goo

アフリカを覆う「中国の影」 加速する経済進出と高まる対中警戒感

『現代中国を知るための52章』より アフリカを覆う「中国の影」 加速する経済進出と高まる対中警戒感
アフリカ人は中国が「最も重要なパートナー」であると考え、アジア太平洋の「最も信頼できる国」と見なしている--。日本の外務省が2017年3月、ケニア、コートジボワール、南アフリカのアフリカ3カ国で実施した対日世論調査(各国とも18歳以上の有権者500人を対象)で、「主役」でありたいと願う日本を図らずも脇へ追いやるような結果が出た。
それによると、「現在の重要なパートナー」「今後の重要なパートナー」「最も信頼できる国」「最も信頼できるアジア太平洋の国」を問う4項目で、中国はいずれも第1位となり、とりわけ「現在の重要なパートナー」(複数選択)では56%の支持を獲得し、2位以下(米国39%、フランス32%、日本28%など)を大きく引き離した。また、「最も信頼できるアジア太平洋の国」(一つ選択)でも中国は52%と断然トップに立ち、2位以下(日本17%、米国14%、ィンド6%など)を圧倒した。中国は伝統的に対アフリカ関係を重視してきたが、近年はその実績を土台に、最後の巨大市場として脚光を浴びるアフリカとの経済交流を拡大させている。活発な投資や貿易、経済支援を通じた中国の存在感の高まりが調査データで裏づけられた格好だ。
第三世界の盟主を自認してきた中国にとって、対アフリカ外交は自国の国際的な威信や影響力を高めるうえで長年にわたり独特の地位を占めてきた。1949年の新中国建国から21世紀の今日までの対アフリカ外交は、大きな流れのなかで見れば、1950~70年代の政治優先の国際主義外交の時代と、1980年代以降の改革・開放を背景とした国益重視外交の時代に区分してとらえることができる。
新中国建国当時、アフリカのほとんどの国はまだフランス、イギリス、ポルトガルなど欧州諸国の植民地統治下にあり、中国との関係は民間交流の形で始まった。時代を画する転機となったのは、1955年4月、インドネシアのバンドンで開かれたアジアーアフリカ会議(バンドン会議)である。会議に参加した中国の周恩来首相はエジプト、エチオピア、リベリア、リビア、スーダンなどの代表と相次いで会談し、特にアラブ民族運動の指導者として脚光を浴びていたエジプトのナセル首相とは再三会談を行った。これが契機となって両国関係は急速な進展を見せ、1956年5月に国交を樹立するに至った。エジプトは中国と正式な国交を持つ最初のアフリカの国となった。
その後、周恩来は1963年12月から65年6月にかけて3回にわたり、エジプト、アルジェリア、ガーナ、タンザニアなどアフリカ11カ国を訪れ、帝国主義と植民地主義に反対し、民族独立闘争を支持するとの中国の基本的立場を表明した。また、周恩来は「中国は対外援助に際して被援助国の主権を厳格に尊重し、いかなる条件も付けず、いかなる特権も要求しない」と言明した。東西冷戦が深まるなかで、中国は「平和5原則」(領土・主権の相互尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存)に立脚しつつ、イデオロギー色の強い国際主義の理想を掲げながら、アフリカ問題に実際行動で関与していった。
1956年のスエズ戦争(エジプトがスエズ運河の国有化を宣言したことから、イスラエルがエジプトに侵入、英仏軍も出兵)に際して、中国はエジプト支持を鮮明にし、資金や物資を供与した。1960年のコンゴ動乱(ベルギー領コンゴの独立直後、ベルギー軍や国連軍を巻き込んで発生した内乱)では、親東側のコンゴ民族運動指導者ルムンバを支持。また、アパルトヘイト(人種隔離政策)を進める南アフリカの白人政権とは政治経済関係を一切持だないと表明する一方、アルジェリア、リビアの民族独立闘争やアンゴラ、モザンビーク、ジンバブエ、ナミビア、南アフリカなどの人民武装闘争に対し、武器供与や軍事訓練を含む支援を行った。
中国が1950年代までに国交を樹立したアフリカの国はエジプト、モロッコ、アルジェリアなど5カ国に過ぎなかったが、計17の独立国が誕生し、「アフリカの年」と呼ばれた1960年以降、中国はアフリカの新興国との国交を相次いで樹立し、対アフリカ関係は緊密度を深めていった。1960~70年代に中国が外交関係を持ったアフリカ諸国は34カ国に上る(ただし、文化大革命期には在アフリカの中国大使館はほとんどが閉鎖され、中国のアフリカ人留学生も祖国へ送り返された。1965~67年にはアフリカ5カ国との外交関係が中断した)。この時期の中国の対アフリカ援助を象徴する事業はタンザン鉄道(1975年に完成したタンザニアのダルェスサラームとザンビアのカピリ・ムポシを結ぶ鉄道)の建設で、1億8900万ドルの巨費が投じられた。
もちろん、中国の対アフリカ援助は、表向きは国際主義の旗を振りつつも、東西冷戦や中ソ対立が激化するなかで孤立を深めていた自らの立場を、第三世界の幅広い支持をとりつけることによって強化しようという外交戦略でもあった。中国がアフリカ諸国との間で結んできた絆は、1971年の中国の国連復帰の際に大きな援軍となり、国連総会でアルハニア決議案の採決が行われたときには、76票の賛成票のうちアフリカ諸国が3分の1以上の26票を占めた。中国の国連加盟後、アフリカでは多くの国が台湾との国交を断絶して中国との関係強化に走り、1979年末時点で中国との国交樹立国はアフリカの全独立国の9割に相当する44カ国に達した。ちなみに、アフリカはラテンアメリカなどと並び、長年にわたって中台外交戦の主要舞台の一つとなってきたが、中国は2016年にガンビアと国交を回復したのに続き、サントメ・プリンシペとも国交を樹立した。2018年5月にはブルキナファソと国交を回復し、台湾が外交関係を持つアフリカの国はこの時点で、エスワティニ王国(旧スワジランド)1カ国のみとなった。
中国の対アフリカ外交は1978年末に始動した改革・開放政策によって重要な転機を迎えることになった。毛沢東時代の政治イデオロギー優先の路線から経済建設を柱とした実利優先の路線へと対外政策の転換が図られ、中国自身の国益を重視する平等互恵の実務外交が主軸となっていった。外部的要因としては、1979年の米中国交正常化、さらには長年続いた中ソ対立が1980年代に入ってから緩和の兆しを見せ、とりわけ1985年にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長が登場し、新思考外交に乗り出して以降、中ソ和解の動きが加速するという国際環境の改善があった。
1996年5月に初めてケニア、エチオピアなどアフリカ6カ国を訪問した江沢民国家主席は「21世紀に向けて長期的に安定し、全面的に協力しあう国家関係」を構築するとの方針を表明し、①誠実に友好に努め、互いに信頼できる「全天候型の友人」になる、②平等に相対し、互いに主権を尊重し、内政に干渉しない、③互いに恩恵と利益を受け、共同発展を図る--など5項目の提案を行った。これによって、実務色の濃厚な対アフリカ外交の基本路線が敷かれ、中国は1998年1月、それまで外交関係のなかったアフリカの地域大国、南アフリカとも国交を樹立した(同国は1990年代に入ってからアパルトヘイトを撤廃し、1994年には総選挙を経てネルソン・マンデラが大統領に就任。長年、台湾と外交関係を結んでいたが、対中国交正常化にともなって断交した)。
中国の対アフリカ戦略で国際的に大きな注目を集めたのは、2000年10月に北京で初めて開催された「中国アフリカ協カフォーラム閣僚級会議」である。この会議には、アフリカ45カ国の首脳・閣僚が参加し、アフリカ諸国の対中債務100億元減免などを盛り込んだ「中国アフリカ経済社会発展協力綱領」が採択された。2006年4月、モロッコ、ナイジェリア、ケニアの3カ国を歴訪した胡錦濤国家主席は、江沢民前政権の路線を引き継ぐ形で、①政治面で相互信頼を強化する、②経済面でウインウインの互恵関係を拡大する、③国際的に互いに密接に協調する--など5項目の指針を提案した。これに基づいて中国は同年11月、アフリカ48カ国の首脳らを北京に招いて「中国アフリカ協力フォーラム北京サミット」を開き、一層の関係強化を図った。
2012年7月の北京での「中国アフリカ協カフォーラム閣僚級会合」では、胡錦濤が今後3年間でインフラ整備などのために200億ドルの融資を行うと表明し、港湾や鉄道の建設をはじめとした、目に見える近代化支援によってアフリカ諸国を取り込んでいく戦略が明確に打ち出された。中国が本気度を見せつけたのは、エチオピアの首都アディスアベバに本拠を置くアフリカ連合(AU)の新本部ビル建設事業である。中国は自ら約2億ドルを出資し、AUのために20階建てビルを「中国からの贈り物」(2012年1月、落成式に出席した彭彭彬・人民政治協商会議主席のあいさつ)として建設した。
習近平政権になってもアフリカ重視の外交に変化はない。習近平は2015年4月、ジャカルタで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議で「広範な分野で多層的かつ全方位のアジア・アフリカ協力の新しい構図をつくりだしたい」と演説し、アフリカとの関係拡大に強い意欲を見せた。さらに、同年汐一月の「中国アフリカ協カフオーラム」首脳会議(南アフリカ・ヨハネスブルク)では今後3年間に優遇借款350億ドルを含む総額600億ドルをインフラ整備などに拠出すると表明したほか、1000万人の人材育成にも取り組む方針を示し、中国の「今言実行」ぶりをアピールした。2018年9月の同首脳会議(北京)でも中国は600億ドルの支援を明言している。
中国にとっては、米国の一極支配を阻み、多極化を進めていくうえで、アフリカ諸国との友好協力関係を深めていくことは重要な世界戦略の一つである。しかし、自国の生存・発展という面で、それ以上に重要度を増しているのは、急速な高度成長にともなって逼迫している資源・エネルギーの獲得、中国産品の新市場開拓といった経済目的だ。アフリカは石油、金、銅、プラチナ、ダイヤモンドなど地下資源の宝庫であり、中国は産油国のアンゴラ、銅の産出国として知られるコンゴ民主共和国など各地で資源開発に奔走している。中国側には「資源分野で中国とアフリカが共同開発を行うことは、アフリカ諸国が資源輸出の多様化、多元化を図るうえで役立つだけでなく、急速な経済発展の一方で資源が相対的に不足するという中国の矛盾を緩和し、国民経済の持続的発展の実現を可能ならしめる」(羅建波『非州一体化輿中非関係』社会科学文献出版社、2006年)との思惑がある。
中国とアフリカとの貿易総額は、1990年代初め、十数億ドルに過ぎなかったが、1999年には65億ドルにまで増大し、2000年には105億9000万ドルと、初めて100億ドルの大台に達した。2016年の貿易総額は1489億6190万ドルと対2000年比で約14倍もの伸びを示している。このうち中国からの輸出総額は61・9%を占めており、約10億人の人口(2050年には約20億人に膨張するとの予測もある)を抱え、年平均5%以上の成長を続けるアフリカ市場の重要性を物語っている。中国のアフリカでの工事請負、労務協力も拡大の一途をたどり、これらの業務関連の在アフリカ中国人数は2016年末時点でそれぞれ16万5080人、6万7438人に上っている。深まる経済交流からは中国がいかに膨大なカネ、モノ、ヒトをアフリカに投入しているかがうかがえる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 改革・開放40... 現代ブータン... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。