つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

文明開化の志士、福澤諭吉 1

2023-07-07 | Weblog

伊勢雅臣氏のメルマガより

文明開化の志士、福澤諭吉

 無数のイギリス軍艦が浮かぶ香港で、
諭吉は何を考えたのか。

■1.「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」■

「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」 福澤諭吉の生涯は、
この武士としての意地から始まったのではないか。

「親の敵」とは比喩ではない。
諭吉の父親は学問を志しながらも、下級武士として
細々とした事務的な仕事しか与えられずに、
45歳の短い生涯を終えた。

 父の生涯、45年間のその間、封建制度に束縛せられて
何事もできず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。

また初生児(生まれたばかりの諭吉)の行末をはかり、
これを坊主にしても名を成さしめんとまで決心したる

その心中の苦しさ、その愛情の深き、私は毎度このことを思い出し、
封建の門閥制度を憤(いきどお)るとともに、
亡父の心事を察して独り泣くことがある。
私のために門閥制度は親の敵でござる。[1,p24]

「親の敵」とは、武士にとっては一生涯をかけても
必ず討ち果たさずには面目の立たない敵を意味した。

 門閥制度は、諭吉の若い頃こそ私的な「親の敵」であったが、
やがて西洋の学問を学び、欧米を見聞し、
そのアジア侵略の実情を目の当たりにするにつれて、
門閥制度から日本国民を解放し、一人一人が独立自尊の精神を持って、
その智徳と思想、技術を磨かなければ、
日本の独立を守れない、という考えに成長していった。

 明治政府が徳川幕府を倒した後は、ほぼ諭吉の考え通りの方針が
とられたのだが、それには幕末から明治にかけての諭吉の
それこそ「親の敵」を討たんとするばかりの、
文明開化に向けた必死の文筆活動が原動力となっていたのである。


■2.家老の息子の悪巧み■

 諭吉が生まれたのは、天保5(1835)年、大阪の中津藩蔵屋敷であった。

蔵屋敷で売買などをしていた父親が亡くなると、
母は乳飲み子の諭吉とその兄姉たちを引き連れて、
九州豊前の中津藩に戻った。

少年諭吉は障子の張り替えや下駄づくりなど、
細々とした仕事をして家計を助けた。

 21歳の時に転機が訪れた。
安政元(1854)年2月、藩家老の息子・奥平壱岐が留学している長崎に、
従僕の資格で移り住んだのである。

壱岐の紹介で、山本物次郎という砲術家の家に住み込み、
雑用をしながら、そこの書生にオランダ語を習った。

 鋭敏・勤勉な諭吉が山本から目をかけられるようになると、
わがまま息子の壱岐は嫉妬して、諭吉を中津に帰そうと奸計を巡らした。

家老の父に頼んで、諭吉に「母、急病につき至急帰郷せよ」
という手紙を書いて貰ったのである。

 国許の友人から悪巧みを知らされた諭吉は一度は激怒したが、
家老の息子と喧嘩しても勝ち目はないと、
計略に引っ掛かった振りをして国許に帰ると見せかけ、
そのまま大阪に行き、つてを得て、名医・緒方洪庵(おがたこうあん)が
蘭学(オランダ語を通じた西洋の学問)を教える適塾に入門した。


■3.「道のため、人のため」■

 蘭学には身分は関係なかった。
適塾は自由な雰囲気に溢れ、蘭学の実力だけが問われた。

諭吉は喜びと感動を味わいながら、
西洋の学問を、砂が水を吸収するように学んでいった。

 昼夜の別なく机に向かい、疲れれば机の上にうつ伏せになるか、
床の間の端を枕にうたた寝をする。

月に6回、会読と言って何人かで集まって、原書を訳す。
その出来不出来で学力を競い合い、等級がつけられる。

 入塾した一年目、諭吉は腸チフスにかかってひどい熱が出た。
すると、洪庵は「俺はお前の病気をきっと診てやる」と
忙しい合間をぬって、毎日診察に来てくれた。
これは諭吉には生涯、忘れられぬ思い出となった。

 洪庵はドイツの医書から医者に対する訓戒をまとめていた。
その一節にはこうあった。

 医者が世に生きるのは、人のためだけであり、己のためではない。
安逸を思わず、名利を顧みず、
ただ己を棄てて人を救うことを念願とせよ。

 そして洪庵はよく手紙を「道のため、人のため」と結んだ。

洪庵の看病はまさにこの精神の実践であった。
その姿勢から、諭吉は学問とは「道のため、人のため」ということを
胸に深く刻んだのであろう。


■4.新たな志■

 入門して3年目の安政4(1857)年、諭吉は塾長になった。
さらに翌年には、中津藩から、江戸に行って中津藩士に
蘭学を教えるようにとの命令を受けた。

ペリー率いる黒船の来襲から、
各藩は競って蘭学の勉強を始めたのである。

 藩からは家来一人を連れて行けるだけの支度金が出たが、
諭吉はそれを使って塾生2人を連れていった。
一人でも多くの人物を育てたいという「道のため、人のため」である。

 江戸で10人ほどの門下生に蘭学を教え始めたが、
安政6(1859)年、横浜が開港して外国人の居留地が出来たと聞いて、
早速行ってみたが、諭吉のオランダ語はまったく通じない。

ようやくオランダ語のできるドイツ人と出会って聞いてみると、
ここでの言葉は英語だという。

 丸5年も死の物狂いで勉強したオランダ語が通用しない現実を知っ
一度は落胆したが同時にまた新たに志を発して、
それからはいっさい万事英語と覚悟を決めた。

英語の出来る人を探し回り、ようやく幕府の通詞(通訳)を
務めている人が英語を知っていると聞くと、毎朝一時間もかけて、
その人のもとに通い、英語を学んだ。

学問の志のためなら、どんな苦労も厭わない諭吉であった。


■5.米国の富強■

 英語に志してから4、5ヶ月後、諭吉は幕府が
アメリカに使節を派遣する事を聞いた。

前年締結された日米修好通商条約の批准書交換を
ワシントンで行うためであった。

幕府の正使を迎えるためにアメリカは軍艦ポーハタン号を差し回した。

しかし、幕府はオランダから購入した咸臨丸(かんりんまる)を
日本人だけで操船して、護衛につけた。

あくまで対等国として渡り合おうという独立国としての「意地」もあろう。

 この話を聞いた諭吉は、
何とかしてこの未知の大国を自分の目で見、
実際の英語に触れたいと思った。

そこで幕府で地位の高い蘭学医・桂川甫周(ほしゅう)に
咸臨丸の一員に加えてもらえるよう周旋を頼んだ。

桂川は諭吉の人柄と蘭学の実力を認めていたので、
咸臨丸の提督・木村摂津守喜毅(よしたけ)に推薦した。

木村は諭吉を引見したうえで、
即座に従者として連れていくことを許した。

 一行はサンフランシスコで大歓迎を受けたが、
同時に諭吉は見るもの聞くもの、驚きの連続だった。高価な絨毯を大広間に敷き詰め、それを靴で踏みつける。
江戸では火事があると「釘ひろい」が出るのに、
こちらではあちこちに鉄がゴミ同然に棄ててある、等々、
米国の富強ぶりを目の当たりにした。

写真は近隣のアナベル

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