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「プリンセス・ダイアナ」扉をたたく

『「プリンセス・ダイアナ」という生き方』より 扉をたたく
一九九六年ごろから赤十字社との活動を通じて始まった地雷撲滅キャンペーンは、ダイアナの最後の、そして最大のプロジェクトだったといっていいだろう。一九九七年一月から亡くなった八月までの八ヶ月間、ダイアナは地雷問題に専心した。伝承によれば、ダイアナがもっともこころを痛めた現実が、この人間によって生み出された「悪魔の武器」のもたらす惨状だったという。
日本語に翻訳されたダイアナについての書籍のなかで地雷に関するダイアナの活動を扱っているものは多くない。だが、ダイアナにとって、この活動は文字どおり命を賭けた活動だった。しかも、元英国皇太子妃の彼女が、イギリス国家と対立しかねない活動でもあった。そのためパリの事故死の背後には、この地雷の問題があったと憶測する者も少なくない。
地雷の歴史を簡単に確認しておこう。
初めて地雷が用いられたのはアメリカ南北戦争(一八六三~六六年)だ。震動に感応する信管をつけたこの特殊な爆弾は、相手が誰であろうと突然爆破するだけでなく、致死性に加え、重症の仲間を抱える周囲の兵士の物理的・精神的苦痛を引き出して戦意を喪失させる効果も十分にあったため「悪魔の兵器」と恐れられた。
二つの世界大戦、そしてベトナム戦争を経て、地雷の状況、仕組み、使用方法、品質が変わり、地雷の戦術的効果は飛躍的に高まった。また、製造方法が簡易になるにつれ、安価で大量に製造されるようにもなった。さらに、交戦中の敵や取り残された一般人までを地雷で取り囲んで補足することが可能になり、老人や子どもまでが巻き込まれるようになった。
地雷のいちばんの問題は「簡単に作れて探知や撤去が困難」という点にある。世界では六四ケ国に計一億一〇〇〇万個以上もの地雷が埋設されており、そのうち年間に除去されるのは一〇万個程度に過ぎない。つまり、年に二万五〇〇〇人、一日で七〇人近い人が被害を受けていることになる。しかも、その多くが戦争と直接関わりのない主婦や子ども、老人なのだ。
その残存性に加え、無差別であるという点で地雷は非常にむごい。戦場になった地域では、家や池の周り、通学路にいたるあらゆる生活空間で主婦や通学途中の子どもが犠牲になっている。しかもこうした地域で暮らす人々の多くは貧しく、地価の高い安全な土地に移ることができない。安全で、交通の便がよく、平坦で使いやすい土地は一部の富裕層に買い占められているために、貧困に苦しむ人々ほど、地雷原と隣り合わせの生活を強いられている。
多くの地雷被災国は社会インフラが乏しいため、被爆者が事故現場から病院にたどり着くまでの時間は、平均一二時間ともいわれている。医療施設や医療従事者の数が限られている地域では、病院に到着しても命を落としてしまうことが多い。運よく助かっても、治療費の問題が待ち構えている。けが人を抱えた家庭は、働き手が減り、手術や薬代などの出費がかさみ、さらにその介護にあたることで収入が減るという悪循環に陥ってしまう。
義足一本手に入れること自体、経済的に容易ではないが、義肢を使っての不自由な生活は一生続くのだ。大人であれば一~二年に一度の交換が必要だし、成長期にある子どもの場合は、伸びる骨や傷口の処置を含め、年に三回も義肢を作り替えねばならない。幼い子どもにとっては耐え難い苦痛との闘いが続く。
一九九六年五月にユニセフ親善大使として旧ユーゴスラビアを訪問した女優の黒柳徹子は、無差別の非人道的な殺戮を可能にする地雷により多くの子どもたちの命が犠牲になっている状況について怒りをこめて振り返っている。彼女が訪れたボスニア・ヘルツェゴビナ南部の町モスタルの有名な美しい古い橋は砲撃によって破壊され、「MINE(地雷)」と書かれた黄色のテープが張られていた。そこには、当時で三〇〇万個、旧ユーゴスラビアでは一〇〇〇万個を超える地雷が埋められていた。膨大な費用がかかる撤去作業は遅々として進まず、住民は農作物を作れず、子どもたちは遊び場を奪われていた。黒柳を戦慄させたのは、意図的にお菓子やチョコレート、ぬいぐるみやヘリコプターの玩具に似せた形で作られた地雷の存在だった。子どもたちをおびき寄せるようにばら撒かれた地雷が奪うのは、何の責任もなく、抵抗もできない無邪気な子どもの命だけではなかった。地雷は、子どもたちの生きる希望をも破壊していた。
黒柳が旧ユーゴスラビアを訪問したちょうどその年、地雷撲滅運動の歴史に大きな転機が訪れようとしていた。地雷が民間人に対して無差別に使用されることはすでに禁止されていたが、主に国家間の紛争が対象で、地雷がいちばん問題になっている国内紛争や内戦には制限条約が適応されていなかった。また、プラスチック製の探知できない地雷を禁止していない、地雷の譲渡や移転に関する管理条項がない、条約の遂行および監視手段がない、といった欠点があった。そこで一九九七年末までに、賛同国だけででも対人地雷全面禁止条約を結ぶことがカナダ政府を中心に提唱され、その後の地雷撲滅活動は急速に展開した。
ダイアナが地雷撲滅活動に関与したころはちょうど全面禁止に向けて各国が動きだしたころだった。一九九七年一月、ダイアナはアンゴラの地雷原に立ち、対人地雷の廃絶を訴えた。ヘイロー・トラスト(英国の慈善団体、非政治・非宗教のNGO)の要請を受けたダイアナは地雷の埋められている場所をゆっくりと歩いた。怖くなかったといえば嘘になる。でも信じるしかなかった。ダイアナが地雷の眠る草原を歩いた映像は、世界中に流れ、人々に大きな衝撃と勇気を与えた。
ダイアナの参画によってこの運動は決定的に変容した。この年の五月に発足したイギリスのブレア内閣とフランスのジョスパン新内閣は対人地雷政策の転換を発表した。ベルギーのオタワプロセス「ブリュッセル会議」では予想を上回り、九七ケ国が署名した(このときの日本はオブザーバーに過ぎなかった)。以前は「地雷キャンペーンはどうにもならない状態」で、広告メディアやまじめな新聞雑誌などに真剣に応対してもらうことがきわめて難しかったようだが、そこにダイアナが登場したことで地雷をめぐる光景が一変した。「ダイアナの活動によって世界中の人々の多くが地雷禁止に意識を向けるようになったのです。……実際的な面でも感情的な面でもそれが大きな問題として認識されるようになりました。そして互いに手を取り立ち上がることで何かができるとわかったのです」と当時、英国の海外開発大臣に就任したクレア・ショートは語っている。
ダイアナに同行したジャーナリストのクリスティーナ・ラムは、ダイアナに「あるもの」を見たという。それはノーベル平和賞受賞者で元南アフリカ共和国大統領のネルソン・マンデラにも見えたもので、「それは人々に彼女のそばにいたいと願わせるようなオーラのようなもので、生きる望みも失った人々にさえ希望をもたらそうとする、心の底からあふれ出たまったく自然な感情」だという。当初、彼はダイアナが自己宣伝を目的に来たのだろうと疑ってかかっていた。そしてその先入観は見事に裏切られた。ジーンズ、白いシャツ、それにノーメイクで現れたダイアナは「この仕事への決意を胸に私は来ました」語り、戦場という戦場を知り尽くしたジャーナリストたちの度肝を抜いた。アンゴラでは目を覆いたくなるような光景が延々と続いていた。手足を失ったり、頭を半分飛ばされたりして骨と皮ばかりに痩せ細った患者たちをはじめ、第三世界の窮状を取材し続けてきたラムでさえ見るに堪えなかったという現場で、一度も目をそらせることなく、ダイアナは活動を全うした。
とはいえ、ダイアナ自身、このアンゴラ訪問で相当のショックを受けていた。貧しい地域では珍しくないこととはいえ、医薬品の不足、衛生状態の悪さ、水不足に頭を抱えた。戸外で遊ぶ子どもが無差別に重症を負い、生きる夢を奪われることが日常茶飯事に起きる現実を前にして、絶望と怒りと恐怖を感じずにはいられなかった。
アンゴラ訪問後、ダイアナは方々の扉を叩いた。地雷反対キャンベーン活動に加われるチャンスがあれば、どこにでも駆けつけ、この問題を訴えた。スピーチの特訓も何度もした。ダイアナの演説を実際に聞いた地雷生存者は、「私は『この女性はよくわかっている』と思いました。……月並みな常套句を並べたスピーチはたくさんあります。それまでにも善意に満ちた素晴らしい活動家や政府関係者などのスピーチを数多く聞いてきました。しかしダイアナのスピーチにはその核心をつかみ人々に力を与えるような思いやりがあった。被害者を軽視するようなところはありませんでした」と振り返る。
これはヒューマニズムに基づいた個人的活動であり、政治的立場を示す意図はないとダイアナが何度強調しても、彼女の活動に批判的で非協力的な意見も相次いだ。その背景については、シモンズの本が詳細に伝えている。それによると、ダイアナはアンゴラやボスニアのような地域の地雷拡散に関わり利益を得た英国政府の高官や企業名をつかんでいたようだ。そしてその名前を「不幸から得る利益」という報告書に掲載するつもりでいたという。シモンズは続けて次のように綴っている。「英国の国防産業はアメリカについで第二位の規模を誇り、全武器販売の二五%を占めた。三四万五〇〇〇人の従業員を擁し、年間取引高は一七〇億ポンドにのばった。この巨大な政府支援の商業複合企業体にあたりダイアナはかなりの権力者たちと対立しており、アンゴラから帰国すると彼らから非難を浴びた」。匿名の恐喝電話が、ダイアナにしばしばかかってくるようにもなった。
一九九七年九月、ノルウェーのオスロで「オタワ条約内容検討会議」が開催された。会議に参加する予定だったダイアナは、その前日にパリで交通事故に遭い、非業の死を遂げた。同会議は、ダイアナ妃への黙祷で始まった。
ダイアナの死を受けて、オタワ会議での対人地雷禁止条約署名を求める動きが加速した。ダイアナを悼む気持ちが、禁止条約の批准に向かわせた。そしてこの年の「ノーベル平和賞」は、ICBL(対人地雷禁止国際キャンペーン)とそのコーディネーター(当時、現・ICBL国際大使)であるジョディ・ウィリアムズに授与された。

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人間の営みとしての政治

『政治哲学概説』より 政治の意味--アレントを基軸に
政治的なものの発見
 ハンナ・アレントが範例となる政治概念を提示できたのは、彼女自身が20世紀の惨禍のなかを生き抜き、そこから政治を捉えなおした政治理論家であったという事実と、彼女自身が「ドイツ哲学の伝統の出身」だと述べているように、深い人間理解に基づいた政治理論を展開しているからである。
 アレントの歴史認識を示す、1951年に公刊された最初の主著『全体主義の起源』は、何よりもナチズムの恐怖が残るなかで書かれたものである。彼女の政治哲学のユニークな点は、その基底に20世紀の激動を生き抜いた自らの体験が潜んでいることと、公的活動としての政治の原像を人間の歴史的経験を遡ることによって明らかにしていることにある。
 アレントが「地上の地獄」と形容したのは、強制収容所の現実であり、人間を操り人形のように作り変える実験のことである。このようなことを可能にした政治体制は20世紀になってはじめて現れたのであり、彼女はその先例のなさに注目している。アレントは、全体主義体制の特異性を、①ヒトラー、スターリンを全能とする指導者原理、②秘密警察、強制収容所というテロル(恐怖支配)の手段、③人種主義、共産主義というイデオロギーに見いだしている。全体主義体制においては、政治は特定のイデオロギーを実現するための手段と化すのである。
 アレントが全体主義の本質をテロルに求めるのは、テロルによって人びとの間の関係が破壊され、人間生活の全面に及ぶ全体支配が可能になるからである。秘密警察を執行機関とするテロルは、住民の間に不安、恐怖を生み出し、密告の恐怖が人びとの間の関係を猪疑心に満ちたものに変える。アレントが全体主義支配に見て取ったのは、政治的なものの破壊である。テロルが破壊しだのは、「人びとの間にある空間」、すなわち人びとが自由に動き回ることのできる空間である。アレントの全体主義論は、このようなテロルの現出につながっていった諸要素をヨーロッパ社会のなかに見いだし、解明する試みであったが、そこには彼女が生きた時代の政治的現実が投影されている。つまり、政治は極限状況において人間の生命をいともたやすく否定できることを、今世紀に現れた全体主義体制が証明したのである。全体主義体制において、自然法則や歴史法則は大量殺害を正当化する法則として機能したのである。つまりアレントは、政治の極限に暴力が潜むこと、強制収容所という実験室のなかで人間が変形された事実を指摘している。政治の極限に潜むのは、あらゆる多様性を具えた人間を画一化していくメカニズムなのである。
 しかし、特徴的な点として、アレントは、全体主義支配が否定したものを反転させて。政治的なものの本質を挟り出していったと言えるのである。彼女は、すでに『全体主義の起源』のなかでアリストテレスに遡り、ことばをもつ動物としての人間の政治性を主張している。彼女は、ことばを暴力と対置し、政治の極限に暴力があることは認めるが、それを政治の本質とは見ず、政治本来の姿を全体主義という陰画の裏側から浮き上がらせている。
複数性と人間らしさ
 アレントは、全体主義を体験することによって、すなわち多様な管理をもちうる人間を一者化する政治のメカニズムを身をもって知ることによって、その対極にあるものとして、人間の複数性(plurality)を強調している。
 複数性とは、一つには、一人ではなく複数の人間が地上に生きているという事実を表している。それは、「地球上に生き世界に住むのが一人の人間ではなく、複数の人間である」という単純な事実をまず認めるということである。もう一つには、人間が、それぞれ異なっているという事実を表している。つまりそれは、「私たちが人間であるという点ですべて同じでありながら、だれ一人として、過去に生きた他人、現に生きている他人、将来生きるであろう他人と、決して同一ではない」という事実の承認から成り立っている。人間の複数性とは、まったく同じように感じ、考える人間は過去・現在・未来を通じていないという意味で、一人ひとりがかけがえのない存在でありながら、すなわち唯一性をもちながら、他者と意見を交換し、理解し合い、共感し合うことができるという、ほかの人びとの共通性も具えているという逆説的な性格のことを指している。
 アレントは、「生きる」というのがローマ人にとって「人びとの間にある」(interhominess esse)ということ、「死ぬ」というのが(人びとの間にあることを止める」(inter hominess esse desinere)と同義であったことを強調しているが、このような「間にある」ということが人間の生を規定しているとしている点で、「人間の本性」の規定を求めた近代政治理論とは対極にある。アレントは、人間を斉一的に捉える哲学の伝統に反旗を翻し、むしろ人間に共通に見られ、人間を条件づけている、複数性、出生と可死性(誕生と死)、世界性といった「人間の条件」に注目している。この点でアレントの政治理論は、人間のあり方を探究した哲学者の政治理論とは異質な、人びとの間にあること自体に価値を置く新しいかたちでの哲学的思考様式、すなわち「複数性の哲学」として展開されている。アレントは、(プラトン哲学の影響によって曇らされ歪められたと彼女が考えた、〈複数性〉の伝統の再生に乗り出した」と言われるように、モンテスキューやトクヴィルら人間の政治的経験に即して思考した著述家の考察をもとに政治を人びとと協力して活動することと位置づけるのである。しかし、そうだとしても、「間にある」ということの積極的な意味はどこにあるのだろうか。
 「間にある」ということは、アレントにとってことばと行為によって他者と結びついている状態を指している。別の言い方をするなら、語り合いと活動によってつくり出され、維持される人間世界のなかにいるということでもある。アレントは、語り合いによって形成される人間性のことを「人間らしさ」(humaneness)と呼び、「人間らしさとは感傷的であるよりもむしろ落ち着いた冷静なものであるべきこと」と理解している。それは、語り合いや討議のなかで形作られる態度や振舞いである。アレントによれば、「われわれば世界においてまたわれわれ自身のなかにおいて進行しつつあるものを、それについて語ることによってのみ人間的にするのであり、さらにそれについて語る過程でわれわれは人間的であることを学ぶのです」。つまり、「人間的である」ということは、実際に人びとの「間にある」ことによって形成されていく態度にほかならない。
世界概念の多義性
 人間自身が人びとの「間にある」存在であると同時に、アレントによれば、世界こそが「間にある」ものなのである。アレントの政治理論の中心点は「世界」概念にあるのだが、この場合の世界とは、共通の関心であり、共同事業である。アレントは、「世界は人びとの間にあり、この〈間にある〉ということは、(しばしば考えられているような)人びとあるいは人間といったもの以上に--今日最大の関心事であり、また地球上のほとんどあらゆる国において最も大きな変動を蒙っているのです」と述べている。
 一方で、アレントは「人と人との間の関係としての世界」という意味ででも世界ということばを用いている。これら二つの「世界」は相互連関していることに気づくべきである。すなわち、共通の関心があるから、人びとは集まるのであり、そのようにして集まった人びとの間には人間世界が形成されるのである。アレントが世界の変容というのは、大衆社会状況において人びとがバラバラに切り離され、直接語り合う空間、共同で行為するための場が失われている状況を指している。しかも、これらの場は、古代ギリシアのポリスにおけるよ引こ、日常的に確保されねばならない。
 アレントによれば、世界は「政治のための空間」である。誰でも、世界に関わることによって、自分の生命を超えるものを残すことができる。世界は、人が生まれる前から存在し、死んだあとも存在する。この意味での世界とは、大地であり、自然であり、人類社会総体である。アレントが実存的情熱としたのは、「世界への愛」であり、束の間の時を生きるにすぎない人間が、信頼できる仲間と協力して活動することによって、自分が生まれたときよりも「よりよき世界」をあとから生まれてくる人たちのために残していくことである。このような視座は、彼女が現象学、実存主義、批判的理性という同時代の哲学と出会い、ポジティヴなものを汲み取ろうとしたからもちえたものであり、彼女の政治理論の基底にある人間理解にほかならない。
活動としての政治
 アレントの政治理論が包括的に示されているのは、『人間の条件』においてである。この著書のなかで彼女は、古代ギリシアにおける市民の政治的経験に依拠して、政治をことばと行為による公的な営みと理解している。というのも、政治生活という言葉に明らかなように、ポリスの市民にとっては政治は生活の一部であり、彼らは対等者としてポリスの共同事業に参加していたからである。 アレントは、『人間の条件』のなかでアレントは、人間の活動生活を支える行為形態を次の3つのレペルで理解している。
  労働--消費を目的とするものの生産
  仕事--永続性のある作品の制作
  活動--ことばを介して他者と協力し公的な事業に関わること
 仕事と活動は世界性があるが、労働は世界性を欠如している。労働は、生命の維持のため強いられて行なう営みである。「労苦」という言葉に結びついていたように、苦しい、単調な作業である。「額に汗する」喜びもあり、人びとと協力して行なうという側面もあるが、消費したらなくなるという虚しさが付きまとう。仕事は、孤独な作業だが、作品を完成させたときに充実した喜びを味わうこともできる。芸術作品のように、不朽の作品を創造することも可能である。活動の過程において行為者は自己のユニークさを発揮し、卓越への欲求を充足させることができる。しかし、記録や物語にして残さないと、あとに残らないので、活動は仕事と結びつく。古代ギリシアにおける政治活動がその純粋な型であり、他者の存在を絶対の条件としている点で、ほかの二つの行為形態とは違う。プラトンに始まる政治哲学の歴史は、一つの青写真に照らして現実をつくり変えようとして、政治を目的の達成のための手段としてしまった。このような「政治の仕事化」には、暴力の正当化という問題が付きまとう。アレントにとって、政治は、他者と協力して活動することにほかならず、それ自体、価値がある、人間の営みなのである。彼女は、政治を活動として位置づけることによって、市民を基底にした政治を構想する方途を示したと言えよう。

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現代民主主義の課題

『政治哲学概説』より 民主主義の思想原理--古代から現代へ
 1970年代以降、政治学においては、参加民主主義論、ラディカル・デモクラシー論、熟議民主主義論が、議会制民主主義の正統性に挑戦したり、補完しようとしたりしてきた。実際にも、住民投票や国民投票の制度化や市民の直接参加による異議申し立てに見られるように、直接民主主義的な観点から、代表者が権力を行使するという代表制議会の原理自体にさまざまな挑戦がなされてきたとも言えよう。とはいえ、議会の制度や思想には「討論による政治」というポジティヴな側面があるので、議会は、いかなる形態をとるにせよ、人びとが絶えざる意見交換と説得の過程によってよりよき決定に到達しうるのだという理性的自己統治に対する信頼に基づいていなければならない。
 公共性と市民社会
  ワイマール期のドイツで青春時代を過ごしたアレントにとって、デモクラシーは独裁につながるものであり、近代性を批判し、古代ギリシアに遡って政治の原義を求める必要があった。アレントは、古代ギリシアの民主政に隠されたイソノミアという理念を探り出し、人びとが直接討議し、行為する空間である公的空間を復権させようとしたのだが、このようなアレントの問題関心は、ユルゲン・ハーバーマスに引き継がれ、ハーバーマスの社会理論は現代の公共性論や市民社会論の基礎となった。
  アレントやハーバーマスの思想は、現代における民主的な政治社会形成に大きな影響を与え続けている。たとえば、伝統的な政治概念のなかでとくに近年大きな転換を見せたのは、公共性の概念であり、この転換をなしたのが、ハーバーマスの「公共性の構造転換」(1962年)だったからである。日本国憲法においても日常語でも、公共性の概念は国家と結びつけられて理解されてきたが、1970年代以降、市民運動や市民活動の定着とともに公共性とは、市民がつくり出し、国家を突き抜けていく価値理念(環境、平和、人権)と深く結びついていることが次第に理解されるようになっていった。また、公共性は、公共圏、すなわち「公的な論議の圏」としても理解されるようになり、市民社会における市民相互のコミュニケーションの空間として捉えられていくようになった。
  ハーバーマスの『公共性の構造転換』は、18世紀の市民社会に特有の(公共的コミュニケーション」を「市民的公共性」として概念化した書である。ハーバーマスが(で)ffentlichkeit (公共圏、公共性)という用語で表したのは、空間的概念であり、公共圏と訳すほうが適切だということになってきたが、共和主義の視点から見れば、公共性とは公共精神をも指すことばであり、ハーバーマスの公共性概念にもそのような契機は内在していると言えよう。
  ハーバーマスは、公共性の構造転換を代表的公共性→文芸的公共圏→市民的公共圏→大衆社会における世論操作、というように理解しているのだが、絶対主義体制において国王が国民全体を代表するという意味での代表的公共性は精神的次元を含む概念である。文芸的公共圏とは、演劇や小説の内容について論議する公衆の圏であり、サロンやカフェがその舞台となるのである。人びとが分け隔てなく出会い、意見を交換する空間が形成され、次第に政治的な問題についても討議し、行動する市民がコミュニケーションの圏である公共圏を形成していくようになった。こうして市民的公共圏が下から形成されていくようになるが、20世紀になり、メディアが発達し、大衆社会化していくと、市民はメディアによって左右されやすい受動的な存在になっていく、という理解である。
  ハーバーマスの議論で重要なのは、「論議し行動する市民」が民主主義を下から支えていくという認識である。このような認識は、ハーバーマスがアレントから継承し、1990年代からの市民社会論の再興にもつながっていくのである。ハーバーマス自身も『公共性の構造転換[第2版]』(1990年)の序文で。自発的結社を基底にして市民社会を捉えなおしている。脱経済化・脱国家化した第三の領域として形成されていく市民社会が多元的で民主的な政治社会を下から支えていくというハーバーマスの認識は、市民社会がもつ潜在可能性を明確化している。もう一つ重要な点として、対等な市民同士の意見交換や情報伝達というコミュニケーション機能がもつ意味である。民主主義において重要なのは、決定に至る過程だとしたら、対等な市民が自由にコミュニケーションできる空間を拡げていくことが、さまざまな重要問題を市民の側から創造的に解決していくことにつながるからである。
 ポピュリズムに抗して
  1990年代以降の急速なグローバル化によって資本主義が世界的な規模で拡がり、市場化が起こり、従来は非市場的な領域であった福祉や教育の分野においても市場原理が浸透してくるようになった。その結果、社会の画一化・規格化が進み、民主的な社会の基底が揺るがされるような事態が生じている。つまり、新自由主義的改革のなかで民主政治自体も商業的なメカニズムによって動かされる傾向が強くなっているのであり、近年の日本政治において起こったのは、国民の支持を失った首相が目まぐるしく交代し、政治家はメディアを利用することによってポピュリズムとか劇場型政治と呼ばれる政治状況を現出したことである。
  ポピュリズムとは、民衆の不満や不安に応えようとする直接民主主義的な政治運動を指すことばであり、イギリスの政治理論家、マーガレット・カノヴァン(Margaret Canovan、 1939-2018)が(ポピュリズムはデモクラシーに影のようについてくる」と表現したように、民主主義の一つの側面を表している。ポピュリズムは世界的な現象になっているが、小泉純一郎や橋下徹に見られた、日本のポピュリズム政治は「マスメディアによる世論の喚起・操作に大きく依存した政治」になっており、ポピュリスト的政治家は、自ら一般国民を代表する「善玉」を演じ、行政機構や官僚を「悪玉」として攻撃する「勧善懲悪的ドラマ」を演出するところに特徴があった。
  現代の日本社会は、経営管理される傾向を強め、ポピュリズム的傾向に陥りやすい。政党は、あたかも商品のように政策や候補者を売り込み、耳触りのよい言葉で有権者のニーズに応えていくという手法をとり、有権者のほうも期待感で政党や政治家を選んでいる。さらには、ガバナンス(統治、管理)ということばがさまざまな分野で用いられているように、対決や異議申し立てによって問題を明るみに出すのではなく、協調・協働による包摂型の社会が目指され、市民活動やボランティア活動においても経営的視点が重視されるようになっている。このような状況のなかで、どのようにして理性的な判断力を具えた市民による民主政治を確立していくかが、課題になっている。
 討議空間の創出
  1990年代以降に使われるようになった熟議民主主義(deliberative democracy)という概念も、市民たちが相互尊重のもとで共通の問題について討議する空間を制度的にっくり、政治的決定を理性的に行なっていくのに役立てようという思想であり、ハーバーマスのコミュニケーション理論の延長線上にある。
  自由民主主義が代議制民主主義という制度的な形態をとり、票や支持の獲得を重視し、集計主義的な量の原理で動かされていくのに対し、熟議民主主義とは、慎重に討議し、よりよい決定に到達するという質の問題を重視していると言える。レファレンダムも直接民主主義の一形態であり、住民投票は「諮問型」の住民投票としてであれ、近年、日本においても注目されるようになってきたが、討論の過程よりも民意の表出のほうに重きを置いた制度だと言えよう。これに対し熟議民主主義とは、共同で討議し、討議の過程をとおして討議に加わった人びとは熟慮し、そのような熟慮と熟議を行き来しながら、よりよき決定を導いていこうという考え方である。
  そのための討議空間は、直接民主主義においても間接民主主義においても、また制度的にも非制度的にも設定できる。熟議は国会などで代表者のあいだでもなされるが、熟議民主主義とは、市民のなかに「ミニ・パブリック」というようなランダムに選出された人びとによる討議空間をつくり、政治的重要課題について議論を交わさせ、マクロなレベルでの決定に反映させていこうという構想である。討議には対立や異議申し立ての要素も含まれ、何よりも討論の過程で互いに意見が変わりうることが重要である。熟議民主主義の思想は、冷静な判断を市民レベルで形成していくことを重視しているのだと言える。熟議民主主義とは、大衆民主主義やレファレンダム民主主義に対立する概念であり、(熟議により聞こえてくる国民の声は、つねに賢く、傾聴に価するものなのである」という考え方であり、討議の過程を重視している。熟議民主主義は重要な政治的問題の討議を職業政治家のみに委ねず、市民にも開いていこうとしており、世論調査や投票ではなく、(市民討議によって代表制民主主義の〈正統性〉を回復する」ことを目指している。

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