『歩行する哲学』より ウィトゲンシュタインは言葉の間をどう歩いたのか?
フィヨルドの奥の、人里離れた小屋の中でひとり、ウィトゲンシュタインは哲学を解体していた。
人口二〇〇人のショルデン。ノルウェーの中央部にある、世界最大のフィヨルドの一つの奥の奥、そのフィヨルドは山々の麓まで二〇〇キロメートルも、陸地にはまり込んでいる。村から三キロのところにあるヴァスバーケンの駐車場に車を止めて、舗装されていない道路、トラクターの道を歩く。実際トラクターは滅多に通らないのだが、このような泥んこの道をここではそう呼ぶのだ。たっぷり一五分ほど歩いたところで、橋をわたる(この川は話によると、鮭がよく獲れるらしい)、それからまもなく左へ曲がる。ここまでくれば間違える心配はないだろう、標示パネルがある。それがなくなっているか、完全に雪に覆われているのでなければ、先のところが矢印になっている細い板に「ウィトゲンシュタイン」と書かれているのが見える。
哲学者の名前が付いている通りは、少なくとも私の知る限り、ノルウェーでここだけだ。世界には哲学者の名前を掲げた散歩道やルート、通りがある。ケーニヒスベルクのカントの道とか、エズのニーチェの小道、あるいは京都の哲学の道とか。だが、ノルウェーには今のところ、この短くて急な坂道しかない。
この道はどんどん険しくなって行って、最後の数メートルはまったくもってきつい。すべてが凍る冬季に備えて、滑り止めのため、金属の棒が岩に固定されている。とはいえ、一旦小屋までたどり着いたときの素晴らしい眺望は、苦労の甲斐がある。
フィヨルドの奥、水面より二〇メートルほど上にあって、そこからは森に覆われた小高い岩壁に囲まれた、深くて穏やかな湖が見える。哲学者が住んでいたときは、そこにウィンチがあって、バケツで湖の水を汲んで小屋まで上げることができた。支柱はまだ残っているが、ケーブルは無くなっている。
質素だが、一応一軒の家だ。七メートル×八メートル。哲学者はそれを自分の手で建てた。生涯に数回、彼はここにきてかなり長い期間暮らしたものだ。最初は一九一三年と一九一四年で、最初の著書となる『論理哲学論考』を書いているときだった。それから一九三五年から一九三六年にかけて、ケンブリッジと大学での暮らしを逃れるためここへやって来た。最後は一九五〇年で、すでにがんに冒されていたが、その病はまもなく彼を連れ去ってしまう。
村へ行くためには、小道を下りてから、ボートに乗る。あるいは、フィヨルドが凍っているときは、その上を歩いて渡る。たいていは丸々何日も、誰にも会わず、誰とも話さない。それが彼にはよかった。あるいはそれほど悪くなかった。とにかく自分が必要とするものに浸っていられたから。
彼の隠れ家はショルデンだけではなかった。ウィトゲンシュタインはまた、オーストリア・アルプスの辺鄙な村(トラッテンバッ(、プーフペルク、オッタータール)で小学校教師として、修道院で庭師として、またアイルランドで隠者のように、孤独な暮らしを送った。
彼はウィーンの中心部で、王子のような少年時代を過ごした。ヨーロッパでも有数の裕福な家族で、家にはいつも画家や音楽家、詩人、実業家、銀行家らが出入りしていた。だがこのような暮らしに、彼は本当には興味がなく、父親の莫大な財産を相続したが、自身の持分のすべてを放棄した。彼の心を占めていたのは、この世界の外へ歩いて行くことだった。
「この世界の外へ歩くこと」それは何を意味するのか? 虚飾、見せかけ、規範を拒否すること。だがまた、「本当の」世界--農民や職人の世界、人間の文化の痕跡のない、人の住まない野生の風景に帰ること。この世界は、感じられ、見え、匂いがし、享受され、踏破される。しかし、語られることがない。あるいはほんのわずか、へたくそにしか。ウィトゲンシュタインの大きな問いとは、何を言語にすることができるかということ。そして何を沈黙したほうがいいかということ。
もし緑という色を全く知らない誰かが、それはどんなものかと訊きにきたら、あなたはなにが言えるだろうか? 「何ですか、緑って?」という質問に、言葉によって満足のいくやり方で答えることはできないだろう。緑色のものを示すことしかできない。緑色を指差して「これが緑ですよ!」と言うことになる。
その時あなたは、いつも話している現実が言語の外にあることがわかる。言葉で表現するのでは本当には語ることができないために、それを指差したり、単に示したりしなければならないことがあるのだ。これが、ウィトゲンシュタインが「神秘」と呼んだもので、言葉の外の、世界の直接的体験である。文化の対話、会話、果てしないおしゃべりとは無関係である。ショルデン、岩に張り付いた山小屋、凍った暗いフィヨルド、木々の静寂、緑。
さて、私が歩くことを忘れてしまったと思わないでほしい。哲学のことも、ウィトゲンシュタインの著書のことも忘れてはいない。実際、今その話をしているのだ。まさにその真っ最中、変わったやり方でだが。ところで、彼においては何もかもが風変わりだ。説明してみよう。とにかくやってみよう。
ウィトゲンシュタインの構想したことは、要するに、日常言語に参加して言葉の間を歩くことだった。外をではない。外は、歩けないことを彼はよく知っていた。言葉を使う存在が、言語の外に出ることはない。だが、罠の裏をかき、幻想による結びつきを解きほぐそうとすることはできる。ウィトゲンシュタインが「精神の痙攣」と呼んだもの、つまり誤った質問を解体する努力はできる。私たちは存在しない問題を、身をすり減らして解決しようとしたり、解決不能だと考えたり、隅々までほじくり返して探し回るが、実は本来の意味で問題そのものが存在しない。ただ、誤解と無理解があるだけなのだ。
この蜃気楼の世界には名前がある。それは哲学。当惑と深刻な袋小路、解決できないジレンマ……でできただまし絵の宇宙。だがそれらは実際には存在しないのだ。ウィトゲンシュタインにとって、哲学やそうしたあらゆる疑問は、私たちが言葉の使い方と、言語の性質を理解していないことから生まれている。私たちは言葉のあやを、それ自体で存在する現実だと思っ、ているため、この偽りの困難から抜け出すことができない。
解決法は根本的でなければならない。哲学を解体し、問いの網目をほどくこと。痙學を解消すること。それはある意味、言葉の間を歩くこと、一種、空気を通すために距離をとり、後ろに下がって、空間やすきまを作ることを想定している。それが、ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」で発明したことだった。
それは寸劇のような、一見したところ変で、突拍子もない話だが、言葉やものについて違った見方をさせる。例えば、私は私のいる建物に地下八階がないことを知っているが、一度もそのことを教えられたことがないし、自問したこともない。私はそのことを口に出して言ったとき、人が私に質問したときになってそれを知るのであって、その前にではない。
これはゲームと言っても娯楽ではなくて、実験だ。精神の行程であり、知的発見である。目的は、遊ぶためでなく、むしろ可動性や柔軟性を、私たちの言語における陳述に参加させることにある。
このように言葉の間を歩きながら哲学を解体するのは、息の長い作業である。際限がない、とは言わない。そうなると際限なく終わらないなら、結局無駄であると考えられてしまうかもしれないからだ。とはいえ、これは一年では、いや一生でも終わらない。ウィトゲンシュタインという学識豊かで注意深い未開人は、そのことを完璧に考えに入れていた。だから歩くことに固執したわけだし、自分が発明したゲームで、彼亡き後どうやって新しいすきまを作り続けるかを示してみせた。ケンブリッジの彼の学生たちは、彼が大教室はもちろん普通の教室でも講義をしないことを知っていた。少人数のグループを自宅に招いて、ノートのメモを使って話した。あるいは、学生を連れてキャンパスをぶらぶら歩きながら考えた。
これは何かを思い出させないだろうか?もちろん、あのことだ。この近代人は古代の哲学者たちの散歩に新たな価値を見出した。彼らの隠遁生活や精神の訓練を再発見したように。これで出発点に戻った。最初の哲学者たちは歩いていた。彼らの最後の一人も同じだ。なぜ最後? 彼の後にはもう哲学者がいなかっただろうか? もちろんいる。それでもウィトゲンシュタインは、哲学者の最後の人である。なぜなら、哲学の外へ向かって歩こうとしたから。彼の夢は哲学を清算すること、哲学を追い越すことだった。そうやってついに自由に歩くことだった。
フィヨルドの奥の、人里離れた小屋の中でひとり、ウィトゲンシュタインは哲学を解体していた。
人口二〇〇人のショルデン。ノルウェーの中央部にある、世界最大のフィヨルドの一つの奥の奥、そのフィヨルドは山々の麓まで二〇〇キロメートルも、陸地にはまり込んでいる。村から三キロのところにあるヴァスバーケンの駐車場に車を止めて、舗装されていない道路、トラクターの道を歩く。実際トラクターは滅多に通らないのだが、このような泥んこの道をここではそう呼ぶのだ。たっぷり一五分ほど歩いたところで、橋をわたる(この川は話によると、鮭がよく獲れるらしい)、それからまもなく左へ曲がる。ここまでくれば間違える心配はないだろう、標示パネルがある。それがなくなっているか、完全に雪に覆われているのでなければ、先のところが矢印になっている細い板に「ウィトゲンシュタイン」と書かれているのが見える。
哲学者の名前が付いている通りは、少なくとも私の知る限り、ノルウェーでここだけだ。世界には哲学者の名前を掲げた散歩道やルート、通りがある。ケーニヒスベルクのカントの道とか、エズのニーチェの小道、あるいは京都の哲学の道とか。だが、ノルウェーには今のところ、この短くて急な坂道しかない。
この道はどんどん険しくなって行って、最後の数メートルはまったくもってきつい。すべてが凍る冬季に備えて、滑り止めのため、金属の棒が岩に固定されている。とはいえ、一旦小屋までたどり着いたときの素晴らしい眺望は、苦労の甲斐がある。
フィヨルドの奥、水面より二〇メートルほど上にあって、そこからは森に覆われた小高い岩壁に囲まれた、深くて穏やかな湖が見える。哲学者が住んでいたときは、そこにウィンチがあって、バケツで湖の水を汲んで小屋まで上げることができた。支柱はまだ残っているが、ケーブルは無くなっている。
質素だが、一応一軒の家だ。七メートル×八メートル。哲学者はそれを自分の手で建てた。生涯に数回、彼はここにきてかなり長い期間暮らしたものだ。最初は一九一三年と一九一四年で、最初の著書となる『論理哲学論考』を書いているときだった。それから一九三五年から一九三六年にかけて、ケンブリッジと大学での暮らしを逃れるためここへやって来た。最後は一九五〇年で、すでにがんに冒されていたが、その病はまもなく彼を連れ去ってしまう。
村へ行くためには、小道を下りてから、ボートに乗る。あるいは、フィヨルドが凍っているときは、その上を歩いて渡る。たいていは丸々何日も、誰にも会わず、誰とも話さない。それが彼にはよかった。あるいはそれほど悪くなかった。とにかく自分が必要とするものに浸っていられたから。
彼の隠れ家はショルデンだけではなかった。ウィトゲンシュタインはまた、オーストリア・アルプスの辺鄙な村(トラッテンバッ(、プーフペルク、オッタータール)で小学校教師として、修道院で庭師として、またアイルランドで隠者のように、孤独な暮らしを送った。
彼はウィーンの中心部で、王子のような少年時代を過ごした。ヨーロッパでも有数の裕福な家族で、家にはいつも画家や音楽家、詩人、実業家、銀行家らが出入りしていた。だがこのような暮らしに、彼は本当には興味がなく、父親の莫大な財産を相続したが、自身の持分のすべてを放棄した。彼の心を占めていたのは、この世界の外へ歩いて行くことだった。
「この世界の外へ歩くこと」それは何を意味するのか? 虚飾、見せかけ、規範を拒否すること。だがまた、「本当の」世界--農民や職人の世界、人間の文化の痕跡のない、人の住まない野生の風景に帰ること。この世界は、感じられ、見え、匂いがし、享受され、踏破される。しかし、語られることがない。あるいはほんのわずか、へたくそにしか。ウィトゲンシュタインの大きな問いとは、何を言語にすることができるかということ。そして何を沈黙したほうがいいかということ。
もし緑という色を全く知らない誰かが、それはどんなものかと訊きにきたら、あなたはなにが言えるだろうか? 「何ですか、緑って?」という質問に、言葉によって満足のいくやり方で答えることはできないだろう。緑色のものを示すことしかできない。緑色を指差して「これが緑ですよ!」と言うことになる。
その時あなたは、いつも話している現実が言語の外にあることがわかる。言葉で表現するのでは本当には語ることができないために、それを指差したり、単に示したりしなければならないことがあるのだ。これが、ウィトゲンシュタインが「神秘」と呼んだもので、言葉の外の、世界の直接的体験である。文化の対話、会話、果てしないおしゃべりとは無関係である。ショルデン、岩に張り付いた山小屋、凍った暗いフィヨルド、木々の静寂、緑。
さて、私が歩くことを忘れてしまったと思わないでほしい。哲学のことも、ウィトゲンシュタインの著書のことも忘れてはいない。実際、今その話をしているのだ。まさにその真っ最中、変わったやり方でだが。ところで、彼においては何もかもが風変わりだ。説明してみよう。とにかくやってみよう。
ウィトゲンシュタインの構想したことは、要するに、日常言語に参加して言葉の間を歩くことだった。外をではない。外は、歩けないことを彼はよく知っていた。言葉を使う存在が、言語の外に出ることはない。だが、罠の裏をかき、幻想による結びつきを解きほぐそうとすることはできる。ウィトゲンシュタインが「精神の痙攣」と呼んだもの、つまり誤った質問を解体する努力はできる。私たちは存在しない問題を、身をすり減らして解決しようとしたり、解決不能だと考えたり、隅々までほじくり返して探し回るが、実は本来の意味で問題そのものが存在しない。ただ、誤解と無理解があるだけなのだ。
この蜃気楼の世界には名前がある。それは哲学。当惑と深刻な袋小路、解決できないジレンマ……でできただまし絵の宇宙。だがそれらは実際には存在しないのだ。ウィトゲンシュタインにとって、哲学やそうしたあらゆる疑問は、私たちが言葉の使い方と、言語の性質を理解していないことから生まれている。私たちは言葉のあやを、それ自体で存在する現実だと思っ、ているため、この偽りの困難から抜け出すことができない。
解決法は根本的でなければならない。哲学を解体し、問いの網目をほどくこと。痙學を解消すること。それはある意味、言葉の間を歩くこと、一種、空気を通すために距離をとり、後ろに下がって、空間やすきまを作ることを想定している。それが、ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」で発明したことだった。
それは寸劇のような、一見したところ変で、突拍子もない話だが、言葉やものについて違った見方をさせる。例えば、私は私のいる建物に地下八階がないことを知っているが、一度もそのことを教えられたことがないし、自問したこともない。私はそのことを口に出して言ったとき、人が私に質問したときになってそれを知るのであって、その前にではない。
これはゲームと言っても娯楽ではなくて、実験だ。精神の行程であり、知的発見である。目的は、遊ぶためでなく、むしろ可動性や柔軟性を、私たちの言語における陳述に参加させることにある。
このように言葉の間を歩きながら哲学を解体するのは、息の長い作業である。際限がない、とは言わない。そうなると際限なく終わらないなら、結局無駄であると考えられてしまうかもしれないからだ。とはいえ、これは一年では、いや一生でも終わらない。ウィトゲンシュタインという学識豊かで注意深い未開人は、そのことを完璧に考えに入れていた。だから歩くことに固執したわけだし、自分が発明したゲームで、彼亡き後どうやって新しいすきまを作り続けるかを示してみせた。ケンブリッジの彼の学生たちは、彼が大教室はもちろん普通の教室でも講義をしないことを知っていた。少人数のグループを自宅に招いて、ノートのメモを使って話した。あるいは、学生を連れてキャンパスをぶらぶら歩きながら考えた。
これは何かを思い出させないだろうか?もちろん、あのことだ。この近代人は古代の哲学者たちの散歩に新たな価値を見出した。彼らの隠遁生活や精神の訓練を再発見したように。これで出発点に戻った。最初の哲学者たちは歩いていた。彼らの最後の一人も同じだ。なぜ最後? 彼の後にはもう哲学者がいなかっただろうか? もちろんいる。それでもウィトゲンシュタインは、哲学者の最後の人である。なぜなら、哲学の外へ向かって歩こうとしたから。彼の夢は哲学を清算すること、哲学を追い越すことだった。そうやってついに自由に歩くことだった。