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都市の政治とイスラーム法官の役割 一七八四年アレッポの事例

『岩波講座 世界歴史14』より 前近代イスラーム帝国における圧政の実態と反抗の論理--一七八四年アレッポの事例から--

これまで論じてきた出来事は、一八世紀後半のアレッポという都市を舞台とした一幕の政治劇と見なすことができる。この事態の進展の中でも、伝統的なイスラームの政治規範を表現する言葉が、やはり使われた。都市住民がイスタンブルに嘆願書を送った際、総督の悪政を非難するのに「圧政」「不義」「不法」といった用語を、自分たちの行動を正当化するのに「公正」といった用語を使っている。そこで作用しているのは、弱者たる自分たちを守るという名誉ある義務を遂行せず、その正反対をなして財を侵害し、身体にも危害を加えるような為政者に対する、直接的反抗の意志である。

また、市場や店舗を閉鎖すること、礼拝をしないことは、都市住民による決起の意志表示の方法であり、なおかつ相互に反乱開始の情報を伝達し合う手段でもあった。経済活動と宗教生活の、本来なされるべき基本的行為をあえて忌避することは、社会の秩序を混乱させる意志を簡潔に表現するのに有効なのであり、弱者たる被支配者側が強者たる権力側に立ち向かう際の第一歩なのであった。この行為を経て、はじめて武力衝突が本格化するのである。

この対立関係の中で、イスラーム法官が一方の側に身を置いていたことは明らかである。彼は人々が反乱を起こした理由をよく理解し、金曜日正午の集団礼拝の呼びかけを中止させるという行為をもって、自ら蜂起に関わったのである。また、最初から戦闘の中で総督との交渉を試みて人質になってしまったことや、蜂起の後に総督の圧政明細リストを作成した行為の中にも、法官の主体的な参加の姿を確認することができる。後任の法官らも、家畜競売の件でアレッポの人々の側に立ち続けた。これらの法官の行動が、総督を追放した人々の暴力行為に合法性を与えたことは確かであろう。残念ながら、総督がいかなる理由によって様々な恣意的処刑や強請をおこなっていたか、という点については資料がない。しかしおそらく、イスラーム法とオスマン国家体制の枠組みの中で、自らの行動を総督なりに正当化していたのであろう。イスラームという規範体系に照らしての「正義」は、暴力的に対立する両者の間で、争奪されるがままのように見える。

この政治劇に関係する勅令などの文書情報に当たった限りでは、中央政府はイスラーム法官が反乱を支援した行動や総督の圧政のいずれについても、何ら非難を浴びせていない。一方、アレ″ポの住民たちも、キキー・アブディー・パシヤのような者を総督に任命した中央政府の判断に誤りがあった、と非難してもいない。帝国の暗黙の秩序とでも言うべきものは、この騒動の中で微動だにしていないのである。アブラハム・マルカスが述べるように「一八世紀後半アレッポの政治におけるドタバタは、都市の社会的こ収治的秩序の基層的安定性を試したうえで、それを確認していた」。マックス・ウェーバーの「伝統主義的革命」の一例と解釈することも可能であろう。総督を追放した人々にとって、イスラーム法とオスマン国家体制は守るべき大前提、というよりもむしろそれらこそが反乱の大義だったのである。

さて、イスラーム法官が蜂起したアレッポ住民の側に立っていたことは確認したが、果たして法官は二項対立的な図式の中に埋没していた、と理解してよいものだろうか。彼はイスタンブルに上奏文を送り、またそこから勅令を受け取るという行為をもって、総督と都市住民の激しいぶっかり合いの場に、中央政府という第三者を自然に引き込んでいた点に注目する必要があろう。視点を変えれば、アレッポの人々は、ちょうどイスラーム法廷における紛争解決システムと同じような形で自分たちの紛争に第三者を導入せんがために、最初に法官に訴えたのであった。さらにその効果を高めるべく、都市住民は第四者として在アレッポのヨーロッパ諸国の領事らを選び、それぞれの大使らにこの事態を報告するよう依頼している。もっとも、一七八四年一〇月こ一日付フランス領事の大使宛報告では、キキー・アブディー・パシャは他の総督と比べて特別に悪辣な者でもない、とされているのであるが。

この、仲介者として第三者を導入するやり方は、キキー・アブディー・パシャによっても採用されている。任地の都市から実力行使で追い出されるということは、中央政府における彼の信用と名声を、完膚なきまでに失墜させるものであったに違いない。しかしその後も彼はクルド系遊牧民の大集団を包囲戦で降したほどであるから、恨めしいアレッポ住民に軍事的に報復しようと思えば、ラッカで態勢を立て直し、周辺州の総督らに援軍を頼むことにより、十分可能だったであろう。しかし彼は単純に暴力には訴えず、中央政府の覚えを少しでもめでたくするべく、アレッポ住民に対し、イスタンブルに金を払わせるよう家畜を送りつけたのだった。一石二鳥の方策だったと言えよう。この件をめぐって中央政府とキキー・アブディー・パシャ、および中央政府とアレッポのイスラーム法官の間で公式文書がやり取りされた。これは中央政府を介在させて、追放された総督と法官が三角形をなして交渉していた図式になる。

一方、アレッポの名望家らは競売において安値で羊と駱駝を購入し、規定された金額の不足分を後背農村部に押し付けて利益を得ようとし、また再度、法官はアレッポの側に立とうとしたものの、中央政府はそうやすやすと騙されはしなかった。名望家やアレッポの徴税担当者らは、とぼけて不払いを続けるという手段に逃げ込み、少なくとも五年近くはそれが奏功して指定額の半額余りを納入せずにいられた。もっとも当時は、こういった臨時的な国庫への送金のみならず、基本的な国税送金すらも何年にもわたって遅滞することが常であったため、羊や駱駝の代金もその中に紛れさせられると考えられたのであろう。

アレッポで頻発した都市騒乱と、そこでイスラーム法官が果たした役割の変化は、法官が都市社会の中で占めていた位置の変化を反映させていた、と考えることができる。本稿で取り上げた事件よりも九年以前の一七七五年、アレッポ住民が総督アリー・パシャを追放したとき、法官は同様に蜂起を支持して礼拝への呼びかけを禁止している。また、時が下って一八〇四年に総督ムハンマド・パシャがやはり都市外に追い出されたが、このとき総督は、反乱を支持した法官を厳しく非難する文書を、法官自身に送りつけている。曰く「汝も我と共にオスマン国家を支える一員であろう」と。しかし一八一九年には、都市住民の攻撃を受けた総督フールシード・パシャがアレッポの外に逃げ出した際、イスラーム法官も慌ててその後を追うこととなった。三ヵ月以上も続いたその都市包囲戦の際に、住民の声を代弁して総督と交渉に当たったのは、地元出身の法官代理であった。法官は事態が収拾された後になってやっと現れ、総督に協力して秩序の回復に当たった。さらにタンズィマートと総称される近代化の時期の一八五〇年に、アレッポでオスマン期最後の大規模蜂起が発生したが、この際、不穏な雰囲気を察知した総督ムスタファー・パシャが逃げ出すと、法官もあたふたとこれに続いた。そして都市外に位置する軍兵舎の総督のもとに身を寄せたまま、ついに最後まで交渉の舞台に現れなかった。またこのときは法官代理も何ら役割を果たさなかった。

これらイスラーム法官の行動パターンの変化について、ここで総合的に分析して論じる余地はない。しかしこの変化は、アレッポという一都市における社会変化のみならず、オスマン帝国という巨大な政治単位の構造変化をも、象徴的に表現していることは指摘しておきたい。アレッポにおいて一七八四年から数年にわたって展開された政治劇二幕は、その一断面を示している。なお蛇足ながら、この断面の中に「アラブ」という民族意識を見出すことはできない。この都市の住民が、オスマン政府自体への反抗を表現するうえで民族/国民の用語を使うようになるには、まだ百年以上の時間を要するのである。
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スンナ派国家とシーア派国家

『岩波講座 世界歴史10』より 「イスラーム国家」を問う意味

スンナ派とシーア派

 ここでスンナ派とシーア派の国家観の違いを振り返ってみることにしよう。スンナ派とシーア派の教義にかなりの相違があることはよく知られているが、両者の国家観はどのように異なっていたのだろうか。また、このような国家観の違いは、現実の国家のあり方にどのような影響を与えたのだろうか。

 六五七年、アリーとムアーウィヤがシリア北部のスィッフィーンで戦ったとき、ムアーウィヤに対するアリーの妥協を不満として戦線を離脱したグループがあった。彼らはハワーリジュ派と呼ばれたが、これらの離脱者に対して、あくまでも預言者ムハンマドの従弟であるアリーヘの忠誠を守り抜いた人々がいた。彼らを「アリーの党派」(シーア・アリー)といい、後に一般化するシーア派はこの「アリー」を省略した呼称である。彼らはアリーこそ「聖なる共同体」の指導者(イマーム)であり、その資質はアリーの子孫へと受け継がれていくと信じて疑わなかった。何よりも血統を重視する思想であるといえよう。

 さらにシーア派の人々は、預言者の存命中にアリーはその後継者に指名されていたのだと主張する。それによれば、六三二年三月、「別離の巡礼」を終えたムハンマドは、メッカとメディナの間にあるガディール・フンムの水場で休憩し、そのときアリーを後継者に指名したのだという。もちろんスンナ派のムスリムは、ガディール・フンムでの指名を伝える伝承の信憑性を疑い、この点でも両者の主張はかみ合わない。

 一方のスンナ派は、「アリーの党派」が結成されたとき、彼らと一線を画し、中立を守ったグループにその起源をもつ。彼らは一般に「スンナとジャマーアの人々」と呼ばれる。先にも述べたとおり、スンナとは預言者の言行を意味し、ジャマーアとはカリフの権威を認める信者の共同体のことである。つまり、預言者によって示された規範にしたがって生活し、共同体の統一を重視するムスリムたちであるといってよい。これらスンナ派のムスリムは、ムアーウィヤのカリフ権は正当に委譲されたものであることを承認する。伝統を重んじる穏健な思想であるがゆえに、長いイスラームの歴史を通じて、常に多数派を占めてきたのがスンナ派であった。

 スンナ派のムスリムは、預言者の正しい言行は、預言者と生活を共にしてきた教友たち(サハーバが語る伝承、つまりハディースのなかに見出されると考えた。この信念にもとづいて、スンナ派の学者たちは、メッカやメディナ以外の遠隔の地にも足をのばして膨大な数のハディースを収集し、これらを学問の理論化やその基礎づけに利用することを試みた。この意味で、伝承の真偽を検討するハディース学は、法学、神学、コーランの解釈学、文法学などをはじめとするイスラーム諸学のいわば基礎学問の位置を占めていたのだといえよう。

スンナ派国家の特徴

 それではスンナ派国家の特徴はどこにあったのだろうか。これまでみてきたように、スンナ派は預言者によって示された言行と共同体の結束を重んじるグループであり、そこにはスンナ派に固有な政治思想はないかのようにみえる。もちろん国家の首長であるカリフの地位は、多くのムスリムが各地のモスクで集団のバイアを行うことによって正当化された。これは、ウマイヤ朝の場合にも、アバース朝の場合にも同様である。

 また、ウマイヤ家もアッバース家も、預言者のハーシム家と同じく、クライシュ族から枝分かれした分家であった。スンナ派の学者・知識人は、カリフはクライシュ族の子孫のなかから選ばれるべきだと主張する。たとえば、シャーフィイー派の法学者マーヮルディー(九七四-一〇五八年)は、『統治の諸規則』のなかで次のように述べる。

  カリフ(イマーム)の適格性の第七は、血統(ナサブ)である。つまりカリフはクライシュ族の子孫であるべきことが、ハディースの書にも明確に記され、大方の合意もなされている。アブー・バクルは、サキーファの日〔ムハンマドの没後、メディナのアンサールが集会場(サキーファ)に集まり、仲間うちから後継者を選出しようとした日〕に、「イマームはクライシュ族の出身者であるべし」とする預言者の言葉を引いて、アンサールの説得に当たった。また預言者は「クライシュの後に従い、その先に出てはならない」とも述べている。

 この文章が明確に示すように、マーワルディーがクライシュ族を優先する根拠は、ハディースによって伝えられた預言者の言葉だけである。また、カリフの適格性をめぐる第七の条件が血統であるとはいっても、シーア派の場合のように、クライシュ族の子孫にカリスマ的な資質が継承されているとする特異な考えは認められない。もちろん預言者が属したクライシュ族は、信者にとって尊い家柄であったことは確かであろう。しかし、この一族の出身者であるというだけで、カリフが神聖不可侵の性格を帯びることもまたなかったのである。

 シーア派が代々のイマームを無謬であるとみなすのに対して、スンナ派は共同体を構成する人々の合意(イジュマ)最終的には無謬であると考える。現実のイジュマーは、神が示した規定の解釈について、各時代の代表的なウラマーの間になされる合意の意思表示、あるいは暗黙の了解を意味している。イジュマーにもとづくスンナ派の国家観が茫漠として見えるのはそのためであろう。スンナ派のカリフに求められたのは、預言者の言行を重視し、学者たちのコンセンサスを取り付けながら共同体(ジャマーア)の統一を保持することであった。これがスンナ派による国家観の特徴であると思われる。

シーア派国家の主張

 シーア派による政治思想の特徴は、前述のように、アリーの血を引く歴代のイマームは無謬であり、このイマームこそが聖なる共同体を指導する資格を有するとみなすことにあった。イマームは元来は「集団の指導者」の意味であるが、特にモスクでの集団礼拝の指導者を指して用いられることが多い。また、スンナ派ではイマームがカリフの別称として用いられ、シーア派では共同体を指導するアリーとその子孫に適用される。いずれにせよシーア派は、スンナ派が重視するイジュマーそのものを認めていない。

 このようにシーア派によるイマームの呼称は独特の意味を帯びていたが、アリーの子孫のなかで、誰をイマームと認定するかの問題をめぐってシーア派は諸派に分裂した。イマームの称号を最初に用いたシーア派はカイサーン派であり、彼らはムハンマド・イブン・アルハナフィーヤ(アリーの息子)をイマームおよびマフディー(救世主)として擁立し、クーファで反乱を起こした。七〇〇年にムハンマドが没すると、カイサーン派の主流は、ムハンマドは隠れ(ガイバ)イマームとなり、最後の審判の日に地上に再臨して正義と公正を実現してくれると説く。

 これに対して十二イマーム派は、アリーからハサンを経て第三代のフサインからその男系子孫にイマームの位が受け継がれたと主張する。そして第てI代のムハンマド・アルムンタザルは、八七四年に「隠れ」の状態に入り、終末のときが来ると、「時の主」として再臨し正義を実現してくれるはずだと説く。なお、再臨に至るまでの統治は、信仰と法の権威者であるムジュタヒド(元来は「努力する者」の意味)がイマームの代理としてこれを行う。のちのサツァヴィー朝(一五〇一-一七三六年)が奉じたシーア派はこの十二イマーム派であり、イランでは現在でもこの派が主流である。

 またアリーの曾孫ザイドの名に由来するザイド派は、スンナ派に近い穏健なイマーム論を展開した。その教義によれば、アリーは預言者ムハンマドの指名を受けて指導者となったのではなく、最も優れた資質をもつがゆえにムハンマドの後継者になったのだとされる。しかもシーア派の主流がアリー以前の三人のカリフ(アブー・バクル、ウマル、ウスマーン)を簒奪者として否定するのに対して、ザイド派は、三人は「劣ったイマーム」ではあるが、合法的な存在であるとして容認した。一〇世紀半ば以降、アッバース朝内に独立政権を樹立したイラン系のブワイフ朝(九三二-一〇六二年)はこの派に属する。

 さらに十二イマーム派から分かれた過激シーア派の一つにイスマーイール派がある。九世紀後半に入ると、同派はイラク南部のバスラやシリア北部のサラミーヤに根拠地をおき、活発な秘密活動を展開した。その一つが北アフリカに興ったファーティマ朝(九〇九-一一七一年)であり、創始者のウバイド・アッラーフは、ムハンマドの娘ファーティマの血統を引くと称し、建国後はイスマーイール派を国教に定めた。なおシリア、イランの山城から各地に刺客を送り出し、十字軍やスンナ派諸王朝の君主たちに底知れぬ恐怖を与えたニザール派は、このイスマーイール派の一分派に属する。

 穏健なザイド派を奉ずるイラクのブヮイフ朝は、スンナ派のアッバース朝カリフと提携し、カリフ権を擁護することによって政権の正当性を獲得した。これに対してイスマーイール派のファーティマ朝は、エジプトヘの進出を果たした後にもアッバース朝カリフの存在を認めず、これを擁護するブヮイフ朝と鋭く対立した。しかし国家のイデオロギーを固く守る一方では、両王朝とも、官吏登用や租税徴収の面では現実に即した行政を心がけ、またスンナ派の民衆にシーア派への転向を強制しなかった点でも一致している。ただサファヴィー朝の場合には、政権の基礎を固めるために十二イマーム派を採用し、これを力によってイラン社会に浸透させようとしたことが特徴であろう。
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世界歴史 新講座の編集方針

『岩波講座 世界歴史1』より 本講座の編集方針と構成 開かれた世界史へ

歴史における個別性と共時性

 第一に、世界史全般にたいして、どのような展望をいだくかといった、基本姿勢にかかわる点である。

 ここでは、視点はつぎのふたつに集約されるようにみえる。第一には、世界史の展開において、明白に個々の文明圏がもつ固有性が強調され、その歴史的生成過程が課題として、提示されるにいたったことである。つまり、かつてであれば、世界史にとっての普遍的規則のなかに従属させられてきたかにみえる個別の文明は、それぞれの質と方向をとって、自律を主張する。またそれぞれの文明圏も一様ではなく、その内部に重層する地域的特質をふくみこんでいる。歴史学は当然のこととして、この個別性の解明にむかわざるをえない。

 第二には、個別の歴史のあいだの関係である。かつてであれば、「小さな歴史」をおおう「大きな歴史」の優越、つまり世界史における同一の法則適用をもって説明されたであろう。しかし、いまや歴史に普遍法則を強要する見方は真偽を疑われ、他方で多数の個別史のあいだに、なんらかの相互関連を模索しようという志向があきらかになった。ことなった歴史世界のあいだに比較考量の網目をはりめぐらせようというのは、その試みのひとつであるが、すでに多くの成果をおさめてもいる。さらに、いまわたしたちを刺激する視角は、つぎのところにある。

 すなわち、歴史的事象の共時性の重視である。世界史が、ことなった民族や国家、あるいは文明によって構成されていながら、なお時代をともにする同時代人によって共有されていることの意識や感覚である。現代世界が、ますますリアルタイムの共時性をあらわにしつつあるときに、ひるがえって過去のあらゆる時代に共時性のシステムの存在をたしかめたいと念願するのは、自然の勢いであろう。むろん、共時性のシステムが、地球上のどの圏域をふくむものであるのかは、各時代において適切に見極められなければならないが、世界史の認識のなかにこの共時性のモチーフをあえて受容したいと考える。

 以上にみた、第一の命題と第二のものとは、一見すると矛盾と鮪齢をふくむかのようでもある。多様自立したものと、相互連結されたものとは、あい容れぬのであろうか。しかし現代世界を体験する者は、これらが離反し、排除する二命題ではなく、むしろともに妥当性を維持しつつ、競合して作動する二大ベクトルであると見ぬくにちがいない。

 旧講座においては、ほとんど萌芽のままにとどまった、以上のような視点を、本講座は正面にかかげて、個別性と共時性との一体的な把握のために、さまざまな研究手法を開発・援用しようと考えた。

歴史分析の新しい視角と手法

 旧講座との区別は、こればかりではない。この三〇年間のうちに、歴史学にはあらたな研究上の視角と手法が提起され、成果もあげてきた。本講座は、これらを慎重にかつ勇気をもって、叙述に採用している。

 それらは、けっして一様のものではない。歴史学そのものの発展のなかから提起されたものも、また社会科学のような隣接諸科学から投じられたものもある。切り口が新鮮な影響をあたえた場合もあれば、データ解析が新領域を拓いたこともあった。ここで、その一覧表を掲げるいとまはないが、ごく典型的な事例をあげてみたい。

 社会史という手法が、この三〇年間に注目をあびっづけた。その名称や発想は、けっして新奇に属するわけではない。けれども、従来の政治史や経済史を射程におさめながらも、人間生活の具体的な様相の解明にあって、より広範な視野の開拓にむかうのが特徴であった。共同体(コミュニティ)における社会生活のありかた、たとえば家族や村落、都市の近隣集団、職能や信条によってむすばれた団体など、多様な生活形態や相互関係のなりたちについて、歴史的分析がこころみられた。社会史は、こうした一見したところ卑近な素材をあつかいつつ、在来の学問がとりにがした人間存在の深奥にせまろうとしたのである。

 実際には、社会史と呼称される方法や領域の輪郭は、自明ではない。見解は論者によってことなる。とはいえ、伝統的な指針にしたがった歴史学にたいして、社会のなかに暮らす人間の経験を、より適切なやりかたで表現し解明しようとする方法的意図には、共通に受けいれるべきところがある。とりわけ、人類学や民俗学・社会学・人口学、さらには心理学や芸術学など、人間の社会的存在にかかおる学の、あらたな知見や方法を摂取し、特定の社会の特定の問題を取りあげつつも、特定性をこえた本質性をみいだしたいとする意図に、歴史学としての意欲を看取したい。

 いわゆるアナール派歴史学は「長期持続(ロング・デュレ)」とよばれる視点からの分析であるが、その学派に特定するまでもなく、この視点は現代の学問に有用なヒントを提供しうるように思われる。むろん、「社会史」はごく一例にすぎない。かつて提唱された研究上の諸戦略、あるいは現今にあって吟味の対象とされる多様な方法は、いずれもこうした大胆なこころみに挑戦したものであった。本講座にあっては、こうした挑戦の成果を組みこみ、提示することも目標のひとつである。歴史学は、先行する諸研究にきわめてふかく依存する学問であるが、同時に分析の手法において、とりわけ変化にたいして敏感な学でもあることを、諒解していただきたい。

細部と構造

 第三に指摘されるのはつぎの点である。

 近代の学問は、人文系の科学をもふくめて、大学やアカデミーなど制度化された機構のなかで、専門的な職業の対象として創設され、展開してきた。このため、学問上の追究の結果は、あるきまった一定の形式をとるよう要請される。歴史学でも、その様式はあらまし「モノグラフ(個別論文)」のかたちをとってきた。つまり、ある問題の設定とそれへの合理的解答という整備された過程である。ことに、研究水準の向上が実現してからは、特定の問題の設定や解答の合理性がつよく要求された。それは、学問としての発展のためには望ましいことである。学の前線は、つねに確立されたモノグラフの作成によってはたされようとする。

 そこでは、歴史家の作業は、特定された問題の設定と解答に集約される。素材は局限され、それへの解答も実効性を限定される。この結果、世界史をふくむ歴史学の論述は、やむをえず、ごく細分化した領域に閉じこもることになろう。いわゆる学問の専門化や細分化は避けがたい趨勢であるかにもみえる。現実にも、多くの歴史家にとって、専門性を証明するための仕事はといえば、モノグラフを執筆することである。しばしば、その論文数によって、研究者としての業績が判定されるような時代だからである。

 けれども、歴史の全体から意図的に切断した主題や素材が、いかにふんだんに蓄積されえたにしても、それによって全体をただちに回復しうるわけではない。むしろ、切断の結果がおもたく歴史家の肩にのしかかるばかりである。細部を穿つにしたがって、かえって全体との距離を感受するのが、ふつうである。世界史は、ほとんど無数のトピックによって、分断されたという印象を禁じえない。

 明確な見通しをもって、あらたな方向をみいだすことは困難ではある。しかし、無数の断片をつなぎとめるための努力として、歴史のなかに一定の構造や展開の過程を把握する可能性や課題を、はっきりと意識することは必要であろう。その方法について、歴史家のあいだで合意された結論は存在していないが、現今における努力のあり方を率直に提示したいと考える。
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未唯宇宙6.8.1~6.8.3、7.8.3~7.8.4

20世紀最後の岩波講座『世界歴史』

 岩波講座『世界歴史』から5冊借りてきた。テーマ別になっている。網羅するのではなく、関心を絞っている。21世紀を前にして、刊行した様子がうかがえる。

スタバでお仕事

 バイトルの営業がスタバのカウンターでパソコンを拡げて、仕事をしている。乃木坂のフォルダーを使っていたので、思わず、声を掛けてしまった。バイトルは乃木坂のスポンサー先でした。怪訝そうな顔をしていた。この地区担当みたいで、電話を掛けまくっていた。

 乃木坂のフォルダーがほしかった。まいやんは15社のCMに出ている。前半期のトップ。

6.8.1「今を知る」

 私のキャッチフレーズは「全てを知る」「先を考える」。だが、一番難しいのは「今を知る」。そこはあまりにも狭い世界。今があるかどうかも不明。よくわからないものに包まれている。本質はどこにもない。考えるしかない!

 生活編で女性に救いを求めたように、本・図書館編では本に救いを求める。マイライブラリを本棚システムと命名した。とりあえず、一万冊から始めて、今は二万四千冊を超えts。それらを圧縮することで今を知りたい。

 私が必要とするツールはいつでも用意される。本が紙からデジタルに変わることで、コンテンツ主体になってきた。今を表現したい。それで全てを知り、先を考える。

6.8.2「全てを知る」

 全てとは何か。全てを知ることで範囲を知ることができる。逆説的だが、トポロジーの連鎖の考えとよく似ている。最初に空間があるのではなく、、近傍-よく知ったエリア-をチェーンで拡大して空間を作っていく。全体の次元とか座標軸ではなく、点から空間を作り上げていく。そこでは連続性と1:1などのルールだけで作られる。

 生活編では未唯空間をベースにする。内なる詳細と外なる概要。そこで作られる知の空間。なぜ、それが可能になるのか。知を共有すること、マイライブラリとコミュニティの知識をつなぐこと。

6.8.3「先を知る」

 図書館の本来の役割は未来を語ること。そのために様々な意見を利用できるようにしている。本だけでなく、語る場の提供。その為の意識付けも図書館の仕事になる。

 ヘーゲルは図書館を活用して、歴史から哲学、自由というキーワードを見つけ出した。今は平等というキーワードを見つけ出す時です。平等に関しては、共産主義も全体主義も歴史上で失敗を繰返してきた。分化と統合のシナリオをキッチリと練って、平等な社会を実現させる。先は考えて作るモノです。来たるべき、歴史の変節点を人類のモノにするために。

7.8.3「歴史の分岐点」

 私が存在している間に、歴史の変節点を向える。その姿を探しに来た。市民主体の変革が始まる。家族制度、教育制度、仕事のあり方が連動して行なっていく。あまりにもゆっくりと確実な動き。

 日本は市民主体が意識できないので、世界から残される。アフリカなどのインフラ構築中の国での対応が進んでいく。超国家はその変革を支援して、人々は条件のいいところに移動していく。

 ゆっくりと始まるが時間コードは短縮される。137億年の歴史の中での変革がなされる。

7.8.4「存在の無」

 「存在と無」から始まった状態が変わっていく。「存在」から内なる世界を構築して、他者の世界に外延していく。存在を確認して、それで何がわかるのか、内なる世界は変わっていく。

 内なる世界と他者の世界の関係が明確になる。他者の世界を取り巻く「無」の世界に思考を移していく。挟まれた他者の世界が圧縮されて、「無」に帰する。「存在の無」に至る。
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