大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年02月12日 | 写詩・写歌・写俳

<893> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (60)

          [碑文]          わが背子と 二人見ませばいくばくか この降る雪のうれしからまし                                     光明皇后

 この歌は、『万葉集』巻八の冬の相聞の項に「藤皇后の天皇に奉る御歌一首」の詞書をともなって見える1658番の歌で、原文では「吾背兒与 二有見麻世波 幾許香 此零雪之 懽有麻思」とある。藤皇后は光明皇后のことで、天皇は聖武天皇である。歌は「わが夫の君と二人で見ることが出来るなら、この降る雪はどんなにか嬉しかろう」という意で、天皇が何処にか出かけ、留守にしていた間に降り出した雪であることが想像される。天皇を「背子」という庶民的な言葉をもって歌にしているところなど、この歌からは二人の仲睦まじいところがうかがい知れる。

     

 光明皇后は藤原不比等の三女で、藤三娘(とうさんじょう)とも呼ばれ、光明子とも呼ばれる。母は県犬養三千代(橘三千代)で、大宝元年(七〇一年)に生まれ、霊亀二年(七一六年)に聖武天皇が皇太子のとき、十六歳で妃となり、天平元年(七二九年)、二十九歳のとき皇后になった。聖武天皇は文武天皇と藤原不比等の長女宮子との間に生まれた第一皇子で、宮子と皇后は異母姉妹であるから、聖武天皇と皇后は甥と叔母の間柄になる。また、皇后は皇室の血縁でないから、皇室出身のこれまでの皇后と異なり、初の人臣皇后と言われ、以後、外戚になった藤原氏の権勢に大きく影響したことも推察される。

 以上のように、聖武天皇と光明皇后は極めて近しい間柄にあったが、ともに大宝元年生まれの同年齢で、より一層の親しみをもってあったのだろうことが思われる。皇后になってからは、頻発する飢饉に対処し、各地から薬草を集め、施薬院や悲田院などを設け、孤児や病人などの救済に当たり、皇后のお寺として知られる奈良市の法華寺には、病人の手当てに用いられたという当時を物語る唐風呂が残されている。

 これは帰依する仏教の影響が大きく関わったと思われるが、その慈悲に満ちた資質は聖武天皇が行なった全国各地に配置した国分寺と国分尼寺の事業にも影響し、皇后の意向が反映されたとも言われる。国分寺をまとめる総国分寺の東大寺建立にも関わったとされ、大仏も作られたのであった。ほかにも、皇后の発案により、藤原氏の氏寺である興福寺の五重塔を手がけ、天皇の病気平癒を願って香薬寺(新薬師寺)建立にも関わったと伝えられる。

 天平宝字四年(七六〇年)に六十歳で没したが、天皇とは二人三脚で政治を進め、仲の睦まじいことは天武・持統の天皇皇后時代と比肩して然るべき姿として見ることが出来るように思われる。このような背景をもってこの碑文の歌を見ると、また、格別な趣が感じられて来る。この歌碑は、二人の意向が強く反映されて建てられた東大寺本堂・大仏殿の戌亥(乾)、つまり、北西側の植え込みの中に建てられている。平成七年、奈良市に万葉歌碑を建てる会によって建てられたもので、碑陰にうかがえる。写真は大仏殿を背にして建てられた光明皇后の歌碑(左)と寺院の屋根に降り積もる雪。   降る雪も 雅にあれば 雅なり


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