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アフリカを覆う「中国の影」 加速する経済進出と高まる対中警戒感

『現代中国を知るための52章』より アフリカを覆う「中国の影」 加速する経済進出と高まる対中警戒感
アフリカ人は中国が「最も重要なパートナー」であると考え、アジア太平洋の「最も信頼できる国」と見なしている--。日本の外務省が2017年3月、ケニア、コートジボワール、南アフリカのアフリカ3カ国で実施した対日世論調査(各国とも18歳以上の有権者500人を対象)で、「主役」でありたいと願う日本を図らずも脇へ追いやるような結果が出た。
それによると、「現在の重要なパートナー」「今後の重要なパートナー」「最も信頼できる国」「最も信頼できるアジア太平洋の国」を問う4項目で、中国はいずれも第1位となり、とりわけ「現在の重要なパートナー」(複数選択)では56%の支持を獲得し、2位以下(米国39%、フランス32%、日本28%など)を大きく引き離した。また、「最も信頼できるアジア太平洋の国」(一つ選択)でも中国は52%と断然トップに立ち、2位以下(日本17%、米国14%、ィンド6%など)を圧倒した。中国は伝統的に対アフリカ関係を重視してきたが、近年はその実績を土台に、最後の巨大市場として脚光を浴びるアフリカとの経済交流を拡大させている。活発な投資や貿易、経済支援を通じた中国の存在感の高まりが調査データで裏づけられた格好だ。
第三世界の盟主を自認してきた中国にとって、対アフリカ外交は自国の国際的な威信や影響力を高めるうえで長年にわたり独特の地位を占めてきた。1949年の新中国建国から21世紀の今日までの対アフリカ外交は、大きな流れのなかで見れば、1950~70年代の政治優先の国際主義外交の時代と、1980年代以降の改革・開放を背景とした国益重視外交の時代に区分してとらえることができる。
新中国建国当時、アフリカのほとんどの国はまだフランス、イギリス、ポルトガルなど欧州諸国の植民地統治下にあり、中国との関係は民間交流の形で始まった。時代を画する転機となったのは、1955年4月、インドネシアのバンドンで開かれたアジアーアフリカ会議(バンドン会議)である。会議に参加した中国の周恩来首相はエジプト、エチオピア、リベリア、リビア、スーダンなどの代表と相次いで会談し、特にアラブ民族運動の指導者として脚光を浴びていたエジプトのナセル首相とは再三会談を行った。これが契機となって両国関係は急速な進展を見せ、1956年5月に国交を樹立するに至った。エジプトは中国と正式な国交を持つ最初のアフリカの国となった。
その後、周恩来は1963年12月から65年6月にかけて3回にわたり、エジプト、アルジェリア、ガーナ、タンザニアなどアフリカ11カ国を訪れ、帝国主義と植民地主義に反対し、民族独立闘争を支持するとの中国の基本的立場を表明した。また、周恩来は「中国は対外援助に際して被援助国の主権を厳格に尊重し、いかなる条件も付けず、いかなる特権も要求しない」と言明した。東西冷戦が深まるなかで、中国は「平和5原則」(領土・主権の相互尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存)に立脚しつつ、イデオロギー色の強い国際主義の理想を掲げながら、アフリカ問題に実際行動で関与していった。
1956年のスエズ戦争(エジプトがスエズ運河の国有化を宣言したことから、イスラエルがエジプトに侵入、英仏軍も出兵)に際して、中国はエジプト支持を鮮明にし、資金や物資を供与した。1960年のコンゴ動乱(ベルギー領コンゴの独立直後、ベルギー軍や国連軍を巻き込んで発生した内乱)では、親東側のコンゴ民族運動指導者ルムンバを支持。また、アパルトヘイト(人種隔離政策)を進める南アフリカの白人政権とは政治経済関係を一切持だないと表明する一方、アルジェリア、リビアの民族独立闘争やアンゴラ、モザンビーク、ジンバブエ、ナミビア、南アフリカなどの人民武装闘争に対し、武器供与や軍事訓練を含む支援を行った。
中国が1950年代までに国交を樹立したアフリカの国はエジプト、モロッコ、アルジェリアなど5カ国に過ぎなかったが、計17の独立国が誕生し、「アフリカの年」と呼ばれた1960年以降、中国はアフリカの新興国との国交を相次いで樹立し、対アフリカ関係は緊密度を深めていった。1960~70年代に中国が外交関係を持ったアフリカ諸国は34カ国に上る(ただし、文化大革命期には在アフリカの中国大使館はほとんどが閉鎖され、中国のアフリカ人留学生も祖国へ送り返された。1965~67年にはアフリカ5カ国との外交関係が中断した)。この時期の中国の対アフリカ援助を象徴する事業はタンザン鉄道(1975年に完成したタンザニアのダルェスサラームとザンビアのカピリ・ムポシを結ぶ鉄道)の建設で、1億8900万ドルの巨費が投じられた。
もちろん、中国の対アフリカ援助は、表向きは国際主義の旗を振りつつも、東西冷戦や中ソ対立が激化するなかで孤立を深めていた自らの立場を、第三世界の幅広い支持をとりつけることによって強化しようという外交戦略でもあった。中国がアフリカ諸国との間で結んできた絆は、1971年の中国の国連復帰の際に大きな援軍となり、国連総会でアルハニア決議案の採決が行われたときには、76票の賛成票のうちアフリカ諸国が3分の1以上の26票を占めた。中国の国連加盟後、アフリカでは多くの国が台湾との国交を断絶して中国との関係強化に走り、1979年末時点で中国との国交樹立国はアフリカの全独立国の9割に相当する44カ国に達した。ちなみに、アフリカはラテンアメリカなどと並び、長年にわたって中台外交戦の主要舞台の一つとなってきたが、中国は2016年にガンビアと国交を回復したのに続き、サントメ・プリンシペとも国交を樹立した。2018年5月にはブルキナファソと国交を回復し、台湾が外交関係を持つアフリカの国はこの時点で、エスワティニ王国(旧スワジランド)1カ国のみとなった。
中国の対アフリカ外交は1978年末に始動した改革・開放政策によって重要な転機を迎えることになった。毛沢東時代の政治イデオロギー優先の路線から経済建設を柱とした実利優先の路線へと対外政策の転換が図られ、中国自身の国益を重視する平等互恵の実務外交が主軸となっていった。外部的要因としては、1979年の米中国交正常化、さらには長年続いた中ソ対立が1980年代に入ってから緩和の兆しを見せ、とりわけ1985年にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長が登場し、新思考外交に乗り出して以降、中ソ和解の動きが加速するという国際環境の改善があった。
1996年5月に初めてケニア、エチオピアなどアフリカ6カ国を訪問した江沢民国家主席は「21世紀に向けて長期的に安定し、全面的に協力しあう国家関係」を構築するとの方針を表明し、①誠実に友好に努め、互いに信頼できる「全天候型の友人」になる、②平等に相対し、互いに主権を尊重し、内政に干渉しない、③互いに恩恵と利益を受け、共同発展を図る--など5項目の提案を行った。これによって、実務色の濃厚な対アフリカ外交の基本路線が敷かれ、中国は1998年1月、それまで外交関係のなかったアフリカの地域大国、南アフリカとも国交を樹立した(同国は1990年代に入ってからアパルトヘイトを撤廃し、1994年には総選挙を経てネルソン・マンデラが大統領に就任。長年、台湾と外交関係を結んでいたが、対中国交正常化にともなって断交した)。
中国の対アフリカ戦略で国際的に大きな注目を集めたのは、2000年10月に北京で初めて開催された「中国アフリカ協カフォーラム閣僚級会議」である。この会議には、アフリカ45カ国の首脳・閣僚が参加し、アフリカ諸国の対中債務100億元減免などを盛り込んだ「中国アフリカ経済社会発展協力綱領」が採択された。2006年4月、モロッコ、ナイジェリア、ケニアの3カ国を歴訪した胡錦濤国家主席は、江沢民前政権の路線を引き継ぐ形で、①政治面で相互信頼を強化する、②経済面でウインウインの互恵関係を拡大する、③国際的に互いに密接に協調する--など5項目の指針を提案した。これに基づいて中国は同年11月、アフリカ48カ国の首脳らを北京に招いて「中国アフリカ協力フォーラム北京サミット」を開き、一層の関係強化を図った。
2012年7月の北京での「中国アフリカ協カフォーラム閣僚級会合」では、胡錦濤が今後3年間でインフラ整備などのために200億ドルの融資を行うと表明し、港湾や鉄道の建設をはじめとした、目に見える近代化支援によってアフリカ諸国を取り込んでいく戦略が明確に打ち出された。中国が本気度を見せつけたのは、エチオピアの首都アディスアベバに本拠を置くアフリカ連合(AU)の新本部ビル建設事業である。中国は自ら約2億ドルを出資し、AUのために20階建てビルを「中国からの贈り物」(2012年1月、落成式に出席した彭彭彬・人民政治協商会議主席のあいさつ)として建設した。
習近平政権になってもアフリカ重視の外交に変化はない。習近平は2015年4月、ジャカルタで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議で「広範な分野で多層的かつ全方位のアジア・アフリカ協力の新しい構図をつくりだしたい」と演説し、アフリカとの関係拡大に強い意欲を見せた。さらに、同年汐一月の「中国アフリカ協カフオーラム」首脳会議(南アフリカ・ヨハネスブルク)では今後3年間に優遇借款350億ドルを含む総額600億ドルをインフラ整備などに拠出すると表明したほか、1000万人の人材育成にも取り組む方針を示し、中国の「今言実行」ぶりをアピールした。2018年9月の同首脳会議(北京)でも中国は600億ドルの支援を明言している。
中国にとっては、米国の一極支配を阻み、多極化を進めていくうえで、アフリカ諸国との友好協力関係を深めていくことは重要な世界戦略の一つである。しかし、自国の生存・発展という面で、それ以上に重要度を増しているのは、急速な高度成長にともなって逼迫している資源・エネルギーの獲得、中国産品の新市場開拓といった経済目的だ。アフリカは石油、金、銅、プラチナ、ダイヤモンドなど地下資源の宝庫であり、中国は産油国のアンゴラ、銅の産出国として知られるコンゴ民主共和国など各地で資源開発に奔走している。中国側には「資源分野で中国とアフリカが共同開発を行うことは、アフリカ諸国が資源輸出の多様化、多元化を図るうえで役立つだけでなく、急速な経済発展の一方で資源が相対的に不足するという中国の矛盾を緩和し、国民経済の持続的発展の実現を可能ならしめる」(羅建波『非州一体化輿中非関係』社会科学文献出版社、2006年)との思惑がある。
中国とアフリカとの貿易総額は、1990年代初め、十数億ドルに過ぎなかったが、1999年には65億ドルにまで増大し、2000年には105億9000万ドルと、初めて100億ドルの大台に達した。2016年の貿易総額は1489億6190万ドルと対2000年比で約14倍もの伸びを示している。このうち中国からの輸出総額は61・9%を占めており、約10億人の人口(2050年には約20億人に膨張するとの予測もある)を抱え、年平均5%以上の成長を続けるアフリカ市場の重要性を物語っている。中国のアフリカでの工事請負、労務協力も拡大の一途をたどり、これらの業務関連の在アフリカ中国人数は2016年末時点でそれぞれ16万5080人、6万7438人に上っている。深まる経済交流からは中国がいかに膨大なカネ、モノ、ヒトをアフリカに投入しているかがうかがえる。

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改革・開放40年と中国型発展モデルの功罪 アパートに例える

『現代中国を知るための52章』より 改革・開放40年と中国型発展モデルの功罪
中国モデルの是非については諸々の論議がありうるが、その前にまず考えなければならないのは、国内的には貧富格差、官僚腐敗、人権抑圧、民族摩擦、環境破壊など様々な矛盾が渦巻いているにもかかわらず、なぜ中国モデルが持続可能なのか、という問題である。重要なポイントとしては、もちろん、共産党の整備された強力な官僚機構、巧妙な統治技術、党が掌握する軍事力など様々な要因がある。ここでは中国を大きなアパートに見立てて問題を大掴みにとらえてみたい。
このアパートは現在のオーナー会社(共産党)が1949年に建てたもので、そろそろ築70年になろうとしている。新築当時、会社は入居者(国民)に対して、このアパートに入りさえすれば、平和で安定した生活が保障されると約束したが、入居者の意向を無視して会社に都合のいい管理ルールを定めるなど、だんだん独断専行が目立つようになり、威圧的姿勢で入居者に接するようになった。会社側が自分たちに文句を言う入居者に難癖をつけていじめる事件(反右派闘争)が起きたり、ずさんな安全対策が原因で何度か大火事(大躍進政策や文化大革命)を出して建物が倒壊しそうになったりする人災も起きた。築30年が近づくころには、外壁も内装もボロボロになってしまい、入居者は会社にほとほと愛想を尽かすようになった。
さすがの会社もこのままでは建物が本当につぶれると危機感を覚え、1976年に創業者の社長(毛沢東)が他界したのを機に、その2年後からようやく大規模修繕(改革・開放政策への転換)に乗り出した・改革意欲の旺盛な2代目社長(鄧小平)の努力の甲斐あって入居者の生活はしだいに落ち着いてきたが、さらなる環境整備やサービス改善を求める声が高まり、1989年にはついに会社側との大争議(天安門事件)にまで発展した。最終的には会社側の実力行使によって抑えつけられ、入居者のなかの不満分子はアパートから放逐された。会社は入居者に対する管理を強化する一方、建物を大幅に増築したり、敷地の一部を貸し出したりして事業拡大化路線(高度経済成長)を邁進した。新たな就業の機会が増えたおかげで入居者の収入はどんどん伸び、生活水準は昔とは比較にならないほど向上した。現在、アパートは度重なる改修工事により、一見、築70年とは思えないほどきらびやかだ。
ところが、会社はアパートの見てくればかりに気を遣い、本格的な補強工事(政治改革)を怠ってきたため、床や外壁の内部はいつの間にかシロアリ(汚職蔓延や貧富格差拡大、環境破壊)に食い荒らされてしまい、固いコンクリートの土台(共産党の指導にょる一党独裁)さえもあやしくなってきた。会社は特別対策チームを立ち上げるなどしてシロアリ退治を行ってきたものの、外部の専門家の手を借りたり、土台をいったん壊して建て直したりする考えはないので、なかなか実効が上がらない。とはいえ、このままではアパートが傾きかねないため、会社は社員一同(党員・幹部)を総動員して懸命に建物を維持管理しようとしている。
会社は居住者や隣近所(国際社会)の前では自信満々の態度を見せ、余裕の笑顔さえ振りまいているが、内心では維持管理の手を抜けば、遠からず建物本体が倒れてしまうのではないかとの不安にさいなまれている。おまけに、一時は快調だった業績も鈍り始め、右肩上がりの高度成長はもう期待できなくなってきた。隣近所では、あの会社も先が見えてきたと噂されるようになった。しかし、入居者はシロアリを徹底駆除できない会社に対して多かれ少なかれ不満を抱きながらも、自らの生活環境についておおむねこんなふうに考えている。
 「これまで時に横暴な振る舞いをする会社の気まぐれによって辛い思いをしたこともあった。ただ、40年前の大規模修繕以降、自分たちの家財や貯金も増え、比較的安定した暮らしを送れるようになったことは確かだ。モノの面では昔とは比べ物にならないほど豊かな生活をエンジョイできている。海外旅行だって自由に行けるようになった。住まいが立派になっていくのはやはり誇らしい。もちろん、会社側は厳しい管理規則を押しつけ、指示には従えとうるさく干渉してくる。口答えをすると、手痛いしっぺ返しを食う。でも、おとなしくしてさえいれば、このアパートの住み心地はさほど悪くない。ともあれ、今のところ一応は安定している自分の生活をかき乱すようなことは起きて欲しくない。1989年の大争議のようなやり方では結局、問題はうまく解決できないのだ。もし今の会社が倒産したら、別の会社に面倒を見てもらわなければならないが、今よりもサービスが良くなるかどうかはわからない。現に、1991年には隣の会社の大きなアパート(ソ連)が土台から突然倒れてしまったことがあったが、一時、あそこの居住者たちは路頭に迷って辛酸をなめたではないか。どんなことがあろうとも、隣の連中の二の舞だけはまっぴらごめんだ」
会社の5代目社長(習近平)は居住者の微妙な心理状態を見透かし、強気になってこう呼びかける。
 「うちのアパートが昔よりもどんどん大きくなって、しかもピカピカなので、それをやっかむ隣近所のうるさいやつら(欧米や日本)が『あのアパートはシロアリに食われている。危ない、危ない。もう倒れる』とデマを飛ばして騒いでいる。アパートをどう管理するかはこっちの勝手だ。部外者に口出しはさせない。シロアリは退治しなければならないし、退治する自信はある。アパートの居住環境はもっと良くなっていくから、ともに夢に向かって前進しよう。私がいずれ世界一の集合住宅にする」
これまでの経緯もあって居住者たちは会社を必ずしも心の底から信頼しているわけではないし、アパートの行く末にも不安を感じていないわけではない。しかも、会社の実権を一手に握り、ワンマンぶりが目立ってきた社長の尊大さにはいささか閉口している。「今は封建時代か」といった陰口まで聞かれる。そんな空気を察知してか、会社は建物内のあちこちに監視カメラを設置するようになった。インターネットの管理も厳しくなり、居住者が会社や社長の悪口を書き込んだりしていないかどうか、いちいちチェックしている。
しかし、中産階層化してきた居住者の多くはどちらかと言えば保守的で安定志向が強い。30年前、40年前と違って、今は守るべきそれなりの私財と、まずまず豊かで安定した生活があるからだ。この暮らしは維持しなければならない。少なくとも、ある日突然、建物が倒壊するようなことだけは避けたい。自由で民主的な生活は一つの理想には違いないが、政治の混乱だけはまっぴらごめんだ。さらに努力して働けば、社長の言うように、堂々たる世界一の集合住宅になり、もっと豊かな暮らしが実現できるかもしれない。そうすれば、口うるさい隣近所の連中を見返すこともできて鼻高々だ。他に運営を任せられる者もいないことだし、会社のやり方に従うしかないのではないか--。そんな思いが彼らの胸中を去来している。会社の経営戦略にとってはそれが静かな追い風でもある。
アパート全体の暮らし向きが良くなっていくなかで、会社と居住者の間には、ある種の「暗黙の了解」が成立した。会社の要求は「うちの方針を尊重し、逆らわないで欲しい。そうすれば、よりすばらしい生活環境を保証する」、居住者の要求は「面倒な住まいの管理は会社に任せよう。その代わり、約束通り『より良い明日』を必ず実現してもらいたい」というものだ。ただし、この「暗黙の了解」に基づく均衡状態がいつまで保たれるのかは不透明だ。実は居住者のなかには会社の非民主的なやり方に批判的な反抗分子もいないわけではなく、小さな衝突はしょっちゅう発生している。会社の経営(経済発展)が行き詰まったり、重大な不祥事で会社の威信が失墜したりすれば、会社に見切りをつける居住者が続出する恐れはある。かくして、会社は店子に背かれて土台が揺らぐようになったら一大事とばかり、アメ(生活向上)とムチ(管理強化)を使い分けて安定維持に腐心する一方、命綱である土台の補修工事に余念がない。

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クルドの対「イスラーム国」戦 拡大する領土と膨らむ独立の夢

『クルド人を知るための55章』より クルドの対「イスラーム国」戦 ★拡大する領土と膨らむ独立の夢★
イラク戦争後に悪化したイラクの治安は2006年前後に最悪期を迎えたが、その後徐々に改善し、2010年頃にはかなり落ち着きを取り戻していた。しかし、その後の米軍撤退、隣国シリアでの内乱、当時のマーリキ首相の統治に対する不満に根ざしたデモの拡大などの要因は、再び武装勢力がイラクでテロ活動を活発化させる下地となった。そうした武装勢力のなかでも急速に勢力を拡大していったのが、「イラクにおけるアル・カーイダ」だった。2014年初めにはアンバール県ファッルージャを制圧し、その後同年6月、イラク第二の都市モースルを陥落させたことで、世界に衝撃を与えた。モースルからさらに南へと兵を進め、イラク中部で一定の支配領域を築いた彼らは、「イスラーム国」と改名してカリフ国家の再来を宣言した。
国土の少なからぬ部分をテロリストに乗っ取られるという国難に直面したイラクで、この「イスラーム国」の進撃を歓迎したのが、他ならぬクルドだった。なぜならば、「イスラーム国」がモースル一帯に攻め入ったことでイラク軍が雲散霧消し、それまでペシュメルガとイラク軍の双方が展開していた自治区の南側の土地が、クルドの単独支配下に入ったからだ。そうした土地は係争地と呼ばれており、クルド人住民の他、アラブ人やトルコマン人、その他少数派が混在し、将来的に自治区に併合するか、バグダードが直接統治を続けるか、その帰属が未確定となっていた。2005年に制定された新憲法では、2007年までに住民投票を行ってこの係争地の帰属を決定することになっていたが、フセイン政権下での強制人口移住の是正を伴う複雑なプロセスは困難を極め、長らく棚上げとなっていた。そのことに不満を抱き、係争地の多く、とりわけキルクークはクルディスタンの一部だと信じるクルドにとって、「イスラーム国」の台頭でイラク軍が雲散霧消したことは、キルクークを含む係争地を実効支配する千載一遇のチャンスと受け止められたのだった。
加えて、この2014年夏という時期は、クルドにとってもう一つ重要なタイミングと重なっていた。それは、5月にトルコ向けの石油輸出パイプラインが稼働を開始したことだ。自治区内の油田を開発し、独自に輸出ルートを持つことで、イラク政府に依存しない経済力を持つことが可能になる。それを念頭に、自治政府は2000年代半ばから積極的に国際石油会社を誘致し、トルコ政府との関係を深めてきた。シーア派色が強くイランと同盟関係にあるイラク政府とトルコ政府の関係がぎくしゃくするのと反比例するように、トルコはイラクのクルドと関係を強化し、ついにイラク政府の反対を押し切って、自治区の原油輸出用パイプラインをトルコ国内のそれに接続させた。
イラクにおいて、自治区として大きな権限を手にしていたクルディスタン地域だったが、国家主権はあくまでイラク政府にある。自治政府の活動が天然資源や外交、国防など主権に関わる領域に拡張すればするほど、イラク政府から反発を招いてきた。とりわけ、2010年にイラク首相として再任されたヌーリー・マーリキは、権威主義的な手法で自らの手に権力を集中させることを意図し、必然的に自治の権限を最大限に拡張しようとするクルドと頻繁にぶつかるようになっていた。こうした状況下で、自治区にとってイラクとの最も重要な結びつきは予算の分配だった。逆に言えば、独自の財源を手に入れて、財政的自立が可能になるならば、イラク政府の予算に依存する必要はなくなる。
この独自の石油輸出の実現と、係争地の実効支配の確立は、クルドにとってそれまで非現実的と見られていた独立国家樹立の実現可能性を、飛躍的に高めた。イラク政府に不満があれど、独自の財源や、長年のクルド迫害の歴史の象徴であるキルクークなしでの独立はありえなかったからだ。加えて、キルクーク油田も接収したことで、低迷していた石油生産量の底上げを図ることもできた。自治区の大統領であるマスウード・バールザーニーは2014年7月、BBCのインタビューで「我々はもはやゴールを隠さない」と述べて、独立を目指す姿勢を初めて公にした。
だが、そうして一度は盛り上がったクルドの独立熱は、急速に下火になる。2014年8月に、それまで南進していた「イスラーム国」が北に向けて進軍したことで、瞬く問に自治区とその周辺に展開するクルド兵のペシュメルガも戦闘に巻き込まれていったからだ。米軍の空爆支援を得たことで当初の劣勢を挽回したが、イラク軍から奪った兵器を手に勢いを得ていた「イスラーム国」は、一時は主都アルビールの防衛さえも脅かした。この出来事は、テロリストが支配する領域を「隣国」とすることは危険すぎるという、至極当たり前の課題をクルドに突きつけた。ここから、自治政府もイラク政府同様、対テロ戦を当面の最優先課題とせざるをえなくなった。
その後彼らは、自分たちを、前線で「イスラーム国」と互角に戦える数少ない戦力だと欧米社会に喧伝して、軍事支援を引き出すことに成功した。従来、国際社会からイラクヘの軍事支援は、イラク軍やイラク警察向けに限られており、自治区の防衛を担っているとはいえ、ペシュメルガに最新兵器が供与されることも軍事訓練が提供されることもなかった。しかし、それが「イスラーム国」に対抗するという錦の御旗を得たことで、ペシュメルガもそうした軍事支援に与ることが可能になったのだ。とりわけドイツなど、ディアスポラのクルド人口が多い国は、クルドに対して世論が同情的であるためか、かなり積極的な支援を展開した。米国を中心とする連合軍との共同作戦司令部も、バグダードと並んでアルビールにも設置された。
「イスラーム国」との激しい戦闘で、ペシュメルガの死者は1000人を超えた。これはどの戦死者が出るのは、1980年代に反政府武装闘争をしていた時代以来だ。それでも、その頃のクルディスタンでは戦時下という暗さがあまり感じられなかった。それは、テロとの戦いによって、イラクにおいて、あるいは国際社会において、自分たちのプレゼンスが高まっているという期待があったからかもしれない。
2015年が終わる頃には、クルドが自分たちの土地だと信じるエリアのほぽ全域から「イスラーム国」を駆逐した。その時点でモースルは依然として「イスラーム国」の支配下だったが、かつてはクルド人が多く住んでいたものの、今ではもはやモースルはクルディスタンの一部とは見なされなくなっており、それゆえモースル奪還はイラク軍の手に委ねられた。そして、2017年6月、モースル奪還作戦がいよいよ終盤に入り、イラクにおける対テロ戦争の終結が見え始めた頃、改めてバールザーニー自治政府大統領は、クルディスタンの独立を問う住民投票を9月25日に実施すると宣言した。「イスラーム国」との戦いを奇貨として、係争地の支配を固め、住民投票の結果を盾に将来の独立を前提とした話し合いをイラク政府と開始しようという算段だった。だが、この目論見は大きく外れる。住民投票が強行されたことに強く反発したイラク軍の反撃に遭い、結局2017年が終わるまでにはクルドは過去3年間に実効支配していた係争地のほとんどを失った。クルドにとって「イスラーム国」との戦いとは何だったのか。その総括はまだ始まっていない。

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豊田市図書館の21冊

豊田市図書館の1冊
 204プラ『逆境だらけの人類史』英雄たちのあっぱれな決断
豊田市図書館の20冊
 010.21『図書館の日本史』
 813.7『朝日キーワード2020』
 780.21『スポーツまちづくりの教科書』
 816.5『中高生からの論文入門』
 316.82『クルド人を知るための55章』
 302.25『現代ブータンを知るための60章』
 674『名作コピーの時間』
 336.4『エンゲージメント経営』
 404『図説 シンギュラリティの科学と哲学』AIと技術的特異点の未来予想! 技術的特異点とは何か? 人類に未来はあるのか!
 143『発達心理学』いちばんはじめに読む心理学の本 周りの世界とかかわりながら人はいかに育つのか
 234.07『第三帝国の到来 上』第三帝国の歴史全6巻
 332.22『一帯一路からユーラシア新世紀の道』
 311.7『ポピュリズムの理性』
 911.36『定本 虚子全句』
 330.33『経済学事典』
 318.7『都市・地域のグローバル競争戦略』日本各地の国際競争力を評価し競争戦略を構想するために
 302.22『現代中国を知るための52章』
 725『数学デッサン教室』描いて楽しむ数学のかたち
 147『「魂」の本当の目的』あなたはなぜ「この世」にやってきたのか?
 361『ギデンズ+A1142:E1162社会学コンセプト事典』

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