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「企業ファースト」が招いた消費の低迷

『家計ファースト経済学』より 消費力が左右する日本の未来 「企業ファースト」が招いた消費の低迷
日本の家計の消費と所得の動き
 日本の家計消費はGDP統計では、2016年が最新の数字ですが、292兆円です。ただし、そのうち50兆円は「帰属家賃」といわれるものです。帰属家賃とは、持ち家について、その所有者が家賃を払ったと仮定して計上されるものですが、キャッシュの動きのない数値です。
 GDP統計に帰属家賃が含まれるのは国民経済計算(SNA)を算出するうえでの国際的なルールに沿ったものですが、市場経済はキャッシュのやりとりがあって初めて成り立つものなので、これはまさに架空の計算です。また技術的な問題です、が、家賃データが整備されていないので、帰属家賃自体の推計も正確さを欠いています。
 ですから、実際の消費の動きを分析するためにはこの帰属家賃を除くのが適切です。帰属家賃分を差し引いた実際の消費額は242兆円です。また消費税を中心にした間接税が28兆円あります。家計が払ったのは242兆円ですが、実際のモノとサービスに対する支出としては間接税を除いた214兆円になります。
 さて、日本の名目GDPのピークは1997年です。消費は280兆円で、財・サービス支出は216兆円です。したがって、1997年から2016年にかけて、モノとサービスに対する支出はむしろ2兆円分減っているのです。ところが統計上は、消費全体としては280兆円から292兆円に増えています。1980年を起点としてみると、1997年までは消費は名目的にずっと増えていて、同年以降はほぼ横ばいで推移しています。まさに、これが「失われた20年」を端的に表した数字であり、その一番大きな要因です。
 なぜ消費が低迷したのか。今度は所得のほうからこの疑問に接近します。こちらのほうも非常に問題があります。2016年の家計所得は350兆円となっていますが、先ほどの帰属家賃が、今度は持ち家の所有者の家賃収入として入っています。これが42兆円になっています。先はどの消費として計上された50兆円とのちがいは修繕費などが差し引かれているため、というのが統計を作成している内閣府の説明です。
 それから、社会負担(社会保険料負担)として雇用主が払う分は、雇用主(企業)の所得から支払われるものですが、国民所得統計上は、これを家計の所得として計上しています。統計上の仕組みなのでやむを得ませんが、所得の実態を反映している数値とはいえないものです。これが41兆円あります。この帰属家賃42兆円と雇用主による社会保険料負担41兆円、合わせて82兆円を引くと、所得は268兆円しかありません。GDPのピーク時である1997年では所得は378兆円ですが、帰属家賃と社会保険料負担を差し引いた実際の家計の所得は309兆円です。これが、2016年には268兆円とピークの309兆円からB%減っているのです。当然ですが、これが、消費が増えなかった最大の理由になります。つまり、所得水準の大幅な低下です。
 さらに詳しく、1980年から直近までの35年以上にわたる実際の所得の変化をみていきます。特にGDPのピークである1997年以降の動きが注目されます。
 一番大きく変化したのが賃金・俸給で、これが245兆円から228兆円に減っています。次に34兆円から15兆円と半分以上減ってしまっているのが混合所得です。混合所得とは自営業者の所得になります。自営業者としては農家が最大で、農家以外の自営業者の所得も急速に減少していることが、所得が伸びないもう一つの理由です。また財産所得が30兆円から24兆円に減っていますが、最大の理由は金利所得が大きく減ったことです。配当収入は増えたのですが、超低金利を反映して金利収入が減ったことが響いています。
 このように、賃金も自営業者の所得も財産所得もすべて減ったのが、この間の問題です。これだけ減った中で消費が横ばいにとどまったのは、消費性向が上昇し、貯蓄率が大きく下がったことを意味しています。
消費を軸にした好循環の実現が必要
 このように、日本では消費、が伸びなかったのですが、その根底には、日本経済全体の見通し難、つまり将来に対する不確実性、不安という問題があるためではないかという指摘がありますが、消費が伸びなかったのは、中国を中心にグローバリゼーションのもとで、安価な製品がどんどん輸入され、製品価格の低下から賃上げが抑制されたことに起因するといえます。
 それは日本だけの話ではありません。日本のほうがはっきり表れていますが、世界的な現象なのです。経済の縮小サイクルから脱却するには、それぞれの国内でいかに消費を増やすような好循環に持ち込めるかがカギになってくるのです。
 企業は、基本的には生産性が上がらないと賃金を引き上げることはできません。企業の生産性を上げるには、法人減税など企業に対するさまざまな優遇措置をとることが必要だという主張があります。しかし企業にとっては売り上げが増えなければ生産性を上げるための投資もできません。
 生産性というのはI人当たりの付加価値額で、生産性を上げるには付加価値額を増やす必要があります。付加価値額を増やすには、売り上げを増やして原材料価格を抑えることが必要です。原材料価格は円高になれば低下してきます。売り上げのほうは消費が増えてこなければ増えません。
 輸出をどんどん増やす時代はもう終わったので、内需を拡大することが最も重要です。そして、内需を拡大するには消費を増やすしか方法がありません。消費を伸ばし、売り上げが増え、設備投資も出てくる、という好循環に持ち込む以外に手はありません。
 いままでのようなゼロ成長ではなくプラス成長に移行するのが第一に重要なことです。最初から3%、4%台の成長を狙ってもそれを実現する方策はありません。むしろプラスの成長を続けることで好循環が生じれば、やがて成長率も加速度的に上がっていく可能性があります。
「企業ファースト」の定着
 では、企業の所得についてはどのような傾向があるのでしょうか。非金融法人企業の所得を整理しておきます。家計とちがって大きく増えています。
 銀行など金融機関を除いた企業の所得は2016年には130兆円となっていますが、先はどの雇用主による社会(保険料)負担は、家計の所得ではなくて事業会社の所得だと考えて、33兆円を企業の所得に含めると163兆円になります。この33兆円という数値は、前に紹介した、家計の所得として計上されている42兆円とちがっていますが、それは、社会保険料を負担している企業には非金融法人だけではなくて金融法人もある一方で、政府も雇用主であることを織り込んで計算するからです。
 この企業所得163兆円ですが、1997年では125兆円ですから、この間30%も増えています。家計所得との対比でいえば賃金が犬がらなかった分だけ企業のほうが儲かったことになります。
 家計に比べて企業の所得が増えたのは、米国や欧州でも同じです。企業所得の内訳でいうと、一番大きかったのは固定資本減耗です。企業による償却です。72兆円から78兆円に増えています。これが一番大きくて営業余剰は58兆円です。営業利益と考えればよいものです。それから雇用主の社会負担があり、一番下のマイナスになっている部分が財産所得です。
 企業全体としては借り入れ超過のため金利負担がありますが、低金利政策のおかげでこれが非常に小さくなりました。この反対が家計のマイナスです。このような事情で、米国の場合も企業の所得が非常に増えています。だから日本だけではないのですが、「企業ファースト」という考え方が21世紀に入り、定着していったのです。
 この「企業ファースト」という考え方の背景にあるのは、先に述べたように、「トリクルダウン」という考え方です。つまり、水滴がしたたるように富の効用が上層から下層にしたたり落ちていく、社会全体に富が浸透し行き渡っていくという考え方です。しかし、この企業と家計の連動性がなかったのがこの20年間の実態で、ポピュリズムを生み出してきた基本はここからきていると考えられます。

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イスラエルの徴兵制

『21世紀の戦争と平和』より
イスラエルの徴兵制--原理主義化の危機
 韓国と同じように徴兵した兵士を最前線に送り込んでいる国に、イスラエルがある。
 この国はほかの多くの国と違って、革命軍の基礎の上に成り立っている。一九四八年、独立宣言の二週間ほど後の五月三十一日に発足した国防軍は、英領植民地時代に結成されたユダヤ人の自警団ハガナーをルーツに持つ。それ以来、建国者の意識を持ったエリート集団と国民が血のコスト負担を分有して、その共和国としての一体性を保っている。
 イスラエル国民になる要件のひとつに、変わった規定がある。ナチスドイツが迫害した定義におけるユダヤ人の血統を持っていること。これは必ずしも生まれながらのユダヤ教徒として認められる要件ではないのだが、迫害されてきた「選民」としての要件を備えていると見なされる。建国者は、離散したユダヤ人の一部にすぎない。けれども、その建国理念は迫害されてきたユダヤ人全体の祖国を創るというものだった。その意味で、ナチスドイツによって消滅させられようとしたユダヤ人の歴史はアイデンティティの核となっている。
 イスラエルは人口が八百六十八万人程度と少ないが、徴兵応召はユダヤ人の男女のみの義務である。アラブ系のパレスチナ人などを中心としたムスリムの国民はその義務を負わない。ドルーズ派という、ムスリムの中でも他宗派から異端視されている少数派だけが、地位向上を求めた結果、兵役制度に組み込まれている。つまり、この国において、兵役はユダヤ国家としてのアイデンティティと極めて密接な関係にあるということだ。そのことには良い部分と悪い部分の両面があるのだが、それは後に譲ることにして、なぜイスラエルではそのような強固な共和国が出来上がったのか、そしてそれは現在も盤石なものなのか、見ていくことにしよう。
貧しかったイスラエル
 今でこそ、ハイテク産業などのスタートアップの集積地として知られる先進国のイスラエルだが、建国当初は貧しさのなかで歯を食いしばってぎりぎりの生活をし、ゲリラのような軍隊に持てる資金のほぼ全てを注ぎ込んでいたというのが実情であった。イスラエルは、社会主義的な経済政策と軍事偏重型の国家運営をしながら、独裁制や寡頭制を採らず、初めから民主主義を選んでいたところにその特徴がある。
 イスラエルが建国されたとき、そこにはソ連から迫害されてきたロシア系移民や、ドイツをはじめとするヨーロッパからの避難民、中東地域にもともと住んでいたユダヤ系住民など、さまざまな集団が入り乱れていた。イギリスからの独立、アラブ諸国との戦争の過程を通じ、シオニズムと呼ばれる思想を中心に政治と軍のエリートが形成されていった。
 先にも触れたが、イスラエル国防軍は自警団(ガナーを基礎としているため、初めからかなりの一体性と秩序を有していた。ゲリラ戦を得意とし、無駄な形式をそぎ落とし、幹部の階級もみな佐官クラスで、政治とも関わらず、プロフェッショナリズムを重視した軍隊であった。イスラエルは、戦う民兵と政治エリートとの関係が当初から秩序だっており、守るべき価値も明確で、軍が国家の防衛に専念していた稀なケースなのである。共同体の存立を支えていたのは、まさにそのような一人一人のイスラエル人の献身であった。
 建国時の最有力指導者であったダビッド・ペントグリオンは労働党を率い、首相と国防大臣を兼ねた。ベン=グリオンら労働党幹部が採った政策は、「第三世界」の貧しい国であるイスラエルを民主国家として構築し、社会主義的経済運営を行い、軍事力を最優先にして周囲の外敵に備えることだった。そのため、彼はアデナウアー西独首相と合意したドイツからの賠償を、ことごとく軍拡とインフラなどの国家建設に注いだ。一九五〇年代になると高齢者年金や医療などの公的保険制度ができていくが、国家建設を優先して、ナチスによるジェノサイド被害者に対する補償を放棄したため、貧しいままに老いる人びとも少なくなかった。それでも、長年にわたる離散民(ディアスポラ)を結集する祖国をつくるという意識から、政府は国民一人一人に献身を要求した。この時期、イスラエルの統治者は被治者と限りなく一体であるという自己イメージを持っていたのだと思われる。
キブツと労働党という主流派
 政府の福祉が充実していなかった代わりに、共同体が社会保障を提供することがあった。その典型例が共同生活を営む集団としてのキブツである。キブツは、結束の固い共同体意識によって維持されてきた社会主義的な村落のことである。プラトンの『国家』が理想とした都市国家を想起させるこの共同体は、イスラエルを象徴するものとして知られ、憧れの念を抱く人も多く、海外からも体験希望者が多く訪れている。だが忘れてはならないのは、キブツで生活する人はイスラエル総人口の数%しかいないという事である。彼らは農業や輸出用製品の製造などに従事し、いわばイスラエル内での分業の一形態を担っているに過ぎない。国家がキブツでできているわけではない。
 しかし、キブツは政治家や軍人などのエリート層の主要な供給源として、より大きな存在感を示している。幹部クラスほど、圧倒的にキブツ出身者が多かった。キブツが軍と労働党に統率力ある若者を供給し続けたおかげで、両者の人的ネットワークは密接であり、イスラエルは国家としての一体性をしっかり保つことができた。
 労働党は、シオニズムを代表する政党である。シオニズムはユダヤ国家建設の運動であり、イデオロギーよりも生存を選び取る世俗的な国家主義だった。クネセット(議会)で労働党の主なライバルだったのは、ヘルートなどの右派政党である。建国以来、イスラエルの右派は経済については資本主義寄りで、政治的にはより急進的なユダヤ主義をとってきた。領土については太古の昔にユダヤ人が居住していたとされる土地全てを傘下に収めようとする拡張主義的な傾向を持っている。彼らは建国期には主導権を握れなかったが、のちにメナヒム・ベギンが率いる野党りクード党のもとに団結して、ペギンは一九七七年に労働党以外からの初の首相の座を射止めることになる。
 さらに、イスラエルには宗教右派勢力も存在する。正統派と最保守の超正統派は、国家中心の世俗主義である主流派の政治に対し、様々なユダヤ教的秩序の尊重を要求した。ただし、建国当初はまだ、世俗的な国家のあり方に正面から異議を唱える宗教家は少数だった。むしろ、国家とは別に宗教という人びとを治める枠組みが存在することを認め、政治が宗教の領分に介入しないように要求したといった方が正確かもしれない。ペンHグリオンは兵役に関する法律を定める上で、ラビを目指す神学生は兵役を免除すると決定した。それは超正統派のユダヤ主義勢力との間で結ばれた妥協だったが、これが後に深刻な影響を及ぼしていくことになる。後述するように、国家主義のなかに宗教を吸収しなかったことが、かえって宗教的秩序による国家そのものへの侵食を許すという結果を生んでしまったのだ。
 ベン=グリオンは、アラブ住民の統治方法を軍政にするか否かをめぐる政争で挫折し、一九六三年に首相を辞任する。建国者であり大政治家のベン=グリオンでさえ、他の政治勢力と競争せざるを得なかったという事実は、イスラエルの民主主義が健全であった一つの証左ともいえる。主流派とそれに寄り添う軍が、抑制的で一体性のある政府を築き、その右側に資本主義と安保夕カ派を唱える勢力が、左側には共産主義勢力が対置され、また宗教右派の勢力が半ば孤立的に存在する。この構図はしばらくのあいだ労働党優位の政治状況を維持するとともに、与党勢力の価値観を健全に保ったのである。
 与党優位の政治が展開する中で、国防軍は国民統合に大きな役割を果たした。軍内では愛国心や、合理性、負担共有を惜しまない精神を共有することができた。プロの軍人キャリアを送る将校たちは、第四代参謀総長を務めたモーシエ・ダヤン(片眼のダヤンと呼ばれる)の思想に従ってゲリラ戦術を実地で習得し、また海外の幹部養成学校への留学を通じて各種の戦略戦術を吸収し、イスラエル独自のエリート的で実務志向の軍のあり方を育んでいった。時折、アリエル・シャロンのように軍を飛び出して右派政党の幹部になっていくような人材も輩出したが、そうした右派さえもキブツと軍の経験を共有していたことで、イスラエルの共和国性は強固に保たれていた。彼らは思想的に右派ではあっても、無責任なフリーライダーではなかったからだ。
 徴兵され、予備役としてまた戻ってくる人びとは市民的価値観を軍に持ち込むという役割を果たし、軍にプラスの影響を及ぼした。戦いに出る前の晩、焚火を囲みながら、下士官の歴史学の教授が大学出の若い少佐に昔の戦争の逸話を紹介し、これからの戦闘において起こりうる過ちについて水を向け、議論が始まるなどということが頻繁に起こったからだ。それは多少なりとも美化された記憶であろうが、キブツや軍務が人びとの基礎的な共同体意識を養う役割を果たしていたことは間違いない。

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伝説にとらわれないマルコム

『マルコムX』より 伝説にとらわれないマルコム
ハーレムのすぐ北に位置し、のちにワシントン・ハイツと呼ばれるようになる一帯は、二十世紀初頭には住む人もまばらな町外れだった。しかし先見の明のある人がいるもので、ウィリアム・フォックスという実業家がブロードウェイ沿いの西一六五丁目と西一六六丁目に挟まれた区画に豪奢な娯楽施設を建てることにした。フォックスは建築家トマス・W・ラムにブロードウェイにあるどんな劇場よりも立派な建物を設計するよう指示し、施設は一九一二年に完成した。建物の正面は高価なテラコッタで飾られ、入り口には大理石の柱が構える。ロビーには異国の鳥の彫刻が施されていた。この色とりどりのモチーフは十九世紀の著名な芸術家ジョン・ジェイムズ・オーデュボンに着想を得たもので、フォックスが自分が建てさせたこの歓楽の宮をオーデュボンと名づけることにした所以でもある。トマス・W・ラムの設計によって一階は二三〇〇人が入る巨大な映画館になった。その後、二階は二つの広い舞踏場になる。ローズ・ボールルームには八〇〇人、もう一方のグランド・ボールルームには一五〇〇人が入ることができた。
その後の数十年でオーデュボンの周辺も様変わりを始め、黒人や労働者階級の住民が増えていった。オーデュボンの経営者も新たな客の要望に合わせ、当時もっとも人気のあったスウィング・バンドらを出演させた。デューク・エリントン、カウント・ベイシー、チック・ウェブなどである。またニューヨークの闘争的な労働組合員の多くがオーデュボンを拠点にし、全米運輸労組は結成直後の一九三四年から三七年までオーデュボンで会合を開いていた。このため暴力的な衝突が起きることもあった。たとえば一九二九年九月のある夜には、四〇〇人以上が参加したランタン・アスレチッククラブ主催のパーティーに四発の銃弾が撃ち込まれ、二人が重傷を負った。
第二次世界大戦中、オーデュボンは結婚式やバル・ミツヴァ、政治集会や卒業記念パーティーのために貸し出された。しかし一九四五年以降には白人中流階級の住民の多くが土地を売って郊外に引っ越していき、オーデュボンのある地域はふたたび様変わりする。コロンビア大学が西一六八丁目とブロードウェイの角にあった病院を拡大して大規模な保健科学キャンパスにしたことで何百もの雇用が生まれ、新たに入ってきた黒人が職を得た。オーデュボンは経済の現実に合わせて映画館を閉め、一階の空間を分割して賃貸した。二階の舞踏場はそのままだった。
一九六〇年代半ばのオーデュボンには完成当時の華麗さはほとんどなくなっていた。舞踏場の入り口は狭く、さえなかった。客は急な階段を上って二階のロビーに行き、管理事務所の脇をすり抜けて建物の左(東)側にあるローズ・ボールルームか、ブロードウェイに面したグランド・ボールルームに入るのである。グランドのほうは長さ約五五メートルに奥行き約一八メートルの広さで、北面、東面、西面の壁沿いに合わせて六五ほどのボックス席があり、それぞれに一二人までが座ることができた。建物の正面玄関からいちばん遠い南面に沿って小さめの木造舞台があり、その裏に狭苦しく薄暗い控え室があって、演奏家や講演者はそこに集まってから舞台に出て行くのだった。
一九六五年の冬、二月二十一日日曜日の午後にグランドーボールルームを借りていたのはハーレムを拠点とするアフロ・アメリカン統一機構(OAAU)という何かと議論を呼ぶ政治団体だった。オーデュボンの経営者は一年近く前からOAAUにグランドーボールルームを貸していたが、OAAUの指導者であるマルコムXについては懸念を抱いていた。マルコムXはその一〇年ほど前、闘争的なイスラームの一派、ロスト=ファウンド・ネイション・オブ・イスラム(NOI)の第七寺院の導師として登場していた。第七寺院はNOIのハーレム本部である。NOIの信者はのちに報道で一般にブラック・ムスリムと呼ばれるようになるが、白人は悪魔で、黒人アメリカ人は失われたアジア系の民族、シャバーズ族であり、人種面の紛糾の地アメリカで奴隷となることを強いられたのだと説いた。救済されるには奴隷時代に与えられた姓を使わず、代わりに未知を示す文字であるXを名乗らなければならない。信者は何年もかけて献身と精神の成長を重ねたところでアジア系である自分の本当の正体と調和する「本来の」姓を与えられると教えられていた。マルコムXはNOIでもっとも有名なスポークスマンで、公民権運動指導者や白人政治家らに対する挑発的な批判を行なって悪名をはせていた。
しかしマルコムXは前年の三月にNOIからの独立を宣言していた。それからまもなく、主としてマルコムに賛同してNOIを離れた信者のために独自の宗教団体、ムスリム・モスク・インコーポレイテッド(MMI)を設立した。NOIと決別してからもマルコムはたいへんな物議を醸す発言をやめなかった。たとえば一九六四年三月には『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者を相手にこう予言している。「今年はこれまででいちばん暴力が起きる年になるだろう。白人は、まだ時間があるうちにこのことを理解するのがいい。ニグロは一団となって行動に出る用意ができている」。これに対してニューヨーク市警察署長はマルコムを「流血と武装蜂起を公然と呼びかけ、適切で平和的で合法なやり方で権利の平等問題を解決しようと真摯に努力する理性的な人びとをあざ笑う自称『指導者』の一人」と決めつけた。マルコムはそんな攻撃にもひるまなかった。「人がわたしにくれうる最高の褒め言葉は、わたしが無責任だというもの。そんな人が考える責任ある黒人というのは、白人の権力に対して責任を負おうとする黒人、つまりニグロのアンクルトムのことだから」
数週間後、マルコムXは何か啓示を受けたかのように見えた。四月に聖地メッカに巡礼し、帰国すると、伝統的なスンナ派イスラームに改宗したと発表した。そしてNOIとイライジャ・ムハマド両方との関係を絶ち、あらゆる形の偏狭に抵抗するのだと宣言した。それまでとは異なり、公民権運動団体とぜひとも力を合わせたい、また黒人アメリカ人を真に支援する白人なら誰とでも協力したいという。しかしそのように言明しながらもマルコムの論議を呼ぶ発言は止まらず、家族を人種差別主義者から守るためにライフルクラブを設立するよう黒人に呼びかけたり、主要政党の大統領候補であるリンドン・ジョンソンとバリー・ゴールドウォーターはどちらも黒人にとって意味のある選択肢ではないと非難したりした。
OAAUの集会の大半は地元住民のための教育の場として企画されており、出席者の積極的参加が奨励されていた。一九六五年二月二十一日の集会の主たる講演者は著名な長老派教会牧師のミルトン・ガラミソンだった。ガラミソンはニューヨークの黒人やラテンアメリカ系住民の居住地域の学校が標準以下であることに対する抗議行動を組織していた。OAAUはこれに直接は参加していなかったものの、マルコムはガラミソンの運動を公に称賛しており、マルコムの補佐役たちもガラミソンと非公式の協力関係を築きたいと考えていた可能性がある。
集会は午後二時に始まると告知されていたが、時間になっても会場にはせいぜい四〇人しか集まっていなかった。集まりの悪さは、人びとが会場で暴力が起きると恐れたからかもしれない。すでに何カ月も前からNOIとその全米スポークスマンだったマルコムとの確執は広く知られており、ハーレムやその他の都市にいるマルコムの支持者が物理的に襲撃される事件が起きていた。つい一週間前には、クイーンズ区のエルムハーストという静かな住宅地にあるマルコムの自宅に夜中に火炎瓶が投げ入れられたばかりだった。公の場で衝突が起きないよう、ニューヨーク市警察はOAAUがオーデュボンで集会を開くたびに最多で二四人の警官からなる班を派遣していた。通常はその日の班長を含めて∵人か二人の警官が二階の管理事務所に詰める。そこからは何にも遮られずにグランド・ボールルームに入るすべての人が見えた。ほかの警官の多くは正面玄関の目立つところや、通りの向かいにある、地元の人たちがピジョン・パークと呼ぶ小さな遊び場に配置されていた。しかしこの日の午後、オーデュボンの入り口には一人の警官もおらず、公園にもたった一人がしばらくいただけだった。管理事務所には誰もいなかった。事実、建物の中には二人の警官だけが配置され、二人ともグランド・ボールルームより狭く、ほかに誰もいないローズ・ボールルームにいるよう命じられていた。集会会場からはかなり離れている。
十分な数の警官がいなかったのは決定的なことだった。というのもその日の朝、何力月も前からマルコムXを暗殺する計画を立てていた五人の男が最後に集まったからである。集まった場所はニュージャージー州パターソンだったが、五人は全員が同州ニューアークのNOIモスクの信者だった。うちモスクの役職に就いていたのは一人だけで、残り四人はNOIの一介の信者だったが、自分たちが実行しようとしていることは当然NOIの指導部に承認されたものだと考えていた。五人はT人の家に集まってそれぞれの役割を最後にもう一度確認してからキャディラックに乗り込み、ジョージ・ワシントン橋に向かった。そしてマンハッタン北部で降り、オーデュボンの近くに駐車する場所を見つけた。そこからならすぐに橋に戻り、楽にニュージャージーに逃げることができそうだった。
グランド・ボールルームの内部や入り口にいた警備班は二〇人ほどのマルコムの支持者だけだった。警備班を率いていたのはマルコムのボディガードだったルーベンX・フランシスで、ルーベンは集会が始まる前、ウィジアム64X・ジョージに対し、その日の警備が手薄になるので手を貸してくれと言っていた。通常は、頼りになるウィリアムが(舞台前方中央に置かれていた)演壇の横に立って観客全体を見渡すのだった。しかしこの日に限ってルーペンはウィリアムにボールルームの入り口に立つよう指示した。舞台からいちばん遠いところに配置されたのである。
ルーペンはまた、警備態勢に関する判断をジョン・D・Xに任せた。ジョンはグランド・ボールルームの周囲に立つ警備員を監督するのが仕事だった。警備員は最長で三〇分間立っているのが通常の決まりだった。観衆を監視する経験のない者にとってはとくにきつい任務である。たいていは元NOI信者がもっとも重要な位置についた。全員が警備の経験があり、武術の訓練も受けていた。NOI支持者として知られている人物が会場に入ろうとした場合には目立たぬよう、しかし容赦なく問いただすことになっていた。また過去に暴力を振るったことがある、あるいはマルコムに対して敵意を持っていることが知られているNOI信者は建物の外に連れ出すことになっていた。

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ライビューで「君僕」「僕のいる場所」

ライビューで「君僕」「僕のいる場所」
 やっと、24日のLVのチケットを手にいれた。席はいつもの一番前の真ん中。今回はウィトゲンシュタインのように思考してはいられない。しっかり、中に入り込まないと! 黄色のスティックはないけど。
 3900円を工面するために、一週間、苦労した。誕生日に奥さんからの3万円を期待していたが、何もなく、過ぎていった。
 今、恐れているのは、日曜日に感じて、ディレイのチケットを買ってしまうこと。そうなると、その後、一週間の昼は128円のカップスターで過ごすことになる。西野はさほど興味がないから、避けられそう。いくちゃんのダンケシェーン次第。
 「僕のいる場所」が残っている。ということは明日、見れるということ!

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