大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年02月25日 | 写詩・写歌・写俳

<906> 同 居

       春霞  濃くなるほどは 大和なり

 今日二十五日は三月並の陽気になり、奈良盆地の大和平野は周囲の青垣の山並も見えなくなるほど濃い霞に被われ、いよいよ春を迎えたという感じになったが、山間部ではまだ残雪が消えず、日蔭ではつららも見られるといった具合で、冬と春が同居している時期であるのがわかる。これから四月にかけて、寒暖を繰り返しながら春本番を迎える。大和は盆地なので、気温が上昇すると、風のない日は塵を含んだ大気が淀む。だから春になると昼間に濃い霞が発生することになる。最近は、中国方面から黄砂に混じって煤煙や排気ガスが飛来し、この時期にはスギ花粉なども飛散し、昔のような情感に添い来る類の霞と違って、人体に影響しかねないとあって、予防的措置が必要なほどイメージが悪くなった。けれども、これは人間が原因の現われで、自業自得と言わざるを得ないところがある。

 ソチの冬季五輪が終わって、閉会式の会場は世界が一つになったような雰囲気に包まれたが、ごく限られたアスリートによるほんの一時の光景であったようにも思われる。ほんの一時でも世界が一つに見えることは意義のあることだが、すぐ隣のウクライナではロシア派とEU派が激突して騒乱状態に陥っている。五輪会場のように世界はみんな仲好くなれるのに、何故か対立して、喧嘩をする。みんな一緒に進歩すればいいのに、それが出来ず、上下を生み、左右を生み、貧富を生み、差別を生む。何故だろう。国内に目を転じると、春は暖かく、陽気になれる気節だが、消費税増税という国による国民への締め付けが厳しくなる。思うに、年寄りと子供をいたぶるような国政を行なわなければならない国はまともな国ではなく、幸せな国とは言えない。

              

 春霞は暖かな陽気に生ずるものであるが、昨今の霞は昔のようなのどかなものがなく、危険因子を孕んでいる。これは、飛躍し過ぎた例事かも知れないが、危険因子を孕んでいるということで言えば、経済成長オンリーの政策のみしか打ち出せない政治状況に似ていると言える。それも視界不良にしてである。年金資金で博打を打つようなことも聞かれるが、これにも言えることで、いい加減にしろ、と言いたい。やるのであれば、博打で損をしたとき、責任を取って、その穴埋めが出来る方途をきっちりしてからやるべきである。その運用に自信があるのであれば、自分たち、つまり、公務員の年金資金で運用すればよい。

  だが、それが出来ない。それは、自信がなく、反対されるからである。言わば、これは原発と同じことである。そんなに必要なのであれば、東京の近くに原発を造ればいい。これは普天間の米軍基地にも言えることであるが、どちらも東京近くに置くことは出来ない。出来ないものを国民に回し、地方に押しつける。実に見え透いた卑怯千万なやり方である。年金の運用で言えば、博打というものは、勝ったときだけ、幾ら幾ら儲けたと言って吹聴する。安倍首相の答弁はそれに等しい。損をしたときは口をつぐんで黙ってしまうのが通例である。所詮、博打は損をするように出来ている。損をしても遊びならば、納得されようが、年金資金で遊ばれては困る。博打を国が率先してやることか。いい加減にしろという声は私だけではないはずである。ましてや、企業年金で運用損に陥った前例がある。なのに何故やるのかと言いたい。

  春霞から妙な方に話が行ってしまったが、所謂、視界不良に加え、昨今の霞にはリスクの危険因子が含まれているということによる。つまり、信頼に遠く、安心出来ないという側面が春霞にも国政の状況にも見え隠れするからである。自然というのは私たちに教えているところがある。これを謙虚に受け止めるかどうかは私たちにかかっている。 写真は木の根から垂れ下るつらら(左)と濃い春霞に霞む大和平野。後方の山並は全く見えない状況の一日だった。