大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年10月20日 | 写詩・写歌・写俳

<414> 「帰る」 ということについて (2)

         帰りたく 帰れざる身の そのゆゑに 点す心の 中の故郷

 昭和二十一年、田端義男が唄ってヒットした「かえり船」という歌がある。終戦になって南方の戦地から引き揚げて来る兵隊さんの心情を歌ったもので、少々ニュアンスは違うけれども、「帰る」という言葉に込められた気持ちに切ないものが感じられ、Y先生の「かえろー」とあい通うところがあるように思われる。今ここにあって、無事であるゆえに帰る望みも可能になる。帰るところのある人は幸せな人と言えるだろう。

 母は私が若いときからよく「帰らないか」と声をかけてくれた。現実に阻まれてそれに応えるべき言葉をいつも明瞭には言えなかった私にとって、北島三郎が歌ってヒットした「かえろうかな」は心に滲みる。その母も亡くなって、故郷が少し遠くなったような気がしている。そして、帰ることのままならない淋しさのようなものを味わっている。しかし、心の中ではいつでも帰ることが出来ると、そういうふうにも思える。

  売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき                               寺山修司

 この歌は修司の第三歌集『田園に死す』の「恐山」の中の「少年時代」の一首であることはよく知られる。柱時計を売りにゆくということは、家の滅亡、家族の離散。そんな情景が思い浮かぶ。で、この歌は、帰る家、帰る故郷を失った彼の心を、青春時代の歌だけに余計切なく感じさせる。

 その柱時計がふいに鳴るということはどういうことなのだろうか。想像するに、それは、なお、柱時計が時を刻んでいる証であり、鳴ることによって、柱時計は「売らないでくれ」と訴えたのではなかったか。修司の心はそれを感じ取った。修司にはその状況がわかっていたはずである。後に彼は『誰か故郷を想はざる』を書いている。それが何よりの証と言えよう。

  何処へか少年修司が売りにゆく柱時計の横抱きの鳴り

 柱時計は売りになど行かず、「針を逆さに回してくれ」と、出来ないことを承知で訴えたかった。そう彼は思ったに違いない。歌の感じからはそのように受け取れる。針が逆さに回れば、ありし日の家、ありし日の家族、ありし日の気負いの気持ち、そんななつかしい風景や気分へ自分を回帰することが出来る。この歌は、そういう思い、願望が彼の心の奥底にあったから生まれたものではないか。

  彼は「NATSUKASHINO WAGAYA」の中で、「思えば、私は生まれてこのかた、「帰りたい」と考えたことなど一度もなかった。第一、帰るところも、ありはしなかった。「帰る」ということは同じ場所にもう一度もどってくることだが、私はこの世に「同じ場所」があるなどとは、どうしても思えなかった。人生は一回きりなのだから、往ったきりなのだ、と私は思った。昨日の家と今日の家とは同じものではない。だから、昨日の家へ帰ろうとしたって、無理なことなのだ」と言っている。この絶望にも似た修司の思いをどう見るか。しかし、そんな思いの中で、なお「帰る」ということに彼は執着しているのである。

                               

  「ふるさとは遠きにありて思うもの」というように「帰る」ということは願望の何ものでもないことは、『旅の詩集』の中でも言っている。「人はだれでも「帰りたい」と思いながら、しかし、「帰る」ということが想像力のなかの出来事でしかないことを知るようになるのである」と。横抱きにして売りに行く柱時計の歌と気脈の通う言葉として「帰る」という言葉があり、その言葉への執着が思われる。

  帰るとは幻ならむ麦の香の熟るる谷間にいくたびか問ふ                                前登志夫

 このような歌もある。願望と想像は「帰る」という思いを抱く同じ位相にあるものの言葉としてあるのがわかる。「帰りたい」しかし「帰れない」で、彼の柱時計の歌には、今という現実を諾えない自身の影が見え、「帰る」という意味に切ないものが感じられる。だが、現実(今)を諾えないにしても、いまここに来て無事であるゆえに「帰る」という言葉は生きてあると言える。で、また、切なくもサイン帖のY先生の言葉が浮かんで来る。「かえろー かえろー 元気で ○○さん」。(以下は次回に続く)

 


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