大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年07月24日 | 写詩・写歌・写俳

<1054> NHKラジオの「夏休み子ども科学電話相談」に寄せて

       なぜ人に生まれなぜ今ここにありなぜもの思ひゐるや おもおも

 夏休みに入ってNHKラジオの「夏休み子ども科学電話相談」が始まった。年齢に関係なく、幼児から中学生くらいまで、全国各地の子供たちから普段疑問に思っている科学に関わる質問を電話で受け付け、天体とか動、植物とか各分野の専門の先生たちが直接それに答えるという企画である。

 質問には子供らしい素直なところが感じられるが、大人でも訊いてみたいような内容のものが結構多く、聞き入ることがある。幼児の質問などでは、理解してもらうのに先生の方も苦心しているようなところがあり、子供たちへのやさしい思いやりが感じられ、聞いていて心の和む思いがする。

 子供からの質問であっても、質問に即答する立場はプレッシャーに違いない。子供と先生とのやり取りに、先生も心を込めており、素直な子供たちの成長が思われて来る。長期番組で、暑い盛りの番組とあって、今や風物詩のようになっている。この「夏休み子ども科学電話相談」が始まったことで、以前、これに触れたことを思い出し、ここにそれを紹介したいという気になった。以下はその一文である。

               

 私はなぜお父さんとお母さんの子供で、なぜ、今、ここにこうしているのだろうと、あなたは自分の存在について、ふと、そんな風に考えたことはないか。これは、気質によるかも知れないが、そんな答えに窮するような考えに至ったことはないか。

 南方熊楠は「今日の科学、因果(原因と結果)は分かるが、縁が分らぬ。この縁を研究するのが、われわれの任なり」(神坂次郎著『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』)と言っている。私はなぜあなたの子供としてこの世に生を受けたのか、とか、なぜ六十数億人の中であなたが私の無二の友なのかというような縁。これが、博学の巨人をして、なお、「わからぬ」と言わせたところのものである。

 この間、NHKラジオの「夏休み子ども科学電話相談」で「宇宙には涯てがあるのですか」という質問をしている子供がいた。そのときの先生の答えがどんなものであったか、車を走らせていたときで聞きそびれたが、それは、子供に理解させるにはなかなか答えの出し難い質問だという気がした。例えば、「全宇宙には一千億の銀河系があり、我々の銀河系はその片隅の一つにすぎない。そして、我々の太陽は、我が銀河系を構成する一千億から二千億の恒星の片隅の一つにすぎない」(立花隆著『宇宙からの帰還』)と言われるけれども、それは誰も確信を持って言えるものではないからである。その点、「私はなぜお父さんとお母さんの子供として生まれたのか」という縁(えにし)の問題に似ている。どちらも、普段、気にもせずにいるのに、ふとした拍子に考えさせられるという類のもので、答えの出しようがないのが本音のところである。

 パスカルは、『パンセ』(前田陽一・由木康訳)の中で、「宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ」と言っている。つまり、宇宙からすれば、私などはないのも同然の微粒の微粒の超微粒の存在であるに過ぎない。しかし、一旦、私の考えの中に入ると、この広範な宇宙も私のものになるというのである。このパスカルのごとき考えから考察してみると、宇宙は私の夢(観念)の中にあるもので、宇宙を夢(観念)の存在と考えれば、説明出来るかも知れない。夢(観念)ということであれば、無限であるということの理屈も可能になる。しかし、私などの考えはその程度のものであって、とにかくわからないということにほかならない。

   宇宙には涯があるかと問ふ子あり 君も即ちパスカルの裔

 そういうことなのだ。こんな疑問を持ち、こんな質問をする子供が、いつか、パスカルに至り、パスカルを越えるのである。そして、なお、思うに、縁にしても、宇宙にしても、斯く言うように、私たち人間には、その能力では及べない多くの神秘に満ちたことがあるわけであるから、それに対し、これからも、探究し考え続けていかなくてはならないということなのであろうと思われる。