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社会的欧州の新段階

『危機の中のEU経済統合』より 社会的欧州の理念と現実--社会的欧州は存在しているのか

リスボン戦略と社会的側面

 第1期EESは2000年3月の欧州理事会で採択された「リスボン戦略」(European Council, 2000)により転機を迎えた。リスボン戦略は社会的分野において「欧州社会モデルを現代化し、人々に投資し、社会的排除と闘う」ことを目標とし、EES実行により就業率を高めることを目指した。さらに、EESの4つの柱の横断的政策目標として、「フル就業」が設定され、2010年までに全就業率を70%に女性就業率を60%に引き上げるという数値目標を掲げた(Ibid.)。

 リスボン戦略の新しい点は、目標を就業率に置いたことにあった。非労働力化している就業可能な人々(女性、高齢者、社会的弱者など)を労働市場に参入させ、社会的側面における統合をはかり、社会全体の長期的な持続可能性を高める狙いもあった。そのため、エンプロイヤビリティを高める積極的労働市場政策が推奨された。

 しかし、最も重点が置かれたのは域内単一市場と単一通貨に基づく欧州経済統合の発展であり、そのためのコスト削減と公的支出削減が目指された。また、ここでは統計調査対象期間に1時間以上働いた者はすべて就業者に数えられ、仕事の質については考慮されない。戦略の主要目的は「欧州社会モデルの現代化」、すなわち新自由主義的な構造改革を包括的に進めることにあった。

新リスボン戦略:新自由主義的政策の強化

 リスボン戦略の中間見直しにあたり前オランダ首相のコックを議長に雇用問題に関する2報告書が作成され、以後、EESは新自由主義的な構造改革としての性格を明確に打ち出すようになった。一つめの報告書は『仕事、仕事、仕事』であり、従来EESでは言及のなかった雇用保護法制見直しがとりあげられた。また、この報告書には欧州社会モデルヘの言及はもはや存在しなかった。2つめは『課題に直面する』であり、「フレキシビリティとセキュリティの間のバランスを見出す」という表現を用いて欧州労働市場政策に対してより一層の柔軟化を求めた。

 2004年11月にバローソ新欧州委員会が発足した。2005年3月の欧州理事会はリスボン戦略の見直し案『成長と仕事のために共に働くこと』(European Commission 2005)を採択し、「新リスボン戦略」が導入された。以後、バローソ委員会の2期10年間にわたり、欧州の社会的側面におけるEUの取り組みは、労働市場柔軟化と社会保護削減を求める新自由主義的な構造改革の傾向をいっそう強めた。

 第II期EES (2003~2010年)は、2010度を目標とする中間指針に変更された。全体的目標の柱も①フル就業、②仕事の質と生産性の改善、③社会的結束と包摂の強化、と3つの柱になり、10分野について数値目標が設定された。②の柱に関連しては、柔軟性と保障の正しい均衡が企業競争力を支えると強調され、労働市場における規制緩和の狙いがさらに強調された。EESは2005年からは、マクロ経済分野とミクロ経済分野をカバーする「包括的経済政策ガイドライン」に統合された。

 EESには2007年に『フレキシキュリティ原則』(European Commission、2007)が導入された。『原則』は、①労働者と企業の双方に利益をもたらす柔軟で信頼性の高い労働契約、②積極的労働市場政策、③包括的な生涯教育戦略、④失業者に十分な所得保障を提供し、次の就業を促進する現代的社会保障制度、という4点からなるものであった。しかし欧州労連などからは、「柔軟性」に力点が置かれ経営者側に立つものと批判を受けた(例えばETUC, 2007など)。

 なお、2008年以降の連続する危機のもとで、『原則』がモデルとしたデンマークが相対的に雇用面でも振るわなかったため、フレキシキュリティの限界が指摘されるようになっている。今なお「フレキシキュリティ」の語はEU文書で使用され続けているが、その定義は論者により様々な内容となっている。

リスボン条約と社会的側面

 2000年12月のニース欧州理事会は、中東欧諸国の大量加盟に備えて機構改革を定めたニース条約に合意した。社会政策に関してはアムステルダム条約とほとんど変わらなかった。しかしニース欧州理事会では、「EU基本権憲章」が採択された。ローマ条約には基本権や人権に関する言及がなく、欧州における人権と基本的自由の保護は、欧州評議会の加盟国間で1953年に発効した「欧州人権条約」に基づいていたが、法的拘束力がなかった。

 EU基本権憲章は、EU市民とEU域内住民の市民的・政治的・経済的・社会的権利について定めた(lbidopp.9-22)。これは、拡大後の基本条約になると想定されていた欧州憲法条約の本文に盛り込まれる予定であった。ところが憲法条約の批准は2005年に蹟き、かわって2009年12月にリスボン条約が発効した。リスボン条約は、EU基本権憲章を本文とは別の文書として残し、EU条約第6条1項で基本条約と同等の地位を有すると定め、法的拘束力を与えた。ただし、イギリスとポーランドとチェコについては、自国への基本権憲章の適用に関する議定書を付属させた。

 リスボン条約は、EU条約(TEU条約)の改定とEC設立条約を改定した条約(改定後の呼称はEU運営条約。TFEU条約)からなる12. EU条約第3条3項は、EUの目的として「域内市場の設立」を挙げ、続いて「均衡のとれた経済成長と物価安定、フル雇用と社会的進歩を目指す高度に競争力を有する社会的市場経済、および高水準の環境保護と環境の質の改善に基づく欧州の持続的発展」を掲げている。

 ここでは、4点に注目したい。第一に、「域内市場」の性格をあらわす表現についてである。当初、EU条約第3条第3項は、「域内市場」の前に「自由で歪みのない」という語を入れるはずであった。しかし、2005年に欧州憲法が国民投票で否決されたフランスのサルコジ政権は、過度の経済自由化により雇用に悪影響が及ぶのではと国民が危惧していることを懸念した。フランス政府はこの語を削除するよう求め、EUの目的からこの表現が消された。しかし、その内容は消滅せずEU運営条約第119条第1項の中に移され、実質的に存在し統けている。

 第二に、EU条約第3条4項には、EUは「ユーロを通貨とする経済通貨同盟を設立する」と記されており、従来よりも強く、EMUの堅固な位置づけが示されていることである。第三に、リスボン戦略以来の欧州雇用政策の目標である「フル就業」という言葉が同項に記され、基本条約に初めて明記されたことである。

 第四にEUの目的に初めて「社会的市場経済」という用語が使用されたことである。条約はEUにおける「社会的市場経済」の定義を定めていない。そのため、「社会的市場経済」という語が戦後の経済秩序を表すものとして使用されてきたドイツにおいてそうであったのと同様、新自由主義的経済政策に親和的な者には「市場経済」を、社会民主主義派には「社会的経済」を志向する用語として、どのようにも解釈できる余地を与えている。

 リスボン条約では、従来の条約とは異なり、社会政策が「第X編」(第151~161条)として独立し、より明確に位置づけられた。第152条に新設された条文では、EUは社会的パートナー(労使間の社会的対話)を促進し、成長と雇用のための3者(労・使・政=EU)間社会的対話の設置をうたい、その法的枠組みが第154-155条で提供された。

欧州2020と社会的側面

 欧州委員会は2010年3月に新中期経済成長戦略「欧州2020」を公表した。リスボン戦略の後継である欧州2020は、優先事項として「知的な経済成長」、「持続可能な経済成長」「包摂的な経済成長」の3分野を持ち、その下に合計7つの旗艦項目を設定している。戦略は2020年までに達成するべき雇用・社会政策関係の数値目標として、①20~64歳の就業率を2010年の69%から、少なくとも75%以上に引上げること、②中途退学の割合を10%以下とし、高等教育卒業比率を40%以上へ引き上げること、③貧困ライン以下で生きる人の数を25%削減し、2,000万人を貧困から引き上げること、の3つを挙げた。

 優先事項のうち「包摂的な経済成長」は、リスボン戦略を継承したもので、「経済的・社会的・地域的結束をもたらす高い水準の雇用をもつ経済」を目指すものである。すなわち、「人々が変化を予期して管理できるようにし、結束力のある社会をっくるために、高水準の雇用を通して人々に力を与え、技能に投資し、貧困と闘い、労働市場と職業訓練と社会保護制度を現代化する」ことを意味する。

 2010年10月には、欧州2020実施において各加盟国がとるべき10のガイドラインが理事会により採択された。そのうち雇用や社会的側面に関するものは4っあり、重視されているかのように見える。しかし上記のような欧州2020の内容は、リスボン戦略の新自由主義的な内容がより一層強化されたものにすぎない、との批判も強い。なお、2014年10月に10ガイドラインは改定され8つとなり、うち4つが雇用と社会的側面に関するものになった。

袋小路の社会的欧州

 2008年の金融危機、2010年代以降の債務危機が、社会的欧州への重大な脅威となっているのはなぜか。Lechevalierは以下のように指摘する。直接的には、ケインズ主義的政策にかわってアングロ=サクソン型の新自由主義的な政策が、危機以後にEUの社会政策や再分配政策、雇用政策によりいっそう明確に台頭した結果である。しかし間接的には、単一市場やEMUのガバナンスを通じたEU経済統合の影響である。そこには、ドイツのオルド自由主義が刻印されている。

 ローマ条約に刻印されたオルド自由主義が原因で、EECには欧州レベルの社会政策はほとんど存在しなかった。フライブルク学派のオイケンのオルド自由主義の理念は「自由な競争経済の秩序」であり、その実現のために、第一に競争秩序をいかにしてっくりあげるか(構成的原理)、第二にいかにそれを機能的に維持するか(規制的原理。この原理のために、強い政府の役割が重視される)という課題があった。それらを反映して. EECでは共同市場における関税同盟の形成と、競争の妨害・制限・歪曲を防ぐ欧州の競争法の策定に、集中して優先順位が置かれた。一方、社会的側面については、経済統合が進展し大市場が歪められることなく機能すれば収斂し、結果として改善されると考えられていた。

 以後の欧州統合も、オルド自由主義に枠づけられ展開されてきた。オルド自由主義の構成的原理によると、競争秩序においては何よりもまず通貨政策による物価安定が確保されねばならない。EMUの構造には、オルド自由主義のこの考えが忠実に反映されている。そこには、欧州の社会的側面に対する配慮は見られず、欧州市民の連帯も求められていない。金融資本主義経済のもとで、この性格が明確にあらわれて危機を深刻なものにしている。

 通貨安定のために財政基準の遵守が制度化され、加盟国は基準を達成するため大幅な財政支出の削減を余儀なくされた。各国の財政支出の削減により、EMUは欧州市民から社会的保護を奪う欧州経済統合の象徴と受け取られるようになった。これが反EU感情を煽り、EU市民にとってのEUの正統性を掘り崩していくことに繋がった。こうして、社会的欧州は袋小路に追い込まれている(Lechevalier and Wielgohs eds., 2015)。

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中国の情報化戦争 米国ための政策選択肢--すべきこと

『中国の情報化戦争』より

ワシントンと北京を動かす根本的に異なる直交した見方のため、米国の意思決定者にとって少なくとも実行可能な選択肢は中国のやり方を熱心に見習うことである。さまざまな大衆に対する情報の流れを制限し、市民社会を混乱させ、また情報共有窄間を制限する行為を制限することを含むアプローチは、米国および他の西側の民主主義を弱くするだけである。したがって、情報の流れを制限するよりも、米国にはそれに代わる規範が(競争の直交性にも合致している)必要である。

米国が中国による情報優勢の確立を防止することに焦点を当てるべきであることは間違いのないことである。一方で、これは、中国の行動が何であれ、米国が適時な方法で情報を効果的に収集し、伝達し、活用できるようにすることを確実にすることを意味する。同時に、中国の指導部がより大きな政治的目標を達成することを期待できないように、特定の中国の情報システム、ネットワークおよび意思決定プロセスを危険状態にしておくことはきわめて重要である。ここで、紛争を引き起こす可能性のある政治的な問題 (たとえば、南シナ海、尖閣諸島および台湾)に重心を置くことに注目することは枢要なことである。したがって、米国の焦点は情報戦に関与することではなく、中国の政治的成功を否定することであるべきである。中国の情報優勢を達成する能力を否定することは、政治的目標を達成する能力を挫折させた場合に限られる。

抑止の要求に対してより卓越した検討をするここと

 中国のシステムを危険状態に維持するための西側の能力が抑止に役立つであろうということがあまりにもしばしば前提とされる。たとえば、中国が強固な対宇宙能力を創成しているのであれば、米国はそれと同等の能力を開発する必要があることが時々取沙汰される。さらに問題になるのは、そのような対称的能力が中国の活動抑止に効果があるとしばしば想定される。

 しかしながら、抑止は、相手側がリスクに値するものを持っている場所でだけ機能する。まず、これには、相手側が評価しているものが何であるかを識別する必要がある。たとえば、中国の衛星通信に対抗する能力が、特に非対称的な地理的条件や考えられる政治的目標を考慮すると、必然的に北京に大きな影響を与えることはまったく明らかではない。また、これは実際に敵の全体システムと能力を危険にさらすことができるかどうかという問題を提起する。中国の通信ネットワークを脅かすことができれば、中国の行動を抑止する可能性が高い。しかし、そのようなシステムの分散と冗長性を考えれば、この目標を合理的なコストで達成できるかは明らかではない。

 中国共産党の場合、中国は、平時と戦時の両方において敵のネットワーク、意思決定者および意思決定プロセスに関する情報を収集する能力を明らかに評価しているようにみえる。したがって、中国の平時の情報収集を妨害し、敵の能力と手順に関する情報を中国に与えない能力は、中国が前提にしている情報優勢を確立する能力を危険にさらす可能性が高い。

 そのような取り組みは、多くの攻勢情報作戦の本質によって、特に破壊的であることが明白になる。ゼロデイ攻撃を解決する場合と同様に、特定のX‐Day(敵対行為の開始)に情報戦を実施する能力は、X-Dayより数日、数週間、数年前に実施されるべき一連の広範なステップが必要である。平時の広範な事前の情報(インテリジェンス)収集だけではなく、ネットワーク戦と電子戦を含む多くの種類の情報戦活動が必要であり、また、武器と能力は事前に開発し、戦力化しておくことが必要である。これにより、それが潜在的にまさに壊滅的になった時、一般的なエンターテイメントで示唆されているよりも情報戦は、はるかに柔軟性と応答性がないものになる(長い間安全と考えられているシステムに対抗するために採用される可能性があるため)。重要な電fシステム、ネットワークおよび意思決定プロセスに関する情報(インテリジェンス)を中国に与えず、または定期的にそれらを変更することは、紛争の時に武器と戦術が準備できない可能性を高めるであろう。さらに巾岡にとって忠いことに、それらは展開されている実際の戦力に不適切である可能性が高い。

 同時に、中国共産党は明らかに内部の安定を維持する能力を心配している。この懸念は平時においても当てはまる。すなわち、紛争の際には、これらの懸念が高まる可能性がある。したがって、米国のアキレス腱が遠征作戦を可能にする包括的な情報ネットワークに依存しているとすれば、中国の弱点は、外国の敵と戦っている丁度その時に、内部対立に直面するという中国の指導部の懸念にある。米国が中国を成功裏に抑止しようとするならば、利用のために準備すべきものはこの内部統制の喪失への中国の恐れである。

 中国共産党にとっては、中国の人民を監視し、伝統的なメディアの検閲を支持するさまざまな情報ネットワークを損傷させ、ソーシャルメディアを監視し、また外的世界へのアクセスを制限する能力の喪失は、米国がミサイル発射を探知したり、衛星誘導爆弾(JDAM)を誘導したりする能力を無力化されるのと同様に壊滅的である。確かに、そのようなシステムの劣化は、米国の提携国とは異なり、中国の指導部は中国が敵に囲まれているとみなしているので、より壊滅的であろう。台湾に関しての中国と米国との紛争が片付いたとしても、ロシアやインド、あるいはウイグル族やチベットの分離主義者によって引き起こされる脅威の可能性は残る。内外の安全保障情報システムを無力化し、ひどく損害を与えさえする米国に対する勝利は、「ピュロス王の勝利」とみなされる可能性がある。なぜならば、残存する外部からの脅威および内部からの挑戦に対する抑止力を維持するための利用可能資源が著しく弱体化されるからである。

広範な「社会全体」参画を推進すること

 米国の取り組みの1つの要素は、我々のアプローチの包括的な性質を強化する必要がある。米国の指導者は、民軍分断と政府・民間部門分断の双方を橋渡しすることが不可欠である。中国のアプローチは、中国共産党の指令下での「政府全体」の1つである。市民社会および民間部門の役割が最小化されまた緊密に連結されている制度では、それだけで十分である。

 米国にとっては、「政府全体」アプローチだけではなく、「社会全体」アプローチでなければならない。政府全体(軍事部門と文民部門の両方)は、米国の大きな情報能力と潜在能力のほんの一部を表しているに過ぎない。特許と製法だけではなく、しばしば軍事情報や諜報情報を含む最も重要な情報の多くは、民間部門(たとえば、政府の請負業者)に存在する。民間部門の脆弱性は公共部門に影響を及ぼし、逆もまた同様である。しかし、計画された国家主導の情報攻撃行為に対して、どのような企業も自己を防御できない可能性が高い。情報開拓者を成功裏に防御するためだけではなく、膨大な数の米国人、およびグローバル人材の専門知識を活用するために、より大きな協同が必要である。

 いくつかの措置はすでに進行中である。たとえば、オバマ政権は、宇宙事業においてより商業的な役割を果たすための扉を開いた。その結果、さまざまな新しいプレーヤーが生まれ、その内のいくつかはIT分野で財を築いた。エロン・ムスクのスペースX、ジェフ・ベソスのブルー・オリジン、サー・リチャード・ブランソンのバージン・ギャラクティック、ロバート・ビゲローのビゲローエアロスペースは、伝統的な航空宇宙のサプライヤーを超えた取り組みの最も有名な例である。

 重要なのは、財政的インセンティブと卓越性の両方を提供するAnsari X-Prizeのようなさまざまな競争の成長であった。そのような方策を含む公益の広範な分野に進出することは、おそらく北京が想定しているより集中指向でトップダウンアプローチよりも、イノベーションを促進し、解決策を見つけることをはるかに可能とするボトムアップアプローチである。また、これは、米国と西側の視点にはるかに適しているアプローチでもある。

強靭化と多様化を推進すること

 積極的な攻撃を打ち負かすことを目的としたこのようなアプローチは、ある者は「強靫化」という、情報の継続的な流れを確実にすることに焦点を移すことによって補完されるであろう。情報の拒否および干渉行為に直面しても作戦を継続する能力を通じて、中国に情報優勢を達成する能力を与えないことによって、米国は成功裏の攻撃であっても決定的とはならないことを示威している。中国の指導者が合理的な時間内に情報優勢を確立する能力を合理的に獲得できないならば、同様に紛争の際に勝利のチャンスを合理的に獲得することはできない。

 これは、アンチマルウェア、パッチ、またはその他の現在のセキュリティ対策が放棄されるべきであることを示唆するものではない。むしろ、それらが不十分であることを認識することである。攻撃に対して防御することが不可能な場合は、緩和的かつ改善的な措置を計画に組み込む必要がある。情報システムが冗長性や代替性を欠いているほど、攻撃目標群としてさらに好都合である。逆に、情報ネットワークがより多様化し、単一故障点がより減少すれば、潜在的な敵が他の目標群を探す可能性がいっそう高まる。

 残念なことに、政府の予算上の考慮は、強靭化の重要性を軽視する傾向があり、これはしばしば冗長性とそれに伴う非効率性に関連している。そのような考察は、航空宇宙分野においても広がっている。たとえば、GPSの普及により、航法の代替手段の強化が道端に置かれてしまった。数十年にわたり航法情報を提供してきた一連の固定地上ベースの無線ビーコンであるLORAN航法システムのサポートを中止するという決定は、GPS時代には不要であるという感じもかかわって推進された。同様に、米海軍の2006年の六分儀の使用を教えることを中止する決定(2015年に破棄された)は、衛星航法システムの利用可能性を考えると、時代遅れの技術であるという考えに基づいていた。どちらの場合も、GPSシステムが故障したり、妨害されたり、または使用できなくなった場合に何か起こるかについてはほとんど検討されていない。

沈着かつ実行すること

 最後に、米国の国防計画立案者は、全面的な情報戦行為の場合にどのような被害が発生するかをよりよく評価する必要がある。他方、これは単にコンピューターネットワーク作戦以上のものを使用する攻撃を伴うであろう。それには、宇宙システムに対する攻撃、インフラネットワークの崩壊(たとえば、輸送、エネルギー、通信など)、重要なデータベースとコンピューター記録の削除が含まれる。これらは、次々と。二次効果および三次効果を生み出す。しかし、このような大規模な攻撃は、第三者の経済、インフラ、および情報ネットワークにも波及する。中国の文献には、運動子不ルギー対衛星システムの使用には、デブリが第三者に及ぼす影響の評価が含まれていなければならないことが警告されている。これは、利用機会を排除するものではないが、「OK宇宙牧場での決闘」よりもそのようなシステムの慎重な適用を示唆している。同様に、米国証券取引所の閉鎖と記録の削除は、世界的な財務的影響を生み出し、結局、中国に外交的および政治的な影響を与えるであろう。

 情報システムと運用の全体を防御する方法がない場合でも、敵の攻撃の影響を改善する方法はある。経済的に安全なインターネットを構築する方法がない場合、少なくとも基本的な情報サービスが運用を継続できるか、比較的短期間(数日または数週間)に復旧できることを確証するいくつかの手順を実行することは被害の大部分を除去し、同時に抑止力を高める。重要なネットワークの優先順位を付け、情報セキュリティを向上させるための対策を講じることは、知的な規律を守るのに役立つ。相談相手の範囲を広げ、さらなる専門知識を活用し、より強靫なシステムを構築することで、脅威の規模を排除することはできないが、より管理しやすくすることができる。
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素人レビュアーの大量出現は平等主義の開花?

『好き嫌い』より 誰もが批評家--無数の不平家でインターネットは大にぎわい

クラウドソーシングにおける素人レビュアーの大量出現は、概して平等主義の開花ととらえられ、それぞれが独自の主義と趣味をもつ大家の専横から消費者を解放した。イギリスのジャーナリスト、スザンヌ・ムーアが《ガーディアン》紙で明言している。「専門家の論評があらゆる分野で排除されている。誰も彼もがあらゆるものに対して無料で論評しているのに、誰が専門家の意見を必要とするだろうか。これこそまさに民主的ではないか。批評の性質が変わってきたために、専門性の序列がくずれつつある」

スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットが一九三〇年に発表した警鐘の書『大衆の反逆』を読んでいると、イェルプのようなものの出現を見越した声がうしろで響いているのが聞こえてくるようだ。がっては「小集団で世界のあちこちに分散していた」大衆は「塊になって」出現し、「突如、目に見えるものになり」、以前は「社会という舞台の背景」にいたのに「いまは舞台前方にしゃしゃり出て主要人物になっ『た』。あたえられて然るべきものをあたえられずに不機嫌になった食事客は、いまや集団の意思によってレストランの運命を左右できる。批評する権利のこの平等化を、保守派は痛烈に批判する。《グルメ》誌の元編集長のルース・ライクルは勇ましく言い放った。「イェルプを信用している人は、ばかだ。イェルプに書き込む人の大半は自分が何をいっているのかまったくわかっていない」

インターネットによって専門家の権威と批評の正当性が必要とされなくなったといってよいかどうか、そこは簡単な話ではない。そもそもエネルギーを使ってイェルプにレビューを書き込む行為は、とりもなおかず誠実であろうとする努力である。マンハッタンのミッドタウンにあるインド料理店のレビュアーは、自らがレビューを書くにふさわしい人物であることを三つの点を挙げて主張する。

「私は食通で、(インド人である)私を満足させてくれるインド料理はなかなかない。この店では最低でも週に一度は食事をする。素材の取りあわせがじつに斬新で、それでいて正真正銘のインド料理だ」。この男性はただの食通ではない。インド人の食通であり、本物の料理評論家のように同じ店に何度も足を運んでいる。だから「正真正銘の」という疑わしい言葉をとやかくいう者はいない。この言葉やそれに類する言葉はなかなか信用ならないものだが、イェルプに載っているレストランについては高い評価につながるらしい。

イェルプはこのような、経済学でいうシグナリングだらけだ。似たり寄ったりの大勢のレビュアーの上をいくために、レビュアーとして適任であることを印象づけようとするそれとない言いまわしにあふれている(「そのシェフは前にOOで働いていたころから知っている」とか、「私の知る数ある河南料理店のなかで、ここはトップクラスだ」など)。これは「慣習的シグナリング」である。ただそういっているという以上に言葉の内容を立証するものは何もない。あなたが「I愛NYC」とプリントされたTシャツを着ていたら、あなたの熱烈な気持ちは疑いようがないだろう。だが、ネット上のシグナルにはお金にしろエネルギーにしろ、「コスト」はほとんどかからない。だから信頼性もほとんどないのだ。それでもこれらのシグナルが信頼性をすっかり失わずにすんでいるのはなぜだろうか。MITメディアラボのジュディス・ドナスが論じているとおり、これらのシグナルがうそではないと見なされるのは、結局はたんに「うそをつく動機になるものがほとんどないから」でしかない。ならば信憑性を疑う動機もほとんどないというわけだ。匿名が基本で、なおかつドナスがいうように 「すべてがシグナルである」ネット上で、どうすればレビューの質を手早く見極められるだろう?

イェルプは民主的な大集団を集める一方で、「エリート」レビュアーという階層を設けて序列を再導入することもしている。認定バッジ--一種のシグナルーを表示されるエリートは、協議会と呼ばれるチームによって選ばれる。「どのように選ぶかは私たちも知りません」というイェルプの広報担当者の口ぶりは、まるで秘匿されているミシュラン調査員の採用方法について答えているかのようだ。これは少しばかり矛盾している。いまの世の中は、従来の専門家の権威--マスメディアから行政や医療機関まですべてにおける権威--がぐらついている。それなのに、ネット上のレビューサイトは(アマゾンの「トップレビュアー」やトリップアドバイザーの「トップコントリビューター」などの選任によって)ただかたちを変えた専門性をまたつくりだそうというのだろうか。「素人の専門性」とはおかしな話だ。

この新種の専門家を私たちはどの程度、信用しているだろうか。ネットで飲食店やホテルや本のレビューを見るとき、星の数を見るだけか、それとも個々の雑多な意見にも目を通すだろうか。ネット上のロコミの威力が、集めた大勢の意見を定量化して一人のせまい視野から私たちを解放できることから生まれるなら、どれか一つのレビューを読む有用性はどこにあるのだろうか。

ルカはイェルプの研究のなかで、被験者の反応が「ベイズ学習理論」と整合的であった事例にふれている。つまり、被験者が情報の多そうなレビューにより強く反応したケースがそれにあたる。イェルプのエリートレビュアーの影響は、統計的には一般のレビュアーの二倍だった。一方、イェルプで突出した影響力を示すグループがもう一つある。クーポン共同購入サイト、グルーポンの利用者だ。グルーポンユーザーがイェルプに書き込んだレビューは、イェルプの平均的なレビューよりも長く、より好意をもたれていることがある研究で示されている。この影響は非常に重大だ。グルーポンの利用者は、レストランヘのレビューの平均値を引き下げてもいるようだからである。不思議なことに、彼らの評価が辛いというのではない。現にイェルプに書き込まれたレビューはグルーポン利用者のほうがそうでない人よりも「穏やか」だとその研究報告は指摘している。

大衆が批評の対象を批評家の圧政から解放したという見方は、卑小な権威意識をもちはじめているらしいレビュアーが多いせいで揺らいでいる。イェルプやトリップアドバイザーのレビューを読むと、とくに星一つのレビューに多いが、恨みがましさが容易に感じとれる。案内係の女性が「夜の女子会」グループを「へんな」目つきで見た、赤ちゃんを連れていたのに、ウェイターはかわいいですねのひと言もなかった、ウエイターが客に対して「値踏みするような態度」だった、迎え方が大げさだった、逆に心がこもっていなかった、ウェイターが「ウェイターとしてぎこちなかった」など、料理とほとんど関係のない話がいくらでもある(これらはみな私がサイトで見つけた実例である)。これは労働紛争だ。利用客が投下した資本と、そして得るべきものへの彼らのどこまでも主観的な期待とのあいだの紛争である。

いまやサービス経済の大半は「情動労働」--組織に強制されて「客」に笑顔で対応する従業員--を中心としているため、「商品」の評価はますます主観的かつ個人間のものになる。ジャーナリストのポール・マイヤースコフは次のように述べている。「労働はもはやものを生み出すことではなく、もしくはそれにとどまらず、肉体的および精神的なエネルギーを人々へのサービスに提供することになろうとしている」。正当な精神的子不ルギーを提供されなかったと感じる人にとって、イェルプはくどくどと愚痴をならべる場所になっている。そのレビュアーがその日たまたま機嫌が悪かっただけではないと、どうしてわかるだろう?

ネットレビューの信用問題で最も由々しいのがレビューの捏造だ。競合する飲食店経営者、妬心の強い物書き、女性にふられたホテル客などがでっち上げのレビューを書く。イェルプのレビューのほぼ四分の一がイェルプ独自の信頼性フィルターで排除されている。ルカとゲオルギオス・ゼルバスの研究によると、このような虚偽の評価の頻度には予測しやすいパターンが見られる。飲食店の評判がよくないほどレビューの数が少なく、にせの肯定的なレビューが投稿される可能性が高くなる。タイプの似たレストラン(たとえば「タイレストラン」と「ビーガンレストラン」)で地理的にも近いとにせの否定的なレビューが投稿されやすい。同様のパターンはトリップアドバイザーのサイトにも見られる。

うそを書く理由がはっきりしない場合もよくある。エリック・アンダーソンとダンカン・シミスターによるアパレルサイトの研究では、全レビューの五パーセントでレビュアーがその商品を買っていなかった(ただし、そのサイトのほかの商品はたくさん買っていた)。それらのレビューはほかよりも否定的な傾向にあり、アンダーソンらはその客は事実上の「ブランドマネージャー」の役割を果たしているのではないかと考えている。アカロフのいう客の「報復」の一種だ。
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ベトナム・ダナンでのMV撮影

ベトナム・ダナンでのMV撮影

 ベトナム最新のリゾート地ダナン。ベトナムでのビエンビエンフーに続く激戦地田何。アメリカ海兵隊を思い出す。日本で言ったら硫黄島の擂鉢山の戦い。ベトナムを選んだのは、センターが飛鳥だからなのか、ベトナムだから飛鳥を選んだのか。ピッタリと合っている。

 アジアの女の子。そんな感じがいいですね。海岸線を歩いている図は選抜発表前にリークされたものですね。どんどん、同期化して欲しい。

本が合わなくなってきている

 本が合わなくなってきている。独我論をさらに進める 本が欲しい。ホスピスについて書かれている本にしてもあまりにも常識的なことしか書いてない。違うんだってば。

ハゲタカが居ない

 いつも並ぶ3人のハゲタカが居なかった。暑さでどこかへ行ってしまった。それにしても、三人ともとは。ゆっくりと選べた。

ピーチフラペチーノ

 今日からのスタバのピーチフラペチーノは飲み応え十分
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豊田市図書館の30冊

361.4『好き嫌い 行動科学最大の謎』

329.36『紛争地の看護師』

007.3『ソーシャルメディア四半世紀』情報資本主義に飲み込まれる時間とコンテンツ

234.5『国際都市ジュネーヴの歴史』宗教・思想・政治・経済

238.04『ロシアと黒海・地中海世界』人と文化の交流史

375.35『道徳科の「授業革命」』人権を基軸に

740.1『インスタグラムと現代視覚文化論』レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティックスをめぐって

338.1『〔新訳〕バブルの歴史』最後に来た者は悪魔の餌食

289.2『ガンディーとチャーチル 上 1857-1929』

329.37『危機の中のEU経済統合』ユーロ危機、社会的排除、ブレグジット

392.22『中国の情報化戦争』情報戦、政治戦から宇宙戦まで

291.09『日本縦断客車鈍行の旅』昭和五十一年夏、旧型客車で稚内から長崎へ

302.22『日本夢 ジャパンドリーム』米国と中国の狭間でとるべき日本の戦略

916『玉砕の島 ペリリュー』生還兵34人の証言

383.88『コーヒーと日本人の文化誌』世界最高のコーヒーが生まれる場所

748セキ『北の風貌』

440.87『138億光年 宇宙の旅』

219.9『始まりの知 ファノンの臨床』サピエンティア53

151.2『アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです。』

652『地球を緑にⅡ=産業植林調査概要報告者-』

673.9『シェアリングエコノミーがよ~くわかる本』サービス提供の仕組みから提供事業者の事例を解説!

538.9『ロケットガールの誕生』コンピューターになった女性たち

490.15『さいごまで「自分らしく」あるために』ホスピスの現場から

188.82『道元禅師の心』

210.7『中国共産党の罠』満州事変から盧溝橋事件までに本当は何が起きていたか

421.3『量子力学が描く希望の世界』

762.34『ヘンデルが駆け抜けた時代』政治・外交・音楽ビジネス

165『「日本」論 東西の〝革命児〟から考える』

333『ポピュリズムと経済』グローバリズム、格差、民主主義をめぐる世界的問題

491.8『免疫の科学論』偶然性と複雑性のゲーム
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