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ジコチューでやりたいことをやる

ジコチューでやりたいことをやる

 ジコチューでやりたいことをやると言ってるけど、やりたいことって何なのか? それは言われたことではなく、内から願うことの筈。

 やりたいことをやる。そのテーマはなぜ<ここ>、なぜ<今>を知ることしかないでしょう。

 今だから やりたいことやってる。ツール、図書館も私のためにあるし、他者には妨害されない。時間だけがどうなっているかわかんない

イスラエルは日本の正反対

 今週借りた本の中で、イスラエルのことが多分、メインになる。エジプトを脱出したモーゼがなぜ左に曲がったのか。それが事の始まり。右に曲がったら砂漠。だけどそこは油田地帯。アラーからの贈り物があった。

 イスラエルは日本の正反対で、自己主張が強く、多様性に富んでいる。キブツという特殊なコミュニティ。出産率は高い。未来を示すローカル世界

 テルアビブとエルサレム。その間は車で1時間。こんな近いとは思わなかった。快楽と宗教の距離。ベイルートとバクダッドの距離もソホクリスから教えてもらうまで感じていなかった。ミサイル攻撃が見える距離。

子供を産むことを生産とする社会

 『生産性』って、生む力? となると「生産性向上」って何?

 スパルタでは子供は国のもの。スパルタ教育で育て上げた。それは多数派の奴隷の反乱を防ぐために。その結果は都市国家は没落していった。そして、ペルシャに傭兵として雇われた。

 アレキサンドロスはスパルタ傭兵を嫌った 。容赦しなかった。テルモピレーのスパルタ王の戦いだけは忘れなかったけど。

2歳児と犬と留守番

 2歳児と中型犬の相性はどうなのか?
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イスラームの登場と席捲そして定着

 『世界史序説』より 東と西の再統一

 イスラームの登場と席捲

 オリエント東西の横綱相撲は、このようにシリア・エジプトを争奪するシーソーゲームだった。ササン朝が圧倒しかけた最終局面でも、東ローマが挽回して相譲らない。双方とも疲弊しきっていた。

 その南方にひろがるアラビア半島、いまも遊牧生活をつづける人々が暮らす砂漠の地である。そこに世界史を大転回させる動きが起こりつつあった。

 いかに砂漠が多いといっても、不毛一色ではない。この地はすでにササン朝が、五世紀前後から鉱山開発などのために入植をすすめていた。隊商も行き交い、マーケットができ、もちろん聚落も存在する。

 とくに束ローマとササン朝の交戦が劇化すると、商業路は境界地帯を南に迂回し、こちらがかえって繁昌した。メッカはそんな商業都市の一つである。

 ムハンマド(五七〇頃-六三二)はそのメッカ有数の名門商家の一人だった。かれが六一〇年、唯一神の啓示を受けて、となえた教えがイスラーム。ムハンマドは預言者として布教をすすめ、妻のハディージャ(五五五?-六一九)、いとこのアリー(六〇〇頃-六六一)、友人のアブー・バクル(五七三頃-六三四)、ウマル(?-六四四)らが次々と入信した。

 しかし多神教の聖地メッカの有力者が、信徒のムスリムに迫害を加えたため、ムハンマドは六二二年、かれらとともにメッカを脱出、かねて招かれていたヤスリブに移った。いわゆる「聖遷」である。ヤスリブは「預言者の町」、略してメディーナとよばれた。

 ムハンマドは六三〇年、故郷のメッカを陥落させ、アラビア半島を統一、その二年後に逝去した。イスラームの勃興はあたかも、ササン朝と東ローマが死闘していた時期にあたり、その間隙をついたものである。

 ムハンマドの事業をついだのは、アブー・バクルやウマルら、預言者の「代理人」、いわゆるカリフである。とりわけ第二代カリフのウマルは、ヒジュラ紀元を定め、のちにシャリーア、つまりイスラーム法となる法制をまとめるなど、統治の枠組を定めて内政を整備したばかりでなく、疲弊しきった束ローマ・ササン朝に遠征軍を出して、アラブの大征服を指導した。

 まず六三五年から翌年にかけてシリアを、六四二年にはエジプトを征服する。ヘラクレイオス帝がササン朝から獲た勝利は、こうして十年の後に、けっきょく烏有に帰した。心臓部のオリエントを失った東ローマは、バルカンとアナトリアのみの地方政権と化した。

 ライバルのササン朝の運命は、いっそう悲惨だった。イスラームはシリアの征服後、東方に軍をすすめ、六三七年にクテシフォンを占領する。六四二年、エジプト征服につづいてイラン高原に進攻し、首都から脱したヤズデギルド三世がこぞったササン朝軍をニハーヴァンドで撃破、これで事実上ササン朝は滅亡した。ヤズデギルド三世は東に敗走、ホラーサーンのメルグまで逃れたものの、六五一年に殺害され、君位も断絶にいたる。

 オリエントの再統一

 イスラームはさらに拡大をつづける。ウマルの死後、いわゆる正統カリフが絶え、後を襲ったウマイヤ朝は、統治の本拠をシリア・ダマスクスに置いた。シリアはオリエントの商業中心地、シルクロードの西のターミナルであると同時に、地中海への出入口でもある。それまで陸を征服する「聖戦」にかぎっていたムスリムたちは、ついに地中海の経略にのりだした。

 東ローマの危機は必至である。帝都コンスタンティノポリスとその周辺、エーゲ海・アドリア海はかろうじて死守した。けれども属領のアフリカ・イベリア半島を失い、それにともなって、地中海の制海権もイスラームの手に落ちる。キリスト教徒は板一枚浮かべられなくなった、とまで称せられた。

 以上の史実をわれわれは、もともとローマ(=キリスト教徒=ヨーロッパ人)の内海だった地中海が、ムスリムに奪われた、とみなしがちである。それはしかし、西欧中心史観というべきだろう。

 歴史的にいって、シリアと地中海は不可分である。ギリシア・ローマもフエニキア・シリアが拡大してできたものだから、元来はオリエントの一部だった。それがアレクサンドロス死去以後、シリア以西が東のペルシアと扶を分かったので、いわゆる地中海世界も分立することになったわけである。

 だとすれば、イスラームの地中海制覇とは、地中海世界がようやく東のオリエントに回帰し、分かれていた東西が統合したことを意味する。千年の間、分立と拡大を続けたオリエントが、イスラームのもと、再統一を果たした事象とみるほうがよい。

 もちろんキリスト教のローマが頑強に生きのびた事実は、のちに重大な意味をもってくる。そこを見のがせないのは当然ながら、だからといって、地中海の当時の位地を履き違えてはならない。

 イスラームの定着

 イスラームは「聖戦」をとなえ、武力で拡大したものではある。しかしすべてが力づくだったはずはない。オリエントの広汎な範囲で受け容れられ、キリスト教・ゾロアスター教など、雑多な既存の信仰とモラルを塗り替えて、一つの秩序体系にまとめていった。その事実は重要である。

 キリスト教や仏教と同じく、イスラームの教義に深く立ち入る暇はない。ただ概略のみいえば、偶像崇拝を否定し、奇蹟を説かないなど、当時としては最も合理的な教えだったし、唯一神の前ではみな平等な同胞で、聖俗の区別もなく、位階の差別もなかった。こうした人道的な共同体の形成によって、清新なモラルを供給し、厳格な規律を維持しえたのである。イスラームがオリエントの人々にとって、既存の諸宗教を凌駕する魅力があったことは確かであろう。

 さもなくば、このようにまたたく間にひろがることもなかっただろうし、現在にいたるまで定着してはいまい。その意味では、イスラームはまさに当時、全オリエントの輿望をになって出現した、広域世界を覆いうる普遍的な秩序体系だったといえよう。

 ほかの既成宗教がそうであったように、イスラームも言語・信仰・儀礼・政治、あらゆる方面に及んで、信徒結束の紐帯となった。それは今も大なり小なり続いて、ごく日常のローカルな生活範囲から、戦時をふくめた対外関係までをも規定している。

 最も基本的なレベルを例にとるのが、わかりやすいだろうか。経典のコーランがアラビア語の記載によることから、とりわけ文字・書記言語は、その影響が決定的だった。オリエントで文字の排列法が、最終的に右からの横書きに定まったのも、この時である。それに対し、イスラームの手の及ばなかった西方では、キリスト教によって左からの横書きが定着したのである。
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四世紀から五世紀は滅亡と解体の時代

 『世界史序説』より 「大移動」と古代文明の解体

 「滅亡」の時代

 --ゲルマン民族の大移動で、ローマ帝国が滅んだ。

 かれこれ四十年ほど前、筆者が中学校あたりで教わった歴史である。いまどう教えているのかは、寡聞にして知らない。

 このテーゼは史実経過として、決してまちがってはいないだろう。しかし年齢を重ね、いろいろ歴史を読むと、あまりにも不十分な説明であることがわかってきた。

 首をかしげる点は、いくつもある。一方の「ゲルマン民族」は、なぜ住んでいたところを棄てて、移住する必要があったのか。それはかれらだけだったのか。ほかに類似のことはなかったのか。

 かたやローマのほうは、なぜ滅んでバラバラになったのか。たしか当時は、東西のローマ帝国があった。滅んだのは西ローマだけなのに、どうして「ローマ帝国の滅亡」というのか。そもそも、滅ぶとはどういうことなのか。これだけですでに、疑問百出である。

 しかもそんな現象は、ユーラシアの東西で軌を一にしていた。西ローマ帝国の滅亡と同じころ、中国・中原でも、同様の四分五裂状態となっている。漢王朝が滅んで三国となり、いったんは再統合するものの、その後まもなく遊牧民が来襲した。では、こちらの滅びは、いかに解すればよいのか。

 このように四世紀から五世紀は、ユーラシアの東も西も、滅亡と解体の時代であった。その動因が異種族・遊牧民の移動、攻撃だったことも共通している。それなら、こんな破局をもたらした要因は、いったい何だったのか。

 寒冷化

 あげだせば、数えきれまい。直接の因果関係は時と場所、局面によってさまざまだろう。しかし最も普遍的で根本的なものを問うなら、その答えも近年はっきりしてきた。地球規模の気候変動、寒冷化である。

 近年は逆の温暖化が問題になっているので、この種の気候変動は大なり小なり、実感できるだろう。寒暖いずれにしても、気候の変動による災害の誘発、生態系の動揺・崩潰が問題なのである。

 寒冷化といっても、やはり所によって、その影響はさまざまである。温暖な地域が寒くなるのは、まだしも、なのかもしれない。もともと暖かい所の気温が下がっても、なお人間の生存に関わらないからである。それでも冷害など、農耕・生産に対する影響は少なくない。長期にわたれば、事態は深刻さを増してくる。

 寒冷地になれば、なおさらである。寒いところがいっそう寒冷化しては、生命活動が往々にしてたちゆかない。それまでかろうじて生育していた作物や草原が、烏有に帰してしまうこともあろう。疫病も流行りやすくなる。もはや人間の生存に関わる事態であった。遊牧民であれ農耕民であれ、まず内陸の寒冷地帯に暮らす人々が、生き延びるため、少しでも温暖な地に移動、移住する。「民族大移動」のはるか以前から、ゲルマン人は多くローマ帝国内部に移り住んでいた。もとより流浪したのは、かれらに限らない。

 「民族大移動」とはもとの住地を逐われた集団難民が武装したまま、ローマ帝国に入り、力づくで転々と住地を変えたことをいう。それは遠く東方から、遊牧民のフン人が移動、襲撃してきたことでひきおこされた、いわば玉突き現象だった。しかし長駆移動したのは、フンだけではない。寒冷化に苦しむ誰も動機があった。

 したがって「大移動」は決して、この時だけに限らない。北方や内陸からの移動は、以後もくりかえし絶えなかった。ヨーロッパだけに限ってみても、東方のスラヴ・アヴァール・マジャール、北方のノルマンがよく知られたところだし、いっそう東の中央アジア・東アジアの遊牧民も、後述するとおりである。いずれも元来は生存を求めての、やむにやまれぬ行動であった。

 新しい体制

 かくて遊牧世界では生活の危機、農耕世界では生産の減少が生じる。もちろん互いの関係にも、安定を欠くようになってきた。もちろん両者の生産物の交換を基幹とする商業も、それにともなって衰退せざるをえない。必然的に乏しい物資をめぐって、紛争も多発する。

 だから影響は遊牧・農耕の両世界にまたがっている。寒冷化のダメージから、遊牧世界は移動・襲撃、あるいは移住・難民が避けられなかった。農耕世界のほうでも流亡・移入を受けとめるべく、生産力の低下を防がなくてはならなかったし、多発する紛争にも対処する必要がある。

 そこで下は労働形態から、上は権力構成にいたるまで、社会も変容せざるをえない。生産を少しでも増やすべく、人力を強制的にでも動員して、開墾・耕作をすすめる必要が生じた。またそのために、在地有力者の権力が個別的に伸長してゆく。政治的な分立抗争がこうして、いよいよ起こりやすい社会情勢になっていった。

 古代文明はかつて遊牧(軍事)・農耕(生産)・商業(交換)の三者が、組み合わさってできあがっていた。気候の寒冷化はそのバランスを崩したのであって、既存の文明は必然的に、その構成を変えざるをえない。

 「民族大移動」とは、そうした過程を象徴する現象の一餉であった。古代帝国と称する広信仰である。それは個人の精神・モラル・生活のよりどころとなるばかりではない。個々人が暮らしてゆくのに、社会と無縁ではありえないから、宗教・信仰の活動は必然的に社会秩序を形づくり、保ってゆく役割をも担う。

 したがって、時代をさかのぼればさかのぼるほど、それは政治的な統治機能をも兼ね備えていた。和語でも「まつりごと」といいならわすとおりである。平穏無事な時期でさえ、そうである。ましてや危機の時代、いよいよ人々が信仰にすがる気運は、高まらざるをえない。

 かつて栄えた古代文明は、気候変動とそれがひきおこした動乱でゆきづまってしまった。政治・経済の変革とあわせ、その後の時代をささえたもう一方の柱は、そうした宗教・信仰の刷新である。キリスト教・仏教など、いわゆる「世界宗教」が定着したのは、まさにこの時代、時機の一致は決して偶然ではない。そしてその棹尾を飾って、さらに新しい時代を切り開いたのが、イスラームだった。

 宗教・信仰が社会秩序をささえるものであるとすれば、古代文明が広域政権を形づくっだ時、それに見合う宗教がすでにはじまっているはずであり、事実そうであった。オリエント・ペルシアではゾロアスター教、インドではバラモン・原始仏教、中国・中原は儒教である。ただし、いずれも「世界宗教」に数えないところに注意しなければならない。
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昭和陸軍 武藤軍務局長と田中・服部・辻の参謀本部

 『昭和史講義【軍人篇】』より 昭和陸軍の派閥闘争

 一九三九年、五月から九月にかけてソ連との国境紛争ノモンハン事件が起きた。強攻策をとって失敗した関東軍参謀服部卓四郎中佐と辻政信少佐はそれぞれ歩兵学校付と第一一軍司令部付に左遷される。

 一方、一九三九年八月、平沼内閣が倒れると、後継の阿部内閣組閣に際し、多田第三軍司令官が陸相に決定しかかった。東条航空総監はこれを阻止しようとして対立。天皇による「陸相は梅津か畑」という畑陸相指名で事態は落着する。

 なお、阿部内閣組閣に際しては有末精三軍務課長が大きく関与しており、有末の「製造した」内閣とも言われた。「阿部内閣の組閣本部は(中略)事実上は陸軍省軍務課長室」で「有末大佐が組閣の事実上の参謀長であり」「(内閣書記官長の)遠藤柳作は阿部大将と有末との連絡役以上の存在ではなかふた」。有末らが内閣の「背骨」と構想した民政党の永井柳太郎を町田忠治総裁が拒否したと知った有末は、軍務課長室で民政党の中井川代議士に「陸軍は貴党の挑戦に応ずる」と威嚇。民政党はたちまち腰砕けとなり永井の入閣が決まった。すなわち、全体として陸軍の政治勢力は大きなものとなっており、軍務課長が組閣に活躍する状況となっていたのだった。もっとも、それだけに天皇の陸相指名が起こり、有末も注意を受けることになるという反動も起きたのだった。

 そしてこうした中、一九三九年九月、中国大陸に出ていた武藤章が軍務局長として戻ってくる。武藤章軍務局長時代の開始である。どうして武藤は帰ってきたのか。

 武藤の盟友田中新一は、関東軍参謀長時代に同居するなど親しかった岩畔豪雄を、自らが兵務課長になる時に兵務局に採用二九三六年八月)していたが、軍事課長(一九三七年三月)をやめて転出する時後任を岩畔としておいた(一九三九年二月)。そして、一九三九年九月、町尻軍務局長の後任人事の相談が山脇正隆次官から岩畔軍事課長と有末軍務課長にあった時、岩畔らが武藤軍務局長と田中新一作戦部長という提案を行い、まず前者が実現したのであった。

 武藤は三七年二一月に中支、三八年七月に北支の各方面軍参謀副長を経験し、日中戦争への基本認識を大きく改めていた。ナショナリズムに目覚めた中国大衆の動向への認識が不十分だったことに気づき戦争拡大論を反省していたのである。中国大陸に来た日本人の中にある「粗暴驕慢」「偏狭な日本精神の押売り」の面は「支那民族には一向理解できない」ことを悟っていたのである。

 こうした認識が陸軍にある中、一時は大陸からの撤兵案が出てくるような状況もあったが、そこに生じたのが四〇年四月、ナチスのョーロて(大陸での電撃的攻勢であった。その圧倒的勝利により四〇年七月、米内「親英米」内閣は倒壊する。そしてマスコミによる「近衛新体制」待望世論の急速台頭の中、第二次近衛内閣が成立し四〇年七月、東条陸相が登場する。

 この時、阿南惟幾が陸軍次官であった(三九年一〇月)。阿南は沢田茂参謀次長に次の陸相について相談した。衆目の一致するところは、梅津か東条であった。梅津は関東軍司令官(三九年九月)であり、「思慮周密にして冷静」な梅津に統帥部は続けてもらいたかった。さらに、梅津と阿南が同郷(大分)であり、阿南は梅津が大臣になるなら自分は次官をやめると繰り返し言っていたため沢田は「私情としてそれは言うにしのびなかった」。こうして、阿南は東条就任を進めて行くが石原との融和を条件としたと見られており、七月末に東条と石原らが「電撃的に」会談したが物別れに終わる。この後、結局石原は東条陸相により予備役入りが決められたのだった。

 東条陸相・松岡外相の第二次近衛内閣は大本営政府連絡会議で「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定し(それは南方進出が謳われたるのであったが、決定的なものではなかった)、四〇年九月、電撃的に三国同盟が結ばれる。三国同盟は松岡外相の強力なイュシアティブによるものであり、武藤らはほとんど関与してはいない。むしろ、陸軍内部で問題となぶたのは同じ四〇年九月の北部仏印進駐の方であった。

 援蒋ルートの遮断を目指し行われた北部仏印進駐であったが、平和進駐と決まっていたものを富永恭次作戦部長がわざわざ現地に赴き武力進駐を指導するという不祥事を起こしたのである。このため作戦部長を田中新一へ交代させることになる。田中新作戦部長は東条大臣の提案で、杉山元参謀次長が引き受けて来たものを沢田茂次長が「情勢が極めて重大微妙である折から(中略)幅の広い考え方の者でないと困る」として総長を説得。東条大臣に交渉したが、「総長が引き受けたものを次長が文句をつける法があるかとまで激昂」するので拒絶できず決まった。すでに見た通り岩畔らの人事提案にあった結果でもあり、武藤は田中に期待したのだが裏切られることになる。

 同じ頃(一九四〇年一〇月)、閑院宮が八年十ヵ月勤めた参謀総長をやめることになり、阿南次官は畑を、沢田次長は寺内を後任に考えたが、東条は周囲の意見を聞かず「高級人事については大臣が一人でやるから他人の進言を待たず」と「杉山」に強行した。独裁的傾向を見せ始めた東条に二人は怒る。沢田がまず去り(一九四〇年一二月)、東条の「不愉快」を沢田に三回も相談した阿南も去る(一九四一年四月)。阿南は、東条陸相推薦を「一生の最大の過失」と悔やんだという。

 なお武藤は新しい政治勢力の結集も期しており、強力な政党による「新体制」の確立を考えていたが、観念右翼の反対もありまた既存の秩序の存続を求める内務省の反抗も強く結局「大政翼賛会」(一九四〇)は「公事結社」と化し構想とはかけ離れものであった。

 四一年四月、日中戦争をめぐり日米関係悪化の中日米交渉が開始され、続いて四一年六月独ソ戦開始、四一年七月南部仏印進駐、米の日本資産凍結そして対日石油輸出禁止となり、事態は日米戦争直前に進んで行く。対米開戦派と非戦派の対立の状況が生まれるのである。

 すなわち、四一年七月、参謀本部では田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信戦力班長という体制となり開戦派が主流となるのに対し、陸軍省では中核となる武藤軍務局長が日米非戦の立場だったのである。

 服部作戦課長、辻戦力班長はノモンハン事変の失敗で左遷されたものがこの地位にまで復活していたので失敗を取り返そうという意識が非常に強かふたことは否定できない。一方、武藤軍務局長は日中戦争の泥沼化への反省から日米戦争はそれ以上の持久戦となり勝ち目がないという認識から日米非戦の立場だったのである。武藤は大正末に二年半ドイツに駐在したが帰りにニカ月間アメリカに立ち寄り「何にも古いものはない」「すべてが動いている」「近代文明の具体化」アメリカに驚いて帰国した経験があったが、それがこうした態度の根底にあったと見られる。

 こうした状況が生まれるプロセスを見ておこう。四一年三月武藤系の河村参郎軍務課長が東条派の佐藤賢了に代えられ、四月には次官も阿南から東条系の木村兵太郎に交代、人事局長にも北部仏印進駐で左遷されながら東条と「特別な関係」の富永が復活して着任し、武藤には次第に不利となり始めていた。

 そして、参謀本部に戦力班長として着任していた(四〇年一〇月)服部が、七月に台湾で南方作戦を研究していた辻を起用しょうとして土居明夫作戦課長と対立。土居は「君と辻とが一緒になったら、またノモンハンみたいなことをやる。だめだ」とこの人事を拒否した。しかし、服部・辻は参謀本部・陸軍省などに「根をはって居って、同志で気脈を通じ、全体の空気を作って」いき、土居に「この壁は破れなかった」。

 土居は、服部の転出か自己の転出かを田中作戦部長に迫り、土居の転出が決まると「服部はすぐに辻を補充して南方作戦一色となった」「これで日本の方向は決した」。ここが二つの分岐点であったともいえ

 参謀本部の田中作戦部長、服部作戦課長、辻戦力班長という体制は何といっても強力であった。当時作戦課にいた高山信武少佐は、この三人が参謀本部における「開戦の強力な主唱者」だったとしている(田中新一著、松下芳男編『田中作戦部長の証言--大戦突入の真相』芙蓉書房、一九七八、六頁)。また軍務局で武藤の下にいた石井秋穂中佐は、「赤松(貞雄陸相秘書官)、富永、佐藤、服部、辻」を「東條直系」と呼んでいる。

 独ソ戦開始が知られた時、陸軍省では武藤を中心にすぐに協議し不関与を決めるが、参謀本部では強硬論が強く「様子見の」関東軍特殊演習になるのである。

 こうして、四一年一〇月東条内閣成立、四二季二二月太平洋戦争開始となる。

 秋になると、開戦決定の時期を決める大本営政府連絡会議(一一月一日)に出かける「塚田(攻参謀次長)が『陸軍省がなんだ、武藤がなんだ』と口走りながら車に乗った」という報告が参謀本部から陸軍省に入るという有様であった。

 陸軍省でも富永人事局長らが開戦論であり、武藤も苦しかった。最後は非戦論の武藤軍務局長と開戦論の田中作戦部長とが連日のょうに激しく激突したが、陸軍省の富永人事局長が田中を援護するので「二対一」の格好ともなった。

 一一月一八日、議会では対米強硬の「国策完遂」決議がなされ、一二月初めには陸軍省記者クラブの記者達が陸相に面会を求め、対応した西浦進軍務局課員に「どうですか対米交渉は、国民の間にはもう東条内閣の弱腰に非難の声が起り出した」と迫った。

 開戦が決まった時、岡田菊三郎陸軍省戦備課長によると、誰かが「これですべてはっきりしました。蟠りがみな解けて結構ですな」と言うと武藤軍務局長は「そうじゃないぞ。戦はしない方がいいのだ。俺は今度の戦争は、国体変革までくることを覚悟している」と言った。
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