<1827> 余聞・余話 「権威と権力 (今年を振り返って思う)」
権力はいつの時代も座にありて服(まつら)ふものとともにあるなり
権威と権力を国語辞典で引いてみると、次のように説明している。権威は「すぐれた者として、他人を威圧して自分に従わせる威力。また、万人が認めて従わなければならないような価値の力」とある。では、権力はどうか。権力は「他人を支配し、服従させる力。支配者が(組織・富・武力などを背景として)被支配者に加える強制力」とある。こう見てみると、権威は評価によって成るものであり、権力は評価の如何に関わらず、強制力の行使によって成るということが言える。
権威と権力を今少し考えてみると、権威は価値の評価に属し、敬われることによって成り立ち、言わば、神的な色合いの強い絶対的な立場における心理によって慕われてゆくところのものであることがわかる。これに対し、権力は強制力そのもので、人的な色合いの強い相対的な力量をもって従わせるところに成り立つものと言え、権威は一人でも権威たり得るが、権力は一人で権力にはなり得ない性質のものと言ってよい。強制力を発揮する方法は国語辞典もあげているように組織であったり、富であったり、武力であったり、これらの総合であったりするわけである。
ここで思われるのが権威と権力が合体するところに最強の権力者が出来上がることである。このことは為政においては重要な意味を持つと言え、その色合いがうかがえるのが、独裁者で、独裁者はこの権威と権力の両権を有したものであると言える。だが、この独裁者が善政を行なっている間はよいかも知れないが、独裁者は単一である場合がほとんどで、単一にあっては偏りが生じ、問題が起きる。これは世の常で、独裁の場合、余程の人物でない限り、問題を引き起こすということになる。この弊害をなくするために民主主義の多数決の原理が近代になって導入されて来た。
この多数決の原理による民主主義の法制が成り立っている世界では、選挙によって勝利した者が権力の座の権限を与えられ、与えられた者は、その法制のもとで権力を行使することが出来るようになっている。しかし、この権力は次の選挙が行なわれるまでの権限であって、その先までは保障されず、また多数決の原理による選挙に権力は托されるということになる。しかし、権力者が権威に与かるかどうかは評価によることになるから、権力イコール権威ということにはならない。この点が国家の運営には重要なところであると私などには考えられる。では、その考えの一端を以下に述べてみたいと思う。
独裁国家では、独裁者の権限が強く、組織・富・武力などを背景にした膨大な権力によって権威をも独裁者のもの(実際にはそうでなくても)にし、被支配者に対する体制を構築するから、被支配者の評価が如何にあっても、独裁者には自分のやりたい放題にことを進めることが出来るということになる。この成り行きにおいて善政が施されている間は、国家の運営もまとまりゆくが、独裁では偏りが生じ、圧政や弾圧といった状況が国の中に生じて来ることになり、所謂、評価などは権力者の有利に働くように仕向け、権力者は権威を利用して権力の行使を有利に運び、国家においてはこれによって国民を従わせるということになる。
もちろん、民主主義においても権威を権力者の都合に沿うべく誘導するということが行なわれる。評価が分かれるような政策課題などにおいては権力者である為政者の意に沿うべく諮問機関の専門家会議の立ち上げなどにおいては為政者に都合のよい人選がなされるといったことが起きる。そして、選挙人を納得させるべく宣伝を怠らず、世論誘導を図ったりすることになる。言わば、これは権力に権威を上乗せしてより強固な権力を発揮させようとする手法と言ってよい。
選挙による多数決が基本の民主主義では、多数決によって選ばれる権力の側が選挙人の納得、つまり、世論の動向に気を遣い、世論に合せる政治を行なうということがある。これは評価、即ち、権威と強制力、即ち、権力の擦り合わせであり、これを評して衆愚政治などと呼ぶわけであるが、こうした衆愚政治の傾向は選挙によってその勝利者に権力を持たせる民主主義の宿命とも言える。
衆愚政治はこの衆愚という言葉からも言えることであるが、マイナスイメージに捉えられがちである。しかし、選挙人が政治に無関心で為政者のやりたい放題の放漫政治が行なわれるよりましであることは、独裁者の政治を思えばわかることである。ここで思われるのが、天皇制を敷く我が国の政治体制と憲法改正の問題である。戦後七十年の我が国の状況は、平和憲法と呼ばれる現憲法のもとで、一度も戦争をせず、一人の戦死者も出すことなく、概ね穏やかな国の運営がなされて来た。この実績は現憲法に基づく為政者をはじめとする国民一人一人の制度への認識とそれに伴う知恵及び努力によることが言える。
このことを踏まえて権威と権力について今少し考察するならば、我が国の現体制は、権威と権力のバランスが絶妙である点があげられる。天皇を権威の象徴とするならば、選挙で選ばれた首相は権力の最右翼にあると言える。この絶妙なバランスは権威が権力の上位にあることが暗黙の了解事としてあり、憲法にも「天皇は国民統合の象徴」と掲げられ、天皇が確固たる存在として国民に敬われ、親しまれているというところにある。所謂、権威が権力に上回って存在するところに我が国の国家体制の基軸がうかがえるのである。
韓国では大統領を巻き込む大スキャンダルの嵐が吹き荒れているが、韓国の政治体制が常に不正に塗れ、最大権力の持ち主である大統領が糾弾されるのは、大統領一人に膨大な権力が権威をも飲み込むほどにして与えられていることに由来する。大統領になれば、何をしても許される仕組みが成り立っていて、その期間が五年に及ぶ長さにあるということが影響している。言わば、権力の暴走に対し、権威の抑制が利かない体制的不備がそこにはあるからである。これは一人に集中し過ぎる権限の負の一面と言ってよい。現朴政権のみならず、歴代の大統領に不正の事実が認められていることがこのことをよく立証している。
このお隣韓国の情勢を思うとき、我が国で改正の動きが急な憲法のことが思われて来るのである。自民党の憲法改正案なるものを見ると、国家体制において権威と権力の合体的仕組みが透けて見えるところがある。権威が権力を制御出来ればよいのであるが、その働きが逆に向かい、戦前と同様、権威が権力に利用され、権威が権力に取り込まれ、国政を悪しき方向に向かわしめる懸念が改正案のそこには見られる。その案では、首相の権限をより強くし、天皇を政治の現実に近付けることがあげられている。という次第で、その懸念は権力が権威を取り込んで権威をも支配するような仕組みが出来上がることである。
以上の点を総合して思うに、権威は権力の上位にあるべきで、権力に左右され、権威が権力の後方につくようなことになってはならないことが言える。今年はこのような権威と権力のことを考えさせる出来事が多かった。 写真はイメージ。昇り来る朝日(左)と朝日によって輝く彩雲の空(右)。この自然現象は、人間に与えられる権力ではなく、尊崇されるところの万民共通の思いに通じる権威的な風景ということが出来る。
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