今住んでいる住宅地でも、十年前と今とでは住む人も年を取るだけでなく、随分様変わりした。高齢者は一人二人と姿を消し、住む人の代わった家も見られるかと思えば、誰も住まない家も現われるという様変わりが見られるに至っている。だが、それも遠くなく、建てかえるかどうかしてまた新しい人がそこには住むようになるのであろうと思われたりする。
花はいつまでも花にあらず、果実を結び、次に繋げて行く。生きとし生けるもの、その姿に違いはあってもこの世の時の流れる中において生き行く姿は概して同じようなものであることが言える。花も斯くあれば、人もまた斯くありで、人の世にもその生の変遷の姿が見られるところであり、芭蕉が庵に掛け置いて旅立った発句の表すところも同じくあることが思われる。これはみな私たちが時の旅人であるからで、芭蕉は『奥の細道』の旅にこの人生の姿を実地に感得すべく旅立ったのだと思う。
今日の大和は久しぶりに陽光の溢れる一日になったが、昨日、雪の中に冬の花である蝋梅の香りのよい花を見、猫柳の類が花芽を見せ、冷たさの中にも春を告げる姿に、この時の流れの非情なれども公平さをもってあることが、人の世の営みに重ねて思われたのであった。
今、開かれている冬季五輪でも言える。若い世代の台頭、メダルラッシュが報じられ、こういうところにも時の流れがあって、代替わりが進んでいると感じられる。これが時の流れ、時代の移り変わりというものであろう。どんな人生にも輝かしい頂点の時があり、その頂点がどの年代で発揮されるかは個々それぞれであるが、人生に時の流れはつきもので、その時は刻々と過ぎて行く。この点が雪の中で思われて来たのだった。
輝くものに乾杯を。去り行くものに労いの言葉を。そして、また、来るものに温かな励ましを。時の流れにあるところ、この時の流れこそがすべての生における真実であり、自然の現われであると思うことではある。 写真は雪を被って咲く蝋梅の花(左)と寒さの中で花芽を連ねる猫柳の類の枝(いずれも、桜井市穴師で、十五日写す)。