大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年02月23日 | 創作

<904> ねこのしっぽ

      また春が来たね みよちゃん ねこのしっぽ

            「 ねこのしっぽ 」

             (一)

       ねこがしっぽを立てている

       ピンとまっすぐ立てている

       アンテナみたいに立てている

       そんなに勇んでどうしたの

       垣根のそばの 細い道

       みよちゃん学校(がっこ)へ行きました

       帰って来るのは 午後のこと

             (二)

       ねこがしっぽを振っている

       陽気に合わせて振っている

       タクトみたいに振っている

       うれしいことでもあったかな

       花がいっぱい咲いた庭

       母さん出かけて行きました

       帰って来るのは お昼ごろ

               (三)

       ねこがしっぽを垂れている

       のびのびのんびり 垂れている

       スロープみたいに 垂れている

       軒の日だまり 縁の先

      暖かければ 眠くなる

       母さん みよちゃん 帰るまで

       日向ぼっこで 寝るといい 

                                       

  猫は高いところを好む。ネコ科の動物はみな木登り上手だ。猫は魚好き。漁師町に多いのはこのためだ。猫は昼寝をする。夜行性の動物だからだ。猫は鼠を捕らなくなった。鼠がいなくなったからだ。猫は人間と相性のよい持ちつ持たれつの間柄だ。 写真は半野良猫の 「もんじろう」。


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2014年02月22日 | 写詩・写歌・写俳

<903> 幻想高松塚古墳

             貴人らも おんもへ出たくなきか 春

  極彩色の壁画で知られる特別史跡の高松塚古墳(奈良県明日香村)で、復元された円墳の墳丘をスクリーンにして壁画に描かれた青竜、朱雀、白虎、玄武の四神を映し出す映像が、二十二日夜、一般公開されるというので、見に出かけた。

 墳丘は高さ五メートル、直径二十三メートルで、このスクリーン代わりの芝地に東西南北に設置した四機の映写機によって、三百六十度同時に映像を映し出すというもの。コンピュータグラフィックと映写機による「プロジェクションマッピング」と呼ばれる技法の映像芸術で、日英の映像作家二人が手がけた。  写真は高松塚古墳の墳丘に映し出された映像。左は南の入口から飛び出す朱雀の映像。

           

  暗くなった墳丘に、古墳の入口が東西南北に映し出され、その扉が開いて、南の朱雀(鳳凰)、西の白虎、北の玄武、東の青竜がそれぞれの入口から出て来て、墳丘を巡った。晴の天気で、冷え込む夜だったが、見物に訪れた人たち(延べ約二千人)は幻想的な映像に見入っていた。一般公開は無料で、二十三日(日)と三月一日(土)、二日(日)の両日にも午後五時半から行なわれる。

 なお、高松塚古墳は七世紀後半から八世紀前半にかけて造られた終末期古墳で、二段になった円墳である。昭和四十七年(一九七二年)に飛鳥美人と称せられる女性群像の極彩色壁画が発見され、一躍有名になった。被葬者については皇子クラスの人物が複数候補にあげられているが、はっきりしたことはわかっていない。

  古墳は復元されたが、壁画は劣化が進み、切り取られて空調を施した別の場所で修理保管されている。壁画発見時に東西南北の守護神である青竜(東壁面)、朱雀(南壁面)、白虎(西壁面)、玄武(北壁面)の四神の壁画も見られたが、これも劣化が進み、保存管理の見直しがなされ、これも別の場所に移されている。

 

 


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2014年02月21日 | 写詩・写歌・写俳

<902> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (62)

   [碑文1]     人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちたみ)己が世にいまだ渡らぬ朝川わたる     『万葉集』 巻 二 (116) 但馬皇女

   [碑文2]   降る雪はあはにな降りそ吉隱(よなばり)の猪養(ゐかひ)の岡の寒からまくに 『   同   』 巻 二 (203) 穂積皇子

 碑文1の歌は、『万葉集』巻二の相聞の項の116番に見える歌で、但馬皇女が穂積皇子を慕って詠んだ三首(114~116番)の中の一首で、その意は「人の噂があれこれとひどいので、未だ渡ったことのない早朝の川を渡ることです」というもの。皇女は人目を避けて朝早く皇子との逢瀬を試みたのである。この歌には「但馬皇女、高市皇子の宮に在(いま)す時、竊(ひそ)かに穂積皇子に接(あ)ひて、事すでに形(あら)はれて作りましし御歌一首」という詞書があり、それによれば、二人の逢い引きは既に露見していたわけで、この相聞の事情がこの歌と詞書からうかがい知ることが出来る。

 ほかの二首にもそれぞれ詞書が添えられ、114番の歌は「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思ふ御歌一首」とあり、 「秋の田の穂向(ほむき)の寄れること寄りに君に寄りなな事痛(こちた)かりとも」 とあり、今一首の115番の歌は 「穂積皇子に勅(みことのり)して近江の志賀の山寺に遣はす時、但馬皇女の作りましし御歌一首」という詞書があって、 「遺(のこ)り居て恋つつあらずは追ひ及(し)かむ道の阿廻(くまみ)に標(しめ)結へわが背」 と詠んでいる。

 つまり、114番の歌は、「秋の田の稲穂が一つ方向に向いているように、ただひたすらあなたさまに寄り添いたいと思っています。どんなに世間が取り沙汰しましょうとも」という意であり、115番の歌は、詞書から、二人を引き離し、冷却期間をこしらえるため、勅命によって穂積皇子を近江の山寺にやったのではないかということが想像出来る。この対処に対し、但馬皇女は「後に残って恋ひ慕うなどしないで、追って行って追いつきたい。どうか道の曲がり角に道しるべを結んでください。我が思う君よ」と言っている。まさに、追いかけて行くつもりであり、この歌からは募る皇女の一途な恋情がうかがえる。

 但馬皇女の歌は『万葉集』に四首見え、今一首は巻八の雑歌の項に穂積皇子の二首の後に置かれている1515番の歌で、 「ことしげき里に住まずは今朝鳴きし雁に副(たぐ)ひて往(い)なましものを」 とある。この歌も「うるさく噂を立てる里などに住まいなどしないで、今朝鳴いた雁と一緒に行ってしまったらよかった」という意で、恋と世間の噂の板挟みになって悩んでいる心情が伝わって来る。つまり、但馬皇女の万葉歌は四首すべてが穂積皇子を慕う恋歌で、大胆かつ積極的な思いがその詞書とともにうかがえる。

 これに対し、穂積皇子は『万葉集』に四首を遺すが、その歌からは二人の相聞が成り立っていたことがうかがえる。巻八の但馬皇女の歌に先がけて見える皇子の二首は1513番の歌と1514番の歌で、1513番の歌は 「今朝の朝明(あさけ)雁が音聞きつ春日山 黄葉(もみち)にけらしわが情(こころ)痛し」 とあり、1514番の歌は 「秋萩は咲くべくあらしわが屋戸の浅茅が花の散りゆく見れば」 とある。雑歌の項に見える歌であるが、成就し難い思いの但馬皇女の歌に呼応しているようなニュアンスがうかがえる。

 そして、碑文2 の但馬皇女への挽歌が見えるわけである。巻二の挽歌の項の203番の歌がそれで、「但馬皇女薨(かむあが)りましし後、穂積皇子、冬の日雪の落(ふ)るに、遥かに御墓を見さけまして、悲傷流涕して作りましし御歌一首」という詞書が添えられている。歌は「降る雪よ、そんなに降らないでほしい。皇女の眠っている吉隠の猪養の岡が寒いだろうから」という意で、穂積皇子の亡き皇女への心情がよく表わされている。

                      

 穂積皇子は天武天皇の第五皇子で、母は蘇我赤兄の娘の大蕤娘である。生年は不詳だが、和銅八年(七一五年)に歿している。太政官を束ねる知太政官事の高職にあり、高市皇子などとともに高松古墳の被葬者ではないかとも言われている。但馬皇女は、彼女も天武天皇の皇女で、母は藤原鎌足の娘の氷上娘である。同じく生年不詳であるが、和銅元年(七〇八年)に歿している。『万葉集』の詞書から高市皇子の宮に居たことがうかがえるが、高市皇子は天武天皇の第一皇子で、母は宗形徳善の娘の尼子娘であって、三人は異母兄弟妹ということになり、但馬皇女は高市皇子の妻であったか、養われていたかであるが、詞書に「竊(ひそ)かに」というような言い回しが見えることや歌の内容から、妻であった可能性が高いと言われる。

  なお、高市皇子は白雉五年(六五四年)に生まれ、持統天皇十年(六九六年)に歿し、亡くなる前には、太政大臣を務め、政治の最高位にあったが、母の身分が低かったため、天皇になれなかったという経緯がある。だが、大津皇子の二の舞にならなかったのはこのためとも言えるかも知れない。それはさておき、この時代の皇室並びに上級貴族における人間模様というか、その関係性が『万葉集』には色濃く滲み出て見えるように思われる。

  因みに、穂積皇子は、但馬皇女が亡くなった後、親と子ほども年齢差のあるまだ少女であった大伴坂上郎女と結婚した。そのころに詠んだと思われる歌が『万葉集』巻十六の由縁ある雑歌の項に見える。3816番の歌がそれで、 「家にありし櫃(ひつ)に鏁(かぎ)刺し蔵(をさ)めてし恋の奴(やっこ)のつかみかかりて」 とある。その意は「家にあった櫃に鍵をかけてしまっておいた恋の奴がまた出て来てわがこころにつかみかかって恋を駆り立てる」というもので、左注によれば、酒の席などで好んで詠って聞かせていたと言われるから、照れ隠しの歌ではなかったかと思われる。 坂上郎女は大伴家持の叔母に当たり、万葉きっての女流歌人で、相聞歌を多く遺しているが、年齢が浅かったからであろうか、穂積皇子との相聞歌は見られない。皇子はほどなくして亡くなり、郎女は皇子を始めとして、遍歴の人生を辿ることになる。

 では、最後に二つの歌碑について。まず、俳人阿波野青畝の筆による碑文1の但馬皇女の歌碑。この歌碑は桜井市出雲の国道一六五号沿いの初瀬川の傍らに建てられている。次に、穂積皇子の歌碑であるが、これは、この国道を東に向かい、宇陀に抜ける坂道の途中に当たる桜井市吉隠の公民館前の広場脇に評論家今日出海の揮毫によって建てられている。この二つの歌碑は距離にして数キロのところ。ともに呼び合うような位置にあるのが何か切ないような歌碑ではある。私が二つの歌碑を訪ねたのは大雪の後の二月十九日だった。中山間地に当たる吉隠はまだ解けずに残る雪の世界だった。写真の左は但馬皇女の歌碑 (後方は宇陀方面の山並)。 次は雪が一面に残る吉隠の里、右は穂積皇子の歌碑。   雪解けは いつになるのか 老の声


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2014年02月20日 | 写詩・写歌・写俳

<901> マスメディアに関する百の断章 (3)

        真実の欠片を掬ふ耳目あり 汝掬ひ尽くせざれども

 取材相手の虚偽が見抜けず誤報に至ったのは何故か。そこには取材の甘さが指摘されるところであろう。かつて何処かで述べたと思うが、ここで今一度、取り上げたい言葉がある。それは20世紀のドキュメンタリー映画制作者として知られ、記録映画の先駆者とも言われている英国人のジョン・グリーア―ソン(John Grierson)の言葉である。彼は情報を収集し伝える側にいる者がいかにあるべきかについて次のような言葉を掲げた。「Observe and analysis. Know and build. Out of research poetry comes.」 と。意訳すれば、「ものごとはよく観察せよ、そして、よく分析せよ。その分析に基づいてよく知り、よく認識せよ、そして、その認識したものをよく構築せよ。そうすれば、こうした一連の作業(調査)によって美しい詩が生まれて来る」ということになる。

 ここで言われている「詩」とは象徴としてあるもので、新聞で言えば記事であり、放送で言えば番組内容ということが出来る。命令形で発せられているこの言葉は、ドキュメンタリー映画制作者のグリーア―ソン自身に言い聞かせている言葉だと言えるところがあるが、報道に携わる者への教訓とも言える言葉であるのがわかる。この言葉の頭頭に「不十分な」という言葉を冠すれば、なお一層、この言葉を教訓的に捉えることが出来る。つまり、「不十分な観察と不十分な分析、その不十分な観察と分析による不十分な認識とその不十分な認識による不十分な構築からは、決して、美しい詩は生れて来ない」ということになる。ドキュメンタリーにおいて美しいとはその作品に真実が極められていることが基本で、それが叶えられているかどうかにかかっている。

                 

 ここでNHKの偽作曲家を取り上げた番組が思われるわけである。どんなに感動的に表現したとしても、取り上げた主人公である本人が偽物であるということになれば、その番組の感動は成り立たないことになる。これは、グリーア―ソンの言葉に返って言えば、観察の不十分、つまり、取材の甘さが指摘されて然るべきだと言うことになり、美しい詩は生まれないということになる。

 虎穴に入らずんば虎子を得ず、山に登らなければ山の花に出会うことは出来ない。耳而目之(耳で聞いたうえ、なお、目でそれを確かめる)。これは間違いのないようにする最適の方法である。しかし、聞いて聞こえず、見て見えずということがある。意をもって聞き、意をもって見なくては、聞けず、見えずということは大いにあることで、現場に立つことは基本であるが、先入観をもってあったり、上の空であったりすれば、そこに認識の欠落が生じて来る。まさに、この度のNHKの事例はこの点に当てはめて言えるのではなかろうか。

  今、NHKでは会長や経営委員の発言が問題視され、外部からの批判に曝されているが、こういうのを見聞きしていると、彼らが単にお飾りだという認識にあって、自分の置かれた責任ある立場というものを軽く見ているのではないかということが、その発言の端々に感じられるところが思われて来る。もっと責任を自覚し、この度の嘘番組などはきっちりと検証し、報告するくらいの仕事をしてもらいたいと思う。有耶無耶にするようなことはないだろうと思うが、いい加減な番組を作るという点、この嘘番組の問題は他の番組にも通じるわけで、極めて深刻だと言わざるを得ない。では、続けて、なお、以下、百の断章について。 写真はイメージ。アケボノツツジ(大峰山脈・大日岳付近で)とキンレイカ(天川村の大峯奥駈道で)

        記者クラブ・・・・・・・・不安と付和雷同のたまり場。

       レクチャー・・・・・・・・情報の統一。

       文化・・・・・・・・・・・・・精神的土壌に顕れる幻影的華やぎと静まり。気品は大切である。

       国家・・・・・・・・・・・・・主に国土と国民によって構成される支配体制。

       民主主義・・・・・・・・・多数決を基本とする。

       政治・・・・・・・・・・為政者に求められるのは公平無私が原則だが、星と剣。飴と鞭。その手法は昔も今も変わらない。

       外交・・・・・・・・・・・・・常に相手が存在するという認識。

       文芸・・・・・・・・・・・・一編の小説に涙することを思え。短歌も俳句も感銘をもって迎えられる。

       張り込み・・・・・・・・・推理(想像)と忍耐(我慢)。加えるに自負心(気概)。

       資料・・・・・・・・・・・・・救急車のごとし。必要なとき働きとなる。

       広報・・・・・・・・・・・伝える側も伝えられる側も有益と思われるもののみを扱う特質をして行われる公的な情報。

       カラー印刷・・・・・・・・光の三原色を絵の具の三原色に置き換える作業。

       ベタ記事・・・・・・・・・・確かに誰かが読んでいる。疎かには出来ない。

       調査・・・・・・・・・・・・・観察と分析と認識と表現。その不十分は人心を惑わすことになる。

       紙面・・・・・・・・・・・・・記者の矜恃と悲哀によって埋められる限られたスペ-ス。

       締切・・・・・・・・・・・・・新聞人の新聞人たるはこれを守ることに始まる。

       校閲・・・・・・・・・・・・・誤りは誰にも生じる。それへの対応。

       日本国憲法・・・・・・・⋆⋆⋆民主主義、自由主義、平等主義、平和主義、福祉主義、幸福主義。

       法律・・・・・・・・・・・・・国家的乃至は社会的秩序の維持を目的とし、公平を旨とする。

            教育・・・・・・・・・・・・・要請による養成。

       検閲・・・・・・・・・・・・・権力側の不都合を理由に行使する権力側の手段。

       戦争・・・・・・・・・・・・・相手の気持ちを最も理解しようとしない状況。

       芸術・・・・・・・・・・・・・個性と普遍性の一体化。

       スクラップブック・・・・⋆⋆⋆⋆開けば、例えば、潮の香。昔のなつかしさも見える。

       題字・・・・・・・・・・・・・信頼、責任、愛着、共感、威光、矜誇。

       いじめ・・・・・・・・・・・・他人を傷つけて自分の心を癒すやり方。卑怯、卑劣。

       情報・・・・・・・・・・・・・・左右するものと、左右されるものとによって成り立ち、働きとなる。

       ネタ・・・・・・・・・・・・・・水蜜桃にも似た芳しさ。早く賞味しないと誰かに嗅ぎつけられる不安の欠片。

       ルポ・・・・・・・・・・・・・足で書く。

       ドキュメント・・・・・・・⋆⋆体験的取材。

       地方・・・・・・・・・・・・・中央に対する存在の認識。

       人間・・・・・・・・・・・・・喜、怒、哀、楽、苦、悔、恨、愛、憎、疑、妬、信、義、礼、智。いつも笑っている者は狂人で、                いつも怒っている者は病人である。

       辞書・事典類・・天尾         ・・・・頼りになる伴侶。

       真実・・・・・・・・・・・・・事実を知ることは容易でない。だが、これを極めるのはもっと容易ではない。

       編集綱領・・・・・・・・・⋆⋆これを完璧に遵守すれば読者、大衆に愛される。

                                                              ~ 了 ~

 


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2014年02月19日 | 写詩・写歌・写俳

<900> マスメディアに関する百の断章 (2)

           頼りなき 耳目の頼りなさゆゑに 理解力とか 審美眼とか

   報道の根本義は真実を伝えることにある。真実に近づくことは至難のことであるが、なるべくそれに沿うよう努力することでなくてはならない。知る権利、報道の自由の標榜、行使はこれが前提であり、これなくしては出来ない。然るに、最近、偽装の話があまりにも多く、報道がその偽装に巻き込まれ、偽装を助長するような事例が目につくところがうかがえる。

                                          

  二〇一二年十月に起きたips細胞の心筋への臨床的応用の成功記事が偽の発表によるものであった誤報騒動などはもう忘れられてしまったのだろうか。その後も、人をたぶらかす偽装はあいも変わらずで、食についての偽装などがそこここに露見し、クローズアップされて来た。それが今度は、己自身が自らを偽装してかかるというに及ぶ偽装が露見した。この一件は偽装もここまで来たかと思わせるが、これは偽装の根深さと深刻さを物語る象徴的事例と見てよさそうである。言わば、この世の中は偽装だらけで、平気で人を騙すことがまかり通っていると言ってよく、何かうすら寒いような気分にさせられる。

  こうした偽装の横行を食い止めるには、暴くのが効果的で、報道の役目もそこにあるはずであるが、それが出来ずにいるばかりでなく、NHKのごとくマスメディア自身が率先してその偽装を助長し、広めて行く結果をもたらしている。このマスメディアの体たらくは問われて然るべきであるが、この問題の解決には何よりメディア人自身の引き締めが必要であると言える。で、メディア人への鞭撻の意味も込めて、この断章の掲載に及んだ次第である。 写真は誤報の記事(左)とそれを伝える記事(右)。では、以下、断章の続きを。

         インタビュー・・・・取材の基本。相手の持つ情報、心情を如何に探り得るか。

        社説・・・・・・・・・・陣は常に民衆のために張られなければならない。

        デスク・・・・・・・・・記事完成への非情の営み。

        外電・・・・・・・・・・異国の素材による料理。

        裁判・・・・・・・・・・その限界は神的存在の顕現を願望させる。

        風俗・・・・・・・・・・例えば、六波羅風。例えば、竹の子族。

        世相・・・・・・・・・・社会が作り出す風潮。

        大衆・・・・・・・・・・混濁。掴みどころのない従順。従順はときに反逆的に現れることもある。

        マスメディア・・・・老若男女を問わず、すべての人に同じシャツを着させるという発想によって成り立っている。

        経済・・・・・・・・・・私たちは私たちの収入のうちでやり繰りしている。これが原則にある。

        社会・・・・・・・・・・個々の長所と短所がある秩序において流動するところの総体。

        海外・・・・・・・・・・日本は海に囲まれた島国である。

           犯人・・・・・・・・・・本人に問う。不安はないか。悔恨はないか。

        死亡記事・・・・・・墓碑銘の無料公開。

        反骨精神・・・・・・逆光の花。

           差別・・・・・・・・・・心の中の自尊が外界に抵触するとき、その落差によって生じる意識。

        速報・・・・・・・・・・・誰よりも早く知っておきたいという欲求への対応。

        知る権利・・・・・・・知られたくない権利との衝突。

        人権・・・・・・・・・・・誰にも公平にある人間としての尊厳。

        娯楽・・・・・・・・・・・人生はある種の辛苦なくしては営めないということへの逆説的意味。

        名刺・・・・・・・・・・・矜持と処世の申し子。王様と乞食は持ち合わさない。

        投稿・・・・・・・・・・・新聞のバロメーターNO.1。

        広告・・・・・・・・・・・新聞のバロメーターNO.2。

        部数・視聴率・・・・一人でも多くの人に読み(聞き)してもらいたいという理念、あるいは欲望の現われ。

        天気予報・・・・・・・日々刻々を支配する自然の移り気を読み取り伝える作業。

        取材・・・・・・・・・・・五官の働き。

        ノート・・・・・・・・・・・行間の微妙は誰にも分からない自分ひとりのもの。

        メモ・・・・・・・・・・・・健忘症の知恵。

        言葉・・・・・・・・・・・・おもしろくもあれば、恐ろしくもある比喩的存在。もしくは、象徴的存在。

        民意・・・・・・・・・・・・民主主義が行き届いた世の中では、政治に反映される。

             活字・・・・・・・・・・・・宝玉と思えば宝玉。宝玉と思いたい。

        電話・携帯電話・・・⋆⋆人を近づけた功。人を遠ざけた罪。その影響力は大きい。

        パソコン・・・・・・・・・・デジタルで機能する万能の箱。手足はカーソルとキーボード。

        インターネット・・・・・量と速さ、双方向性。それらを有する情報社会の革命的な機能。

         ジャーナリスト・・・・⋆門外漢。出来事によって論を展開する宿命。その仕事は慈愛をしてあらねばならない。

                                                       ~次回に続く~