大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年07月02日 | 写詩・写歌・写俳

<1032> 集団的自衛権行使容認の閣議決定に思う

       笑はれてゐる日本の民主主義 この政治的幼稚なる仕儀

 前回のブログ「反戦の歌」でも触れたが、決められた手続きによらず、改憲にも等しい憲法解釈を閣議によって決定した。この決定は、憲法を変更するには国民の総意によらねばならないという手続きの約束に反しているから違憲であると考えるのが妥当で、この妥当性をもって司法、つまり、裁判に訴え得ないかということが考えられるわけである。

 この集団的自衛権の問題は憲法九条に関わることで、九条を見ると、九条は第二章戦争の放棄の中にあって、(一)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(二)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。と記され、この二項からなっている。

 このように、九条というのは、わずか百三十字ほどの条文によって戦争の放棄を謳っている。これが基本にあるわけで、現憲法では如何なる解釈をしようとも、この基本点を変え得ることは出来ない。ただ、自衛のために已むなく行なわなければならない戦争までは制限していないと解せる。従って、軍ではない自衛権が行使出来る自衛隊の存在があるわけで、同盟国が如何にあれ、現憲法下では自衛隊を軍隊として用いることは出来ず、これまで自衛隊を戦場で戦わせて来たことはない。

                    

 ところが、現政権は世界の諸情勢と近隣国との緊張関係をあげて、同盟国、即ち米国の要請などを理由に、自衛隊を軍隊にし、戦争の出来る国にすべく改憲する意図のもと、その段取りによって進めようとした。だが、国民に納得してもらうことが難しいとわかったのだろう、自衛隊を自衛隊のまま、九条の解釈を変えて戦争が可能なようにし、今回の閣議でこれを決めたのである。九条を読めば、この閣議決定がおかしいことは誰にもわかるが、議員の多数を楯に押し通そうとしているのである。

 言わば、この解釈は九条の逸脱であり、改憲に等しいものである。故は、当然のこと法に基づく手続きを踏んでやる必要がある。この手続きを無視して決定したのが今回の閣議決定で、この決定は違憲であると考えられる。従って、司法、即ち、裁判に訴えてよいのではないかということで、研究する価値があると言ったわけである。解釈などという姑息なやり方を認めてしまえば、短い条文から成り立っている憲法はほかの条文にしても、改憲を待たず、政治の姑息によって曲げられてしまう恐れが生じて来る。

 私は短歌や俳句を少々手がけているので言えるが、短歌や俳句をやっているものにはよくわかる。短文というのは、その短い言葉の奥に理念とか真理とか思いといったものがあるわけで、短歌や俳句を鑑賞するときにはその言葉の奥にあるそうした精神というものを素直に汲むことが大切になって来る。

 このことは、憲法にも言えることで、短い条文のその奥に何を言っているかを素直に理解することが求められる。九条の百三十字を読む限り、どんなに理屈を捏ね繰り回しても、同盟国と一緒に戦争をすることを可能にする集団的自衛権行使の容認には無理がある。もし、これを通そうとする意志があるのであれば、正式な手続きを踏んで、国民の総意をもって憲法を改正するしかない。それが出来ず政権の内輪で解釈の変更をするなどは、自分たちの保身のために国民を売るようなものである。自衛隊員のある家族が言っていた。「自衛隊を戦場に行かせるのは国民の総意なんでしょうか」と。これは立憲民主国の憲法の精神を言っていることで、非常に重い言葉としてある。政治家はこの言葉にどれだけの責任が取れるのだろうか。

 思うに、自分たちの始末さえ出来ないような無責任な(保身しか考えない)政治家にこんな重要なことを決めさせてよいわけがない。「自分たちの始末」というのは違憲判決が出ている国会議員の定数の問題である。いつまで違憲状態を頬かむりして置けば済むのか。行使容認に賛意を表している米国などは、幼稚な日本にほくそ笑んでいることだろう。なおTPPの問題などがある。安全保障などはどこまで行っても切りがない。日本の外交は完全に受け身になっている。写真は閣議に臨んだ主要閣僚ら(中央が安倍首相)と閣議後、記者会見に臨んだ安倍首相。