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運転免許証と所有権

いくちゃんは偉大
 無になれるいくちゃんは偉大だ。自分しかいない世界。やはり、哲学に向かってほしい。
やはり、居た
 やはり、居た。よかった。Iさんメールのことを話したかったが、遠かった。
第9章は大筋変える必要はない
ロシア戦線と中国志願兵の攻撃
 変革と言っても、ウィトゲンシュタインに比べれば大したことはない。対ロシア戦線で「論考」に向かい合っていた。向かい合うために志願したのか。
 朝鮮戦争時の中国軍のように死ぬために向かってくるロシア兵。毛沢東は旧国民党兵を片付けたかった。ロマノフ王朝と同様に。
運転免許証と所有権
 なぜ、国家が交付する。大きなウソが存在する。免許証は技術を保証するものではなく、警察が切符を切るためのもの。
 所有する必要がなくなれば放棄する。図書館でいつでも借りられる。今は物理的な制約があるが、デジタルになれば、フリーになる。本からコンテンツに移る。教育そのものに向かう
 運転しないといけないという中途半端なものを提供したのがあやまり
「存在」というタイトルの写真集
 なぜ、写真集のタイトル名が「存在」なのか? 乃木坂に居たことの証明?
25000冊突破!
 2000年3月18日より、25000冊突破! 金額換算 4593万円 まだ、無にはなれていない。 
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絵本『いないいないばあ』が50周年を迎えた理由

『メルト=ポンティと<子どもと絵本>の現象学』より 絵本『いないいないばあ』から始まって

 ある絵本が50年も売れ続けるには、それなりの理由があるだろう。この『いないいないばあ』の場合には、出版当時には、あかちゃんに絵本なんて、という声の方が強かった。1960年代は、敗戦からの焼け跡時代をなんとか生き抜き、高度経済成長伸び盛りの時期であった。庶民に購買力もでき、家庭では子どもたちへの投資の余裕も生まれ、絵本の購入も可能になった。絵本は喜びや楽しみのためというよりは、子どもへの期待も込めて賢くする手立てのように考える親も多かった。絵本を知育教育のための手段と利用する親もいたために、絵本の存在を危惧する人たちもいた。それは、絵本そのものの問題ではなく、絵本の利用の仕方の問題ではあったのだが。また熱心な親の早期教育を心配する声も高く、また子どもたちの理解力から考えて、絵本は3歳以上の子どものものだという考え方もあった。そうした中で、岩波書店が1953年から、福音館書店が1956年から質の高い絵本の出版を開始し、そうした絵本が日本の家庭や保育所・幼稚園へと浸透するなかで、絵本への信頼は高まって行ったものの、あかちゃん絵本への理解は高まってはいかなかった。早期教育への危惧と絵本は3歳からという絵本観が支配していた。

 そうした時期、1967年に『いないいないばあ』は出版された。それ以降も出版され続けている。絵本界の古典の仲間入りをしていると言ってもいいだろう。古典的な絵本とはどういう質を持った作品をいうのだろうか。ここにそのヒントになる文章がある。

  古典的な絵本の人気は、子どもにとって深い情緒的な意味をもつ問題をあつかう能力に優れているからではないか、と見当をつけてみた。古典として読みつがれる絵本は、いつの時代にもある重要な心理的テーマをとりあげ、それらのテーマを職人芸をきかせて精妙に伝えるのだと、推測できよう。音楽性、音韻性、視覚的な芸術性、ューモア、意表をつく並列、洗練、簡明さ、そしてサスペンスが混ぜあわされ、世代をこえた長時間の読みに耐えうる重層的な意味を築きあげるのだと。

 スピッツの『絵本のなかへ』からの引用である。古典的絵本とは何かについて、きちんとまとめられた文章ではなく、考えながら書いている気配を感じる。私がこの文章中で気になり、気に入った言葉がある。「職人芸」という言葉で、原書をみるとcraftsmanshipとあった。まさに「職人の腕前」である。絵本とは何かと言う文章中には、普通は登場する言葉ではなかったし、今までも、良い絵本などの質を語るときにも、出てくる言葉ではなかった。しかし、ビクトリア時代の絵本をイギリスで6年間見続けた者にとっては、「職人の技」は絵本の中になくてはならないものであった。

 さて、絵本『いないいないばあ』が、どうして50年間生き残ってきたのか、この後も生きて行くだろうとみなされるのかを、スピッツが述べている古典的な絵本の質も考慮にいれながら、考えてみたい。スピッツの提案はあくまでもヒントであることを断っておきたい。わかりやすく、箇条書きにしてみた。

 1)いつの時代にもある重要な心理的テーマを取り上げている。

  伝統的な遊び「いないいないばあ」を素材にしているが、「いないいないばあ」という遊びは、「非存在と存在」という存在のあり方の、或いは関係性の根源的テーマを扱っている。


 2)そのテーマを職人芸を生かして仕上げている。

  この作品を作り上げたのは、文章を書いた松谷みよ子(1926-2015)、絵を担当した瀬川康男(1932-2010)、ブックデザイナーの辻村益郎(1934- )、そして童心社の編集者の稲庭桂子(1916-1975)である。4人とも、その道の職人的な手腕を持った人たちであった。

 3)視覚的芸術性(絵とデザイン)の高さ

  『いないいないばあ』のそもそもの発端は、松谷と稲庭の女性二人によるが、画家瀬川は自ら「オレに描かせろ」とかって出る。その芸術性の高さは、稀に見るものである。松谷は瀬川の絵の渋さがあかちゃんたちに受け入れてもらえるかと心配したが、そのような心配は無用であった。“もっかい”と催促する松谷の子どもの話を先に紹介した。また瀬川の高校時代からの友人であり、ブックデザイナーとして細やかで質の高い仕事をしてきた辻村の丁寧な仕事が絵本を仕上げている。

 4)音楽性、ユーモア、配列、洗練、簡明、サスペンス

  これらの質は、文章についても絵についても言える。深いテーマが、繰り返しのリズムで、永遠に繰り返す波のように、配列されている。ユーモアやサスペンスもある。

 5)世代を超えた長時間の読みに耐えうる重層的な意味

  上記した非存在と存在をもう少し膨らませれば、出会いと別れ、喪失と希望、闇と光、悲しみと喜び、死と再生といったテーマになる。これらは、人から人へと世代を超えて考えられてきた生きていることの意味である。

 6)行きて帰りし物語であること

  「いいないいない、ばあ」というのは、行動する側からすると、「行った、帰った」という物語になり、待つ側からすると、「行ってしまった、帰ってきてくれた」という物語になる。「いないいないばあ」は、「再会」で閉じる。絵としても、「ばあ」となった時の動物たちの表情がとてもいい。

 7)おとなに読んでもらっているという「安心の膝」の存在

  これは、絵本そのものの質ではないが、そういう安心の膝に乗せてもらって読んでもらえる絵本である。

 「職人の腕前」に少し話しを戻したい。 というのは、最近の絵本の絵は、技術的に非常に高いものが多いのだが、いわゆる、からだに「触れて」来ないのだ。瀬。川康男は技術的に非常に高い人だが、原画を見ると、技術のむこうに透けて見える職人風のこだわりに「触れる」を通り越して、「胸を突かれる」ほどである。こういうのを「職人の腕前」というのだろう。腕前と言う言葉は、長年その道に携わってきたことにより「からだ」が覚えていることから生まれるのだろう。ということは、職人の技を生かせる人とは、ある年月生きてきて、「人間」をそれなりに真面目に(時には、愚直なほど)生きてきた人に「身につく」技なのではないか。

 現代の不幸は、人間の職人を生み出さないことにあるのではないか。目先のこと、新奇なこと、早く世にでること、早く有名になることが重視され、「人間」を生きることが大事にされない。絵本の表現が、一層軽く(軽薄になり)、一層薄っぺらになる傾向がある。文を書く人にしても、絵を描く人にしても、表現が薄い。職人的人間が少なくなってきているのだろう。

 どうやったら、職人的人間になれるか。学校教育は、本来は人間の職人をつくるところであり、鋳型にはめるのではなく、ひとりひとりの子どもを丁寧に仕上げてほしいものだ。「出来あい」ではなく、人間であることの職人を育ててもらいたい。

 こじつけのように聞こえるかもしれないが、フッサールやメルロ=ポンテイの丁寧なものの見方や記述に接すると、現象学者というのは、職人のような仕事をする人たちではないかと思うのである。
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ドイツにおけるケルン・ボン大都市圏

『北西ヨーロッパの空間構造』より ケルン・ボン大都市圏郊外部の空間構造

 ドイツにおけるケルン・ボン大都市圏

  大都市ケルンのドイツにおける位置、すなわちドイツの都市システムの中の中心都市ケルン(2015年現在人口106万)は、図5-1の模式的な階層構造図上では、ベルリン(2015年人口352万)、ミュンヘン(2015年人口145万)、ハンブルク(2015年人口186万)、フランクフルト(2015年人口73万)に次ぐドイツ第5位の位置を占めている。なお、この図では都市規模が人口そのものではなく第三次産業で比較しており、縦軸は第三次産業従事者数である。ケルンはフランクフルトより順位が低いとされているが、これは第3次産業人口の規模で中心性を求めたからで、ケルンは大都市の割には工業人口が大きいためであろう。

  これらケルンより上位に位置づけられた4大都市は21万から23万の第三次産業就業者をもち、これらに続いてケルンがあり、比べうる同等クラス11万から17万の都市としては他に、デュッセルドルフ(2015年現在人口61万)、シュトゥットガルト(2015年現在人口62万)、ライプツィッヒ(2015年現在人口56万)、ドレスデン(2015年現在人口54万)が続くように示されている。

  それら諸大都市より少々小さめの地方中心・第三次就業人口6万から9万の都市には、ニュルンベルク、ボン、カールスルーヘ、ブレーメンがあり、さらにそれらに次ぐ地方中心都市は、5万前後の都市で、エッセン、ドルトムント、ミュンスター、マインツ、ヴィースバーデン、キール、ポツダム、マグデブルク、ケムニッツエ、ハレとなるという。そして最低次の地方中心都市には、ケルン周辺でいえば、アーヘン、コブレンツ、卜リアーが入ってくる。

  なお、第二次世界大戦前には、ベルリンはロンドン、パリにも対比しうる世界都市、メトロポリスであったが、国も、この首都ベルリン自身も西に分割され、西ベルリンは後背地を失ったため、地位を大きく後退させた。その代わりに、各地方の中心都市はバランスよく成長し、いねば多極分散型国土が形成されるに至った。この間ケルンは順調にドイツの大都市としての地位を保ってきた。なお、旧西ドイツの諸都市が順調に成長しているのに対し、旧東ドイツ地域の諸都市の成長が抑制されている様子が見てとれよう。

  ケルンはそれ自体も大都市であるし、より大きな4大都市と比べても、大都市圏の連合としてのライン・ルール大都市圏の最大都市であり、ほぼ同等の都市格のデュッセルドルフもすぐ近接して立地していることからもドイツでは重要な大都市圏の中心の一つであることは明らかである。また、その大都市圏では、デュッセルドルフがルールの主都市であるのに対し、ケルン・ボン大都市圏の中心がケルンとなっているともいえる。

 ケルン・ボン地域

  ケルン・ボン大都市圏は、一般的には、広くはライン・ルール大都市圏・人口約1000万の一部と言われる。ライン・ルール大都市圏は、ドイツの国土計画上の地域であるが、行政的にはノルドライン・ウェストファーレン州の中心都市地域を指し、その影響圏はノルドライン・ウェストファーレン州全体がそれに近いであろう。ただ、ここには、アーヘンとその周辺地域は入ってはいない。

  このライン・ルール大都市圏を三分し、ルール大都市圏(ドルトムント、エッセン、デュイスブルク、ボッフム、ゲルゼンキルヒェン、オーバーハウゼン:人口517万)、デュッセルドルフ大都市圏(デュッセルドルフ、ノイス、メンヒェングラードバッハ、ヴッパータール:人口290万)、ケルン・ボン大都市圏(ケルン、ボン、レーバークーゼン:280万)と考える見方もある。当然、この三つの大都市圏は明確に区別されるわけでもないが、この考え方だと、ケルン・ボン地域は独立した形になる。この分類・区分のケルン・ボン大都市圏は、ケルン県なしは行政管区に近いが、この県にはアーヘンが入ってくるが、先のケルン・ボン大都市圏:二はアーヘンは入らない。

  行政区分上では、ケルン・ボン大都市圏はノルッラクン・ウェストファーレン州のケルン行政管区に相当し、その人口は442万となる。ここにはアーヘンが入っている。

  筆者は、このケルン・ボン大都市圏の中、ボン市で合計3年生活し、その周辺地域を見ることができた。必ずしも研究的姿勢でこの地域を調べたわけではないが、ここで生活し、見聞できたこと、感じたことをもとに、文献を引き、入手可能なデータを付し、GooglemapやOpentopomaを利用し、各市町のホームページなどで近年の様子を確認しながら、都市を含めた北西ヨーロッパの構造を考える手がかり・事例として考えてみたい。すなわち、この地域の事例から、集落以上の中心地・都市とその周辺の構造とそれら地域の階層性を考えてみたい。

  なお、このケルン・ボン地域は農業地域としては、とくに平地地域、ケルンナー・ブフト(ユルリッヒアー・ベールデを含む)は気候条件もよく、レス土壌が覆う地力にも恵まれた自然環境のよい農業地域であり、比較的経営規模にも恵まれた資本主義的な農家が比較的早くに育ってきた地域である。加えて、貴族農場などに系譜をもつ大規模農家も併存した地域でもある。これら地域は伝統的には祷耕作物の割合の高い、畑作と家畜飼養を行う商業的な混合農業地域であった。ただ、複雑なことには、ケルンとボンの中間、フィレ丘陵斜面とライン河谷斜面には、ブドウ栽培の伝統をもつ村々もあり、そこでは産業革命期から疏菜栽培や果樹生産、苗木生産などのに重点を置いた園芸農業も発展した。そこでは、比較的経営規模の小さい農家が存在し続けてもいる。レームの資料から見ると、1960年時点ではケルン市近傍の経営規模は50ha層が中心であり、その郊外になると20~50ha層が中心を占めつつ園芸農業の5ha以下層も混じる地域に相当していた。なお、ライン右岸のベルギシェス・ランドと左岸の南側のアイフェルは、中位山地の典型であり、降水量も多くなり、地力も乏しい草地農業地域か森林となる。

  なお、ケルン西部の地域では、とくにフィレ丘陵地域を中心に褐炭の露天掘りが行われ、それに隣接して大きな火力発電所が設けられ、ドイツの重要なエネルギー基地となっている。そのために、エッツヴァイラーのハンバッハ採掘場、ゲラツヴァイラーの大規模採掘場は最長幅10km、長さ10kmに及ぶような広がりを、およそ300mもの長さの自動採掘機を利用して採掘している。こうした採掘には数か村、集落が丸ごと移転して行われたものもある。こうした採掘跡は人造湖として残されたり、植林地として自然に戻すことなどが行われてきた。自然破壊、環境問題にも繋がりかねない事業ではあったが、こうした大規模事業が可能であったのは、零細農家が少なく、大規模経営の多い結果、関係地主が相対的には少数であったこともあったであろう。それは、ケルン周辺の都市化についても予想されることである。

  集落形態でいうならば、平野部では、高密な不規則の集村が一般的であり、集村とは別に大規模経営でもあった孤立荘宅も所々に併存していた。集村は四側型か三側型の中庭を取り込んだ農家が密集していることが多かった。山地地域には小型の集村か小村が多かった。

  ドイツには、それどころか北フランスから西ドイツにいたる北西ヨーロッパの中心部全体でも、一般にすれば中世起源の都市が多いが、このライン・ルール大都市圏では、また、ケルン・ボン地域では、産業革命期以降に成立した歴史の新しい都市がかなりの数に上る。それらは、中世に起源をもち、産業革命期に発展したケルンなどの大都市の周囲にできた衛星都市であり、その核には田舎町Fleckenや大型の集村があることもあるし、そうした古い農村集落の間に全く新たに成立したニュータウンもある。さらに重要なのは、この地域の集村が核になって、産業革命から1960年代まではゆっくりと、それ以降は急激に郊外住宅地域が拡張してきたことである。この結果、これらかつての農業集落は衰退傾向は示さず、伝統ある田舎町も決して衰退はしていないし、それ相応に機能を続けている。
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豊田市図書館の28冊

160『世界を読み解く「宗教」入門』ビジネス教養として知っておきたい

331.2『英語原典で読む経済学史』

361.78『都市社会学』」歴史・思想・コミュニティ

316.88『ユダヤ人の歴史と思想』

141.5『マインドマップ 最強の教科書』脳の可能性を引き出す実践的思考術

121.6『日本哲学史』

361.78『多元的都市化と中国の発展』

361.85『ホワイト・トラッシュ』アメリカ低層白人の四百年史

331『人工知能の経済学』暮らし・働き方・社会はどう変わるのか

336『イノベーターになる』人と組織を「革新者」にする方法

492.5『医師に「運動しなさい」と言われたら最初に読む本』

331『アリエリー教授の「行動経済学」入門-お金編-』

519.81『「オホーツクの村」ものがたり』人工林を原始の森へ 40年の活動誌

596.7『一杯の珈琲から見える地球に隠された秘密と真実』もう隠せない嘘のベール

748『世界の戦争廃墟図鑑』--平和のための歴史遺産

954.7『死と生についての五つの瞑想』

021.43『いま、息をしている言葉で。』「光文社古典新訳文庫」誕生秘話

361.4『絶対役立つ社会心理学』日常の中の「あるある」と「なるほど」を探す

702.07『独身者たち』

368.53『ブラック・ハンド』アメリカ史上最凶野犯罪結社

316.1『「表現の自由」の明日へ』一人ひとりのために、共存社会のために

019.53『メトロ=ポンティと<子どもと絵本>の現象学』--子供たちの絵本を読むということ--

302.21『南北統一で世界のハブ化する朝鮮半島と日本のとるべき針路』トランプと金正恩で激動する世界を読み切る

322.16『現代語訳 近代日本を形作った22の言葉』五箇条の御誓文から日本国憲法まで

318『AIで変わる自治体業務--残る仕事、求められる人材』

369『社会で希望を満たす働きかた』ソーシャルデザインという仕事

377.5『博士号のとり方』学生と指導教員のための実践ハンドブック

335『世界のビジネスリーダーがいまアートから学んでいること』
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