『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』より グレーの階調の中の科学
それでも、「ほかの宇宙などという、永遠に手の届きそうにないものを持ち出すのは科学的とは言えないのでは?」と、納得のいかない人もいるだろう。「いつかは白黒ハッキリさせられるのが科学というものだろう」と。
しかし、本当にそうなのだろうか? 本当に科学は、白黒はっきりさせられるものなのだろうか?
わたしはその考えに懐疑的である。というのも、科学においては、何かが絶対に白であることを保証してくれるような、疑うべからざる真理--宗教なら啓示に相当するようなもの--は存在しないからである。
どこまでいっても白黒確定せず、それぞれの結果はどの程度信用できるのか、どんな根拠に裏づけられているのかと、たえず足元を確認し続けなければならないのが科学なのだと思う。その意味で、科学はつねにグレーの階調の中にあると言えよう。むしろ、足元を確かめながら知識を更新していけることこそが、科学の本領であり、強みなのではないだろうか。
原子やクォークやブラックホールの実在性は、今ではほとんど白に近いといえる。それにくらべると多宇宙ヴィジョンは、はるかにグレーの色味が濃い。それでも多宇宙ヴィジョンはすでに、更新可能な科学的知識という領域の中に入り込んでいるように思われるのである。
人間原理は、目的論という怪しすぎる衣をまとって登場した。しかしそれを言うなら、コペルニクスは目的論と人間中心主義を唱えながら、かの地動説を提唱したのだった。カーターもまた、観測者や認識といった、当時ファッショナブルだったキーワードをちりばめながら、この宇宙はなぜとのような宇宙なのかという深い問題に、一石を投じる論文を書いたということだ。
つまるところ、人は誰しも、自分が生きる時代の文化と手を切ることはできない。科学者とて、それに関してはほかのどの分野の人だちともなんら変わるところはない。それどころか、もしも科学者が時代と完全に切り離されていたとしたら、まともな仕事はできないだろう。科学者はその時代その時代に、今、何が重要な問題なのだろうかと知恵を絞り、手持ちの道具を使って、目の前の問題に立ち向かうしかないのだから。
後世から見れば的外れだったり、トンデモだったりするような問題意識に駆り立てられていたとしても、それぞれの時代の深い問題に立ち向かうことで、科学者は知識の更新に貢献することができる。過去の巨人たちがどんな色眼鏡をかけていたとしても、続く世代の科学者たちはその肩の上に立ち上がり、新たな眼差しで少し遠くまで見ることができるのである--現代の科学者たちもまた、この時代に特有な色眼鏡をかけているにしても。
二十世紀の物理学はめざましい進歩を遂げた。それだけに、いつかは(ひょっとするとそれほど遠くない将来に)あらゆることに白黒つけられるのではないかという意識が、全日とはいわずとも多くの物理学者の心に生まれたのは事実である。しかし、その考えはちょっと性急すぎたのではないだろうか?
宗教的真理とは異なり、科学的知識は永遠に白黒確定することはないのかもしれない。むしろ永遠にグレーの階調の中にあるからこそ、科学的知識は深まり、広がるのではないだろうか。
今われわれは多宇宙ヴィジョンを目の前にして、そのことを再認識するよう迫られているように見える。宇宙を知ろうとすることは、きっと途方もない野望なのだろう。そして人間は、どこまでも人間中心の視点をまぬがれないだろう。
しかし、永遠にグレーの階調の中にあり、つねになんらかの色眼鏡をかけているとしても、それでもわれわれはここまで来ることができたし、さらに遠くを見ることは、きっとできると思うのである。
それでも、「ほかの宇宙などという、永遠に手の届きそうにないものを持ち出すのは科学的とは言えないのでは?」と、納得のいかない人もいるだろう。「いつかは白黒ハッキリさせられるのが科学というものだろう」と。
しかし、本当にそうなのだろうか? 本当に科学は、白黒はっきりさせられるものなのだろうか?
わたしはその考えに懐疑的である。というのも、科学においては、何かが絶対に白であることを保証してくれるような、疑うべからざる真理--宗教なら啓示に相当するようなもの--は存在しないからである。
どこまでいっても白黒確定せず、それぞれの結果はどの程度信用できるのか、どんな根拠に裏づけられているのかと、たえず足元を確認し続けなければならないのが科学なのだと思う。その意味で、科学はつねにグレーの階調の中にあると言えよう。むしろ、足元を確かめながら知識を更新していけることこそが、科学の本領であり、強みなのではないだろうか。
原子やクォークやブラックホールの実在性は、今ではほとんど白に近いといえる。それにくらべると多宇宙ヴィジョンは、はるかにグレーの色味が濃い。それでも多宇宙ヴィジョンはすでに、更新可能な科学的知識という領域の中に入り込んでいるように思われるのである。
人間原理は、目的論という怪しすぎる衣をまとって登場した。しかしそれを言うなら、コペルニクスは目的論と人間中心主義を唱えながら、かの地動説を提唱したのだった。カーターもまた、観測者や認識といった、当時ファッショナブルだったキーワードをちりばめながら、この宇宙はなぜとのような宇宙なのかという深い問題に、一石を投じる論文を書いたということだ。
つまるところ、人は誰しも、自分が生きる時代の文化と手を切ることはできない。科学者とて、それに関してはほかのどの分野の人だちともなんら変わるところはない。それどころか、もしも科学者が時代と完全に切り離されていたとしたら、まともな仕事はできないだろう。科学者はその時代その時代に、今、何が重要な問題なのだろうかと知恵を絞り、手持ちの道具を使って、目の前の問題に立ち向かうしかないのだから。
後世から見れば的外れだったり、トンデモだったりするような問題意識に駆り立てられていたとしても、それぞれの時代の深い問題に立ち向かうことで、科学者は知識の更新に貢献することができる。過去の巨人たちがどんな色眼鏡をかけていたとしても、続く世代の科学者たちはその肩の上に立ち上がり、新たな眼差しで少し遠くまで見ることができるのである--現代の科学者たちもまた、この時代に特有な色眼鏡をかけているにしても。
二十世紀の物理学はめざましい進歩を遂げた。それだけに、いつかは(ひょっとするとそれほど遠くない将来に)あらゆることに白黒つけられるのではないかという意識が、全日とはいわずとも多くの物理学者の心に生まれたのは事実である。しかし、その考えはちょっと性急すぎたのではないだろうか?
宗教的真理とは異なり、科学的知識は永遠に白黒確定することはないのかもしれない。むしろ永遠にグレーの階調の中にあるからこそ、科学的知識は深まり、広がるのではないだろうか。
今われわれは多宇宙ヴィジョンを目の前にして、そのことを再認識するよう迫られているように見える。宇宙を知ろうとすることは、きっと途方もない野望なのだろう。そして人間は、どこまでも人間中心の視点をまぬがれないだろう。
しかし、永遠にグレーの階調の中にあり、つねになんらかの色眼鏡をかけているとしても、それでもわれわれはここまで来ることができたし、さらに遠くを見ることは、きっとできると思うのである。