Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

いい加減さが身上

2012年12月13日 | Weblog
私は実にいい加減です。(笑)

そして、
教育は、
ある面で厳密でなければならず、
ある面ではいい加減でなくてはならないと思っています。

なぜなら、
一つの指導をしたら、
だれもが同じような結果になるはずもなく、

また、同じ人間が、同じ指導をしたところで、
結果は同じになるかどうかはわからないからです。

言い換えれば、
教師、生徒、親、社会の時という
無限の組み合わせと、
一期一会の出会いの一瞬で、
教育という営みがなされているということでもあります。

教育現場では、
Aという取り組みをしたら、
Aという考え方に染まってしまう、
などと言って、
結局、何もしないことがよくあります。

しかし、一つの考えを伝えたところで、
子どもがそのままその考えに染まることなどありはしない。

もし、そう思うとしたら、
その人の講義では、きっと全員が、聖人君子然として、
完璧に話しを聴き、理解し、学んだことを
直ちに自分の行動理念としているということなのでしょう。

あるいはまた、
これまでの自分自身の人生において、
人からAという考えを聞くと、
常にAという考えに凝り固まってしまったということなのでしょう。

しかし、そんなことはあり得ないと思います。

だったら、
次に、Bという考えを聞いたらBになり、
次に、Cという考えを聞いたらCになるとでもいうのでしょうか?
ならば、最初のAは、一体どうなったのでしょうか?

一人の人間の考えもまた変化します。
変化するということは、
社会が変化し続けているということでもあり、
その人が学び続け、変化し続けている
ということでもあります。

無数の組み合わせの、
人との出会い、
書物との出会い、
言葉との出会いによって、
人は自分の思想を少しずつ確立していくものだと私は思っています。

まぁ、お前だけが、
特別にいい加減なのだと言われれば
それまでなのですが。(笑)

その意味で、
学者の教育論文を私はあまり信じていません。
「じゃ、自分でやってみたら?」とつい思ってしまいます。
(ごめんなさい(笑))

人を教育するということは、それほどに難しい。
そのことは、私はよく知っているつもりです。

そして、命がけで真剣にやって、
初めて、思いは心に届くものだと言うことも知っています。

だからわずかな一瞬に全力で集中し、
厳密に行動しなければならない。


分析し、論じたところで、
本当に人が育つかどうかなど私にはよくわかりません。
そのことにどんな意味があるかもよくわかりません。

わからないことを四の五の言っているより、
「先人たちが営々と築き上げてきた経験則に耳を傾け、
教育実践をしていくことを私は大切にしていきたいと思います。」


まぁ、いい加減ですからねぇ(笑)。




コメント
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