<1040> 追憶の記 (2)
天才と狂人生みし旧家(ふるいへ)の庭に溢れて咲く小米花
紺碧の空に朱を打つ花柘榴 父が抱きし思想を思ふ
どんよりと曇りし午後の電車道 烈しき飢ゑとともにありし日
少年の吹く笛幼かりしなり 向日葵が咲く庭を隔てて
少年が水面に投げし釣り糸の描く弧にして文月七月
病弱は感に及びて記憶さる 晩夏の西日に数珠玉の色
初秋の海を描きに行きしなり 船は小島を廻りて往きぬ
朧夜の月をともなふこころ旅 齢を重ね来しものにして
もってしてなほほつほつと満たせざるところを歩む現身の今
銀の匙死人の旅に添へむかな 今を昔の夕暮にゐる
雨の中 訪ひ来し人の面影に思ひ出すあり ありし日も雨
馬鈴薯の花に雨降る針の雨 繊細に過ぎ来し方がある
舫ひたる舟に一人の少年が遊ぶまぼろし 望郷の海
楝の実葉陰に稔りゐる晩夏 下道をゆく日傘が一つ
それぞれに営む人のあるところ 高石垣の柊の家
自らの影がやさしく昔日を語るらくある枯木の歩道
歌をして青春の日へ帰ることあらば穂麦畑の季節
若鮎の溯上に見入る少年の眼に映る万緑のとき
八月は盂蘭盆死者有月とこそ 里のそこここ千屈菜の花
ありし日に芽生えし思ひ 朝々に芙蓉の花の咲く庭の家
窓に寄り少年一人見し眺め 葉蘭の葉擦れの音を聞きつつ
私たちの一生には年齢的な呼び方がある。幼年期に始まり、少年期、青年期、壮年期、熟年期、老年期。これは天寿を全うした誰にも共通して現れる。「年寄り臭い」とか「若いねえ」と言われても年齢に沿って人生はある。この項のテーマは追憶であるが、追憶は過去のことを思い起こすことであるから、人生これからという青年期までの人には該当しない言葉だろうと思われる。
人生の中で、未来よりも過去の方が長くなったような人にこの追憶という言葉はあると言ってよかろうかと思う。追憶に似る言い方に懐旧とか望郷、乃至は郷愁という言葉があるが、これらの言葉が何の違和感もなく使えるのは人生を長く歩いて来たことが条件にある。言わば、こうした人生の歩みを十分に経験して来た者の特権としてある言葉と言って差し支ええないだろう。このように考えてみると、この項の歌は年齢的特権の歌であると言ってよいように思われる。 写真はイメージ。