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チャーチルとトルーマンの「敗北宣言」

『「戦勝国」アメリカの敗北』より

一九四五年四月二一日、FDRは突然に死去した。チャーチルは、FDRがスターリンに甘い対応をとってきたことに苛立っていた。ヤルタではFDRとスターリンのタッグの前になすすべもなかった。しかし結局は、戦後ソビエトの東西への拡張を容認する秘密協定に署名した。チャーチルは、新大統領トルーマンがFDR外交の蚊帳の外に置かれてきたことを知っていた。FDRの死後、対ソ宥和外交の継続を主張する勢力(国務省容共派官僚)と、それに反対し対ソ警戒を勧めるアドバイザーや保守系議員らの間で開ぎあいが続いていることも知っていた。

チャーチルが自身の考えを極秘電で伝えたのは、トルーマンの大統領就任からおよそ三週間経った五月六日のことだった。対独戦争勝利(VEデイ)の二日前である。ドイツ領土内をベルリンに向けて進軍する米軍司令官には、いかなることがあっても占領地域から軍を引かせないよう進言した。その六日後には、より強い調子で、「ソビエトは鉄のカーテンを降ろした。その裏側で彼らが何をしているかわれわれにはわからない」と書いた。「鉄のカーテン」という表現が歴史上はじめて使われたのは、この暗号電の中であった。この時期のトルーマンのソビエトヘの警戒はまだ本物ではなかった。チャーチルの意見には従わず、国務省容共派官僚の意見を容れて、ソビエトとの協議で決まっていた地点にまで軍を引かせた。

一九四六年三月四日、トルーマンとウィンストン・チャーチルは、大統領の地元ミズーリ州に向かっていた。チャーチルは戦争指導には勝利したものの、一九四五年夏の選挙で労働党に敗北した。ポツダム会談では途中、新首相クレメント・アトリーに代わられる屈辱を味わった。トルーマンは、米国訪問を決めたチャーチルに地元大学での講演を依頼した。

会場は、国民のほとんどがその名を初めて聞く長老派教会系大学ウェストミンスターカレッジの講堂であった。トルーマンは大学のあるフルトンの町への移動に、FDRの使った大統領専用列車フェルディナンド・マゼラン号を用意した。車内で二人はポーカーに興じた。その一方で、講演内容についての入念な打ち合わせを行った。チャーチルは、対ソ外交にかかわる重大な内容を含むスピーチを行うことを、招待を受ける条件としていたのである。

翌五日、フェルディナンド・マゼラン号は、セントルイスとカンザスシティの中間(ミズーリ州のほぽ中央部)にある小都市フルトンに到着した。ポーカーの後にチャーチルは打ち合わせた原稿をもう一度修正していた。早朝、修正箇所の了解をトルーマンから得た。二人が念には念を入れたのは、米英両国が進めてきた対ソ外交を変更すると全世界に明らかにする意図があったからである。フルトンの空は晴れ上がり、昼頃には気温は華氏六〇度(摂氏一六度)にまで上がっていた。

トルーマンの紹介に続いてチャーチルは語り始めた。彼は、目前の聴衆に語ったのではない。世界に向けて語ったのである。

 「バルト海のシュチェチン(現ポーランド)からアドリア海のトリエステ(現イタリア)まで、ヨーロッパ大陸を横切る『鉄のカーテン』がおろされた。中部ヨーロッパおよび東ヨーロッパの歴史ある首都は、すべてその向こうにある」

 「西側民主主義国家、とりわけイギリスとアメリカは、際限なく力と思想の拡散を続けるソビエトの動きを抑制しなくてはならない」

打ち合わせ通りの講演内容を聞くトルーマンは、満腔の賛意を表し、聴衆とともに拍手した。

かつて、チャーチルは、二人の怪物(ヒトラーとスターリン)を前にしていかなる外交をとるべきか迷いに迷っていた英国保守派を激しく批判した。とにかくヒトラーを倒すことだけを主張した。ヒトラーとスターリンを戦わせ、二人の怪物の弱体化をはかるべきだと考えたネヴィル・チェンバレン首相を詰り続けた。同首相は、対独戦がはじまるとチャーチルを海軍大臣に起用した。その後体調を崩し首相の座をチャーチルに譲った(一九四〇年五月一〇日)。ヒトラーが、満を持して対ソ戦を始めた時期(一九四一年六月二二日)には、何らかの対独外交方針の変更もあり得た。しかしチャーチルは次のように述べてスターリンとの「同衾」を決めた。

 「(ソビエトが犯した)過去の罪、愚かな行為とそれが生み出した悲劇。こんなものは水に流す。いまロシアの兵士が、太古の昔から祖先が耕してきた大地を必死に守っている。そして兵士の母や妻が祈りを捧げている。愛する者が無事に帰ってくるように、家族を守る稼ぎ手が傷つかないように祈っている」

 「ナチスの支配と戦う人々あるいは国には、我が英国は惜しみなく支援する。いかなる国家、いかなる人間も、ヒトラーと手を携えるかぎり我が国の敵である」

英国保守派にすれば、スターリンとの「同会」がどんな結果をもたらすかはわかりきったことであった。彼らは、チャーチルの「鉄のカーテン」スピーチを聞き、「今頃気づいた馬鹿野郎だ」と思ったに違いなかった。

英国はナチスドイツとの戦いで国富の四分の一を失った。英国の対外負債は一四〇億ドルにも上り、ケインズは、「英国の外為資産は底をついた。五年以内に国家破綻する」と警告していた(一九四五年四月)。その結果がブレトンウッズ体制であり、世界を支配する通貨はポンドからドルに完全に取って代わられた。チャーチルの「敵の敵は味方」とする単純な思考がもたらした英国の没落であった。戦後、ソビエトの共産化攻勢に晒されたギリシャ、トルコヘの支援を断念したのも財政難が原因であった。英国保守派はチャーチルの愚かな外交を抑止できなかったことに臍を噛んだ。「鉄のカーテン」演説は、チャーチル特有のレトリックを弄した、体の良い「対ソ敗北宣言」だったのである。

アメリカ世論は、チャーチルとトルーマンが練り上げたフルトン演説に冷ややかだった。VEデイ(対独戦勝利一九四五年五月八日)、VJデイ(対日戦勝利同年八月一四日〔米国時間〕)から、まだ一年も経っていない時期に、今度は「ソビエトを敵と見倣せ」というチャーチルのロジックにはついていけなかった。「ウォールストリートジャーナル」紙は、「我が国とロシアの関係に毒を盛る演説である」、評論家のウォルター・リップマンは、「政治的なおバカ発言である」と批判した。

演説草稿は二人で練ったものだけに、トルーマンは世論の反発に驚き怯んだ。「鉄のカーテン」演説はあくまでチャーチルの発言であると逃げをうった。それでも、アメリカ国民も次第にソビエトの「悪行」を知っていくことになる。トルーマンは、世論の変化を見ながら対ソ強硬外交に切り替えると国民に説明する機会を窺っていた。そしてようやく一九四七年三月一二日、「トルーマンドクトリン」(ワシントン上下院に対する特別教書演説)を発表したのである。これは、トルーマンの「対ソ敗北宣言」であった。

「鉄のカーテン演説」や「トルーマンドクトリン」をスターリンヘの敗北宣言だったと書く書はどこにもない。しかし、FDR政権は容共政権であったのではないかという視点(歴史修正主義史観)をもって歴史を読み解けば、それが合理的な結論とならざるを得ない。

筆者は前書きで、「ソビエトの諜報組織の暗躍」を横糸にした歴史描写が本書の狙いであると書いた。ソビエト諜報網は大きな広がりを見せていたが、本書ではもっとも太い二本の横糸(ハリー・デキスター・ホワイトとアルジャー・ヒス)だけを使った歴史描写にとどめた。経済担当大統領顧問であったラフリン・カリー、容共派高官の筆頭とも思われるディーン・アチソン(彼はスパイではない)、あるいはマンハッタン計画の核爆弾開発機密を流したユダヤ人夫妻(ジュリアス・ローゼンバーグとエセル・グリーングラス・ローゼンバーグ)といった「横糸」は使えなかった。チャーチル政権やその後に続いた英政権内に潜伏し続けたスパイ網という「横糸」についても扱えなかった。彼らソビエトスパイたちは冷戦期に入っても「活躍」した。

ホワイトとヒスという太い横糸だけの歴史物語でも、あの戦争は何だったのかを考える重要なヒントになると思っている。使い残した「横糸」を使った歴史描写については機会をあらためて挑戦したいと考えている。

本書執筆にあたっては今回も文春新書編集部の前島篤志さんの励ましをいただき、同社校閲部には丁寧な校正をしていただいた。この場を借りて篤く感謝したい。
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ベルリン封鎖 スターリンの戦術

『「戦勝国」アメリカの敗北』より

四月に始まったベルリンヘのアクセス制限は、西側の反応をテストするスターリンの戦術だった。アメリカが西ベルリン防衛にどれほどの本気度を見せるかのリトマス試験紙だった。米英は四月、封鎖が始まると、ダグラスC47及び同型のダグラスダコタ輸送機(英空軍)を使ってベルリン空輸を開始した。日に八〇トンのミルク、野菜、卵などの生鮮食料品を運んだ。この時期の輸送作戦は「リトルリフト」と呼ばれる小規模なものであった。この作戦を日本の都市を空から焼き尽くしたカーチス・ルメイ将軍が指揮した。

スターリンは四月のアクセス制限で、二つのことを確認した。西側連合国はソビエトとの本格的軍事衝突は望んでいないこと、ベルリンを封鎖した場合、空輸による対応をとることであった。空輸は確かにその効果を発揮したが、全面的にベルリンを封鎖した場合、二〇〇万市民のための生活物資を満たすためには日々四〇〇〇トン以上の物資を運び入れなくてはならない。それを実現するには、日々一五〇〇回のフライトが必要であった。

そんなことが出来るはずもなかった。ペルリンを封鎖すれば、米国も英国もいずれ音を上げ、西ベルリン市民はソビエトに頼らざるを得ない。そうなれば、いかに彼らがソビエト支配を嫌おうが膝を屈する。東欧諸国の反ソビエト勢力にも心理的な圧力をかけられる。どれほどソビエトに抵抗しようが、西側諸国は彼らを助けにはこない。そのように思わせ、抵抗の精神を奪うのである。それがスターリンの狙いだった。四月一七日、スターリンには次のような報告が寄せられた。

 「クレイ将軍の、ベルリンと西側占領地域を結ぶ空輸作戦は、失敗であることが確認された。アメリカ軍は空輸はあまりにコストがかかると結論付けた」

スターリンがヨーロッパ各地に忍ばせたスパイ網からもこれを裏付ける報告が上がっていた。しかし米英軍は、本格的な封鎖を覚悟した対策を練っていた。まずベルリンにおける石炭の備蓄を増やした。鉄道で運ばれる石炭は三月には一四五一トンだったが、四月一万六二トン、五月一万四四三トン、六月半ばの封鎖までには四七四九トンを運んだ。軍需品も四月五九二九トン、五月六〇二〇トン、六月(前半)三一五一トンと増量した。また空輸の帰りの便を使い、余剰と思われる人員をベルリンから運び出して「口減らし」した。

米英両国は西側占領地域においては新通貨を流通させることも決めた。通貨改革については四カ国外相会議で協議されたが、ソビエト側は通貨発行権をソビエト側も持つことを主張して譲らなかった。四月の嫌がらせも西側が提案した通貨改革が引き金であった。

六月一八日、西側連合国は、「西ベルリンを除いた」西側占領地域では同月二〇日を以て新紙幣に切りかえると通知した。もちろんこの時点で、西ベルリンには新紙幣は密かに搬入済であったが、ソビエトの対ベルリン強硬策を警戒して西ベルリンでの貨幣政策には触れていない。それでもソビエトは憤った。ホワイトの画策で紙幣の印刷原版も手に入れた。貨幣発行権を握ることで、ドイツの富を収奪する仕組みが出来ていた。その仕組みを崩されることを嫌った。

ソビエトが本格的にベルリン封鎖を開始したのは翌一九日のことであった。この日、客車や乗用車による人の移動に規制をかけた。二一日には西側占領地域からベルリンに向かう軍用列車を止めた。二二日には、ソビエト占領地域に残された列車にソビエト製機関車を連結し、無理やり西側に戻した。この日、四カ国は新通貨政策について最後の協議を実施した。ソビエトは、自ら準備した新通貨をベルリン全市に適用すると主張したが、西側は西ベルリンでは西側新紙幣を使用すると譲らず、協議は不調に終わった。六月二四日、ソコロフスキー元帥はベルリンヘの陸路、水路によるアクセスを完全に遮断すると警告し、翌日には食料品の西ベルリン供給を止めた。

 「この時のソビエトは、西ベルリンをソビエトに明け渡す以外に西側諸国が取る道はないと確信していた。食糧と燃料を遮断すれば、西側連合国軍は西ベルリンから退去せざるを得ない。ベルリンヘの空輸作戦など成功するはずはないと考えていた」

しかしトルーマンは覚悟を決めていた。空輸作戦を何としてでも成功させる、そうしなければ、民主主義を守ると始めたあの戦争の大義が完全に嘘だったことがばれてしまうのである。

既に東欧諸国でのソビエトの振る舞いからそのことはうすうす気づかれてはいたが、ここで西ベルリンを救わなければ、もはや世界への、そしてアメリカ国民へのいかなる「言い訳」もできない。ナチスドイツもソビエトも苛烈な全体主義国家であった。米英両国はそれにもかかわらずヒトラー憎しの感情だけが先に立ち、何の議論もなくソビエトを連合国の一員に加えた。西ベルリンだけは救うことで、あの戦争は民主主義を救うための戦いであったという建前をかろうじて言い張ることができる。ソビエトの横暴は、彼らが戦後心変わりしたとでもいえばなんとか取り繕うことができる。

この頃、ソビエトはメディアを動員して、何もできないアメリカを嘲り、ソビエト体制の優位性を訴えるプロパガンダを加速させていた。共産主義思想の拡散はどうしても止めておかねばならなかった。もし何の抵抗もできない輸送機をソビエトが攻撃することがあれば、第三次世界大戦の始まりを意味した。トルーマンはそれを覚悟した。ただそうなった場合、戦争を始めたのはソビエトなのである。アメリカには責任はない。

先に書いたように、西ベルリンヘの空路だけは、ソビエトとの合意文書が残っており有効だった。西ベルリン市民を支えるための空輸量の計算を担当したのは英国であった。英国はドイツとの長い戦いの経験があり、配給制度のプロがいた。一人が一日当たり一七〇〇キロカロリーを費消する想定で導き出された数字は、日々一五〇〇トンの食糧と二五〇〇トンの燃料が必要になるというものであった。つまり四〇〇〇トンの物資を毎日西ベルリンに運ばなくてはならないことがわかったのである。

ベルリンヘの本格的空輸作戦は六月二六日から始まった。しかし空輸できる量は日に一〇〇〇トンが限界だった。米国は各地から輸送機をかき集め、本国に帰国していたパイロットを再び招集した。
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「日本共産党」の古典的意義

『なぜ古典を勉強するのか』より 「日本共産党」の古典的意義

「日本共産党」、その不寛容の伝統と根拠

 Monarchie(=monorchy)が「君主制」ではなく、「天皇制」と訳され、さらに「絶対主義的天皇制」と巨大化させられたばかりか、大地主・独占資本とも一体化し、打倒の対象となったのは、いわゆるコミンテルンの三二年テーゼ(ソ連の共産党本部=コミンテルンが日本共産党に向けて出した指示命令文書)においてであった。戦前・戦後の共産党の世界観は、ほぼこれに従っている。いわゆる講座派的世界観である。その意味で、戦後、アメリカベったりの自民党を批判する資格は共産党にはない。

 だが、そうではない人もいた。その一人が、近時、辻井喬(一九二七~二〇一三)が『風の生涯』という伝記小説で描いた、戦後、財界四天王、フジサンケイグループの総帥となった元共産党員水野成夫(一八九九~一九七二)である。水野は、「天皇制」を肯定していたために、一九二八年の一斉検挙で逮捕された後、転向第一号となり、詩人浅野晃(一九〇一~一九九〇)と共に、二九年に天皇制下の共産主義運動を標榜して、「日本共産党労働者派」を設立した(その後、ばしゃり、水野は翻訳家から財界人に変貌していく)。水野の転向は、三二年テーゼ以前のことであるから、二七年テーゼも含めて、コミンテルンに盲従する共産党指導部に根源的な違和感があったのだろう。違和感の正体は、「天皇制」ということばが、単なる社会科学・歴史学用語ではなく、政治スローガンであったことではないだろうか。つまり、そこには「打倒すべき」(天皇制)という目標が予め含意されていたのである。もっと言ってしまえば、そのような目標は日本の国制・国体にそぐわないと水野には映ったのである。「先生」同様の倫理をもって共産主義者たらんとしながら、他方、天皇制度に対しても倫理的な親和感を捨てきれなかった水野の矛盾は、共産党に巣くう信仰共同体とは無縁であり、戦前の良識的インテリの達成点を示していよう(浅野晃はその後戦争賛美詩人となったが、水野はそれには荷担せず、戦後徹底的に批判された浅野の面倒を見た。立派である)。

 共産党時代、水野の兄貴分に当たる福本和夫(一八九四~一九八三)は、一時期、「過程が過程する」といった言い回しに典型的な独自の難解極まる福本イズムで共産党員・シンパ(とりわけ若手)の圧倒的支持を得た。だが、二七年テーゼで批判されて共産党内の地位を失い、水野と同様に三・一五で逮捕され、こちらは不転向を貫いたのが崇って、一九四二(昭和十七)年まで獄中にあった。若い頃、独英仏三力国に留学し、かの地で左翼文献をすべて原語(福本に砂ればヽドイツのハイパーインフレのおかげで、大量の書物が恐ろしいまでの廉価で購入できたとのこと)で読み、レベルはともかく、借り物、翻訳ではなく、自分のことばでマルクス主義を語り論じたはじめてのマルクス主義者であった。だが、その福本にしてもコミンテルン権威の前にはいとも簡単に葬り去られてしまうのである(むろん、福本自身は自伝で語っているように、コミンテルンに負けた自覚はない)。福本は水野と異なり、戦後も共産主義者であることを捨てなかったが(やっていたのは捕鯨史・からくり史をはじめとする日本ルネッサンス史論だったとはいえ)、この手のオリジナル溢れる魅力的な人間をコミンテルンの意向だけで日本共産党は追放したのである。上位の組織に従順であり、かつ、かつての仲間であれ同志であれ、一旦敵対すると排除し、それのみならず、徹底的に批判を加える体質は今も継続していると思われるが、こうした体質がどこから生まれているのかと考えると、おそらく答は、非合法下の政党という性格が出発点からあったためではないだろうか。

 つまり、政府からは敵対され、弾圧される対象であるが、それ故に、倫理と使命感は人一倍強い革命政党、否、秘密結社に近いということである。しかも、コミンテルンという絶対無謬の「神」までいるのである。最終的な判断はコミンテルンが決めるから、それに逆らう人間はいとも簡単に排除してしまう。戦後、公認政党になってからは、コミンテルンからは独立したと言っているが、今度は内部でさんざん揉めた末に宮本独裁体制になっただけのことである。宮本顕治(一九〇八~二○○七)がコミンテルンの代わりに「神」として君臨した。その余光が現在の体制だろう。ということは、非合法時代に作られた体質から逃れきっていないということである。それはこれこそ共産党なるもののアイデンティティーだからだろう。故に一定の力を持つかもしれないが、得体の知れない雰囲気もなくならないので、おのずと限界がある。一部の領域(たとえば、歴史学会など)には進出しても、キリスト教系の学校示中高大)がほとんど信者を増やさなかったように、共産党系の歴史学者が書いたものもさして国民の歴史観に影響を与えていない。但し、歴史学のために弁護すると、今日、共産党と同じことを言っている共産党系歴史学研究者はほとんどいない。実証と方法で実質マルクス主義歴史学は過去のものとなっている。だが、共産党と完全に縁を切った歴史学者(多くは老研究者)もそれほどいない。やはり若き日の倫理(それに加えて深ぃ感動)と様々な人間関係のしがらみが今も彼らを拘束するのだろうか。その一途さをおそらく彼らは、自己と共産党との間に存在する深刻な諸矛盾を覆い隠して、プライドとしていると思われる。

日本の伝統から生まれた「日本共産党」

 それでは、共産党的構えは近代日本特有のものか。答は否である。

 室町・戦国期を見渡して、最大の富をもち、かつ、動員力では戦国大名クラスであった在野権力は本願寺(一向宗)である。但し、一般的なイメージとは裏腹に、本願寺は、同じ真宗の高田派とは甚だしく対立し戦争に及ぶけれども、真宗以外の宗派や大名とはうまくやっていく能力をもったしたたかで柔軟な教団でもあった。本願寺の資金で即位後二十一年めにして漸く即位礼を挙行しえた天皇(後柏原天皇)もいたくらいである。他方、信長との間で十年以上に及ぶ本願寺戦争を繰り広げたように、一揆における最大勢力でもあった。その時、蓮如(一四一五~九九)の子蓮淳(一四六四~一五五〇)の書状に「一念二たすからむとする其御恩の難有さニハ、一世の身命をすてんハ、物の数ニあらず」とあるように、命のことよりも「信を得て「仏」になるという救済の是非こそ重要」『金龍静〈一九四九~〉ご向一揆論』、吉川弘文館)だという教えは、門徒を一揆に引き込み、果敢な戦いに向かわせる動因になったことは間違いないだろう。

 真宗他派との壮絶な戦い、内部の異端を見つけ出し直ちに排除していく姿勢、そして、「仏」になるためには命を捨ててもよいとする構え、こうした「一向」性=排他性をもつ集団は、実は、前近代日本にも存在したのであり、その流れは、思想は異なるものの、幕末の水戸天狗党、さらには、西南戦争の薩軍にまで脈々と受けつがれていった。こうしてみると、日本共産党もかかる日本の伝統から生まれ出たと見倣してもよいのではないか。そこに、日本共産党の古典的な意義がある。

 だが、真宗が宗教界のトップに立ったのは、江戸期以降、大人しい体制宗教になってからのことである。日本共産党は身に染みついた古典的な構えを今後捨てることはあるのだろうか。おそらく無理であると思われる。
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本はデジタル化によって 様相が一変する

「いらないもの」としての本

 本はなぜあんなに重たいのか。そしてなぜ一塊なのか。その上、あまりにも形式張っている。これは売るための手段で、本のカタチはその末路です。本は過去のためのものではない。未来のものです。これは歴史と一緒です。

本はデジタル化によって 様相が一変する

 電子化することにより、概要と詳細が両立できる。一冊の本は、概要でもないし、詳細でもなく、ただの一塊。24000冊から3000冊を抜き出し、マイライブラリーとした経験から 言えること。

 そこまで行くと、コンピューターは欠かせない。数万の部品からなる部品表。そのための解析ソフト。ライブラリーに対して 必要なものは検索ソフトとしてのECHO。

 次の時代のプロトタイプとしての「本棚システム」。それの進化形としてのECHOに基づく「ソクラテス」。自動覚醒プログラム。

アメリカはロシアに侵略されている

 第二次世界大戦のルーズベルト・スターリンの関係以降 、ロシアはアメリカにとりついている。マンハッタン計画の漏洩、ベルリン封鎖、ソ連崩壊。そしてトランプ政権。全てロシアが企画した。そうすると見えてくるものがある

『ごみ収集という仕事』という本

 こんな本あります。『ごみ収集という仕事』。エコットも身近に対象者がいるので書けばいいのに。だけど、2200円は高い! 「乃木撮」1800円、「生田絵梨花写真集」より高い。行政が買うことを当てにしているのか。

私に合わせて、ツールは作られる

 気がつけば、視野がスマホの縦幅ぐらいしかない。運転しにくいはずです。本を読むためにもOCR化しています。

 私に合わせて、ツールは作られる。ということは、スマホユーザは私の「蜘蛛の糸」にぶら下がっている連中。
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