大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2017年08月16日 | 写詩・写歌・写俳

<2056> 余聞、余話 「食卓より」

           今日はあれあれよと言はれ納得す暑さの真っただ中の食欲

 「あれ」とか「それ」とかは、はっきりしないもの言いで、聞く方は「あれとは何か」、「それとは何か」と問い返すことになるが、互いに「あれ」や「それ」の指すものがわかっていれば、支障なく「あれ」や「それ」は通用する。所謂、「あれ」や「それ」はわかる者同士には暗号のようなもので、「あれ」や「それ」で意思疎通が出来るという次第で、「あれ」や「それ」が通用するのは仲間うちであることが言える。

  とにかく、「あれ」や「それ」という代名詞が支障なく用いられ、通用するということは、親しい間柄を言うに等しい。代名詞に曖昧な点は否めないが、これは「記憶にございません」というような逃げ口上や黙否するなどということよりははっきりした心持ちの言葉で、聞く相手を不愉快にさせることはまずないと言ってよい。それは「あれ」や「それ」という言葉によってその内容がはぐらかされているものではないからである。

           

  話は突然変わるが、家庭の主婦にとって日々の献立は大変である。ときには外食にして食事の用意から解放されたいという気分になったり、簡単料理で手抜きをしたりすることもある。それでも、一日に三度の食事全部の賄いを抜きにすることはよほどのことがない限り出来るものではないのが普通一般家庭の主婦というものであろう。

  我が家では、ときに何にしようかと声をかけて来ることがある。そういうとき、私としては食べたいものが即座に言えなくて、あれはどうかと言ってみたりする。私のあれはカレーライスかハヤシライスかだが、大体その日には所望通りにはならず、2、3日置いて先に希望の献立が登場するというのが常である。これは無理からぬことであり、私への配慮も感じられ、うれしく、ありがたいとも思う。

  逆に、こちらからときには今日は何かと切り出して訊くこともある。訊かれるのはプレッシャーに感じられるのか、妻にはあまりいい表情にならないのが常である。そういうこともあってあまりその日の献立について訊くことはしない。何を食べても美味しく、ありがたく思って食事に向かっているので、それも一因であるが、こうした私の食事に対する態度は作り甲斐がないとも受け取られがちである。

  また、いつも美味しく食べさせてもらっているので、「美味しい」「美味しい」と言って食べるのは取ってつけたようで、私の性に合わない。ということで、いつも黙々と食べる帰来がある。妻にはこれが気に入らないらしく、「何とかいったらどう」とよく私をたしなめる。だが、こちらとしては、残すことなく綺麗に食べることが美味しいという何よりの表現で、いちいち美味しいと言わなくてもよかろうと思っている。という具合で、私の日々の食生活の姿はある。

  「言葉でいわなきゃ、わからんでしょう」と妻にしてみれば、そういうことになるのだろう。けれども、こちらとしては「美味しい」「美味しい」の連発は白々しいし、たまにそれを口にすると、口に出さないときは美味しくないと受け取られかねないとも言えるから、私としては出された献立の品々を全部平らげることによって美味しく頂いているという表現が出来ていると主張したいわけである。

  家庭料理というのは、どこの家でも言えることであろうが、ある程度のパターンがあって、そのパターンで一家の主婦はその献立を回しているところがある。料理好きの主婦は手を変え、品を変えしていろんな料理に挑戦するのだろうが、それにしてもパターンはあると思える。そこで「あれ」とか「それ」とかといった言葉がついつい用いられることになる。私の「あれ」はカーライスレかハヤシライスかどちらかで、野菜サラダつきであれば言うことはない。 写真は左から我が家の朝食、昼食(ともに今日)と夕食(昨日)。


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