大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年02月21日 | 写詩・写歌・写俳

<902> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (62)

   [碑文1]     人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちたみ)己が世にいまだ渡らぬ朝川わたる     『万葉集』 巻 二 (116) 但馬皇女

   [碑文2]   降る雪はあはにな降りそ吉隱(よなばり)の猪養(ゐかひ)の岡の寒からまくに 『   同   』 巻 二 (203) 穂積皇子

 碑文1の歌は、『万葉集』巻二の相聞の項の116番に見える歌で、但馬皇女が穂積皇子を慕って詠んだ三首(114~116番)の中の一首で、その意は「人の噂があれこれとひどいので、未だ渡ったことのない早朝の川を渡ることです」というもの。皇女は人目を避けて朝早く皇子との逢瀬を試みたのである。この歌には「但馬皇女、高市皇子の宮に在(いま)す時、竊(ひそ)かに穂積皇子に接(あ)ひて、事すでに形(あら)はれて作りましし御歌一首」という詞書があり、それによれば、二人の逢い引きは既に露見していたわけで、この相聞の事情がこの歌と詞書からうかがい知ることが出来る。

 ほかの二首にもそれぞれ詞書が添えられ、114番の歌は「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思ふ御歌一首」とあり、 「秋の田の穂向(ほむき)の寄れること寄りに君に寄りなな事痛(こちた)かりとも」 とあり、今一首の115番の歌は 「穂積皇子に勅(みことのり)して近江の志賀の山寺に遣はす時、但馬皇女の作りましし御歌一首」という詞書があって、 「遺(のこ)り居て恋つつあらずは追ひ及(し)かむ道の阿廻(くまみ)に標(しめ)結へわが背」 と詠んでいる。

 つまり、114番の歌は、「秋の田の稲穂が一つ方向に向いているように、ただひたすらあなたさまに寄り添いたいと思っています。どんなに世間が取り沙汰しましょうとも」という意であり、115番の歌は、詞書から、二人を引き離し、冷却期間をこしらえるため、勅命によって穂積皇子を近江の山寺にやったのではないかということが想像出来る。この対処に対し、但馬皇女は「後に残って恋ひ慕うなどしないで、追って行って追いつきたい。どうか道の曲がり角に道しるべを結んでください。我が思う君よ」と言っている。まさに、追いかけて行くつもりであり、この歌からは募る皇女の一途な恋情がうかがえる。

 但馬皇女の歌は『万葉集』に四首見え、今一首は巻八の雑歌の項に穂積皇子の二首の後に置かれている1515番の歌で、 「ことしげき里に住まずは今朝鳴きし雁に副(たぐ)ひて往(い)なましものを」 とある。この歌も「うるさく噂を立てる里などに住まいなどしないで、今朝鳴いた雁と一緒に行ってしまったらよかった」という意で、恋と世間の噂の板挟みになって悩んでいる心情が伝わって来る。つまり、但馬皇女の万葉歌は四首すべてが穂積皇子を慕う恋歌で、大胆かつ積極的な思いがその詞書とともにうかがえる。

 これに対し、穂積皇子は『万葉集』に四首を遺すが、その歌からは二人の相聞が成り立っていたことがうかがえる。巻八の但馬皇女の歌に先がけて見える皇子の二首は1513番の歌と1514番の歌で、1513番の歌は 「今朝の朝明(あさけ)雁が音聞きつ春日山 黄葉(もみち)にけらしわが情(こころ)痛し」 とあり、1514番の歌は 「秋萩は咲くべくあらしわが屋戸の浅茅が花の散りゆく見れば」 とある。雑歌の項に見える歌であるが、成就し難い思いの但馬皇女の歌に呼応しているようなニュアンスがうかがえる。

 そして、碑文2 の但馬皇女への挽歌が見えるわけである。巻二の挽歌の項の203番の歌がそれで、「但馬皇女薨(かむあが)りましし後、穂積皇子、冬の日雪の落(ふ)るに、遥かに御墓を見さけまして、悲傷流涕して作りましし御歌一首」という詞書が添えられている。歌は「降る雪よ、そんなに降らないでほしい。皇女の眠っている吉隠の猪養の岡が寒いだろうから」という意で、穂積皇子の亡き皇女への心情がよく表わされている。

                      

 穂積皇子は天武天皇の第五皇子で、母は蘇我赤兄の娘の大蕤娘である。生年は不詳だが、和銅八年(七一五年)に歿している。太政官を束ねる知太政官事の高職にあり、高市皇子などとともに高松古墳の被葬者ではないかとも言われている。但馬皇女は、彼女も天武天皇の皇女で、母は藤原鎌足の娘の氷上娘である。同じく生年不詳であるが、和銅元年(七〇八年)に歿している。『万葉集』の詞書から高市皇子の宮に居たことがうかがえるが、高市皇子は天武天皇の第一皇子で、母は宗形徳善の娘の尼子娘であって、三人は異母兄弟妹ということになり、但馬皇女は高市皇子の妻であったか、養われていたかであるが、詞書に「竊(ひそ)かに」というような言い回しが見えることや歌の内容から、妻であった可能性が高いと言われる。

  なお、高市皇子は白雉五年(六五四年)に生まれ、持統天皇十年(六九六年)に歿し、亡くなる前には、太政大臣を務め、政治の最高位にあったが、母の身分が低かったため、天皇になれなかったという経緯がある。だが、大津皇子の二の舞にならなかったのはこのためとも言えるかも知れない。それはさておき、この時代の皇室並びに上級貴族における人間模様というか、その関係性が『万葉集』には色濃く滲み出て見えるように思われる。

  因みに、穂積皇子は、但馬皇女が亡くなった後、親と子ほども年齢差のあるまだ少女であった大伴坂上郎女と結婚した。そのころに詠んだと思われる歌が『万葉集』巻十六の由縁ある雑歌の項に見える。3816番の歌がそれで、 「家にありし櫃(ひつ)に鏁(かぎ)刺し蔵(をさ)めてし恋の奴(やっこ)のつかみかかりて」 とある。その意は「家にあった櫃に鍵をかけてしまっておいた恋の奴がまた出て来てわがこころにつかみかかって恋を駆り立てる」というもので、左注によれば、酒の席などで好んで詠って聞かせていたと言われるから、照れ隠しの歌ではなかったかと思われる。 坂上郎女は大伴家持の叔母に当たり、万葉きっての女流歌人で、相聞歌を多く遺しているが、年齢が浅かったからであろうか、穂積皇子との相聞歌は見られない。皇子はほどなくして亡くなり、郎女は皇子を始めとして、遍歴の人生を辿ることになる。

 では、最後に二つの歌碑について。まず、俳人阿波野青畝の筆による碑文1の但馬皇女の歌碑。この歌碑は桜井市出雲の国道一六五号沿いの初瀬川の傍らに建てられている。次に、穂積皇子の歌碑であるが、これは、この国道を東に向かい、宇陀に抜ける坂道の途中に当たる桜井市吉隠の公民館前の広場脇に評論家今日出海の揮毫によって建てられている。この二つの歌碑は距離にして数キロのところ。ともに呼び合うような位置にあるのが何か切ないような歌碑ではある。私が二つの歌碑を訪ねたのは大雪の後の二月十九日だった。中山間地に当たる吉隠はまだ解けずに残る雪の世界だった。写真の左は但馬皇女の歌碑 (後方は宇陀方面の山並)。 次は雪が一面に残る吉隠の里、右は穂積皇子の歌碑。   雪解けは いつになるのか 老の声


最新の画像もっと見る

コメントを投稿