Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

働き方改革

2018年08月21日 | Weblog
「働き方」に正解はないのだろうと思います。ただ、第一次産業革命以降の工業化の流れの中で、「機械と共に働く仕事」と「自分で生み出す仕事」とに分かれてしまった気がします。さらに、その二者は日本古来の稲作文化によって形成されてきた勤倹力行主義的な勤労観とも異なるため、「働き方」にまつわる改革議論が混沌としたものになっているのを感じます。三者の溝は深くもあり、曖昧でもあり、それが働く人たちに迷いを生じさせています。
 私も含め、自分の全てを賭けて、何かを生み出す意識で仕事をしている人たちは、時間を切り売りするような働き方にはなりません。勤務時間が終わったからといって、魂を吹き込んでいる仕事を中断する気にはなれないのです。夢中で働いて、仕事が遊びになり、遊びが仕事になる感覚です。生活のために嫌な事も我慢して、休日に趣味の世界に生きがいを持つという生き方ではありません。それが良いか悪いかは知りませんが、私の場合は、気がついたらそういう生き方・働き方になっていたというだけのことです。
 稀代の美食家であり、芸術家である北大路魯山人の言葉が、そうした心情を的確に言い表して下さっています。「今後十年私に健康を与えてくれるなら、なんとかしたものを遺すべく、努力したいと思っている。努力といっても私のは遊ぶ努力である。私は世間のみなが働きすぎると思う一人である。私は世間の人がなぜもっと遊ばないかと思っている。画でも字でも茶事でも雅事でも遊んで良いことまで、世間は働いている。なんでもよいから、自分の仕事に遊ぶ人が出てこないものかと私は待望している。仕事に働く人は不幸だ。仕事を役目のように了えて他のことの遊びによって自己の慰めとなす人は幸せとは言えない。政治でも実業でも遊ぶ心があって余裕があると思うのである。」
 夢中になって仕事に遊んでいるときに、時間は念頭にありません。教育においても、時間を切り売りして働く人と、魂を込め、自己研鑽に励み、時を忘れて夢中になって働く人とがいます。どちらが正しいと言うつもりはありません。教育の成果は子供の成長によってのみ測られるものだからです。ただし、教育も芸術も他の仕事も、人間が己の全身全霊をかけて打ち込めば、次の河井寛次郎の言葉に共鳴していくことになると私は思います。
「人に好かれるかどうかは知りませんが、自分の好きなものを自分で作ってみようというのが、私の仕事です。そういう際に表現されるぎりぎりの自分が、同時に、他人のものだというのが自分の信念です。ぎりぎりの我に到達したときに初めて、ぎりぎりの他にも到達します。自他のない世界がほんとうの仕事の世界です。」
 師弟の別なく教学同時の域に達することや、自分の生み出したものが他人様に心から受け入れられることなどが、それにあたると思います。至誠天に通ず。私も魂のこもった仕事を目指し、自他のない世界を見てみたいと思います。
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