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未唯への手紙

未唯への手紙

ウクライナ大飢饉「ホロドモール」

2018年11月24日 | 4.歴史
『ウクライナを知るための65章』より 大飢饉「ホロドモール」 ★ウクライナを「慟哭の大地」と化した「悲しみの収穫」★
ウクライナはヨーロッパにおいて有数の穀倉地帯であるが、ソ連時代には1921~1922年、1932~1933年、1946~1947年の三度にわたり大規模な飢饉が発生した。それぞれの飢饉は、旱魅などの天候不順や政府による強制的な穀物調達の他に、その他様々な要因が加わり引き起こされた。このうち、1921~1922年の飢饉と1946~1947年の飢饉は、戦争や内戦による社会混乱が大きく関わっている。1921~1922年の飢饉はウクライナだけではなく、ヴォルガ沿岸地域でも発生したが、1917年のロシア革命後に誕生したソヴィエト政権が「戦時共産主義」の下で農村から強制的に穀物調達を進めていたことに加えて、第一次世界大戦、口シア革命とその後の内戦による社会混乱が複合して農村が疲弊していたことが、飢饉の被害を拡大させた。一方、1946~1947年の飢饉はウクライナ、モルドヴァ、ロシア中央で被害を出したが、第二次世界大戦の戦災を受けて農村が混乱して穀物の貯蔵が不充分であったにもかかわらず穀物調達が強行されて、干魃などの天候不順も相侯って発生した。
1932年から翌1933年にかけて発生した飢饉は、他の二つの飢饉と比べると、戦争など外的要因による社会的混乱が飢饉の発生に作用したわけではない。1929年に本格的に始動した農業集団化の過程で、「クラーク」と呼ばれた「富農」の追放による農村の混乱、穀物生産の落ち込み、政府による強制的な穀物調達の実施などが相侯って、ウクライナ、ロシア(ドン地域、クバン地域、ヴォルガ沿岸地域)、カザフスタンで飢饉が生じたのである。
ソ連政府はこの間、工業化を実施していくために必要な外貨を獲得するため、穀物が不作であるにもかかわらず穀物輸出を強行するなど、飢餓輸出を敢行していた。また、国内で飢餓が蔓延して被害が拡大していたにもかかわらず、ソ連指導部は国際的威信の失墜を懸念して、イギリス、カナダ、スイス、オランダなど諸外国、国際連盟や国際赤十字など国際組織の救援の申し出に応じず、効果的な救済策を講じなかった。このようなソ連指導部の失策が飢餓の被害を拡大させた点から、飢饉に関して人為的原因が濃厚であるというコンセンサスが研究者の間で得られている。
1929年に農業集団化が始まり、個人農が加入してコルホーズ(集団農場)への組織化が進むと、ウクライナのコルホーズには過重な穀物調達が課せられた。秋蒔き穀物の調達量に関して、1930年はソ連国内の総収穫量の34%、1931年は39・2%、1932年は54・6%を占めた。1930年に「労働日」がコルホーズに導入されて、コルホーズ員の報酬は労働日に基づいて割り当てられることになったが、コルホーズの生産物の大半が国家に調達された。1933年3月の時点で、ウクライナ全体の48%のコルホーズでコルホーズ員に報酬が支払われず、100万人ほどのコルホーズ員に自己消費分の穀物さえ残っていなかった。すでに、農業集団化が本格化する前に、農民たちはコルホーズ加入に抵抗し、家畜を濫費して、家畜数が8分の1に激減していた。
ソ連指導部は穀物調達を遂行するにあたり農村の統制を強めた。1932年10月22日、全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会政治局は非常委員会を設置して、ウクライナには政治局員のモロトフが派遣された。穀物調達の不履行に対してコルホーズ員が野外の公開裁判で裁かれるだけでなく、コルホーズ議長、現地の党や行政の職員も弾圧されるなど強制措置が適用された。また、1932年8月7日には、党と政府の決定により、すべての農産物は人民に所属するとされ、穀物の取引、落ち穂拾い、穂の刈取まで「人民の財産の収奪」として10年の禁固刑が科せられた。さらに、1932年12月27日には国内パスポート制が導入され、コルホーズ員は移動を制限された。こうして、ウクライナの農村では、人間の死体や死亡した家畜、犬や猫などの愛玩動物が食用にされるなどの凄惨な光景が展開し、チフスなどの疫病が蔓延した。
1932~1933年の飢饉は、ウクライナ農村部の人口動態に決定的な影響を与えたが、ソ連邦崩壊後、旧ソ連諸国で資料が開示されて、飢饉の実態について解明が進められている。飢饉の犠牲者数に関して、研究者により250万から750万人までの見解がある。すでに、ソ連邦解体以前から研究者の間で250万人から500万人の数値が示されていたが、旧ソ連諸国で公開された資料から、1931年から1933年にかけて飢饉を原因とする超過死亡者数は180万人、人口減少数については270万人が確認されている。非公式の統計を加味して調整すると、前者は280万人から480万人、後者は370万にから670万人にまで拡大される。一方、ウクライナの研究者の間では人口統計を利用して飢饉の犠牲者数について300万人から350万人までの数値が算出されていて、ウクライナ科学アカデミーの人口統計・社会問題研究所も約394万人と算出している。
ウクライナでは、1932~1933年の飢饉は、飢饉を意味する「ホロド」と「疫病」を表す「モール」を合わせて、「ホロドモール」(飢餓による殺人)の呼称が付されている。さらに、ウクライナにおける被害が甚大であった経緯から、当時の飢饉についてウクライナ人を対象とした「大量虐殺」であったとする見解をウクライナは堅持している。ウクライナ最高会議(国会)は2003年5月15日に可決した決議と、2006年H月28日に採択した法案「ウクライナにおける1932~1933年のホロドモールについて」で、当時の飢饉を「ウクライナ人に対するジェノサイド」と認定した。さらに、翌2007年、ユーシチェンコ(1954~)大統領は第二次世界大戦中のドイツによるユダヤ人虐殺と併せて、当時の飢饉を公式に否定した者に罰金や禁鋼となど刑事責任を問う法案を最高会議に提出したが、否決された。
ホロドモールを「ジェノサイド」とする見解は、すでにソ連時代に欧米社会で現れていた。1953年9月、アメリカのポーランド系弁護士ラファエル・レムキン(1900~59)が、1932~1933年の飢饉をソ連による「ウクライナ民族の殺戮」と非難して、「ソ連政府による古典的なジェノサイドの一例」と断じた。これを契機に、当時の飢饉をウクライナ人に対する「ジェノサイド」とする見解が主に西欧社会で流布した。1988年、米国ではウクライナの飢饉を調査した政府委員会が、1932~1933年にスターリン指導部がウクライナ人に対して「ジェノサイド」を組織したとする見解を示した。その後、1993年にエストニアとオーストラリアの議会が、1932~1933年の飢饉を「ジェノサイド」とする決議を採択し、欧米と南米の15カ国の議会が同種の決議を採択した。
一方、ロシアでは1932~1933年の飢饉が及ぼした被害の悲惨さに関する事実認識に同調するものの、飢饉の被害がウクライナ人だけではなく、ロシア人やカザフ人にも及んでいる点が強調されて、飢饉の解釈をめぐりウクライナとロシアとの間で歴史問題が生じている。ロシア政府は、特定の民族を対象とする「ジェノサイド」は存在しなかったとする見解を堅持している。2008年4月2日、下院で「ソ連国内の1932年~1933年飢饉の犠牲者追悼」に関する決議が採択され、特定の民族を対象にして飢饉が組織された歴史的証拠は存在せず、当時のソ連国内の農業地域に居住していた数百万人に及ぶ諸民族を飢饉の犠牲者とする見解が明らかにされた。ウクライナでも、ユーシチェンコ大統領の後任のヤヌコーヴィチ(1950士大統領が2010年4月27日、1932~1933年の飢饉はウクライナ人に対するジェノサイドとみなすことができず、むしろ飢饉を当時のソ連国内の諸民族の悲劇と強調して、飢饉に関する見解を修正した。また、ヨーロッパ議会は、1932~1933年の飢饉についてのスターリン指導部の責任を認めているが、飢饉をウクライナ人に対するジェノサイドとする見解には慎重な姿勢を示している。

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