大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年06月24日 | 写詩・写歌・写俳

<3085>  余聞 余話 「悩みについて」

    悩みもてあるものたちよみな生きてゐるものたちよ生とはつまり

 生きとし生けるものは如何なるものも命という灯火を灯しいる存在である。それも揺れ動いて明滅するような覚束ない弱々しい灯火も見えるといった存在である。その存在は生きるという中にあって常に大なり小なりの悩みを内在している。これは命の灯火の覚束なさによる。覚束ないゆえに悩みは生じる。言わば、これは命の灯火を灯すものの宿命であり、生にして生じる必然のものである。内実はそれぞれながら、悩みは生あるすべてのものが持っていると認識される。それは露のごとく生が刹那の覚束ない時と所においてあり、且つ自分以外の存在に触れて自分を律して行かなくてはならない心理に由来する。以上のことを認識に置いて、悩みということについて触れてみたいと思う。

                               

   生の身は現実といふ義務を負ふ未来といへる権利にありて      生(せい)

 生きるということは常に現実にあるということであり、これは義務を負うことに等しく、生きている以上、免れることは出来ない。また、生の存在である私たちは、誰もが未来に向かい夢を抱く権利を有している。つまり、私たちはこの義務と権利の仕組みの成り立ちの中で生きているということになる。そして、この現実に踏み入らなくてはならない義務の生には自分と他者、他物との関係性において拙く思い通りにならないことが常ながら起きる。これが、言わば、生の実態であり、この実態を生きとし生けるものは経験しながら生きて行くことになっている。

   悩みとは生の実態その一面誰の中にも生じ来るもの

 というわけで、悩みは生の一面であり、生における必然のものと理解される。私たちにとって必然のものであれば、悩みは受け入れるべく生じ来るものと言わねばならず、理解しなければならないということになる。つまり、悩みは生の身におけるそれぞれのもので、多種多様にあり、みな悩みに影響されながら生を展開しているということになる。であれば、私たちには大いに悩めばよいというように開き直ることも必要になって来る。

   麦藁帽被りし亡父は過去の人ながら思へば現身の人        亡父(ちち)

 言わば、過ぎ去ったことも、現実の身が思い巡らせるとき、現実のものになる。つまり、これが生の仕組みの複雑なところで、過去の悩みも、思いの中で再び現実のものになるということも起きる。この心理状況を「過去を引きずる」などと言ったりするのであるが、「引きずる」ということは悩みを現実へ引き戻すということであり、現実の義務を負っているところの生における実態の様相の中に組み入れられることを意味するということになる。

   悩みとは自らが負ふものなれば自らが負ふほかにはあらず

 ここで思われるのが、悩みに対する対処の処方であるが、悩みをむしろ経験の一端より生じる思い、つまり、経験の産物として捉え、自分の能力において処方し、自らの権利である未来への力に加えるほどの気概を持って向かうというのがよいのではないかということ。確かに悩みは自らにとって苦いものであるが、苦い茶やコーヒーのごとく、その苦さを味わうというごとくに感受するというほどになれば、人生にも幅が生まれ、余裕も出来るということになる。もちろん、悩みには種類、度数に違いがあり、これは非常に難しく、簡単ではないが、苦い茶やコーヒーのごとく、悩みもそれを味わうほどの心持ちになれること。これが人生には必要であると思える。その処方には自力、他力を問わず、ある種の強さと開き直りが望まれる。 写真はイメージで、露。


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