未唯への手紙
未唯への手紙
ウィトゲンシュタインは言葉の間をどう歩いたのか?
『歩行する哲学』より ウィトゲンシュタインは言葉の間をどう歩いたのか?
フィヨルドの奥の、人里離れた小屋の中でひとり、ウィトゲンシュタインは哲学を解体していた。
人口二〇〇人のショルデン。ノルウェーの中央部にある、世界最大のフィヨルドの一つの奥の奥、そのフィヨルドは山々の麓まで二〇〇キロメートルも、陸地にはまり込んでいる。村から三キロのところにあるヴァスバーケンの駐車場に車を止めて、舗装されていない道路、トラクターの道を歩く。実際トラクターは滅多に通らないのだが、このような泥んこの道をここではそう呼ぶのだ。たっぷり一五分ほど歩いたところで、橋をわたる(この川は話によると、鮭がよく獲れるらしい)、それからまもなく左へ曲がる。ここまでくれば間違える心配はないだろう、標示パネルがある。それがなくなっているか、完全に雪に覆われているのでなければ、先のところが矢印になっている細い板に「ウィトゲンシュタイン」と書かれているのが見える。
哲学者の名前が付いている通りは、少なくとも私の知る限り、ノルウェーでここだけだ。世界には哲学者の名前を掲げた散歩道やルート、通りがある。ケーニヒスベルクのカントの道とか、エズのニーチェの小道、あるいは京都の哲学の道とか。だが、ノルウェーには今のところ、この短くて急な坂道しかない。
この道はどんどん険しくなって行って、最後の数メートルはまったくもってきつい。すべてが凍る冬季に備えて、滑り止めのため、金属の棒が岩に固定されている。とはいえ、一旦小屋までたどり着いたときの素晴らしい眺望は、苦労の甲斐がある。
フィヨルドの奥、水面より二〇メートルほど上にあって、そこからは森に覆われた小高い岩壁に囲まれた、深くて穏やかな湖が見える。哲学者が住んでいたときは、そこにウィンチがあって、バケツで湖の水を汲んで小屋まで上げることができた。支柱はまだ残っているが、ケーブルは無くなっている。
質素だが、一応一軒の家だ。七メートル×八メートル。哲学者はそれを自分の手で建てた。生涯に数回、彼はここにきてかなり長い期間暮らしたものだ。最初は一九一三年と一九一四年で、最初の著書となる『論理哲学論考』を書いているときだった。それから一九三五年から一九三六年にかけて、ケンブリッジと大学での暮らしを逃れるためここへやって来た。最後は一九五〇年で、すでにがんに冒されていたが、その病はまもなく彼を連れ去ってしまう。
村へ行くためには、小道を下りてから、ボートに乗る。あるいは、フィヨルドが凍っているときは、その上を歩いて渡る。たいていは丸々何日も、誰にも会わず、誰とも話さない。それが彼にはよかった。あるいはそれほど悪くなかった。とにかく自分が必要とするものに浸っていられたから。
彼の隠れ家はショルデンだけではなかった。ウィトゲンシュタインはまた、オーストリア・アルプスの辺鄙な村(トラッテンバッ(、プーフペルク、オッタータール)で小学校教師として、修道院で庭師として、またアイルランドで隠者のように、孤独な暮らしを送った。
彼はウィーンの中心部で、王子のような少年時代を過ごした。ヨーロッパでも有数の裕福な家族で、家にはいつも画家や音楽家、詩人、実業家、銀行家らが出入りしていた。だがこのような暮らしに、彼は本当には興味がなく、父親の莫大な財産を相続したが、自身の持分のすべてを放棄した。彼の心を占めていたのは、この世界の外へ歩いて行くことだった。
「この世界の外へ歩くこと」それは何を意味するのか? 虚飾、見せかけ、規範を拒否すること。だがまた、「本当の」世界--農民や職人の世界、人間の文化の痕跡のない、人の住まない野生の風景に帰ること。この世界は、感じられ、見え、匂いがし、享受され、踏破される。しかし、語られることがない。あるいはほんのわずか、へたくそにしか。ウィトゲンシュタインの大きな問いとは、何を言語にすることができるかということ。そして何を沈黙したほうがいいかということ。
もし緑という色を全く知らない誰かが、それはどんなものかと訊きにきたら、あなたはなにが言えるだろうか? 「何ですか、緑って?」という質問に、言葉によって満足のいくやり方で答えることはできないだろう。緑色のものを示すことしかできない。緑色を指差して「これが緑ですよ!」と言うことになる。
その時あなたは、いつも話している現実が言語の外にあることがわかる。言葉で表現するのでは本当には語ることができないために、それを指差したり、単に示したりしなければならないことがあるのだ。これが、ウィトゲンシュタインが「神秘」と呼んだもので、言葉の外の、世界の直接的体験である。文化の対話、会話、果てしないおしゃべりとは無関係である。ショルデン、岩に張り付いた山小屋、凍った暗いフィヨルド、木々の静寂、緑。
さて、私が歩くことを忘れてしまったと思わないでほしい。哲学のことも、ウィトゲンシュタインの著書のことも忘れてはいない。実際、今その話をしているのだ。まさにその真っ最中、変わったやり方でだが。ところで、彼においては何もかもが風変わりだ。説明してみよう。とにかくやってみよう。
ウィトゲンシュタインの構想したことは、要するに、日常言語に参加して言葉の間を歩くことだった。外をではない。外は、歩けないことを彼はよく知っていた。言葉を使う存在が、言語の外に出ることはない。だが、罠の裏をかき、幻想による結びつきを解きほぐそうとすることはできる。ウィトゲンシュタインが「精神の痙攣」と呼んだもの、つまり誤った質問を解体する努力はできる。私たちは存在しない問題を、身をすり減らして解決しようとしたり、解決不能だと考えたり、隅々までほじくり返して探し回るが、実は本来の意味で問題そのものが存在しない。ただ、誤解と無理解があるだけなのだ。
この蜃気楼の世界には名前がある。それは哲学。当惑と深刻な袋小路、解決できないジレンマ……でできただまし絵の宇宙。だがそれらは実際には存在しないのだ。ウィトゲンシュタインにとって、哲学やそうしたあらゆる疑問は、私たちが言葉の使い方と、言語の性質を理解していないことから生まれている。私たちは言葉のあやを、それ自体で存在する現実だと思っ、ているため、この偽りの困難から抜け出すことができない。
解決法は根本的でなければならない。哲学を解体し、問いの網目をほどくこと。痙學を解消すること。それはある意味、言葉の間を歩くこと、一種、空気を通すために距離をとり、後ろに下がって、空間やすきまを作ることを想定している。それが、ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」で発明したことだった。
それは寸劇のような、一見したところ変で、突拍子もない話だが、言葉やものについて違った見方をさせる。例えば、私は私のいる建物に地下八階がないことを知っているが、一度もそのことを教えられたことがないし、自問したこともない。私はそのことを口に出して言ったとき、人が私に質問したときになってそれを知るのであって、その前にではない。
これはゲームと言っても娯楽ではなくて、実験だ。精神の行程であり、知的発見である。目的は、遊ぶためでなく、むしろ可動性や柔軟性を、私たちの言語における陳述に参加させることにある。
このように言葉の間を歩きながら哲学を解体するのは、息の長い作業である。際限がない、とは言わない。そうなると際限なく終わらないなら、結局無駄であると考えられてしまうかもしれないからだ。とはいえ、これは一年では、いや一生でも終わらない。ウィトゲンシュタインという学識豊かで注意深い未開人は、そのことを完璧に考えに入れていた。だから歩くことに固執したわけだし、自分が発明したゲームで、彼亡き後どうやって新しいすきまを作り続けるかを示してみせた。ケンブリッジの彼の学生たちは、彼が大教室はもちろん普通の教室でも講義をしないことを知っていた。少人数のグループを自宅に招いて、ノートのメモを使って話した。あるいは、学生を連れてキャンパスをぶらぶら歩きながら考えた。
これは何かを思い出させないだろうか?もちろん、あのことだ。この近代人は古代の哲学者たちの散歩に新たな価値を見出した。彼らの隠遁生活や精神の訓練を再発見したように。これで出発点に戻った。最初の哲学者たちは歩いていた。彼らの最後の一人も同じだ。なぜ最後? 彼の後にはもう哲学者がいなかっただろうか? もちろんいる。それでもウィトゲンシュタインは、哲学者の最後の人である。なぜなら、哲学の外へ向かって歩こうとしたから。彼の夢は哲学を清算すること、哲学を追い越すことだった。そうやってついに自由に歩くことだった。
フィヨルドの奥の、人里離れた小屋の中でひとり、ウィトゲンシュタインは哲学を解体していた。
人口二〇〇人のショルデン。ノルウェーの中央部にある、世界最大のフィヨルドの一つの奥の奥、そのフィヨルドは山々の麓まで二〇〇キロメートルも、陸地にはまり込んでいる。村から三キロのところにあるヴァスバーケンの駐車場に車を止めて、舗装されていない道路、トラクターの道を歩く。実際トラクターは滅多に通らないのだが、このような泥んこの道をここではそう呼ぶのだ。たっぷり一五分ほど歩いたところで、橋をわたる(この川は話によると、鮭がよく獲れるらしい)、それからまもなく左へ曲がる。ここまでくれば間違える心配はないだろう、標示パネルがある。それがなくなっているか、完全に雪に覆われているのでなければ、先のところが矢印になっている細い板に「ウィトゲンシュタイン」と書かれているのが見える。
哲学者の名前が付いている通りは、少なくとも私の知る限り、ノルウェーでここだけだ。世界には哲学者の名前を掲げた散歩道やルート、通りがある。ケーニヒスベルクのカントの道とか、エズのニーチェの小道、あるいは京都の哲学の道とか。だが、ノルウェーには今のところ、この短くて急な坂道しかない。
この道はどんどん険しくなって行って、最後の数メートルはまったくもってきつい。すべてが凍る冬季に備えて、滑り止めのため、金属の棒が岩に固定されている。とはいえ、一旦小屋までたどり着いたときの素晴らしい眺望は、苦労の甲斐がある。
フィヨルドの奥、水面より二〇メートルほど上にあって、そこからは森に覆われた小高い岩壁に囲まれた、深くて穏やかな湖が見える。哲学者が住んでいたときは、そこにウィンチがあって、バケツで湖の水を汲んで小屋まで上げることができた。支柱はまだ残っているが、ケーブルは無くなっている。
質素だが、一応一軒の家だ。七メートル×八メートル。哲学者はそれを自分の手で建てた。生涯に数回、彼はここにきてかなり長い期間暮らしたものだ。最初は一九一三年と一九一四年で、最初の著書となる『論理哲学論考』を書いているときだった。それから一九三五年から一九三六年にかけて、ケンブリッジと大学での暮らしを逃れるためここへやって来た。最後は一九五〇年で、すでにがんに冒されていたが、その病はまもなく彼を連れ去ってしまう。
村へ行くためには、小道を下りてから、ボートに乗る。あるいは、フィヨルドが凍っているときは、その上を歩いて渡る。たいていは丸々何日も、誰にも会わず、誰とも話さない。それが彼にはよかった。あるいはそれほど悪くなかった。とにかく自分が必要とするものに浸っていられたから。
彼の隠れ家はショルデンだけではなかった。ウィトゲンシュタインはまた、オーストリア・アルプスの辺鄙な村(トラッテンバッ(、プーフペルク、オッタータール)で小学校教師として、修道院で庭師として、またアイルランドで隠者のように、孤独な暮らしを送った。
彼はウィーンの中心部で、王子のような少年時代を過ごした。ヨーロッパでも有数の裕福な家族で、家にはいつも画家や音楽家、詩人、実業家、銀行家らが出入りしていた。だがこのような暮らしに、彼は本当には興味がなく、父親の莫大な財産を相続したが、自身の持分のすべてを放棄した。彼の心を占めていたのは、この世界の外へ歩いて行くことだった。
「この世界の外へ歩くこと」それは何を意味するのか? 虚飾、見せかけ、規範を拒否すること。だがまた、「本当の」世界--農民や職人の世界、人間の文化の痕跡のない、人の住まない野生の風景に帰ること。この世界は、感じられ、見え、匂いがし、享受され、踏破される。しかし、語られることがない。あるいはほんのわずか、へたくそにしか。ウィトゲンシュタインの大きな問いとは、何を言語にすることができるかということ。そして何を沈黙したほうがいいかということ。
もし緑という色を全く知らない誰かが、それはどんなものかと訊きにきたら、あなたはなにが言えるだろうか? 「何ですか、緑って?」という質問に、言葉によって満足のいくやり方で答えることはできないだろう。緑色のものを示すことしかできない。緑色を指差して「これが緑ですよ!」と言うことになる。
その時あなたは、いつも話している現実が言語の外にあることがわかる。言葉で表現するのでは本当には語ることができないために、それを指差したり、単に示したりしなければならないことがあるのだ。これが、ウィトゲンシュタインが「神秘」と呼んだもので、言葉の外の、世界の直接的体験である。文化の対話、会話、果てしないおしゃべりとは無関係である。ショルデン、岩に張り付いた山小屋、凍った暗いフィヨルド、木々の静寂、緑。
さて、私が歩くことを忘れてしまったと思わないでほしい。哲学のことも、ウィトゲンシュタインの著書のことも忘れてはいない。実際、今その話をしているのだ。まさにその真っ最中、変わったやり方でだが。ところで、彼においては何もかもが風変わりだ。説明してみよう。とにかくやってみよう。
ウィトゲンシュタインの構想したことは、要するに、日常言語に参加して言葉の間を歩くことだった。外をではない。外は、歩けないことを彼はよく知っていた。言葉を使う存在が、言語の外に出ることはない。だが、罠の裏をかき、幻想による結びつきを解きほぐそうとすることはできる。ウィトゲンシュタインが「精神の痙攣」と呼んだもの、つまり誤った質問を解体する努力はできる。私たちは存在しない問題を、身をすり減らして解決しようとしたり、解決不能だと考えたり、隅々までほじくり返して探し回るが、実は本来の意味で問題そのものが存在しない。ただ、誤解と無理解があるだけなのだ。
この蜃気楼の世界には名前がある。それは哲学。当惑と深刻な袋小路、解決できないジレンマ……でできただまし絵の宇宙。だがそれらは実際には存在しないのだ。ウィトゲンシュタインにとって、哲学やそうしたあらゆる疑問は、私たちが言葉の使い方と、言語の性質を理解していないことから生まれている。私たちは言葉のあやを、それ自体で存在する現実だと思っ、ているため、この偽りの困難から抜け出すことができない。
解決法は根本的でなければならない。哲学を解体し、問いの網目をほどくこと。痙學を解消すること。それはある意味、言葉の間を歩くこと、一種、空気を通すために距離をとり、後ろに下がって、空間やすきまを作ることを想定している。それが、ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」で発明したことだった。
それは寸劇のような、一見したところ変で、突拍子もない話だが、言葉やものについて違った見方をさせる。例えば、私は私のいる建物に地下八階がないことを知っているが、一度もそのことを教えられたことがないし、自問したこともない。私はそのことを口に出して言ったとき、人が私に質問したときになってそれを知るのであって、その前にではない。
これはゲームと言っても娯楽ではなくて、実験だ。精神の行程であり、知的発見である。目的は、遊ぶためでなく、むしろ可動性や柔軟性を、私たちの言語における陳述に参加させることにある。
このように言葉の間を歩きながら哲学を解体するのは、息の長い作業である。際限がない、とは言わない。そうなると際限なく終わらないなら、結局無駄であると考えられてしまうかもしれないからだ。とはいえ、これは一年では、いや一生でも終わらない。ウィトゲンシュタインという学識豊かで注意深い未開人は、そのことを完璧に考えに入れていた。だから歩くことに固執したわけだし、自分が発明したゲームで、彼亡き後どうやって新しいすきまを作り続けるかを示してみせた。ケンブリッジの彼の学生たちは、彼が大教室はもちろん普通の教室でも講義をしないことを知っていた。少人数のグループを自宅に招いて、ノートのメモを使って話した。あるいは、学生を連れてキャンパスをぶらぶら歩きながら考えた。
これは何かを思い出させないだろうか?もちろん、あのことだ。この近代人は古代の哲学者たちの散歩に新たな価値を見出した。彼らの隠遁生活や精神の訓練を再発見したように。これで出発点に戻った。最初の哲学者たちは歩いていた。彼らの最後の一人も同じだ。なぜ最後? 彼の後にはもう哲学者がいなかっただろうか? もちろんいる。それでもウィトゲンシュタインは、哲学者の最後の人である。なぜなら、哲学の外へ向かって歩こうとしたから。彼の夢は哲学を清算すること、哲学を追い越すことだった。そうやってついに自由に歩くことだった。
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ヘーゲルの「ひとりでに歩く道」
『歩行する哲学』より ヘーゲルの「ひとりでに歩く道」
いつも座っていても、世界の歴史がどのように歩むかを、誰よりもよく考えることは可能だ。
ゲオルグ・フリードリヒ・ヘーゲルをイメージしようとしたら、いつも座っていたという印象がある。この人は決して歩かなかったようだ。歩いたとしてもほんの少しだけ。ギリギリ必要なだけで、ほぼ歩かなかったと言っていい。寝床から仕事机まで、図書室から講義室まで。ヘーゲルは全生涯を読むこと、書くこと、教えることで過ごした。比較的数少ない彼を描いた絵は、肖像画にせよ、デッサンや版画にせよ、どれも肘掛けがあったりなかったりする椅子に座って、机に向かって仕事をしているか、大学の教壇でやはり座ったまま、斜めになった書見台に載せた手書きのメモを前に教えているところだ。立って散歩したり、ハイキングをしたり、徒歩旅行をしているへーゲルとなると想像が難しくなるほど、どんな時も、この偉大な思想家は物理的にじっとしていたようである。子供の頃でさえ、いつも本ばかり読んでいた。早熟な天才は、他の子供が走るのを覚える年に、読むことを覚えた。かなり早くからラテン語を習得し、次いでギリシャ語、そしてまだ幼い頃からボール遊びより論理学概論のほうを好んだ。のちに、家庭教師から学監補佐、バンペルク新聞の編集長、それから大学教授ハイエナ、次にベルリン)となったが、ずっと座りっぱなしで、例外的に立ち上がっても動くことはなかった。この人が片方の足をもう一方の前に出したことがあるかどうか、疑わしい。
いやそれがあるのだ。ヘーゲルは二六歳のとき一度、ベルン地方のアルプスを旅したことがあった。それは確かな事実で、いくつもの一致した証言がある。このような機会に少しも歩かなかったとはさすがに考えにくい。滞在の主な目的であった眺望を楽しむために、少なくとも数時間は歩いたのではないだろうか。徒歩以外でそこへ到達するのは難しい。ともかく山のほうが動かないことは確かなのだから。ところが、この旅の間の彼の日記を見ると、がっかりしているような記述しかない。彼より前に、あるいは同じ頃そこを見たロマン派の作家たちは皆、連なる高い山々をのぞみ、切り立った崖やギザギザの岩、尖った山頂、断崖絶壁を目にして、皆感動でぞくぞくし、恐れや陶酔に震えたというのに。カントは同じ頃、同じ風景を想像して、このような自然が威力と栄光を見せる偉大な光景を前にしたら人が抱くであろう、圧迫感と高揚の混ざった「崇高」な感情を詳細に語ったというのに……ヘーゲルはアルプスを前に、こう記すにとどまった。「なるほどこんなものか」
このじっとして、特別歩かなかった人物のパラドックスは、彼が世界の歩み--物事の、自然の、のみならず思想の、社会の、歴史的瞬間の歩み--について誰よりも鋭く、深く、力強く考えたことだ。というのもヘーゲルにおいては、すべてが歩き、すべてが動き、すべてが前進し、すべてが進化し、変身する。なにものも動かずにいたり、同じであったり、永遠に硬直したりしない。
世界の歩みや歴史の歩み、精神の歩みは、物理的、身体的、具体的な「本当に」歩くことと全く関係がないのだろうか? 人間の実際の歩きは皆、初期の状態からのずれ、解離から始まり、転ぶ危険をはらんでいるが、その危険はすぐにもう一方の足が前に出されることによって避けられる。
ところで、この図式こそはヘーゲルが生成を、したがって現実を説明するために、自然にせよ文明にせよ、すべての中心に置いたものだ。ヘーゲルの目で見ると、現実は歩いている。なぜなら現実はそれ自体、中から、不安定になり、この不安定を食い止めて均衡状態を取り戻すに至るが、それがまた今度は不安定に陥るからだ。
ヘーゲルの天才的なひらめきだろうか?現実の中心にあり、それを中から動かしている、歩くことのあらゆる形態を考えたのは。すべては効率よく、不安定--安定の回復--不安定というすべてのものに共通の作用によって、自分のシステムの中を歩いている。このプロセスは、自然の中、歴史の中、思考の中で、働いている。その意味では、すべて存在するものは、歩いている。
例えば、自然において、芽は、ゆがみ、自ら壊れて不安定になる。虚無に陥るとか完全に消滅するためでなく、花になるため、つまり新しいかたちで再び安定するためだ。そして今度は、花が不安定化し、姿を変え、新しい姿で--つまり果実という形で--落ち着く。この自走型の歩みでは、それぞれのものが、中から崩壊して、別のものとして生き続ける、別であって同じであるものが、取り消されると同時に維持されていく。その歩みの名は、弁証法。
この弁証法という用語はよく知られているが、しばしば誤解されている。弁証法は対話ではない。確かにギリシャ語では「問答法あるいは対話術」を意味する。しかし、ヘーゲルにおいては、言葉での勝負とは違う意味であって、弁論の巧みさとはなんら関わりがない。「弁証法」は、世界の自律的な歩みであって、物事そのものを自律的に進ませる現実の内部の破調であり、まずはその中に精神が具現されている人間の歴史の歩みである。このような歩みは、実際、非常に強力だ。この歩みは、現れては衰えながら続いていく出来事、社会、文明をすべて含んでいる。ヘーゲルにおいては、知識も芸術も、概念も学説も動いている。この世界の変化のプロセスは、その意味を明らかにしながら前進するが、出来事が起こったあと、少しずつ、段階を追ってである。そしてこの意味は外の歴史には及ばない。起こる前にも、その内部以外にも存在しない。それは一歩一歩、出来事そのものから、時代の流れに沿って、刻々と生じる。人はもちろん歴史を作るが、自分では今なにを作っているのかわからない、というのも最終結果は彼らの目論んだものとは全く違うからだ。
人間は、出来事の霧の中で、自分の個人的計画や自己中心的な野心、個人的確信に従って行動する。だが、彼らの行動の衝撃から、―矛盾したり、混乱したり、欺かれたものであったりするのだが--毎回異なったある状況が生まれ、それが彼らのおかげで、と同時に彼らの意志とは独立して歩むことになる。この状況は最終的に、それ特有の意味を持つが、それはおそらく誰も望んでもいなかったし、想像さえしていなかったものだ。個人やグループ間の数限りない争いの結果がある日顔を現す。誰もそれを描いていないが、誰もがその表情を見分けることができる。ヘーゲルが目にしていたヨーロッパが、歴史のこの弁証法的な歩みをよく物語っている。王政は自らの内部の緊張によって、乾いた音を立てて壊れた。民衆の要求が君主制を揺さぶり、旧特権の廃止が内部から変質させた。フランス国王の廃位から、新たな政体が生まれた。人間と市民の権利の国、共和国である。そして今度はこの新しい状況が、内部の対立によって崩れ、秩序を失い、内戦、恐怖政治、行き過ぎた犯罪的な平等主義を生んだ。ナポレオンの帝国は、革命を消滅させたが、それを維持することもした。君主制と市民の平等を両立させるという一つの運動で、革命の終了宣言をするとともに、存続させたのだ。しかしながら、この歴史の必然的な前進において、なにも前もって熟慮されていなかったし、あらかじめ定められてもいなかった。
最終的に歴史ではなにが実現されるのだろう? 精神だとヘーゲルは答える。つまり、神だと。神は歴史が構成する段階的プロセスの中で自分を作り上げ、自ずから生じ、生み、知らしめる。歴史は神のプロセスの現れであり、精神が真実を知り、実現する漸進的な歩みである。民族から民族へ、時代から時代へ、神は歴史を通って、歩いて自分自身に会いに行く。これが非常に大雑把な、ヘーゲルの大きなヴィジョンだ。
確かに歩くことが問題となっている。しかもこの哲学者にとって、歩くことは現実であり、比喩ではない。歴史の歩み、知識の歩み、思考の歩み、精神の歩み……は、ヘーゲルにとって、具体的な思考の自己創造と自己進化の運動の変形(バリアント)にほかならない。ヘーゲルは、彼のシステムでその全体を把握していると主張した。現実の歩みと一致させるために、「思考を絶する概念」を探求して作り上げた。世界そのものの動きを、思考と現実がその歩みを区別できないくらい、密接に表現できる思考の動きというものを見つけたかったのだ。
彼のシステムに関しては、現実から由来したのであって、外部で着想されたのではないとして、ヘーゲルは「ひとりでに歩く道」について語る。私は弁証法のこれ以上の定義を知らない。このじっとしていた人物は、世界が歩いていること、道と歩みは一体であること、歩くことと無関係に存在する歩く人はいないこと……を理解していた。座ってばかりいた思想家にしては、悪くない。
もうじきその反抗的な息子であるマルクスが、この弁証法は、ヘーゲルにおいては「頭で」歩いていると言うだろう。彼はそれを効果的に歩ませるために、「足に」戻すことに着手しなければならない。政治的闘争に介入できる力が持てるように、「先史時代」を、人間による人間の搾取を、窮状が世の中を支配しているのを終わらせるために、両足の上に立たねばならない。他の人々がすでに歩き始めている。
いつも座っていても、世界の歴史がどのように歩むかを、誰よりもよく考えることは可能だ。
ゲオルグ・フリードリヒ・ヘーゲルをイメージしようとしたら、いつも座っていたという印象がある。この人は決して歩かなかったようだ。歩いたとしてもほんの少しだけ。ギリギリ必要なだけで、ほぼ歩かなかったと言っていい。寝床から仕事机まで、図書室から講義室まで。ヘーゲルは全生涯を読むこと、書くこと、教えることで過ごした。比較的数少ない彼を描いた絵は、肖像画にせよ、デッサンや版画にせよ、どれも肘掛けがあったりなかったりする椅子に座って、机に向かって仕事をしているか、大学の教壇でやはり座ったまま、斜めになった書見台に載せた手書きのメモを前に教えているところだ。立って散歩したり、ハイキングをしたり、徒歩旅行をしているへーゲルとなると想像が難しくなるほど、どんな時も、この偉大な思想家は物理的にじっとしていたようである。子供の頃でさえ、いつも本ばかり読んでいた。早熟な天才は、他の子供が走るのを覚える年に、読むことを覚えた。かなり早くからラテン語を習得し、次いでギリシャ語、そしてまだ幼い頃からボール遊びより論理学概論のほうを好んだ。のちに、家庭教師から学監補佐、バンペルク新聞の編集長、それから大学教授ハイエナ、次にベルリン)となったが、ずっと座りっぱなしで、例外的に立ち上がっても動くことはなかった。この人が片方の足をもう一方の前に出したことがあるかどうか、疑わしい。
いやそれがあるのだ。ヘーゲルは二六歳のとき一度、ベルン地方のアルプスを旅したことがあった。それは確かな事実で、いくつもの一致した証言がある。このような機会に少しも歩かなかったとはさすがに考えにくい。滞在の主な目的であった眺望を楽しむために、少なくとも数時間は歩いたのではないだろうか。徒歩以外でそこへ到達するのは難しい。ともかく山のほうが動かないことは確かなのだから。ところが、この旅の間の彼の日記を見ると、がっかりしているような記述しかない。彼より前に、あるいは同じ頃そこを見たロマン派の作家たちは皆、連なる高い山々をのぞみ、切り立った崖やギザギザの岩、尖った山頂、断崖絶壁を目にして、皆感動でぞくぞくし、恐れや陶酔に震えたというのに。カントは同じ頃、同じ風景を想像して、このような自然が威力と栄光を見せる偉大な光景を前にしたら人が抱くであろう、圧迫感と高揚の混ざった「崇高」な感情を詳細に語ったというのに……ヘーゲルはアルプスを前に、こう記すにとどまった。「なるほどこんなものか」
このじっとして、特別歩かなかった人物のパラドックスは、彼が世界の歩み--物事の、自然の、のみならず思想の、社会の、歴史的瞬間の歩み--について誰よりも鋭く、深く、力強く考えたことだ。というのもヘーゲルにおいては、すべてが歩き、すべてが動き、すべてが前進し、すべてが進化し、変身する。なにものも動かずにいたり、同じであったり、永遠に硬直したりしない。
世界の歩みや歴史の歩み、精神の歩みは、物理的、身体的、具体的な「本当に」歩くことと全く関係がないのだろうか? 人間の実際の歩きは皆、初期の状態からのずれ、解離から始まり、転ぶ危険をはらんでいるが、その危険はすぐにもう一方の足が前に出されることによって避けられる。
ところで、この図式こそはヘーゲルが生成を、したがって現実を説明するために、自然にせよ文明にせよ、すべての中心に置いたものだ。ヘーゲルの目で見ると、現実は歩いている。なぜなら現実はそれ自体、中から、不安定になり、この不安定を食い止めて均衡状態を取り戻すに至るが、それがまた今度は不安定に陥るからだ。
ヘーゲルの天才的なひらめきだろうか?現実の中心にあり、それを中から動かしている、歩くことのあらゆる形態を考えたのは。すべては効率よく、不安定--安定の回復--不安定というすべてのものに共通の作用によって、自分のシステムの中を歩いている。このプロセスは、自然の中、歴史の中、思考の中で、働いている。その意味では、すべて存在するものは、歩いている。
例えば、自然において、芽は、ゆがみ、自ら壊れて不安定になる。虚無に陥るとか完全に消滅するためでなく、花になるため、つまり新しいかたちで再び安定するためだ。そして今度は、花が不安定化し、姿を変え、新しい姿で--つまり果実という形で--落ち着く。この自走型の歩みでは、それぞれのものが、中から崩壊して、別のものとして生き続ける、別であって同じであるものが、取り消されると同時に維持されていく。その歩みの名は、弁証法。
この弁証法という用語はよく知られているが、しばしば誤解されている。弁証法は対話ではない。確かにギリシャ語では「問答法あるいは対話術」を意味する。しかし、ヘーゲルにおいては、言葉での勝負とは違う意味であって、弁論の巧みさとはなんら関わりがない。「弁証法」は、世界の自律的な歩みであって、物事そのものを自律的に進ませる現実の内部の破調であり、まずはその中に精神が具現されている人間の歴史の歩みである。このような歩みは、実際、非常に強力だ。この歩みは、現れては衰えながら続いていく出来事、社会、文明をすべて含んでいる。ヘーゲルにおいては、知識も芸術も、概念も学説も動いている。この世界の変化のプロセスは、その意味を明らかにしながら前進するが、出来事が起こったあと、少しずつ、段階を追ってである。そしてこの意味は外の歴史には及ばない。起こる前にも、その内部以外にも存在しない。それは一歩一歩、出来事そのものから、時代の流れに沿って、刻々と生じる。人はもちろん歴史を作るが、自分では今なにを作っているのかわからない、というのも最終結果は彼らの目論んだものとは全く違うからだ。
人間は、出来事の霧の中で、自分の個人的計画や自己中心的な野心、個人的確信に従って行動する。だが、彼らの行動の衝撃から、―矛盾したり、混乱したり、欺かれたものであったりするのだが--毎回異なったある状況が生まれ、それが彼らのおかげで、と同時に彼らの意志とは独立して歩むことになる。この状況は最終的に、それ特有の意味を持つが、それはおそらく誰も望んでもいなかったし、想像さえしていなかったものだ。個人やグループ間の数限りない争いの結果がある日顔を現す。誰もそれを描いていないが、誰もがその表情を見分けることができる。ヘーゲルが目にしていたヨーロッパが、歴史のこの弁証法的な歩みをよく物語っている。王政は自らの内部の緊張によって、乾いた音を立てて壊れた。民衆の要求が君主制を揺さぶり、旧特権の廃止が内部から変質させた。フランス国王の廃位から、新たな政体が生まれた。人間と市民の権利の国、共和国である。そして今度はこの新しい状況が、内部の対立によって崩れ、秩序を失い、内戦、恐怖政治、行き過ぎた犯罪的な平等主義を生んだ。ナポレオンの帝国は、革命を消滅させたが、それを維持することもした。君主制と市民の平等を両立させるという一つの運動で、革命の終了宣言をするとともに、存続させたのだ。しかしながら、この歴史の必然的な前進において、なにも前もって熟慮されていなかったし、あらかじめ定められてもいなかった。
最終的に歴史ではなにが実現されるのだろう? 精神だとヘーゲルは答える。つまり、神だと。神は歴史が構成する段階的プロセスの中で自分を作り上げ、自ずから生じ、生み、知らしめる。歴史は神のプロセスの現れであり、精神が真実を知り、実現する漸進的な歩みである。民族から民族へ、時代から時代へ、神は歴史を通って、歩いて自分自身に会いに行く。これが非常に大雑把な、ヘーゲルの大きなヴィジョンだ。
確かに歩くことが問題となっている。しかもこの哲学者にとって、歩くことは現実であり、比喩ではない。歴史の歩み、知識の歩み、思考の歩み、精神の歩み……は、ヘーゲルにとって、具体的な思考の自己創造と自己進化の運動の変形(バリアント)にほかならない。ヘーゲルは、彼のシステムでその全体を把握していると主張した。現実の歩みと一致させるために、「思考を絶する概念」を探求して作り上げた。世界そのものの動きを、思考と現実がその歩みを区別できないくらい、密接に表現できる思考の動きというものを見つけたかったのだ。
彼のシステムに関しては、現実から由来したのであって、外部で着想されたのではないとして、ヘーゲルは「ひとりでに歩く道」について語る。私は弁証法のこれ以上の定義を知らない。このじっとしていた人物は、世界が歩いていること、道と歩みは一体であること、歩くことと無関係に存在する歩く人はいないこと……を理解していた。座ってばかりいた思想家にしては、悪くない。
もうじきその反抗的な息子であるマルクスが、この弁証法は、ヘーゲルにおいては「頭で」歩いていると言うだろう。彼はそれを効果的に歩ませるために、「足に」戻すことに着手しなければならない。政治的闘争に介入できる力が持てるように、「先史時代」を、人間による人間の搾取を、窮状が世の中を支配しているのを終わらせるために、両足の上に立たねばならない。他の人々がすでに歩き始めている。
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コミュニティによる資産所有・管理をめぐる政策展開
『公共ガバナンス論』より 英国におけるコミュニティによる資産所有・管理
公有資産のコミュニティヘの移転は、2003年に地方自治法の一般処分同意(General Disposal Consent)事項が発令されたことで現実に動き始めた。この同意によって、自治体等の公的団体は、所管大臣の同意なしにコミュニティ組織等に公有資産を市価よりも低い割引(譲許)価格で処分することが可能になった。
以降、2006年公表の「地方自治白書」(Local Government White Paper)など、様々な政府報告、政策文書のなかでコミュニティヘの資産移転の推進が謳われることになった。なかでも影響力が大きかったのが、2007年に答申された政府諮問委員会報告、「クワーク・レビュー」(Quirk Review)であった。
同レビューは、コミュニティ所有・管理のリスクを検証し、「その便益がリスクだけでなく機会費用をも上回る可能性がある」と指摘するとともに、「リスクは最小化でき、管理可能である」との見解を示した。また、資産移転をめぐる現行制度の有効性を評価し、自治体が資産移転を行うに必要な権限を十分に有し、資産移転が既成の枠組みのなかで「実現可能な、合法的で潜在的に有益な選択肢」であることを認めた。こうした見解は、それまで資産移転への関心が希薄であった自治体に少なからぬインパクトを与え、以後、各自治体で資産移転戦略の策定が相次ぐこととなった。
加えて、クワーク・レビューは資産移転の推進に係る一連の政策提言を行い、政府は、その提言に沿って各種施策を導入した。コミュニティ・地方自治省(DCLG)は資鉦雛転に柘るガイダンスを発行し、自治体等の意識啓発に努めただけでなく、デモンストレーション・プログラム(AACP:Advancing Asset for Communities Programme)を開始し、実際に、資産移転を推進しようとする地域に対し、事業遂行能力向上などの観点から専門的知識や技術的助言の提供を行った。また、内閣府管轄下のサード・セクター庁(OTS)は「コミュニティ資産プログラム」(CAP:Community Assets Programme)と呼ばれる補助スキームを創設し、資産移転に係る資金助成を実施した。
さらに、政府は2008年公表の「エンパワメント白書」(Communities in Control:Empowerment White Paper)において、資産移転に係る情報、助言、研究の拠点として資産移転ユニット(ATU:Asset Transfer Unit)設置の方針をうち出した[DCLG 2008b :119].
そして翌2009年には、DCLGの財政支援のもと、地域開発トラスト協議会(DTA:Development Trust Association)の手によってATUの設立が図られた。ATUは様々な政府プログラムに関与し、特に、前述のAACP、CAPの実施に際しては、イングランドの自治体の約4分の1に相当する104自治体の173事業に対し直接的な支援を提供した。
2010年になると、ニューレーバーに代わって、連立政権が政権の座に就いたが、資産移転への政策的関心は基本的に継承された。資産移転は、連立政権が唱える「大きな社会」(Big Society)の理念を具現化するものと捉えられた。
連立政権のもとでのコミュニティによる資産所有・管理に係る最も重要な取り組みは、2012年9月に発効した地域主義法(Localism Act 2011)の導入であった。同法は、コミュニティヘのエンパワメントを促進するため、コミュニティに様々な権利を付与し、資産の入札権もその1つとして認めた.
これにより、コミュニティ・グループ等は、コミュニティにとって価値のある資産を自治体に推薦することが可能となった(推薦にあたっては、資産移転の対象であった自治体が所有する資産だけでなく、民間所有の資産も対象となった)。
一方、資産の推薦を受けた自治体は、当該資産に価値が認められる場合、自治体ごとに作成する「コミュニティ・バリューを有する資産リスト」にそれを掲載し、その事実を推薦者や所有者に通知する義務が生じた、他方、リスト掲載資産の所有者は、当該資産の売却を決定した際には、自治体にその旨通知することを求められた。
そして、リストに掲載された資産が売却される際には、入札への参加意向を示したコミュニティ・グループ等に対し、6ヵ月間の‘完全猶予期間'(full moratorium period)が与えられた。この間に、コミュニティ・グループ等は、必要な資金の調達を行うなど、入札に向けた準備が可能となった。
連立政権はニューレーバーにならって、コミュニティ資産所有・運営助成プログラム(COMA:Community Ownership and Management of Assets Grant Programme)と呼ばれる、資産の所有・管理をめざす地域、コミュニティヘの支援策を導入した。このプログラムでは、コミュニティ・グループ等が実施する実現可能性調査への補助とともに、資産移転(及び入札権)による資産取得への補助も行った。プログラムは3ヵ年度(2012年7月~2015年3月)に及び、その間、延べ534の団体に総額176万ポンドにのぼる支援が行われた(実現可能性調査への支援プログラムは、 2015年度にも実施)。こうした支援策の効果もあり、コミュニティ・バリューを有する資産の件数は、イングランド全土で4000件以上に達している。
公有資産のコミュニティヘの移転は、2003年に地方自治法の一般処分同意(General Disposal Consent)事項が発令されたことで現実に動き始めた。この同意によって、自治体等の公的団体は、所管大臣の同意なしにコミュニティ組織等に公有資産を市価よりも低い割引(譲許)価格で処分することが可能になった。
以降、2006年公表の「地方自治白書」(Local Government White Paper)など、様々な政府報告、政策文書のなかでコミュニティヘの資産移転の推進が謳われることになった。なかでも影響力が大きかったのが、2007年に答申された政府諮問委員会報告、「クワーク・レビュー」(Quirk Review)であった。
同レビューは、コミュニティ所有・管理のリスクを検証し、「その便益がリスクだけでなく機会費用をも上回る可能性がある」と指摘するとともに、「リスクは最小化でき、管理可能である」との見解を示した。また、資産移転をめぐる現行制度の有効性を評価し、自治体が資産移転を行うに必要な権限を十分に有し、資産移転が既成の枠組みのなかで「実現可能な、合法的で潜在的に有益な選択肢」であることを認めた。こうした見解は、それまで資産移転への関心が希薄であった自治体に少なからぬインパクトを与え、以後、各自治体で資産移転戦略の策定が相次ぐこととなった。
加えて、クワーク・レビューは資産移転の推進に係る一連の政策提言を行い、政府は、その提言に沿って各種施策を導入した。コミュニティ・地方自治省(DCLG)は資鉦雛転に柘るガイダンスを発行し、自治体等の意識啓発に努めただけでなく、デモンストレーション・プログラム(AACP:Advancing Asset for Communities Programme)を開始し、実際に、資産移転を推進しようとする地域に対し、事業遂行能力向上などの観点から専門的知識や技術的助言の提供を行った。また、内閣府管轄下のサード・セクター庁(OTS)は「コミュニティ資産プログラム」(CAP:Community Assets Programme)と呼ばれる補助スキームを創設し、資産移転に係る資金助成を実施した。
さらに、政府は2008年公表の「エンパワメント白書」(Communities in Control:Empowerment White Paper)において、資産移転に係る情報、助言、研究の拠点として資産移転ユニット(ATU:Asset Transfer Unit)設置の方針をうち出した[DCLG 2008b :119].
そして翌2009年には、DCLGの財政支援のもと、地域開発トラスト協議会(DTA:Development Trust Association)の手によってATUの設立が図られた。ATUは様々な政府プログラムに関与し、特に、前述のAACP、CAPの実施に際しては、イングランドの自治体の約4分の1に相当する104自治体の173事業に対し直接的な支援を提供した。
2010年になると、ニューレーバーに代わって、連立政権が政権の座に就いたが、資産移転への政策的関心は基本的に継承された。資産移転は、連立政権が唱える「大きな社会」(Big Society)の理念を具現化するものと捉えられた。
連立政権のもとでのコミュニティによる資産所有・管理に係る最も重要な取り組みは、2012年9月に発効した地域主義法(Localism Act 2011)の導入であった。同法は、コミュニティヘのエンパワメントを促進するため、コミュニティに様々な権利を付与し、資産の入札権もその1つとして認めた.
これにより、コミュニティ・グループ等は、コミュニティにとって価値のある資産を自治体に推薦することが可能となった(推薦にあたっては、資産移転の対象であった自治体が所有する資産だけでなく、民間所有の資産も対象となった)。
一方、資産の推薦を受けた自治体は、当該資産に価値が認められる場合、自治体ごとに作成する「コミュニティ・バリューを有する資産リスト」にそれを掲載し、その事実を推薦者や所有者に通知する義務が生じた、他方、リスト掲載資産の所有者は、当該資産の売却を決定した際には、自治体にその旨通知することを求められた。
そして、リストに掲載された資産が売却される際には、入札への参加意向を示したコミュニティ・グループ等に対し、6ヵ月間の‘完全猶予期間'(full moratorium period)が与えられた。この間に、コミュニティ・グループ等は、必要な資金の調達を行うなど、入札に向けた準備が可能となった。
連立政権はニューレーバーにならって、コミュニティ資産所有・運営助成プログラム(COMA:Community Ownership and Management of Assets Grant Programme)と呼ばれる、資産の所有・管理をめざす地域、コミュニティヘの支援策を導入した。このプログラムでは、コミュニティ・グループ等が実施する実現可能性調査への補助とともに、資産移転(及び入札権)による資産取得への補助も行った。プログラムは3ヵ年度(2012年7月~2015年3月)に及び、その間、延べ534の団体に総額176万ポンドにのぼる支援が行われた(実現可能性調査への支援プログラムは、 2015年度にも実施)。こうした支援策の効果もあり、コミュニティ・バリューを有する資産の件数は、イングランド全土で4000件以上に達している。
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ヘッドの変更 7.1.1~7.2.4、7.6.1~7.6.4
7.1.1~7.2.4、7.6.1~7.6.4
7.1.1 放り込まれた
大きな意思の力
与えられた時間
過ぎていく時間
時を超える
7.1.2 独りぼっち
他者は存在しない
一人の世界
ロマンチスト
未唯への手紙
7.1.3 好奇心
扉を開けてみる
非日常性
自分に素直
どこでも考える
7.1.4 ツール
アナログ
デジタル
ハイブリッド
超アナログ
7.2.1 生まれてきた
理由を知りたい
存在と時間
宇宙に一人
日常を表現
7.2.2 無に甘える
無がすべて
究極のカタチ
心の拠り所
ノマドのあり方
7.2.3 私は私の世界
内なる世界
日常と非日常
奥さんがいる
未唯の存在
7.2.4 役割を設定
内なる数学者
外なる社会学者
時空間の歴史学者
預言の未来学者
7.6.1 未唯空間
生きてみよう
まとめる
多様な表現
内なる世界
7.6.2 生活規範
本と図書館
未来の歴史
私の独我論
新しい数学
7.6.3 未唯宇宙
他者を超える
知が主導
宇宙へ飛び出す
歴史は変わる
7.6.4 家族制度
新しい形態
制約事項
未婚者の存在
個の自立
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