『岩波講座 世界歴史14』より 前近代イスラーム帝国における圧政の実態と反抗の論理--一七八四年アレッポの事例から--
これまで論じてきた出来事は、一八世紀後半のアレッポという都市を舞台とした一幕の政治劇と見なすことができる。この事態の進展の中でも、伝統的なイスラームの政治規範を表現する言葉が、やはり使われた。都市住民がイスタンブルに嘆願書を送った際、総督の悪政を非難するのに「圧政」「不義」「不法」といった用語を、自分たちの行動を正当化するのに「公正」といった用語を使っている。そこで作用しているのは、弱者たる自分たちを守るという名誉ある義務を遂行せず、その正反対をなして財を侵害し、身体にも危害を加えるような為政者に対する、直接的反抗の意志である。
また、市場や店舗を閉鎖すること、礼拝をしないことは、都市住民による決起の意志表示の方法であり、なおかつ相互に反乱開始の情報を伝達し合う手段でもあった。経済活動と宗教生活の、本来なされるべき基本的行為をあえて忌避することは、社会の秩序を混乱させる意志を簡潔に表現するのに有効なのであり、弱者たる被支配者側が強者たる権力側に立ち向かう際の第一歩なのであった。この行為を経て、はじめて武力衝突が本格化するのである。
この対立関係の中で、イスラーム法官が一方の側に身を置いていたことは明らかである。彼は人々が反乱を起こした理由をよく理解し、金曜日正午の集団礼拝の呼びかけを中止させるという行為をもって、自ら蜂起に関わったのである。また、最初から戦闘の中で総督との交渉を試みて人質になってしまったことや、蜂起の後に総督の圧政明細リストを作成した行為の中にも、法官の主体的な参加の姿を確認することができる。後任の法官らも、家畜競売の件でアレッポの人々の側に立ち続けた。これらの法官の行動が、総督を追放した人々の暴力行為に合法性を与えたことは確かであろう。残念ながら、総督がいかなる理由によって様々な恣意的処刑や強請をおこなっていたか、という点については資料がない。しかしおそらく、イスラーム法とオスマン国家体制の枠組みの中で、自らの行動を総督なりに正当化していたのであろう。イスラームという規範体系に照らしての「正義」は、暴力的に対立する両者の間で、争奪されるがままのように見える。
この政治劇に関係する勅令などの文書情報に当たった限りでは、中央政府はイスラーム法官が反乱を支援した行動や総督の圧政のいずれについても、何ら非難を浴びせていない。一方、アレ″ポの住民たちも、キキー・アブディー・パシヤのような者を総督に任命した中央政府の判断に誤りがあった、と非難してもいない。帝国の暗黙の秩序とでも言うべきものは、この騒動の中で微動だにしていないのである。アブラハム・マルカスが述べるように「一八世紀後半アレッポの政治におけるドタバタは、都市の社会的こ収治的秩序の基層的安定性を試したうえで、それを確認していた」。マックス・ウェーバーの「伝統主義的革命」の一例と解釈することも可能であろう。総督を追放した人々にとって、イスラーム法とオスマン国家体制は守るべき大前提、というよりもむしろそれらこそが反乱の大義だったのである。
さて、イスラーム法官が蜂起したアレッポ住民の側に立っていたことは確認したが、果たして法官は二項対立的な図式の中に埋没していた、と理解してよいものだろうか。彼はイスタンブルに上奏文を送り、またそこから勅令を受け取るという行為をもって、総督と都市住民の激しいぶっかり合いの場に、中央政府という第三者を自然に引き込んでいた点に注目する必要があろう。視点を変えれば、アレッポの人々は、ちょうどイスラーム法廷における紛争解決システムと同じような形で自分たちの紛争に第三者を導入せんがために、最初に法官に訴えたのであった。さらにその効果を高めるべく、都市住民は第四者として在アレッポのヨーロッパ諸国の領事らを選び、それぞれの大使らにこの事態を報告するよう依頼している。もっとも、一七八四年一〇月こ一日付フランス領事の大使宛報告では、キキー・アブディー・パシャは他の総督と比べて特別に悪辣な者でもない、とされているのであるが。
この、仲介者として第三者を導入するやり方は、キキー・アブディー・パシャによっても採用されている。任地の都市から実力行使で追い出されるということは、中央政府における彼の信用と名声を、完膚なきまでに失墜させるものであったに違いない。しかしその後も彼はクルド系遊牧民の大集団を包囲戦で降したほどであるから、恨めしいアレッポ住民に軍事的に報復しようと思えば、ラッカで態勢を立て直し、周辺州の総督らに援軍を頼むことにより、十分可能だったであろう。しかし彼は単純に暴力には訴えず、中央政府の覚えを少しでもめでたくするべく、アレッポ住民に対し、イスタンブルに金を払わせるよう家畜を送りつけたのだった。一石二鳥の方策だったと言えよう。この件をめぐって中央政府とキキー・アブディー・パシャ、および中央政府とアレッポのイスラーム法官の間で公式文書がやり取りされた。これは中央政府を介在させて、追放された総督と法官が三角形をなして交渉していた図式になる。
一方、アレッポの名望家らは競売において安値で羊と駱駝を購入し、規定された金額の不足分を後背農村部に押し付けて利益を得ようとし、また再度、法官はアレッポの側に立とうとしたものの、中央政府はそうやすやすと騙されはしなかった。名望家やアレッポの徴税担当者らは、とぼけて不払いを続けるという手段に逃げ込み、少なくとも五年近くはそれが奏功して指定額の半額余りを納入せずにいられた。もっとも当時は、こういった臨時的な国庫への送金のみならず、基本的な国税送金すらも何年にもわたって遅滞することが常であったため、羊や駱駝の代金もその中に紛れさせられると考えられたのであろう。
アレッポで頻発した都市騒乱と、そこでイスラーム法官が果たした役割の変化は、法官が都市社会の中で占めていた位置の変化を反映させていた、と考えることができる。本稿で取り上げた事件よりも九年以前の一七七五年、アレッポ住民が総督アリー・パシャを追放したとき、法官は同様に蜂起を支持して礼拝への呼びかけを禁止している。また、時が下って一八〇四年に総督ムハンマド・パシャがやはり都市外に追い出されたが、このとき総督は、反乱を支持した法官を厳しく非難する文書を、法官自身に送りつけている。曰く「汝も我と共にオスマン国家を支える一員であろう」と。しかし一八一九年には、都市住民の攻撃を受けた総督フールシード・パシャがアレッポの外に逃げ出した際、イスラーム法官も慌ててその後を追うこととなった。三ヵ月以上も続いたその都市包囲戦の際に、住民の声を代弁して総督と交渉に当たったのは、地元出身の法官代理であった。法官は事態が収拾された後になってやっと現れ、総督に協力して秩序の回復に当たった。さらにタンズィマートと総称される近代化の時期の一八五〇年に、アレッポでオスマン期最後の大規模蜂起が発生したが、この際、不穏な雰囲気を察知した総督ムスタファー・パシャが逃げ出すと、法官もあたふたとこれに続いた。そして都市外に位置する軍兵舎の総督のもとに身を寄せたまま、ついに最後まで交渉の舞台に現れなかった。またこのときは法官代理も何ら役割を果たさなかった。
これらイスラーム法官の行動パターンの変化について、ここで総合的に分析して論じる余地はない。しかしこの変化は、アレッポという一都市における社会変化のみならず、オスマン帝国という巨大な政治単位の構造変化をも、象徴的に表現していることは指摘しておきたい。アレッポにおいて一七八四年から数年にわたって展開された政治劇二幕は、その一断面を示している。なお蛇足ながら、この断面の中に「アラブ」という民族意識を見出すことはできない。この都市の住民が、オスマン政府自体への反抗を表現するうえで民族/国民の用語を使うようになるには、まだ百年以上の時間を要するのである。
これまで論じてきた出来事は、一八世紀後半のアレッポという都市を舞台とした一幕の政治劇と見なすことができる。この事態の進展の中でも、伝統的なイスラームの政治規範を表現する言葉が、やはり使われた。都市住民がイスタンブルに嘆願書を送った際、総督の悪政を非難するのに「圧政」「不義」「不法」といった用語を、自分たちの行動を正当化するのに「公正」といった用語を使っている。そこで作用しているのは、弱者たる自分たちを守るという名誉ある義務を遂行せず、その正反対をなして財を侵害し、身体にも危害を加えるような為政者に対する、直接的反抗の意志である。
また、市場や店舗を閉鎖すること、礼拝をしないことは、都市住民による決起の意志表示の方法であり、なおかつ相互に反乱開始の情報を伝達し合う手段でもあった。経済活動と宗教生活の、本来なされるべき基本的行為をあえて忌避することは、社会の秩序を混乱させる意志を簡潔に表現するのに有効なのであり、弱者たる被支配者側が強者たる権力側に立ち向かう際の第一歩なのであった。この行為を経て、はじめて武力衝突が本格化するのである。
この対立関係の中で、イスラーム法官が一方の側に身を置いていたことは明らかである。彼は人々が反乱を起こした理由をよく理解し、金曜日正午の集団礼拝の呼びかけを中止させるという行為をもって、自ら蜂起に関わったのである。また、最初から戦闘の中で総督との交渉を試みて人質になってしまったことや、蜂起の後に総督の圧政明細リストを作成した行為の中にも、法官の主体的な参加の姿を確認することができる。後任の法官らも、家畜競売の件でアレッポの人々の側に立ち続けた。これらの法官の行動が、総督を追放した人々の暴力行為に合法性を与えたことは確かであろう。残念ながら、総督がいかなる理由によって様々な恣意的処刑や強請をおこなっていたか、という点については資料がない。しかしおそらく、イスラーム法とオスマン国家体制の枠組みの中で、自らの行動を総督なりに正当化していたのであろう。イスラームという規範体系に照らしての「正義」は、暴力的に対立する両者の間で、争奪されるがままのように見える。
この政治劇に関係する勅令などの文書情報に当たった限りでは、中央政府はイスラーム法官が反乱を支援した行動や総督の圧政のいずれについても、何ら非難を浴びせていない。一方、アレ″ポの住民たちも、キキー・アブディー・パシヤのような者を総督に任命した中央政府の判断に誤りがあった、と非難してもいない。帝国の暗黙の秩序とでも言うべきものは、この騒動の中で微動だにしていないのである。アブラハム・マルカスが述べるように「一八世紀後半アレッポの政治におけるドタバタは、都市の社会的こ収治的秩序の基層的安定性を試したうえで、それを確認していた」。マックス・ウェーバーの「伝統主義的革命」の一例と解釈することも可能であろう。総督を追放した人々にとって、イスラーム法とオスマン国家体制は守るべき大前提、というよりもむしろそれらこそが反乱の大義だったのである。
さて、イスラーム法官が蜂起したアレッポ住民の側に立っていたことは確認したが、果たして法官は二項対立的な図式の中に埋没していた、と理解してよいものだろうか。彼はイスタンブルに上奏文を送り、またそこから勅令を受け取るという行為をもって、総督と都市住民の激しいぶっかり合いの場に、中央政府という第三者を自然に引き込んでいた点に注目する必要があろう。視点を変えれば、アレッポの人々は、ちょうどイスラーム法廷における紛争解決システムと同じような形で自分たちの紛争に第三者を導入せんがために、最初に法官に訴えたのであった。さらにその効果を高めるべく、都市住民は第四者として在アレッポのヨーロッパ諸国の領事らを選び、それぞれの大使らにこの事態を報告するよう依頼している。もっとも、一七八四年一〇月こ一日付フランス領事の大使宛報告では、キキー・アブディー・パシャは他の総督と比べて特別に悪辣な者でもない、とされているのであるが。
この、仲介者として第三者を導入するやり方は、キキー・アブディー・パシャによっても採用されている。任地の都市から実力行使で追い出されるということは、中央政府における彼の信用と名声を、完膚なきまでに失墜させるものであったに違いない。しかしその後も彼はクルド系遊牧民の大集団を包囲戦で降したほどであるから、恨めしいアレッポ住民に軍事的に報復しようと思えば、ラッカで態勢を立て直し、周辺州の総督らに援軍を頼むことにより、十分可能だったであろう。しかし彼は単純に暴力には訴えず、中央政府の覚えを少しでもめでたくするべく、アレッポ住民に対し、イスタンブルに金を払わせるよう家畜を送りつけたのだった。一石二鳥の方策だったと言えよう。この件をめぐって中央政府とキキー・アブディー・パシャ、および中央政府とアレッポのイスラーム法官の間で公式文書がやり取りされた。これは中央政府を介在させて、追放された総督と法官が三角形をなして交渉していた図式になる。
一方、アレッポの名望家らは競売において安値で羊と駱駝を購入し、規定された金額の不足分を後背農村部に押し付けて利益を得ようとし、また再度、法官はアレッポの側に立とうとしたものの、中央政府はそうやすやすと騙されはしなかった。名望家やアレッポの徴税担当者らは、とぼけて不払いを続けるという手段に逃げ込み、少なくとも五年近くはそれが奏功して指定額の半額余りを納入せずにいられた。もっとも当時は、こういった臨時的な国庫への送金のみならず、基本的な国税送金すらも何年にもわたって遅滞することが常であったため、羊や駱駝の代金もその中に紛れさせられると考えられたのであろう。
アレッポで頻発した都市騒乱と、そこでイスラーム法官が果たした役割の変化は、法官が都市社会の中で占めていた位置の変化を反映させていた、と考えることができる。本稿で取り上げた事件よりも九年以前の一七七五年、アレッポ住民が総督アリー・パシャを追放したとき、法官は同様に蜂起を支持して礼拝への呼びかけを禁止している。また、時が下って一八〇四年に総督ムハンマド・パシャがやはり都市外に追い出されたが、このとき総督は、反乱を支持した法官を厳しく非難する文書を、法官自身に送りつけている。曰く「汝も我と共にオスマン国家を支える一員であろう」と。しかし一八一九年には、都市住民の攻撃を受けた総督フールシード・パシャがアレッポの外に逃げ出した際、イスラーム法官も慌ててその後を追うこととなった。三ヵ月以上も続いたその都市包囲戦の際に、住民の声を代弁して総督と交渉に当たったのは、地元出身の法官代理であった。法官は事態が収拾された後になってやっと現れ、総督に協力して秩序の回復に当たった。さらにタンズィマートと総称される近代化の時期の一八五〇年に、アレッポでオスマン期最後の大規模蜂起が発生したが、この際、不穏な雰囲気を察知した総督ムスタファー・パシャが逃げ出すと、法官もあたふたとこれに続いた。そして都市外に位置する軍兵舎の総督のもとに身を寄せたまま、ついに最後まで交渉の舞台に現れなかった。またこのときは法官代理も何ら役割を果たさなかった。
これらイスラーム法官の行動パターンの変化について、ここで総合的に分析して論じる余地はない。しかしこの変化は、アレッポという一都市における社会変化のみならず、オスマン帝国という巨大な政治単位の構造変化をも、象徴的に表現していることは指摘しておきたい。アレッポにおいて一七八四年から数年にわたって展開された政治劇二幕は、その一断面を示している。なお蛇足ながら、この断面の中に「アラブ」という民族意識を見出すことはできない。この都市の住民が、オスマン政府自体への反抗を表現するうえで民族/国民の用語を使うようになるには、まだ百年以上の時間を要するのである。