『トクヴィル合衆国滞在記』より アメリカにおける平等について
アメリカにおけるさまざまな社会的地位のあいだの関係は、理解するのがかなりむずかしい。外国人は、以下の二つの誤謬のうちのひとつに陥るのがつねである。ひとつは、個人の長所による区別を除くと、合衆国には人間と人間のあいだにいかなる区別もないと思いこむ場合である。もうひとつは、富がここでは高い地位を占めているのに驚かされた場合で、ヨーロッパの多くの王政では、たとえばフランスのように、人びとはアメリカの共和制にくらべてもっと現実的で、もっと完全な平等を享受していると考えてしまうのである。以前に述べておいたように、この二つの見方には誇張があると思う。
ところで、まず観点を定めよう。この際、法の前の平等は問題にならない。その点では、アメリカは完全である。平等は一個の法律であるだけでなく、一個の事実である。次のように言えさえする。もしどこかほかの場所に不平等が存在しても、政治世界で中流階級と下層階級の利益になるように、豊かな償いがなされる。歴史的名声を持つ人物たちとともに、これらの階級が選挙で選ばれる席のほとんど全部を占めるということである。
私が語ろうとしているのは、社会生活の諸関係における平等である。この平等は幾人かの個人が同じ場所に集まり、彼らの考えと喜びとを分かち合い、彼らの家族を結婚によって互いに結び合わせることで実現する。ここでこそフランスとアメリカのあいだを区別しなければならない。違いは本質にかかわる。
フランスでは、なんと言おうと、出自に関する偏見がまだなお非常に大きな力を行使する。出自は、諸個人間では、いまだにほぼ乗り越えがたい障壁を形成している。フランスでは、職業はその職業についている人びとを、いまだにある程度階級に分けている。平等に対しては、この偏見がすべてのもののうちでもっとも害を及ぼす。というのもこの偏見は、富と時間の助けがあっても、だいたいのところ消しがたい、永久に残る区別を作り出すからである。こうした偏見の類は、アメリカにはまったく存在しない。出自は区別ではあるが、しかし、それを持つ人間を階級にはまったく分けない。出自は権利も、無能力も、世界と自分自身に対する義務も作り出さない。同じく職業による分類もほぼ知られていない。この分類は、諸個人の地位のあいだに、現実には、なんらかの相違をしっかりと確立する。そしてそれは地位よりもむしろ財産の相違である。しかし、それは、いかなる根本的不平等も作り出さない。というのも、それは家門間の結婚をいささかも妨げないからである(そこにこそ大きな試金石がある)。
とはいえ、アメリカにおいては、社会のあらゆる階級が同じサロンで混じり合っていると思ってはならない。そんなことは全然ない。同じ職業、同じ考え、同じ教育を持つ人びとは、ある種の本能で選び出され、他の人びとを排除して、結集する。違いはこの配列を仕切る規準が恣意的で、柔軟性を欠く規準ではまったくないということである。だからそれはほとんど不愉快なものではない。それは、だれにとっても決定的ではないし、だれもそれで傷つけられることはありえない。したがって、他人の政治的権利ばかりでなく、快楽をも分かち合いたいと思う、ひとつの階級のあの熱烈な欲望は、アメリカよりも、ほかのいたるところではるかに多く見られるのである。以上は、良い意味でわれわれの社会からアメリカ社会を区別する事柄である。以下は悪い意味でアメリカ社会を区別する事柄である。
アメリカにおいてあらゆる社会的区別の第一番目に来るものは、かねである。
かねが社会に作り出しているのは、別のところに位置し、他のあらゆる階級に対して優越性を非常に荒々しく感じさせるような真の意味での特権化された階級である。
社会における富のこの優越性は、平等に対して有害な結果を持つが、しかし、出自と職業の偏見に起因する結果の方が、平等にとっては、はるかに有害である。富の優越性は、永遠に続くわけではまったくないうえに、それは’がれの手にも届くものになっている。それは根本的なものではないが、しかし、おそらく、なおいっそうしゃくにさわるものではある。それは、アメリカにおいては、われわれのところにくらべてまったくくらべものにならないほどの慎みのなさを伴って現われ出ている。才能や長所は、富の優越性と競合するときには、フランスにおいては、決定的にこの優越性を打ち砕くのに対して、ここではそれらは、富の優越性に仕方なく地歩を譲らざるをえない。なぜ事態がこのようなことになっているのか、その原因については、いくつか挙げることができる。
フランスでは、身分間の不平等は極端だった。頭のなかだけの区別と戦うために、理屈にかなった唯一の区別、すなわち長所の区別に訴えなければならなかった。フランスでは知的な快楽や精神の天与に対しては、いつのときでも高い評価が与えられてきた。
アメリカにおいては、物質的で、外面的な一切の差別がない。富は、人間たちの美質を測るための自然な物差しとして現われてきた。そのうえアメリ力人は、精神の喜びに対しては、ほとんど感じるところがない民族である。財産を作ることのみに関心を寄せている彼らは、自然に富に対して一種の尊崇の念を抱くに違いない。富は彼らの羨望をかきたてるが、しかし、暗黙のうちに、彼らは富を第一の長所として認めている。
要するに、アメリカの人間は、われわれのところのように、社会生活の流れのなかで一定のカテゴリーにしたがって序列化されている。共通の習慣、教育、そして、なかんずく富こそがこれらの階級への分化を築き上げる。しかし、これらの規準は絶対的なものではないし、柔軟性を欠くわけではないし、永遠につづくものでもない。それらは片時の区別を打ち立てる。そしてそれらは厳密な意昧での階級をまったく形成しない。これらの規準は、あるひとりの人間に、他人に対するいかなる優位も与えないし、世間の評判さえも与えない。だから、二人の個人がけっして同一のサロンで顔を合わせることがないにもかかわらず、公共の広場で彼らが出会えば、一方は他方の顔を、高慢さを持たず、また羨望も持たずに見るのである。心底から、彼らはお互いに平等だと感じ、実際にも平等なのである。
ひとつの国民のなかにさまざまな階級があっても、そのあいだに平等があると判断されたい場合には、結婚がどのようにして行なわれているかを問うことにいつも行き着かなければならない。これが事柄の本質である。必要性や宮廷儀礼や政治の結果としての平等などというものは、表面的に存在でき、人目を欺くかもしれないが、しかし、家族の結婚を通じて、この平等を実際の局面にたまたま置こうとするときには、傷口に指で触れることになろう。〔一二月二日「オハイオ」の項目に続く〕