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ヘッドの変更 10.6.1~10.6.4、10.8.1~10.8.4

元町スタバのブラックエプロン
 二人居るとのこと。5158ということは正社員。かなり、最近ですね。駅前の店長は2400でベテランです。
 ブラックの試験は従来、6月だったけど、11月の今が試験みたいです。スタバのプログラムが変わってきているとIさんからは聞いていたけど、シュルツも居なくなり、大幅に変わるのか。日本の良さが潰されないようにしないと。
 シュルツのように、日本の良さをスタバ全体の良さに変える発想ができるかどうかです。あくまでも考えるのは、現場のスタッフ。
 どういう変化が起こっていくのかを注視しましょう。
 スタバが出しているシュトレンはあまり固くなかった。独逸的な感覚に対して、期待外れ。果物も感じられなかった。
10.6.1~10.6.4、10.8.1~10.8.4
 10.6.1 統合の場
  企業・行政活用
  コラボのカタチ
  メディア活用
  活用技術の進化
 10.6.2 未唯宇宙を体現
  社会に提案
  他者に関与
  社会と統合
  宇宙へ展開
 10.6.3 変革提案
  個から変革
  周縁と中核
  家族・教育・仕事
  開かれた世界
 10.6.4 全体が個を含む
  個からなる社会
  シェアード
  超国家の役割
  平和を為す
 10.8.1 独我論
  用意された世界
  哲学・数学・歴史
  宇宙を超える存在
  語らない
 10.8.3 宇宙の旅人
  内なる世界
  他者の世界
  未唯宇宙
  今・ここにいる
 10.8.3 存在の無
  孤立と孤独
  多くの真理
  存在は無に含む
  私は存在する
 10.8.4 どうでもいい
  大いなる意思
  生まれてきた
  存在と時間
  自己肯定
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10.6.1~10.6.4、10.8.1~10.8.4

10.6.1 統合の場
 企業・行政活用
  ①販売店でシステム化
  ②多様な社会実験
  ③地域のシェア活動
  ④市民にアピール
 コラボのカタチ
  ①地域の課題解決
  ②市民の合意形成
  ③高度サービス
  ④信頼関係の確立
 メディア活用
  ①多様なつながり
  ②好き嫌いを表現
  ③デジタル技術の進化
  ④スマホで発信
 活用技術の進化
  ①要望を即時反映
  ②教育改革に参画
  ③回答システム
  ④ECHOで仕事の革新
10.6.2 未唯宇宙を体現
 社会に提案
  ①企業存続条件
  ②商売ルール
  ③グーグル20%ルール
  ④町全体をデッサン
 他者に関与
  ①都市住民の意識
  ②大規模な改革実験
  ③多様なメディア
  ④持続可能性
 社会と統合
  ①サファイア革命
  ②地域共同体
  ③知の世界を実現
  ④平等社会
 宇宙へ展開
  ①ネットの活用
  ②新しいインフラ
  ③知による世界征服
  ④市民の武装化
10.6.3 変革提案
 個から変革
  ①中間の存在の意味
  ②上下方向につなげる
  ③個からの要望実現
  ④存在の力を発揮
 周縁と中核
  ①非連続領域を回避
  ②周縁から変革
  ③中核に向かう
  ④フィードバック
 家族・教育・仕事
  ①内なる世界で確認
  ②順繰りに変革
  ③思いをカタチに
  ④変革の連鎖反応
 開かれた世界
  ①宇宙からの視点
  ②宇宙を感じる
  ③ソーシャル接続
  ④境界は開閉状態
10.6.4 全体が個を含む
 個からなる社会
  ①柔らかな統合
  ②個の多様性を生かす
  ③地域主体の政策
  ④コミュニティ連合
 シェアード
  ①原発は不必要
  ②地域エネルギー
  ③シェ概念の明確化
  ④地域のインフラを接続
 超国家の役割
  ①日中韓を連携させる
  ②中国崩壊に対応
  ③アメリカ覇権衰退
  ④シベリア経済圏
 平和を為す
  ①平和が唯一の武器
  ②国を超えた役割
  ③アフリカ共同支援
  ④トルコと連携
10.8.1 独我論
 用意された世界
  ①欲しい時に出現する
  ②蜘蛛の糸を登る
  ③邪魔も用意される
  ④未来のシナリオ
 哲学・数学・歴史
  ①示すものに従う
  ②座標から近傍
  ③国家から市民
  ④意思から存在
 宇宙を超える存在
  ①<今>を考え抜く
  ②社会の意思を超える
  ③行動しない
  ④未来学者の預言
 語らない
  ①生きる希望
  ②他者には語れない
  ③絶対的存在
  ④内なる混沌
10.8.3 宇宙の旅人
 内なる世界
  ①宇宙の中心なのに
  ②他者の世界を傍観
  ③生きるは考える
  ④内から押し出す
 他者の世界
  ①トポロジーで認識
  ②歴史は折り返す
  ③なぜ、気にするのか
  ④私は関与しない
 未唯宇宙
  ①全ての時空間が対象
  ②近傍を宇宙に拡大
  ③宇宙を内に包む
  ④知識と意識の根源
 今・ここにいる
  ①今、ここってどこ?
  ②本当にいるのか
  ③2兆年後の再会
  ④無限次元の多重世界
10.8.3 存在の無
 孤立と孤独
  ①自分しかいない
  ②孤立は武器になる
  ③考えることで生きる
  ④独我論を超えていく
 多くの真理
  ①数学は問いを発する
  ②不変から数学を創る
  ③真理は一つの出発点
  ④生まれて、死ぬだけ
 存在は無に含む
  ①何も認識できない
  ②死に「ざまあみろ」
  ③風呂場の壁の嘆き
  ④地球原理を語る矛盾
 私は存在する
  ①考えるから存在
  ②宇宙の全ては無
  ③他者は存在しない
  ④私がいるから正義
10.8.4 どうでもいい
 大いなる意思
  ①放り込んだ張本人
  ②宇宙延命のため
  ③人類の覚醒を促す
  ④全ての偶然を用意
 生まれてきた
  ①自分しかいない
  ②自己否定はしない
  ③私の世界の全て
  ④本当にどうなるのか
 存在と時間
  ①時間の地平
  ②他者は気分休め
  ③私というもの
  ④<今>だけ存在する
 自己肯定
  ①死の果ての宇宙
  ②<今>はなくなる
  ③無為に生きる
  ④どうでもいい
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アゼルバイジャン経済事情

『アゼルバイジャンが今、面白い理由』より アゼルバイジャン経済事情
アゼルバイジャンの今後を握るロードマップ
 2016年12月6日、政府が出した「アゼルバイジャン共和国の経済見通しに関する戦略的なロードマップ」の核となるのは、合計11の分野に関する12項目を中心に経済の多角化を進めようというものでもあります。これは、2020年までの経済発展戦略と行動計画を定めた短期的視点、2025年までの中期的視点、2025年以降の長期的視点と3つのタイムスケジュールからなっています。
 短期的な戦略に課せられたものは、最優先すべき事項にフォーカスしつつ、中長期時代における経済発展の土台づくりです。
 すでに現時点で観光業や農業といった非石油分野における発展が見られるようになっています。
 では、政府はなぜこのようなロードマップをつくったのでしょうか。
 その要因となるものが、2014年に起こりました。2014年までの過去10年間、アゼルバイジャンの経済発展のスピードは世界でもトップクラスにありました。
 アゼルバイジャンの国家統計委員会の情報によれば、2004年~2010年の年平均経済成長率は16.9%、アゼルバイジャン経済への投資は年平均17.9%とかなり高かったのです。
 そして、先はども申し上げたように、石油戦略が大成功したことによって国家資産は大幅に増加。GDPを上回るほどの潤沢な資金が創出されました。その収入を活用して、国内のインフラ整備、非石油分野発展の支援、社会福祉の改善が進んだのです。
 ところが、2014年に石油価格が下落。さらに、アゼルバイジャンの主な貿易パートナーの経済状況の悪化により、我が国の経済発展も減速し始めたのです。2011年~2014年の間には、年平均経済成長率が2.7%に、アゼルバイジャン経済への投資は年平均11.9%にまで下がってしまいました。
 そのために、アゼルバイジャンは新たな経済発展モデルヘの移行を余儀なくされ、経済発展を持続的で確実なものにするためのモデルが徹底的に調査されたのです。
 今後のアゼルバイジャン経済は、「アヴァンギャルドセクター(先端的分野)」に注目しながら、国営企業よりも民間企業、生産よりも加工、低度技術より高度技術を要する分野、低熟練労働よりも高度の熟練労働を必要とする分野、低価格の市場よりも高価格の市場を発展させることにより、経済バランスを改善し、安定を図る戦略へと変わりつつあります。また、こうした流れを受けてビジネス環境もより良くなることが期待されます。
 加えて、新たな金融政策とその健全化、通貨政策の改善、海外進出する可能性の向上など4つの動きにより、経済事情はさらに良くなると考えられています。
  1つ目は、財政の安定と変動相場制に基づいてっくられる金融政策。財政と金融政策のバランスによって、マクロ経済の安定の確保が考えられます。
  2つ目は株式市場について。国営企業の多くを民営化することによって、経済的なダイナミズムが期待できます。
  3つ目は、人的資本の開発にっいてです。国家経済政策を実現させるため、先端分野における新たな労働市場を担う人材を育てていくことが考えられます。
  最後に4つ目は、ビジネス環境のさらなる改善によるアゼルバイジャン経済の持続的な発展です。
 現在、アゼルバイジャンが注目しているのは、人口が増加傾向にあるアジア市場や開発途上国の東南アジア諸国です。
 というのも、アゼルバイジャンはユーラシア大陸のド真ん中にあり、北と南、西と東を結ぶ国ですから、アジア諸国の経済成長はアゼルバイジャン経済にも大いに影響すると考えられます。
 また、国家としても、民間企業においても、バイオテクノロジー、ナノテクノロジー、情報、通信、産業、金融等の分野においても、高度な最新技術を取り入れる環境を整えることも急務です。最新技術の輸入と同時に、それを使いこなせる人材開発も併せて行う見込みです。
数字から見るアゼルバイジャンの発展
 アゼルバイジャン国家統計委員会のタヒル・ブダゴフ委員長の話によれば、2004~2017年には、アゼルバイジャンのGDPは3.2倍、工業生産は2.6倍、農業生産1.7倍、予算収入はm5倍、月平均名目賃金は6.8倍、最低賃金は12.9倍に増加するという発展を遂げました。逆に失業率は9.2%から5.0%に、貧困率は44.7%から5.4%にまで減少したのです。
 中でもアゼルバイジャンの情報通信分野は最も飛躍的に発展しました。2003年と比較して2017年には、情報通信サービスの価値(株価を含めた総資産価値)は実質比2倍増加し、年平均18.8%も増えたことになります。
 2017年には、アゼルバイジャンの小売貿易ネットワークによって353億マナトの商品が販売されました。これも2003年と比較すると3.8倍増えていることがわかります。
 そのうち11.8%は商業企業、55.5%は個人事業主、32.7%は市場やフェアで販売されました。食料品、お酒類やタバコの小売貿易額は2.4倍増の179億マナトに達し、そのうち非食料品(日用品など)の貿易額は実質8.7倍増となるなど、非食料品に対する売買力は年々増えています。
 2003年の消費者製品市場では、非食料品の割合は30.8%だったのに対し、2017年には49.3%まで上がりました。
 また、2017年に国家予算から国民の社会保障に充てられた支出は、2003年と比べて11.0倍、経済発展を図るための支出は18.2倍増加しました。
 さらに、2018年1月1日現在では、アゼルバイジャンで登録した法人数は118、594になり、14年前と比べて1.9倍になっています。なお、個人事業主は5倍に増え、79万4、441に達しました。
 また、第1章でもご紹介したように、観光事業も石油以外の産業の大きな軸となっています。2017年には観光客の数も2005年と比べて2倍以上になっています。ちなみに観光目的で外国に行くアゼルバイジャン人の数も、2005年と比較して2.2倍増加し、410万8、900人に達しています。
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アレクサンドロス三世大王

『リーダーの人間学』より 等身大の大リーダーたち
アレクサンドロス三世大王
 まずはアレクサンドロス大王から始めよう。彼はフィリッポスニ世と四番目の妻オリンピアスの子で、少々知的障害ではあった腹違いの兄がいた。母オリンピアスは隣国エフェソスの王女で、アレクサンドロスを王にしようと、母国から二人の家庭教師を招いて厳しく丞才能豊かに育て、その期待に応えてすくすくと伸びていった。一二歳頃になると教育権が父親に移り、アリストテレスを招いて帝王教育を行った。だが、それだからといって、彼に将来王位が約束されていたわけではなかった。父は「お前にはマケドニアは小さすぎるから、自分でよリ広い地を見つけよ」と諭していた。マケドニアの重臣貴族の間には、純粋にマケドニア系の血を引く後継者を望む声が強く、王はマケドニアの貴族の娘を何人目かの妻として迎え、子供を身寵ったところで、暗殺された。その背後の事情は不明であるが、最大の利得者はアレクサンドロス母子であった。王位の空白を恐れた重臣アンティパトロスの推挙がなければ、王位を得ていたかは分からない。アレクサンドロス自身が王位に対する強い意志を示していなければ、そうはならなかったかもしれない。
 アレクサンドロスは時を移さず父の計画に従ってペルシア遠征の準備に取り掛かり、スパルタを除くギリシアの諸都市との間でコリント同盟を復活させ、アイデンティティの基盤をギリシア全土に拡大して出陣に備えた。ペルシアに入ってダレイオス三世を徹底的に追い詰めたのは、アジアの盟主としての地位の禅譲を期待してのことであった。自らのアイデンティティの基盤をアジア全土に拡げようとする魂胆であるからには、その地位を譲り受けることが先決であらた。だが、エジプトに遠征してゼウスと同等神であるアモンの神を拝してからは、自分の父はフィリッポス二世ではなく、ゼウスであるとして自らの神格化を主張するようになった。これは自らのアイデンティティを世界に置いて世界征服を宣言したに等しかった。彼はそこまで生きることはできなかったが、少なくともその意図はあったに違いない。
 アレクサンドロス大王にとっての尊敬する人物は父方の遠祖とされるゼウスであり、母方の祖先のアキレウスであった。役割モデルとなりためは父であらたが、それが最初だけであった。アンティパトロスの推挙によって王位に就いためは、下からの押し上げというより、上からの引き上げに似た状態であった。遠征といっても、資金も軍隊も不足した状況で、現地調達を覚悟していた。母を残し、恩人のアンティパトロスを城代家老としての出発であっだ。出発前の僅かな間に、東のトラキア、西のイリューリアを征伐し、南の反抗するテッサリアを殲滅して後顧の憂いをなくしていた。彼にはミエザでアリストレスの教えを共にした刎頸の友を大切にする余り、他の部下との公平に欠ける憾みがあり、時としてその場の感情によって残忍な扱いをすることもあった。二度ほど兵士の反乱に遭遇したが、それを何とか切り抜けた。意外にもイッソスの戦いやガウガメラの戦いで対決したダレイオス三世を新しい役割モデルとしようとしていた節もある。執拗に逃げるダレイオスを追跡するが、その目的は生きたまま捕らえることで、殺すことではなかった。自ら神格化を主張してからは、役割モデルの存在はもはや不要となっていた。
ガイウス・ユリアス・カエサル
 カエサルが生まれた頃のローマは民衆派で母方の叔父に当たるマリウスと、族閥派のスラの対立で混乱状態にあった。彼は貴族の出であったが、家が市場の近くにあり、叔父のマリウスの民衆派に属していた。そのアイデンティティは彼がキャリアを上り詰めていく過程においても変わることはなかった。一時マリウスのほうが優勢でスラ派を迫害したが、ポントス王ミトリダテスを征伐して帰ったスラは反撃を始めた。ポンペイウスもスラ派で外国で立てた手柄で三度も凱旋式を行っていた。カエサルが自分も執政官になろうと決意し始めたのは早世した父に代わって家名を回復するという使命を一身に背負ってのことであったが、ポンペイウスに対する対抗意識もあったものと思われる。スラはすでに死去していたマリウス一派の一掃を図り、死刑のリスト中にカエサルも含まれていた。取リなす人がいて、ならば妻のコルネリアと離婚せよと迫られたが、それも拒否し、小アジアに逃亡した。帰国後再びロードス島に渡り、雄弁術を勉強して法律事務所を開設したが、所詮雄弁は政治の障害になると決意し、小カトーやキケロの風下に立つことに満足した。当時ローマで上に立つためにはまず軍務を経験しなければならなかったが、一四歳の時からユピテル神殿の神官であった彼にはそうすることは容易であった。それから会計検査官、造営官、属州総督とお決まりの道を進み、四〇歳で執政官に立候補し、対立候補を辞退させて当選した。それでも当時はまだ執政官は二人制であったので、輪番制を主張し、嫌気のさした相手を辞任に追い込んで一人その位を享受した。だが任期制であり、彼の闘争はまだまだ続かなければならなかった。彼は総督としてガリアに赴任し、そこから元老院に定期的に報告書を送り、それを纏めたものが『ガリア戦記』である。この報告書は自然環境から各部族の動向を忠実に記しており、彼の名声を高めるのに一役買った。彼はその地から再び立候補することを要求するが、元老院からの返事は、ならば本国に帰れとのことであった。
 本国に帰るためにはルビコン川を渡らなければならなかったが、そのためには武装解除する掟があった。しかし、そうすれば命の保証はなくなる。そこでカエサルは武装したままの部下を引き連れて渡河を決行する。その時の掛け声は『プルタルコス英雄伝』によれば、「賽を投げてしまおう」であり、スエトニウスの『ローマ皇帝伝』によれば「賽は投げられた」であった。それに驚いたポンペイウスはローマを捨て、南に向かって逃げることになったが、大胆不敵、迅速果敢で部下の人望も厚かったカエサルは空になったローマで執政官に就任し、ついにポンペイウスをエジプトまで追い詰めた。形勢を読み取った地元政府の要人がポンペイウスを殺害して首を差し出すが、カエサルの意図に反していた。カエサルはその後スラがかって占めた独裁官となり、さらにそれを終身官とした。王になりたがっているという噂は絶えなかった。シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』では、側近のアントニウスが王冠を三度捧げたが、それを払いのける手は次第に弱々しくなり、最後には広場の真ん中でぶっ倒れたと描いている。
 カエサルにとっては家の守り神であらたビーナスを敬愛していたが、後にアレクサンドロス大王を尊敬する人物とした。若年で準州の奥スペインの総督に派遣される途次、はらはらと涙をこぼし、自分のこの年にはアレクサンドロスはすでに偉大な業績を達成していたのに、何もしていない自分の不甲斐なさを従者に語った。カエサルの最初の役割モデルは母方の叔父のマリウスであったに違いないが、自らの役割をどのように果たすべきかを学んだ。カエサルとポンペイウスは属する派閥も違い、対立関係にあった。対立が最初に顕在化したのは、スパルタクスの乱でクラッスス将軍の下にカエサルも参戦して奮闘したが、その手柄をポンペイウスが独り占めしたためであった。執政官の選挙でも妨害され、味方の寵絡に努めたが、相手もそれを上回る手練手管を用いることを知った。執政官の職を終えると、南仏、北伊、イリリュムにインペリュームという大権を与えられて赴任した。帰ってみると、族閥派でありながら、ポンペイウスが部下に与える恩賞の件で元老院と対立していた。そこで二人はクラッススを加えて三頭政治を組むことにした。そして一人娘のジュリアをポンペイウスの後添えとして与え、新しい任地となったガリアに向けて出発した。だがそのうちにポンペイウスは元老院とよりを戻し、貸し与えた師団を返せ、などと難癖をつけてきた。その関係は彼に嫁がせていた娘の病死でますます悪化し、とうとう三頭政治も瓦解した。ここに離合集散の現実を垣間見ることができる
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ウクライナ大飢饉「ホロドモール」

『ウクライナを知るための65章』より 大飢饉「ホロドモール」 ★ウクライナを「慟哭の大地」と化した「悲しみの収穫」★
ウクライナはヨーロッパにおいて有数の穀倉地帯であるが、ソ連時代には1921~1922年、1932~1933年、1946~1947年の三度にわたり大規模な飢饉が発生した。それぞれの飢饉は、旱魅などの天候不順や政府による強制的な穀物調達の他に、その他様々な要因が加わり引き起こされた。このうち、1921~1922年の飢饉と1946~1947年の飢饉は、戦争や内戦による社会混乱が大きく関わっている。1921~1922年の飢饉はウクライナだけではなく、ヴォルガ沿岸地域でも発生したが、1917年のロシア革命後に誕生したソヴィエト政権が「戦時共産主義」の下で農村から強制的に穀物調達を進めていたことに加えて、第一次世界大戦、口シア革命とその後の内戦による社会混乱が複合して農村が疲弊していたことが、飢饉の被害を拡大させた。一方、1946~1947年の飢饉はウクライナ、モルドヴァ、ロシア中央で被害を出したが、第二次世界大戦の戦災を受けて農村が混乱して穀物の貯蔵が不充分であったにもかかわらず穀物調達が強行されて、干魃などの天候不順も相侯って発生した。
1932年から翌1933年にかけて発生した飢饉は、他の二つの飢饉と比べると、戦争など外的要因による社会的混乱が飢饉の発生に作用したわけではない。1929年に本格的に始動した農業集団化の過程で、「クラーク」と呼ばれた「富農」の追放による農村の混乱、穀物生産の落ち込み、政府による強制的な穀物調達の実施などが相侯って、ウクライナ、ロシア(ドン地域、クバン地域、ヴォルガ沿岸地域)、カザフスタンで飢饉が生じたのである。
ソ連政府はこの間、工業化を実施していくために必要な外貨を獲得するため、穀物が不作であるにもかかわらず穀物輸出を強行するなど、飢餓輸出を敢行していた。また、国内で飢餓が蔓延して被害が拡大していたにもかかわらず、ソ連指導部は国際的威信の失墜を懸念して、イギリス、カナダ、スイス、オランダなど諸外国、国際連盟や国際赤十字など国際組織の救援の申し出に応じず、効果的な救済策を講じなかった。このようなソ連指導部の失策が飢餓の被害を拡大させた点から、飢饉に関して人為的原因が濃厚であるというコンセンサスが研究者の間で得られている。
1929年に農業集団化が始まり、個人農が加入してコルホーズ(集団農場)への組織化が進むと、ウクライナのコルホーズには過重な穀物調達が課せられた。秋蒔き穀物の調達量に関して、1930年はソ連国内の総収穫量の34%、1931年は39・2%、1932年は54・6%を占めた。1930年に「労働日」がコルホーズに導入されて、コルホーズ員の報酬は労働日に基づいて割り当てられることになったが、コルホーズの生産物の大半が国家に調達された。1933年3月の時点で、ウクライナ全体の48%のコルホーズでコルホーズ員に報酬が支払われず、100万人ほどのコルホーズ員に自己消費分の穀物さえ残っていなかった。すでに、農業集団化が本格化する前に、農民たちはコルホーズ加入に抵抗し、家畜を濫費して、家畜数が8分の1に激減していた。
ソ連指導部は穀物調達を遂行するにあたり農村の統制を強めた。1932年10月22日、全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会政治局は非常委員会を設置して、ウクライナには政治局員のモロトフが派遣された。穀物調達の不履行に対してコルホーズ員が野外の公開裁判で裁かれるだけでなく、コルホーズ議長、現地の党や行政の職員も弾圧されるなど強制措置が適用された。また、1932年8月7日には、党と政府の決定により、すべての農産物は人民に所属するとされ、穀物の取引、落ち穂拾い、穂の刈取まで「人民の財産の収奪」として10年の禁固刑が科せられた。さらに、1932年12月27日には国内パスポート制が導入され、コルホーズ員は移動を制限された。こうして、ウクライナの農村では、人間の死体や死亡した家畜、犬や猫などの愛玩動物が食用にされるなどの凄惨な光景が展開し、チフスなどの疫病が蔓延した。
1932~1933年の飢饉は、ウクライナ農村部の人口動態に決定的な影響を与えたが、ソ連邦崩壊後、旧ソ連諸国で資料が開示されて、飢饉の実態について解明が進められている。飢饉の犠牲者数に関して、研究者により250万から750万人までの見解がある。すでに、ソ連邦解体以前から研究者の間で250万人から500万人の数値が示されていたが、旧ソ連諸国で公開された資料から、1931年から1933年にかけて飢饉を原因とする超過死亡者数は180万人、人口減少数については270万人が確認されている。非公式の統計を加味して調整すると、前者は280万人から480万人、後者は370万にから670万人にまで拡大される。一方、ウクライナの研究者の間では人口統計を利用して飢饉の犠牲者数について300万人から350万人までの数値が算出されていて、ウクライナ科学アカデミーの人口統計・社会問題研究所も約394万人と算出している。
ウクライナでは、1932~1933年の飢饉は、飢饉を意味する「ホロド」と「疫病」を表す「モール」を合わせて、「ホロドモール」(飢餓による殺人)の呼称が付されている。さらに、ウクライナにおける被害が甚大であった経緯から、当時の飢饉についてウクライナ人を対象とした「大量虐殺」であったとする見解をウクライナは堅持している。ウクライナ最高会議(国会)は2003年5月15日に可決した決議と、2006年H月28日に採択した法案「ウクライナにおける1932~1933年のホロドモールについて」で、当時の飢饉を「ウクライナ人に対するジェノサイド」と認定した。さらに、翌2007年、ユーシチェンコ(1954~)大統領は第二次世界大戦中のドイツによるユダヤ人虐殺と併せて、当時の飢饉を公式に否定した者に罰金や禁鋼となど刑事責任を問う法案を最高会議に提出したが、否決された。
ホロドモールを「ジェノサイド」とする見解は、すでにソ連時代に欧米社会で現れていた。1953年9月、アメリカのポーランド系弁護士ラファエル・レムキン(1900~59)が、1932~1933年の飢饉をソ連による「ウクライナ民族の殺戮」と非難して、「ソ連政府による古典的なジェノサイドの一例」と断じた。これを契機に、当時の飢饉をウクライナ人に対する「ジェノサイド」とする見解が主に西欧社会で流布した。1988年、米国ではウクライナの飢饉を調査した政府委員会が、1932~1933年にスターリン指導部がウクライナ人に対して「ジェノサイド」を組織したとする見解を示した。その後、1993年にエストニアとオーストラリアの議会が、1932~1933年の飢饉を「ジェノサイド」とする決議を採択し、欧米と南米の15カ国の議会が同種の決議を採択した。
一方、ロシアでは1932~1933年の飢饉が及ぼした被害の悲惨さに関する事実認識に同調するものの、飢饉の被害がウクライナ人だけではなく、ロシア人やカザフ人にも及んでいる点が強調されて、飢饉の解釈をめぐりウクライナとロシアとの間で歴史問題が生じている。ロシア政府は、特定の民族を対象とする「ジェノサイド」は存在しなかったとする見解を堅持している。2008年4月2日、下院で「ソ連国内の1932年~1933年飢饉の犠牲者追悼」に関する決議が採択され、特定の民族を対象にして飢饉が組織された歴史的証拠は存在せず、当時のソ連国内の農業地域に居住していた数百万人に及ぶ諸民族を飢饉の犠牲者とする見解が明らかにされた。ウクライナでも、ユーシチェンコ大統領の後任のヤヌコーヴィチ(1950士大統領が2010年4月27日、1932~1933年の飢饉はウクライナ人に対するジェノサイドとみなすことができず、むしろ飢饉を当時のソ連国内の諸民族の悲劇と強調して、飢饉に関する見解を修正した。また、ヨーロッパ議会は、1932~1933年の飢饉についてのスターリン指導部の責任を認めているが、飢饉をウクライナ人に対するジェノサイドとする見解には慎重な姿勢を示している。
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