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クルドの対「イスラーム国」戦 拡大する領土と膨らむ独立の夢

『クルド人を知るための55章』より クルドの対「イスラーム国」戦 ★拡大する領土と膨らむ独立の夢★
イラク戦争後に悪化したイラクの治安は2006年前後に最悪期を迎えたが、その後徐々に改善し、2010年頃にはかなり落ち着きを取り戻していた。しかし、その後の米軍撤退、隣国シリアでの内乱、当時のマーリキ首相の統治に対する不満に根ざしたデモの拡大などの要因は、再び武装勢力がイラクでテロ活動を活発化させる下地となった。そうした武装勢力のなかでも急速に勢力を拡大していったのが、「イラクにおけるアル・カーイダ」だった。2014年初めにはアンバール県ファッルージャを制圧し、その後同年6月、イラク第二の都市モースルを陥落させたことで、世界に衝撃を与えた。モースルからさらに南へと兵を進め、イラク中部で一定の支配領域を築いた彼らは、「イスラーム国」と改名してカリフ国家の再来を宣言した。
国土の少なからぬ部分をテロリストに乗っ取られるという国難に直面したイラクで、この「イスラーム国」の進撃を歓迎したのが、他ならぬクルドだった。なぜならば、「イスラーム国」がモースル一帯に攻め入ったことでイラク軍が雲散霧消し、それまでペシュメルガとイラク軍の双方が展開していた自治区の南側の土地が、クルドの単独支配下に入ったからだ。そうした土地は係争地と呼ばれており、クルド人住民の他、アラブ人やトルコマン人、その他少数派が混在し、将来的に自治区に併合するか、バグダードが直接統治を続けるか、その帰属が未確定となっていた。2005年に制定された新憲法では、2007年までに住民投票を行ってこの係争地の帰属を決定することになっていたが、フセイン政権下での強制人口移住の是正を伴う複雑なプロセスは困難を極め、長らく棚上げとなっていた。そのことに不満を抱き、係争地の多く、とりわけキルクークはクルディスタンの一部だと信じるクルドにとって、「イスラーム国」の台頭でイラク軍が雲散霧消したことは、キルクークを含む係争地を実効支配する千載一遇のチャンスと受け止められたのだった。
加えて、この2014年夏という時期は、クルドにとってもう一つ重要なタイミングと重なっていた。それは、5月にトルコ向けの石油輸出パイプラインが稼働を開始したことだ。自治区内の油田を開発し、独自に輸出ルートを持つことで、イラク政府に依存しない経済力を持つことが可能になる。それを念頭に、自治政府は2000年代半ばから積極的に国際石油会社を誘致し、トルコ政府との関係を深めてきた。シーア派色が強くイランと同盟関係にあるイラク政府とトルコ政府の関係がぎくしゃくするのと反比例するように、トルコはイラクのクルドと関係を強化し、ついにイラク政府の反対を押し切って、自治区の原油輸出用パイプラインをトルコ国内のそれに接続させた。
イラクにおいて、自治区として大きな権限を手にしていたクルディスタン地域だったが、国家主権はあくまでイラク政府にある。自治政府の活動が天然資源や外交、国防など主権に関わる領域に拡張すればするほど、イラク政府から反発を招いてきた。とりわけ、2010年にイラク首相として再任されたヌーリー・マーリキは、権威主義的な手法で自らの手に権力を集中させることを意図し、必然的に自治の権限を最大限に拡張しようとするクルドと頻繁にぶつかるようになっていた。こうした状況下で、自治区にとってイラクとの最も重要な結びつきは予算の分配だった。逆に言えば、独自の財源を手に入れて、財政的自立が可能になるならば、イラク政府の予算に依存する必要はなくなる。
この独自の石油輸出の実現と、係争地の実効支配の確立は、クルドにとってそれまで非現実的と見られていた独立国家樹立の実現可能性を、飛躍的に高めた。イラク政府に不満があれど、独自の財源や、長年のクルド迫害の歴史の象徴であるキルクークなしでの独立はありえなかったからだ。加えて、キルクーク油田も接収したことで、低迷していた石油生産量の底上げを図ることもできた。自治区の大統領であるマスウード・バールザーニーは2014年7月、BBCのインタビューで「我々はもはやゴールを隠さない」と述べて、独立を目指す姿勢を初めて公にした。
だが、そうして一度は盛り上がったクルドの独立熱は、急速に下火になる。2014年8月に、それまで南進していた「イスラーム国」が北に向けて進軍したことで、瞬く問に自治区とその周辺に展開するクルド兵のペシュメルガも戦闘に巻き込まれていったからだ。米軍の空爆支援を得たことで当初の劣勢を挽回したが、イラク軍から奪った兵器を手に勢いを得ていた「イスラーム国」は、一時は主都アルビールの防衛さえも脅かした。この出来事は、テロリストが支配する領域を「隣国」とすることは危険すぎるという、至極当たり前の課題をクルドに突きつけた。ここから、自治政府もイラク政府同様、対テロ戦を当面の最優先課題とせざるをえなくなった。
その後彼らは、自分たちを、前線で「イスラーム国」と互角に戦える数少ない戦力だと欧米社会に喧伝して、軍事支援を引き出すことに成功した。従来、国際社会からイラクヘの軍事支援は、イラク軍やイラク警察向けに限られており、自治区の防衛を担っているとはいえ、ペシュメルガに最新兵器が供与されることも軍事訓練が提供されることもなかった。しかし、それが「イスラーム国」に対抗するという錦の御旗を得たことで、ペシュメルガもそうした軍事支援に与ることが可能になったのだ。とりわけドイツなど、ディアスポラのクルド人口が多い国は、クルドに対して世論が同情的であるためか、かなり積極的な支援を展開した。米国を中心とする連合軍との共同作戦司令部も、バグダードと並んでアルビールにも設置された。
「イスラーム国」との激しい戦闘で、ペシュメルガの死者は1000人を超えた。これはどの戦死者が出るのは、1980年代に反政府武装闘争をしていた時代以来だ。それでも、その頃のクルディスタンでは戦時下という暗さがあまり感じられなかった。それは、テロとの戦いによって、イラクにおいて、あるいは国際社会において、自分たちのプレゼンスが高まっているという期待があったからかもしれない。
2015年が終わる頃には、クルドが自分たちの土地だと信じるエリアのほぽ全域から「イスラーム国」を駆逐した。その時点でモースルは依然として「イスラーム国」の支配下だったが、かつてはクルド人が多く住んでいたものの、今ではもはやモースルはクルディスタンの一部とは見なされなくなっており、それゆえモースル奪還はイラク軍の手に委ねられた。そして、2017年6月、モースル奪還作戦がいよいよ終盤に入り、イラクにおける対テロ戦争の終結が見え始めた頃、改めてバールザーニー自治政府大統領は、クルディスタンの独立を問う住民投票を9月25日に実施すると宣言した。「イスラーム国」との戦いを奇貨として、係争地の支配を固め、住民投票の結果を盾に将来の独立を前提とした話し合いをイラク政府と開始しようという算段だった。だが、この目論見は大きく外れる。住民投票が強行されたことに強く反発したイラク軍の反撃に遭い、結局2017年が終わるまでにはクルドは過去3年間に実効支配していた係争地のほとんどを失った。クルドにとって「イスラーム国」との戦いとは何だったのか。その総括はまだ始まっていない。

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