大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年07月15日 | 写詩・写歌・写俳

<1045> ノウゼンカズラ

         凌霄花(のうぜんくわ) 昨日の明日の今日の花 赤子が泣いてゐる珍しく

 盛夏のころになるとノウゼンカズラが咲く。大人たちが暑さに辟易しているとき、子供たちは元気いっぱいに声を発して遊びに興じている。そんな子供たちの声を聞いていると、ときにその元気のよさにかえって滅入ることもある。昔はそんなこともあったが、最近、そういうことがとんとなくなった。

  これは、少子高齢化の一つの現象だろう。と同時に、周囲を見ると、結婚をせず、独身を通している者が結構少なくないことに気づく。ノウゼンカズラは今も昔も変わらず夏の暑さが厳しくなるころ橙黄色のラッパ形の花を咲かせる。蔓性で、蔓に気根(吸根)を有し、他物に絡みついて這い上がるので、花はよく目につく。

                  

  このノウゼンカズラの花を見ていると、そんなことが思われて来るが、この間は静かな団地で、赤子の泣くのを聞いた。その声は煩わしいというよりも、何かノスタルジーを感じさせるもで、ノウゼンカズラの花とともに昔の夏を思い起し、いろいろと思考を巡らせることになった。

  世の中が昔と変わり、合理性がどんどん私たちの生活圏に入り込み、さらに追い打ちをかけるかのようなものの考え方が進み、制度にばかり頼らなければならない精神的余裕のない状況が社会を支配して来ていることが考えられる。それが正しい方向に向かっているのであればよいが、社会を窮屈にしているようで、気がかりは尽きない。

  例えば、少子化を食い止めなければ、日本はじり貧になり、発展して行かないと一方で論じながら、一方では、女性の能力に期待して、社会進出を促すという取り組みをしようという働きかけが行なわれ、専業主婦に負のレッテルを貼りつけるような動きなども見られるようになった。

  思うに、子供を産むのは女性であり、子供が出来ると、お母さんにはおっぱいが出るようになる。そのおっぱいを飲んで子供は大きくなる。これが育児の普通の姿である。ゆえに子供を育てるのは女性が中心になることが自然な状態である。このように見てみると、女性には子育てという大きな仕事があると言ってよい。

  しかし、昨今の世の中は、この普通を許さないような仕組みになり、子育てという人生における大きな仕事があるにもかかわらず、それを軽視するかのごとく、女性たちを働かせるような状況作りをしようとしている。いや、すでにそのような状況になっている。これは一見女性にとって薔薇色に見えるけれども、子育てという観点から見れば、トゲがあると言ってよい。これを通して行くことは、女性にも男性にも子供にも厳しい状況であると言わざるを得ない。

  この志向は、ひとえに、経済成長オンリーのものの考え方から来ていると言ってよい。言わば、労働人口の減少が少子化によって起こり。その穴埋めに女性を当てようとしている。だが、このことによって、女性は子供を持つことを躊躇し、少子化は一層進むという具合になる。

  そこで制度というものが作られ、それに対処しようとすることになるが、制度というのは一律で、社会の精神性にまで思いやりをもってはなされないから、そこに問題が生じて来る。そのよい例が、まさにこの少子化の問題で、政策には正があれば負もまたあることを私たちは知って置く必要がある。

  我が国は戦後、経済的発展を国家の進展と見なしてやって来た。その現象の一端として顕現されて来たのが核家族化であり、大家族制の崩壊であった。加えて、人口の都市集中がなされた。これは産業構造の変革と合理主義的西洋の物質文明の浸透によるところが大きく、我が国の近代化の道筋になったと言えるが、そこには負の面があった。最近、その負の面が顕著になって来た。それが少子化の問題であり、高齢化の問題であって、過疎化の問題などである。これは戦後以来とって来た国の政策に大きく影響されていることなのである。

  これまで、夫婦共働きでやって来た家庭で、子育てを乗り切って来られたところは、同居、別居は別にして、大家族の状況を構築し得た家庭にあったことが、私の知るところを見ても言える。その反対に、何かの事情により、母親一人で子育てをしなければならないところも見られるわけであるが、この場合は、母親にとっても子供にとっても大変厳しい。こういう状況に置かれながら頑張っているおかあさんには頭の下がる思いがするが、これは、人生において異常な状況であり、自然な姿ではないのである。

  子育ては誰がすると言って、両親がするのが普通である。両親が共働きをするような国のあり方はどうかと思うが、一歩譲って、そうしなければならないならば、大家族制の方向というのも大切なところとなる。高齢者の介護の話にもこれは通じる。何でも制度にはめるというのは官僚のものの考え方で、これには精神性の欠如がついて回る。

  制度が不要とは思わないが、国民の根っこの部分である家族の問題は考え直した方がよいように思われる。人生たるもの、なるべく自然な状況に保つことが望まれるわけで、自然な状況を保てば、少子化の問題などは自然に解決する。経済オンリーが国民の幸せという考えのみでなく、もっと地に足をつけた政策が必要であることが思われる。このままでは、「国家危うし」と言わざるを得ない。

  現在、集団的自衛権行使容認のことで国会は論戦のさ中であるが、戦争の出来る国にすることよりも、こういう国民の根っこのところをしっかりさせることの方が国の安定に繋がる。以上、ノウゼンカズラの花と赤子の泣き声にノスタルジーを感じ、思いが巡ったという次第である。写真は花を咲かせるノウゼンカズラ。