大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年12月01日 | 写詩・写歌・写俳

<820> ノートに寄せて

        推敲は歌を詠む身の宿命(さだめ)なり ノートに見ゆる苦しみの痕

       苦しみはあるは楽しき極みなり ノートの中の思惟の営為(いとなみ)

 ノートは決して他人に見せない。ノートのあのスペースは誰も入ることの出来ない自分ひとりの空間であり、自分ひとりが自由に思索出来る場所である。自分の歌が少しは活字になり、歌仲間に多少名前が知られるに至っても、ノートの営為は誰をはばかることもない「我」という自由人をしてある「詠人不知」の歌の営みにほかならない。歌はいつもそういう気持ちで作っている。そして、歌は歌として屹然とあってほしいと思っている。

 古いノートを開いてみると、ノートは果たして日記を読むよりもずっと当時の精神状況を伝えている。短歌が心を映す器だからだろう。そのノートも、いま何冊目か。もちろん、いまも、多少ではあるが、「詠人不知」の歌の営みは続いている。

 ノートにはびっしりと歌が並び、推敲に推敲を重ね、黒く塗り潰した箇所もそこここに見える。その箇所は心と言葉が行き来し、ときには絡み合うといった風で、その次第を物語るものであるが、その行き来や絡み合いは、ときにはげしい乱れを見せ、ときにやさしい慰撫の趣をもってあると言える。だが、そのときの気持ちは誰にもわからない自分ひとりのものにほかならず、時代背景はもちろんのこと、季節をも加味して、なつかしさ一入のものと言ってよい。では、ノートをテーマになお幾首かの歌を。

                                                          

     心対言葉の次第思はしめノートに見ゆる歌の表情

    感と知の置きどころなる歌の数 ノートに見ゆる心の次第

    ノートには思ふ気持が輝きとなれざるままの一首も見ゆる

      ノートにははげしさまさる筆跡の思ひ乱れし頁も見ゆる

     水簾のごとくにノートの歌の数 陰影見えて濃淡のあり

    自負と自慰の交錯見えてノートあり 思ひのゆゑの影をともなひ

        暁のノートに対ふそのしまし 鳥の声あり比喩に及べり

    告げ得ざるゆゑに思ひとなりし歌ノートの中の汀を歩む

    おもむろに晴間がひらけゆく時のノートに見ゆる旅人は我

        我が歌の在処に過ぐるこの夏も記すべくあるノートなりけり

        推敲のあとさき見ゆるノートには微かに夏の夕暮にほふ

      推敲の痕跡見えて歌のあり ノートの中の真摯を思ふ

        哀悼の一首際立つところよりノートに過ぐる晩秋の色

      ノートには水面に鷺の一景も 写し写せぬ黄昏の色

      病弊に圧せられゐし一時期もノートに過ぎし思惟あるなり

        寒林に昼月かかり鷺の声 ノートに見えて見ゆるあのころ

        思ふべくありけるノート そこにして短歌すっくと涙ぐましく

        思惟としてありける歌よ屹立のノートに見ゆる一行の意味

        はげしくもやさしくもあり未完なる我にしてあるノートの厚み

      推敲の尽きずありける完成度 歌を思へばノートの余白

      美しき星の季節を想ひつつノートに対ひ描く自画像

      なほ歌にならざる歌が罫にたつ ノートは心の赴くところ

      まぼろしとうつつの行き来なるあはれ ノートは夢の為事とも言へる

      ノートより自負の一首が穂のごとく立つ 推敲の間に見えて

        一行のノートの端の営みの歌に重なる詠人不知

      詠人は我にしてあり ノートには歌の数をし 我のあるなり

         ノートには思ひの丈を記すべくありけるゆゑの納得が欲し

         ノートとはあるは自慰なすスペースとしてあり それもよしとこそ言へ

        自負の帆も意志なす剣も自らの身熱による ノートの中に

    自負があり対するところ自慰もあるノートに見ゆる我とふ一躯

    思ふ身のまさりゆくこの身の熱の我をしてあるノートの重み

    濃淡も起伏も見ゆる ノートには心が点し行き来し痕跡

    完を得しノートの中の一行よ 生まれしからは働きとなれ

 


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