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勃興する中国デジタル経済

質的転換を遂げつつある中国経済
 2018年は改革開放40周年に当たるが、前半は「改革開放を経て資本主義経済の豊かさに追いつく」、これが彼らの目標とした「小康の水準」であった。しかしながら、アジア通貨危機およびWTO加盟を契機として、中国経済は離陸し安定飛行に移るや、ジャンボ機並みの速度で経済的爆進を続けた。こうして中国はドイツ経済を抜き、日本経済を抜き、2014年には米国経済を追い抜くに至った。これは国連が定期的に行っている購買力平価ベースで国連加盟国のGDPを推計した国際比較統計の結果であり、信頼度の高い推計だ。改革開放の行方に疑念を抱いてきた人々に一つの決定的な回答を与えるものとなった。これまでは「社会主義市場経済」システムのもとで期待するような経済成長が実現できるかをまず疑い、仮に実現するとしても、そこでは「市場経済」が経済メカニズムの核心となり、「社会主義」は単なる形容詞と化していずれは投げ捨てられるであろう。人々はそのような眼差しで観察していた。
 明らかに内外のこの種の観察は間違っていた。一つは「社会主義」の枠のもとで市場経済が勢いよく発展したことであり、いわゆる「社会主義の枠」が市場経済の発展を阻むことはなかった。もう一つの間違いは、市場経済が発展すれば、下部構造の力が「社会主義」という政治の枠を形骸化するに違いないという見取り図だ。要するに、中国は「社会主義市場経済」という人類史に見られない政治経済システムのもとで目ざましい経済成長をなしとげ、世界一の経済大国を実現しつつある。この現実を直視しなければならない。
 人口が世界一であるからには、量的規模において世界一になったとしても驚くべきではない。人々はそのような視点から中国経済の量的発展に驚きつつも、その質的発展を軽視してきた。「量は質に転化する」弁証法の通り、中国経済はいま質的転換を遂げつつある。
 表1は中国における電子商取引の発展を見たものだ。
 2017年の電子商務取引実績は29.2兆元に達してGDPの35.3%を占めた。中国のGDPは日本の3倍程度と推計されるので、日本のGDP規模に匹敵する部分がすでに電子決済されているわけだ。企業間の決済は従来から銀行間の帳簿決済が行われてきたので、これをデジタル化するのは容易だ。ここで注目すべきは、アリババ等のネット売買の普及スピードである。ネット通販が爆発的に普及しつつあるのは、いくつかの要素が結合した結果である。何よりもスマホが急速に普及した。これは固定回線が著しく不足して人々は電話不足に悩まされてきたので、携帯電話(手機)が現れたとき、これにとびっいた。携帯電話はまもなく、カメラ付きスマホ(智能手機)と代替した。このスマホでネット商品を確認し、購買し、即座に支払いを済ませる。このスタイルが定着した。ネット通販側ではニセ商品対策に力を傾注し、ニセモノを排除してくれたので、人々は安心してカタログだけで買う習慣が身にっいた。他方売り手側からすると、買い手の預金口座からの引き落としになるので、横行するニセ札騒動を免れた。さらに高速道路のネットワークが全国に張りめぐらされたので、これと連動して消費革命即物流革命という巨大な変化が中国社会を底流から変え始めた。
 ネット通販のメリットは、単に買い物が便利になり、人々を買い物行列から解放しただけではない。この取引の結果としてのビッグデータの解析によって、どこでいつなにが、どのような人々によって買われたか、そのデータがすべて記録され、最新需要に応じた供給を保証する体制、スタイルが結果的に形作られていった点がより重要だ。既存のソ連型計画経済体制においては生産手段レベルにおいては、かろうじて資財人材等の供給体制を作ることができたが、千変万化の消費財になるともうお手上げであった。たとえばハンガリーの経済学者コルナイ・ヤーノシュは、『不足の経済学』(Korna1 1985、 1992)を書いて、その原因が「ソフトな予算制約」にあることを実証した。計画当局は元来消費財に至るまでの資財、資金、労働力を配置しているのだが、「生産ノルマの超過達成」を求められることが常態化しているので、経営者たちは「余分な在庫」を確保する準備を恒常的に行う。その結果、資財の奪い合いが起こり、モノ不足が恒常化し、その裏では余分の在庫が溢れる。そこではトョタ流生産システムが「看板方式」を駆使して余分な在庫を一掃して生産性を挙げた例とは、真逆の論理が貫徹していた。旧ソ連東欧の計画経済は、戦争経済としては有効性を発揮したが、大衆社会の消費財需要に対応できず行き詰まった。しかしながら、いま中国流の社会主義市場経済はネット通販とスマホ決済を活用して、消費財の需給調整を基礎とした計画経済化に成功し、世界一の経済大国に成長しつつある。
戦略的に重要なIT産業の分野で世界有数
 いま中国経済で着目すべきは単なる量的拡大ではない。戦略的に重要なIT産業の分野を含めて世界一の経済を目指し、その成果が現れつつある現実を直視すべきである。
 世界のスマホ売上げ高ランキングをみると、2017年第4四半期は、①アップル19.1億台、②サムソン(韓) 18.2億台、③華為(中) 10.6億台、④OPPO(中)7.2億台、⑤小米科技(中) 6.6億台、⑥vivo(中) 5.5億台、であった。1位、2位は米国と韓国に譲ったが、3位から6位まではすべて中国勢である。4位と6位は見慣れないブランドだが、この2っは広東省「歩歩高」の製品である。4位と6位を合わせると、12.7億台であり、3位の華為を超えてサムソンに肉薄する。こうして中国はいまやスマホという端末市場において世界一に迫りつつある。
 表2は中国国内のスマホシェア・ランキングである。
 スマホの主な材料は、いうまでもなく半導体チップである。半導体企業の上位8社は、ファウンドリーズ売上げランキングで見ると、表3のごとく、①台湾積体(台)、②グローバル・ファウンドリーズ(米)、③聯華電子(台)、④サムソン(韓)、⑤中芯国際(中)、⑥パワーチップ(台)、⑦華虹集団、⑧タワージャズ(イスラエル)である。5位と7位に中国が顔を出している。台湾の3社はいずれも大陸を主な市場としているので、広義の中華圏企業はいまや半導体の分野でも、強まる寡占体制のなかで地位を確保しつつある。
 これらの統計が示すように、中国はスマホの消費市場から出発して半導体の生産体制においても世界有数の供給国になりつつある。日本のIT業界を見ると、バブルがはじけるまで世界ランキング10社中半分を日本企業が占めるIT先進国であったが、今日東芝もついに売却を余儀なくされ、NEC、日立、富士通、三菱電機、松下電子等が相次いで10傑から消えて久しい。
 ここでは具体的な要因分析が必要だが、容易に想定されるのは、「モノ言う外国株主」たちの近視眼的要求による経営破壊である。短期的視野から高配当を要求し、戦略的TT部門への投資を切り捨てる愚行を演じた(たとえば各中央研究所の閉鎖決定)。この要求に屈した経営者(たとえば経団連幹部たち)の責任は万死に値する。無為無策を容認したメディア幹部、経済評論家たちも同罪である。
EV車開発競争の行方
 ここでより重大なのはEV車開発競争の行方であろう。 2017年の生産実績を見ると、中国は3000万台に迫り、日本は国内生産約1000万台、海外生産が約2000万台なので、内外を合わせて約3000万台、すなわち2017年の時点で日中のガソリン車生産能力は約3000万台で措抗している形だ。
 ではEV車開発の展望はどうか。ガソリン車と違って技術的に難度の大きいエンジンとクランクトランスミッションシャフトが不要になる。EV車生産は誰でも参加できるといわれるほどに技術の壁が消える。ということは、中国からみて技術的壁が一挙に消え、新たなスタート台で日本に挑戦することが可能になる。
 ここで着目すべきは、EV車を動かすエネルギー源、リチウムイオン電池の出荷量ランキングである。2位のパナソニック、5位のLGと7位のサムソンを除けば、他の7社はすべて中国企業である。リチウムイオン電池の出荷量ランキングにおいて中国はすでに日本をはるかに上回る。これがEV車競争の未来を決定する要素となるのではないか。

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第三帝国の到来 混沌への沈降

『第三帝国の到来 上』より 混沌への沈降
ドイツ人の多くは、連合国は、ヴェルサイユ条約の他の条項同様、ドイツ・オーストリア統合の禁止を、条約第二三一条によって正当化したものと理解した。それは、一九一四年に戦争が勃発したことについて「自国のみに罪がある」ことを、ドイツに強制的に認めさせるものだった。他の条項は、カイザーとほかの多くの者を戦争犯罪のかどで裁判にかげると定めており、これもドイツ人にとっては同じく屈辱的たった。実際、一九一四年のベルギーならびにフランス北部への侵攻の際、ドイツ軍部隊は重大な虐殺行為をしでかしていた。げれども、ごく少数の審理が、ライプツィヒ所在のドイツ側裁判所で行われただけとなった。しかも、ドイツ司法当局は、それらの訴追の多くには正統性がないとしたため、ほぼ例外なく検察側の敗訴に終わったのだ。当初、九百名が戦争犯罪人として指名されたが、結局、有罪とされたのは、そのうち七名だけであった。戦争犯罪という概念すべて、さらには、あらゆる戦時法規なる概念は、戦争犯罪などと空想を広げたあげくの虚偽の宣伝をもとに、勝利した連合国が発明した、根拠の怪しいしろものにすぎない。かかる考えがドイツに根付いた。それは、第二次世界大戦中のドイツ軍の姿勢と行動に、致命的な遺産を残すことになる。
しかし、第二三一条の真の目的は、フランス人とベルギー人に対し、とくにドイツによる四年三か月の占領がもたらした損害について補償するため、連合国がドイツに懲罰的な財政的賠償を課するのを正当化することにあった。連合国は、二百万トンを超える商船、五千両の機関車と十三万六千両の客車、石炭二千四百万トンのほか、多数の物資を押収した。金銭的賠償は、将来、何十年にもわたって金で支払われることになった。こうした措置によってもなお、ドイツが軍事力再建を賄うだけの財政運営を行うことを阻止できない場合に備えて、ヴェルサイユ条約は、陸軍の最大兵力量を十万人に制限し、戦車・重砲の保有、全面徴兵制の採用を実行してはならないと強制していたのである。ドイツにあった小銃六百万挺、航空機一万五千機以上、機関銃十三万挺、その他大量の装備が破棄されねばならなかった。ドイツ海軍も事実上解体され、新しい大型艦艇の建造は禁止された。ドイツが空軍を持つことなど、いっさい認められなかった。一九一八年から一九一九年にかけて、西欧連合国より講和条件としてドイツに提示された条項は、かくのごときものだったのである。
ドイツ人の大多数が、とても信じられないもの、恐怖の対象として、これらのすべてに接した。ドイツの上流・中流階級に、憤怒と不信感が衝撃波のごとく広がる。それは、ほとんど誰もが共有したものであった。労働者階級にあって、穏健な社会民主党を支持していた多くの者だちとても同様で、大きな衝撃を受けた。一八七一年の統一以降、ドイツの国際的な力と威信は常に上昇の道をたどってきた。それゆえ、ほとんどのドイツ人が、ドイツはいまや、唐突に、また力ずくで列強の地位から追放され、彼らが不当な恥辱であるとみなしたものに包まれていると感じたのである。ヴェルサイユ条約は、交渉の余地も与えられず、一方的に押しつけられ、命令された平和であるとして、非難されることになった。ドイツの中産階級のうち、きわめて多数が、一九一四年の戦争に際して熱狂したのであるが、四年後、それが反転し、講和条件に対する怨嵯を燃え上がらせたのであった。
ところが、現実には、この講和条約により、ドイツの中・東欧に対する外交政策に、あらたな好機が生まれていたのである。そこは、かつて強力だったハプスブルク帝国とロマノフ帝国に替わって、オーストリア、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラヴィアなど、互いに小競り合いを繰り広げる不安定な小国の吹き溜まりとなっていた。ドイツが勝利のあかつきには他のヨーロッパ諸国に課すつもりだったものに比べれば、ヴェルサイュ条約の領土条項は穏健であった。ドイツの要求については、ドイツ帝国宰相ベートマン・ホルヴェークが一九一四年九月に起草した綱領がその原則を明快に表し、また、一九二八年春に敗戦国ロシアと結んだブレスト=リトフスク条約が、それが実践された場合のようすをあざやかに示している。ドイツが勝利していたら、敗れた連合国に送られる賠償請求も莫大なものになったにちがいない。ビスマルクが、一八七〇年から一八七一年の戦争でフランス国民に突きつけたそれの何倍にもなったであろうことが確実だ。一九一九年以降、ドイツが実際に支払わねばならなかった賠償金の額は、同国のリソースでは手に負えないというほどではなかったし、ドイツ占領軍がフランスとベルギーにほどこした理不尽な破壊を考えれば、根拠のないことでもなかった。多くの意味で、一九一八年から一九一九年にかけて行われた平和構築は、劇的に変化した世界において理論と実践を融合させようとする大胆な試みであった。状況がちがえば、あるいは成功の機会もあったかもしれない。しかしながら、ドイツの国家主義者が、不正なやり方で勝利をだまし取られたと感じ、どんな講和条件だろうと呪誼しかねない一九一九年の情勢にあっては、うまくいくはずもなかった。
また、連合国が、戦争終結から一九二〇年代の終わり近くまで、西部ドイツ、ライン川流域の一部をながらく軍事占領していたことも、広い層に憤憑を引き起こし、当該地域におけるドイツ人の国民意識をつよめた。一八八八年生まれで、ずっと平和主義者で通してきた、ある社会民主党員は、「私はフランス人の小銃の銃床を感じるようになり、再び愛国者になった」と、のちに書いている。英米も、ラインラントの少なからぬ地域に軍隊を駐屯させていたにもかかわらず、ラインラントとザール地方において最大級の怒りを引き起こしたのはフランスだった。とくに、フランスが、ドイツの愛国的な歌や祝祭を禁止し、これらの地域の分離主義運動を奨励、さらには急進的国家主義団体を非合法化するにおよんで、憤怒がわきあがったのだ。ザールラントのある炭坑夫は、国営炭坑を新しく所有することになったフランス人は、ドイツ人嫌悪を表明し、労働者を苛酷に扱うことでそれを明示していると称した。受動的な抵抗、とりわけ、鉄道事務員のような下級国家公務員が愛国心を抱いて実行したことは(彼らは、フランス当局のためにあらたに働くのを拒否した)、現状を追認したベルリンの政治家に対する憎悪と、その際、なすすべもないままに終わったドイツ民主主義への拒絶を煽ったのである。
とはいえ、普通のドイツ人のほとんどが講和条約に激昂したとしても、それが急進国家主義の使徒たち、とくに全ドイツ主義者に与えた影響に比べれば、たいしたことはなかった。全ドイツ主義者は、ほとんど恍惚とさえいえるような、際限のない陶酔を以て、一九一四年の開戦を歓迎したものであった。ハインリヒ・クラースのような男たちにとっては、生涯の夢の成就だったのだ。事態はついに、彼らのめざす方向に動きだしたかと思われた。戦前、「全ドイツ連盟」は、領土拡張とヨーロッパにおける覇権獲得に向けて、とほうもない野心にみちた計画を描いたが、いまや、その実現の機会が得られたかのごとくに感じられた。ベートマン・ホルヴェークが率いた政権は、対象範囲や見通しの点で、全ドイツ主義者のそれにきわめて近似した戦争目的を起草したからである。産業資本家などの圧力団体や保守党のような政党のすべてが、戦争に勝利したのち、ドイツ帝国に併合されるべき広大な新領土について騒ぎ立て七。
しかし、勝利は訪れず、併合主義への反対も増大した。かかる状況下、クラースと全ドイツ主義者たちも、政権に圧力をかけるため、支持基盤を広げる真剣な努力がいっそう必要だと理解しはじめた。ところが、この目的のために他団体と同盟するさまざまな策を試みようとしたとき、彼らは突如として、元官吏にして大土地所有者であるヴォルフガング・カップが打ちだした新しい運動によって側面を迂回されることになったのだ。彼は、実業界の重鎮で「全ドイツ連盟」の創設メンバーだったアルフレート・フーゲンベルクの仲間であった。いかなる国家主義運動も、大衆基盤がなければ成功しないだろうというのが、カミフの意見だった。一九一七年九月、彼は「ドイツ祖国党」を創立する。その綱領は、併合主義者の戦争目的、全体主義的憲法改正などのほか、全ドイツ主義者の政綱の項目を基軸にしていた。実のところ、この新組織は、クラース、工業資本家、前海軍大臣アルフレート・フォン・ティルピッツ、さらには、保守党を含めたすべての併合主義団体に後援されており、自分たちは、政党政治の争いを超越し、抽象的イデオロギーでなくドイツ国民のためにのみ献身する存在であると称したのだ。教員、プロテスタントの牧師、陸軍将校、その他多くの人々が、こうした時流にあやかろうとした。祖国党は、一年ほどで、二十五万を下らぬ党員を擁していると主張するに至ったのである。
ただし、見かけほど、すべてがうまくいっていたわけではない。第一に、個人であると同時に選挙人団体の構成員として、二重に党員登録した者が多数いたために、党員数が大幅にかさ上げされていたのだ。一九一八年九月の党内の覚書によれば、党員実数は四十四万五千名ほどであった。第二に、クラースと全ドイツ主義者たちは、すぐに傍流に追いやられた。祖国党指導部は、彼らと協力すれば、さまざまな政治党派にいる潜在的な支持者のうち、さほど急進的でない部分を躊躇させることになると考えたからだ。祖国党は、何度も自由主義者の反対に遭い、政府もおおいに懸念を抱いた。政府は、将校や下士官兵の入党を禁止し、官吏に対しても、いかなるかたちであれ、祖国党を援助してはならないと命じた。労働者階級から党員を募るという祖国党の野心も、社会民主党と傷痍軍人によって挫折した。前者はいちように、自らを分裂させるようなィデオロギーヘの批判を展開した。後者に至っては、一九一八年一月、ベルリンにおける祖国党集会に出席した折に(招待による)、演説した者とのあいだに怒声の応酬を交わし、聴衆のなかの、極端な愛国者たちによって集会場から放り出されるという事態を生じせしめた。この喧嘩沙汰をおさめるために、警察が呼ばれる始末だったのである。こうしたことすべてが、祖国党は、実際には従来の超国家主義運動の一変種にすぎず、ただ中産階級に属する名望家によって、より強く支配されているだけだという事実を示していたのだ。祖国党が、労働者階級の支持を得るために、何か新しい方策を採ることもなかったし、労働者階級出身の演説家も有していなかった。いかにデマゴギーをまこうとも、一般の人気が得られることはけっしてなかったのである。祖国党は、お上品な政治の枠内に留まって動こうとせず、暴力を慎んだ。それゆえに、何よりも因習の型にはまった全ドイツ主義における政治的野心の破綻を暴露してしまったのだ。「全ドイツ連盟」が、一九一八年以降、大戦後のドイツのあらたな政治の世界についていけないことが証明され、名もしれぬ小党派へと分裂していったとき、その破産が確定したのであった。

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現代ブータン 女性をとりまく生活環境

『現代ブータンを知るための60章』 女性をとりまく生活環境 ★現代主婦のかかえる様々な問題★
一般的なブータン女性は良く働く。田舎では農業の担い手や土日の野菜市場の売り子の大半は女性である。ブータンの公務員社会では女性の進出は目覚しく、全教員数の41%は女性であり、多くの学校の校長が女性である。
Global Gender Gap Index 2016によれば、ブータンは調査対象国144カ国中121位で2013年の同調査では調査対象国136カ国中93位であった。2016年度レポートによれば健康、教育、経済と政治の分野においてブータン人女性は男性より明らかに不平等な状態にあり、特に地域労働、勤労報酬、賃金平等において大きな格差があるものの、専門職及び技術職に就く女性の数が多いこと、ないし識字率においては他国よりも性差がないとしている。
「西洋の婦人の高い地位は男が尊重するから保たれている地位だが、チベット系の婦人の地位は実力で平等か、或いはそれ以上の地位をかちとっているような気がする」(中尾佐助『秘境ブータン』)
とあるように、従来のブータン社会では女性は男性と同等であった。しかし近代化をしたブータン社会では、日本社会と同様に社会で働く女性は多くのハンディを抱えている。現在のブータン社会は決して男女平等とは言えない。
2016年12月の時点で女性の大臣は1名(10名中)、関係機関の長1名(汚職撲滅委員会の議長のみ)、県知事2名(ダガナ県、チラン県)、多くの地区長(9ニダガナ県内のみ)、国民議会議員4名(47名中)、国民評議会議員3名(25名中)と政治の世界ではまだまだ女性の占める割合は少ない。
次に雇用情勢を見てみると詳しくは第11章雇用情勢にあるが、労働人材資源省の統計資料によれば、2015年度ブータン全体の労働人口(15~64歳)は約35万3000人、失業者は約8600人、失業率は2・3%である。特に都会に住む女性の失業率は28%である。
また、労働人口全体で見ると就労している女性の70・7%は自営業(農業を含む:営農者は59・3%)に従事しており、7・O%が農業以外の家事手伝い主婦を含む)、3・2%が非正規雇用、17・8%(2017PHCBでは25・O%)が定期的に収入を得ることのできる職業に就いている。
2017年PHCBレポートによれば、都市部に居住する女性労働人口の59・6%が定期的に収入を得ることのできる職業に就いており、農村部では11・8%しかいない。また自営業(農業を含む)の割合は都市部では22・8%に対して農村部では68・3%とある。このように農村部の女性の現金収入への道が開けていないことが問題として推測できる。
2014年にSNVがサムツィ県、ワンディ・ポダン県、サハドゥプ・ジョンカ県の3県にて行ったジェンダー調査レポートによれば、水汲み、家族のケア、便所掃除、子供を風呂に入れる補助、洗濯は女性の仕事とされ、家族の祖母、母、娘の日常の家事労働と位置付けられているとある。
また家庭内の意見に関して意思決定は男性(家長)が行い、地方政治の県レペル、地区レベル、村レベル、集落レベルの何れにおいても男性がリーダーシップを取地域の集会への参加率は高いものの意見はなかなか言えない状況にあるとの記述がある。
プナカの友人宅の主婦の一日を見てみよう。一日はお祈りから始まる。朝5時に起床して、食事の支度(米を焚く)事から始まる。そして仏間に行き、数十個もある聖水の交換をする。そして朝ご飯の支度とともに昼食分の弁当を作る。
食事が終れば、田んぼに出る。日中、農作業をして、夕方5~6時ごろ家に着くと、夕食の支度を始める。そして8時ごろには夕食を食べ、片付けをする。ブータンでの家事の多くは手作業のため息つく暇もないくらい忙しい。
米を炊くのも米の中にあるゴミや石、虫等を丁寧に取り除き、炊飯や洗米に使う水を外の水場から汲み、火をおこし、ようやく米を炊く。家事は一つひとつ手間が掛かるのである。
また、ブータンの女性が世帯主の割合を見てみると、多くの文献は「ブータンは婿入り婚」であると明記しているが、西と東では多少事情が違うようである。下表のようにヽ、世帯主はおおむね南部や東部に行くほど男性になっている。南はネパール系が多いことが理由として考えられるが、東に関しては、元々婿入り婚ではなかったと考えるほうが自然である。
しかしこの5年ごとに調査される統計資料においては、世帯主に関わる記載が2012年は女性が世帯主の割合が農村部では34%に対し都市部では19%、ルンツィ県、プナカ県、トンサ県での割合が非常に高いと記述するのみで、2017年にはこの調査結果は公表されなくなった。
近年問題になっていることに既婚女性に対する配偶者からのDV(家庭内暴力)がある。筆者の職場の運転手は離婚を経験しており、一緒に出張に行っても一切お酒を口にしない。その理由を聞くと「以前よく酒におぼれて妻を殴っていた。もうこんなことは繰り返さない」と言った。保健省が妊娠から出産、子育てに至る(ンドブックを作成したが、その中にも酒におぼれて家族を殴る父親の姿が描かれている。
ブータンのNGOであるRENEWの調査によれば、2016年に報告されたDVケースは312件、この内の94%が女性からの相談であった。
以前、同じ職場で働いている女性が顔を真っ赤に晴らして出勤してきたことがあり、彼女にその理由を聞くと「夫に殴られた」らしい。暴力の原因はストレスだという。閉鎖的、なおかつ階層が厳しい社会、しかも面積が狭いため(多くの町は狭い谷にある)、逃げ場がない。そのため弱者がより弱者に対してストレスの発散をしてしまいがちである。
ブータン社会は離婚に寛容で、離婚をしても社会から白い目で見られることもなく、多くの場合比較的短い期間で再婚する。ステップファミリーの比率も日本より遥かに高いのであろう。
離婚をしても家族が子供の面倒を見るので、「子供がいるから自分のやりたいことができない」ということはなく、結構自由気ままに振舞える。
ブータンの主婦は幸せなのであろうか。西洋の文明社会の視点で見ると、決して幸せとは言えない。しかし、過酷な状況の中で、彼女たちは自分で自分を励まし、笑顔で日々の労働に勤しんでいる。またその彼女たちを支える大家族があることもあって、主婦は家族の一人一人に安心感を与えることができる。

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