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本の感想

『地域協働のマネジメント』

 地域コミュニティの再構築:地域は物理的な制約がきついし、すぐに親睦会的な活動につながる。鬱陶しい。内なる世界があって、それを支援するコミュニティでこそ意味がある。

 つながりから協働の「場」に欲しいものは、知識と意識のベース。

『市場首位の目指し方(経営戦略の実戦)』

 ソーセージ類/1989年 伊藤ハム→日本ハム:「シャウエッセン」の市場投入

 レトルトカレー/1989年 大塚食品→ハウス食品工業「バーモントカレ-」

 コンタクトレンズ/1998年 メニコン→ジョンソン・エンド・ジョンソン「グローバル組織」

 豆菓子/2003年 ブルボン→でん六

 麦茶/2004年 ハウス食品→伊藤園

 ソース/2005年 ブルドックソース→オタフクソース「お好み焼」

 小型ガソリントラック/1981年 日産自動車→トヨタ自動車工業

『男女平等はどこまで進んだか』

 家族生活における女性差別をなくすことはとても重要 ⇒ 家族制度そのものを変えないと平等には近づかない。子供が関係するので教育体制も変わってくるし、男性優位の「仕事」そのものの定義も異なる

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男女平等はどこまで進んだか

『男女平等はどこまで進んだか』より

家族の内と外--女と男の力関係は?

 どうして結婚のことを入籍するって言うの?

 芸能人の結婚を報道するニュースの中で、「本日、私たちは入籍しました」という直筆のファックスが届いたなどと言うのを聞くことがありますよね。どうして結婚のことを入籍するって言うのでしょう? 日本では、結婚が戸籍という制度と深く結びついているからです。

 婚姻届を役所に出すと、二人はそれまでの親の戸籍から出て、夫か妻のどちらかの姓で新しく作った戸籍に入ります。その時に、夫の姓の戸籍を作って夫が戸籍の筆頭者(戸籍の代表のようなものです)となり、妻は夫の姓に変わり夫の戸籍に入ることが多いのです。結婚のことを「入籍」という言い方をすることがあるのは、このことと関係があります。

夫婦別姓をめぐる議論

 ところで、みなさんは、自分の名前が将来変わるかも……と考えてみたことがありますか。子どもの頃、好きな子ができたときに、自分の名前をその子の姓につなげてみた経験があるかもしれません。女の子だと、無意識のうちに、どこかで、結婚したら自分の姓が変わると思っていたりしませんでしたか。日本では、民法という法律で、結婚した夫婦は同じ姓を名乗らなくてはいけないと決められています(第七五〇条)。でも、法律で決まっているのは、夫婦は結婚の時に妻か夫かどちらの姓にするかを決めて名乗る、ということだけなのです。妻が夫の姓を名乗ると決まっている訳ではありません。それなのに、なぜ、なんとなく、結婚したら妻が夫の姓を名乗るものと思ってしまうのでしょうか。みなさんの現在の姓は、父親と母親のどちらの結婚前の姓でしょうか。おそらく、父親の姓があなたの姓になった場合が多いと思います。統計もこのことを裏付けています。厚生労働省の調査(『婚姻に関する統計』二〇一六年度)によると、二〇一五年に結婚した夫婦の実に九六%が、夫の姓を選択しているのです。

 日本では当たり前のように思われているこの制度、実は、世界では珍しい制度なのです。夫婦が同じ姓を名乗らなくてはいけない、それはつまり必ず夫婦のどちらか一方が結婚と同時に出生時から使ってきた自分の姓を変えなくてはいけないということになります。問題なのは、統計が示しているとおり、結婚で姓を変えることになるのは、圧倒的に女性だということです。妻が夫の姓を名乗るのが当たり前という社会では、みんな、当然のように、結婚する時は女性が姓を変えるものと思っています。その中で、本当は姓を変えたくないと思っていても、結婚相手にそのことを言い出せない、あるいは、結婚相手はわかってくれたとしても、その親にどう思われるだろうかと心配になる。結局、波風を立てないためには、女性が姓を変えることを受け入れるということが起きてしまいます。

 このように、法律の内容自体は女性を差別しているように見えなくても、社会にある女性はこうあるべきという慣習の下で結果的に権利を守られない状況が女性に対して起きる場合、女性差別撤廃条約では、女性への差別であるととらえます。条約の第一六条は、婚姻及び家族関係において、夫と妻の同一の個人的権利として、姓を選択する権利について女性差別をなくすことを国の義務としています。このため、この条約を批准した国が条約を国内できちんと実施しているかどうかを定期的に審査する女性差別撤廃委員会は、この法律は女性に対する差別的な規定であるとして、法律を改正し、結婚後も元の姓を使い続けることを選択できるようにと何度も日本に対し勧告しています。

 生まれた時から使い続けてきた姓を変えたくないと思っている人にとっては、結婚によって自らのアイデンティティに関わる大事な姓を失うことは、とてもつらいことです。また、姓を変えると、仕事や職場、社会生活のさまざまな場面で不便や不都合が生じます。結婚後も人婦のそれぞれが今までの姓を使い続けることが法律で認められないと、そのしわ寄せは女性だけに偏る現状が続いてしまいます。実際、日本の女性、特に若い女性の間で、結婚後もそれまでの姓を使い続けることができるように、法律を変えてほしいという声が高まっています。しかし「両親と子どもたち全員が同じ姓を名乗ることが家族の絆のために必要だ」、「夫婦が違う姓を名乗ることになると子どもが両親のどちらの姓を名乗るかという難しい問題が起こる」、「家族の一体感が損なわれる」といった理由で法律の改正に反対する意見が根強くあり、未だに法律の改正はなされていません。夫婦の別姓が認められていない現状の中で、職場や公的書類での旧姓の通称使用の拡大に向けた取り組みが進んでいますが、通称使用を認めるかは会社の判断に委ねられているなどの限界もあり、真の解決にはなっていません。

国際結婚したら子どもの国籍はどうなるの?

 最近、スポーツ選手の中に、氏名がカタカナの人たちを見かけます。これらの選手がオリンピックや世界大会に日本代表として出場しているということは、日本国籍をもっているということです。そもそも、国際結婚したら生まれた子どもの国籍はどうやって決まるのでしょう。

 生まれた子どもがどの国の国籍になるかは、各国の法律で決まっています。例えばアメリカでは、生地主義(出生地主義)といって、親の国籍がどの国であっても、アメリカで生まれた子どもは必ずアメリカ国籍になります。他方、日本の法律では、血統主義といって、日本人から生まれた子どもは日本国籍になると決められています。でも以前は、父親が日本人の場合は、母親が外国人でも子どもは日本国籍になるのに、母親が日本人でも父親が外国人だと、その両親から生まれた子どもは、日本国籍になれなかったのです。日本人の親が男女のどちらかで子どもが日本国籍になれるかどうかに違いがあるのは、おかしくないでしょうか。

 実際、この制度は、女性差別撤廃条約第九条に定められた自分の子どもの国籍についての男女平等の権利が守られていないことになるため、日本は、女性差別撤廃条約を批准するのに先立ち、一九八四年に国籍法を改正して、国際結婚の場合、父親が日本人でも母親が日本人でも、子どもは日本国籍を取得できることにしました。

結婚したら女性は家に入るの?

 一九七五年に、テレビで放送されたラトメンのコマーシャルの中の「私作る人、僕食べる人」というキャッチフレーズが、女性団体から、男女の役割分担を固定化してしまうとして抗議を受け、コマーシャルが中止となる出来事がありました。女性差別撤廃条約第五条は、男女の性別役割分業意識を変えていくことを国に義務づけています。しかし、日本が条約を批准してから三〇年以上経つ今も、日本では、家事は妻がやるのが当たり前という意識が根強く残っています。内閣府が行っている「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に対する調査(『男女共同参画社会に関する世論調査』二〇一六年)では、賛成(「賛成」と「どちらかといえば賛成」の合計)が四〇・六%、反対(「反対」と「どちらかといえば反対」の合計)が五四・三%と反対が上回り、賛成の割合は同じ質問についての調査を始めてから過去最少となりました。しかし、それでも依然として四割もの人が、このような考え方に賛成しているのが現状です。

 こうした根強い性別役割分業意識が、今なお職場や家庭にも残っているために、女性が結婚や出産後も働き続けることを難しくしています。このことは、厚労省の委託調査(『仕事と家庭の両立支援に関する実態把握のための調査研究事業報告書』二〇一五年度)で、妊娠・出産を機に退職した理由を聞いた結果をみても、女性・正社員で二九・〇%、女性・非正社員で四一・二%が、「家事・育児に専念するため、自発的にやめた」と答えており、また女性・正社員で二五・二%、女性・非正社員で一七・一%が、「仕事を続けたかったが、仕事と育児の両立の難しさでやめた」と答えていることからもわかります。

家庭内の男女の経済的格差は女性を不利な立場に置く

 夫の中には、家事や育児に専念したり、パートタイムなど少ない収入で働いている妻に対して、自分が養ってやるのだという意識を持ったり、支配的な態度をとる人がいます。一方、妻は、夫からドメスティック・バイオレンスを受けているような場合でも、経済的に夫に依存しているために、夫の暴力から逃れて別居することが困難だったり、離婚後の生活についての経済的な不安から、離婚を躊躇することになったりします。

 実際、夫婦が離婚した場合、特に仕事を辞めている女性は圧倒的に不利な立場に置かれることが少なくありません。夫は外で働き、給与や、地位が上がったりしている一方、妻は、結婚や出産で仕事を辞めてしまうと、ブランクができ、離婚後もう一度働こうと思っても、学歴や能力に見合った以前と同じような仕事にはなかなか就くことができません。しかも、離婚する時に、夫婦で築いた財産があれば、原則として二分の一を分けるよう要求できますが、実際には、分けられる財産がなかったり、自宅は夫名義でローンも残っていて、妻が自宅をもらって離婚後も住み続けたいと思っても難しいといったこともよくあります。家庭内での性別役割分裂が夫婦の経済的格差を生み、離婚となれば、さらに女性が不利で困難な状況に置かれることに丿ながります。

農山漁村で働く女性

 女性が家事や育児を担ってもその経済的価値が評価されないこと自体問題ですが、妻が家業の農業や漁業等に従事している場合、家事や育児の負担が妻により重くなっていたり、実際に働いているにもかかわらず、給与や報酬が支払われないといった、さらに深刻な差別を受けることがあります。この点、女性差別撤廃条約第一四条は、農山漁村の女性に対する差別の撤廃について定めており、女性差別撤廃委員会は、「農村女性の権利」に関する一般勧告第三四号を採択しました(二○一五年)。日本でも、伝統的に家族経営が中心であった農業を担う農家の妻は、家族経営の枠組みと農業における男性中心の慣習の中で、女性差別を受けている現状があります。

 日本では、農業就業人口の約半数が女性で、農家の約七割を占める兼業農家では、農業の担い手は妻という場合が少なくありません。その中で、女性は、農作業も家事・育児もすべてこなすことが当然視されてきました。少し古い統計ですが、二〇〇三年に農林水産省が発表した調査(『女性の就業構造・経営参画状況調査』)によれば、女性農業就業者の農作業時間は農繁期で一日一・○時間、配偶者(夫)は一一・四時間と大差ないのに対して、家事・育児・介護の時間は女性が二・七時間に対し、配偶者は六分と歴然たる差があります。一般的な共働き夫婦の家事・育児・介護分担の格差よりも、女性農業者にはさらに大きな負担がのしかかっている傾向が顕著に見られます。二〇一三年に発表された農林水産省の報告書(『女性農業者の活躍促進に関する調査事業報告書』)でも、女性農業者が直面している生活上の課題についての質問に、「農業と家事・育児との両立」という回答が三五・五%と最も高くなっています。

 さらに、女性農業者が直面する課題として、働いたことに対する対価が支払われない、農業経営者は圧倒的に男性が占めているという問題があります。二〇一五年の調査(農林水産省『農林業センサス』)では、男性が農業経営者である農家は九三・三%なのに対し、女性が経営者である農家は六・七%しかありませんでした。そこで、最近では、農業に従事する女性の労働者としての権利を守り、経営への参画を確保・推進するために、家族経営協定といって、労働報酬や労働時間・休日、経営方針、役割分担等を文書で決めておく取り組みが進められています。また、二〇一五年時点では、約七%しかいない農業委員会の委員や農業協同組合の役員に占める女性を増やし、女性が地域農業に関する政策・方針決定過程に参加し発言力を増すための取り組みも進められています。

家族生活における女性差別をなくすことはとても重要

 家族の中では、従来から、女性が家事や育児、介護を担うのが当然だと考えられたり、夫から妻に対する家庭内での暴力があっても、法律や国が介入すべきではないとして、女性が暴力から守られないなど、家族・家庭の中で起きる女性差別は、なかなかなくならず、これに対する国際社会の取り組みも十分ではありませんでした。

 女性差別撤廃条約は、このような女性に対する差別の撤廃を実現するために、家族関係や家庭生活の中における女性差別の問題に正面から向き合い、差別をなくすことを国の義務であるとしました。そのためには、家族のために女性が果たしてきた貢献に対する正当な評価と性別役割分業意識の変革が必要であることが条約の前文に述べられています。特に、育児が母親の役割とされがちなことについて、前文は、「家庭及び子の養育における両親の役割に留意し、(中略)子の養育には男女及び社会全体が共に責任を負うことが必要であることを認識し、社会及び家庭における男子の伝統的役割を女子の役割とともに変更することが男女の完全な平等の達成に必要である」と述べています。

 家族・家庭の中での女性に対する差別をなくしていくことは、社会の中のあらゆる場面での女性差別をなくしていくためにも、とても重要です。子どもは、周りの大人から言葉や考え方、ふるまいを学び、真似をします。大多数の子どもたちにとって、家庭は最初の学びの場であり、親は子どもが生きていく上でのロールモデルになります。女性に対する差別の意識や構造が世代から世代へと引き継がれ、再生産されていくのか、そうではなく私たちが一人ひとりの女性に対する差別意識を変革し、女性に対する差別のない社会にしていけるのか。家族・家庭の中での女性に対する差別をなくしていくことが、差別のない社会を実現するための大きな鍵になるといっても過言ではありません。
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レトルトカレー/1989年 大塚食品→ハウス食品工業

『市場首位の目指し方(経営戦略の実戦)』より

B社:大塚食品 → A社:ハウス食品工業

・企業戦略

 【B社】大塚食品は1955年に東京でシービーシー食品工業として設立された会社である。祖業はスパイスで、この会社が大阪の大塚化学の傘下に入り、大塚食品工業と社名を変更した1964年が実質上の出発点に相当する。そして1968年に発売した世界初のレトルトパウチ食品「ボンカレー」が大ヒットして、企業基盤が固まった。その後も新規性の高い食品を送り出し続けたが、大ヒットの再来には恵まれていない。親会社の企業戦略としては多核化に該当する。

  レトルトカレーは大塚食品にとって実質上の祖業である。1989年当時、売上高の52%をレトルト部門に依存しており、その部門内でレトルトカレーの販売シェアは7割程度と思われる。

  なお、2002年に大塚食品は大塚化学ホールディングスの完全子会社となり、大塚化学ホールディングスは大塚製薬の持分法適用会社となった。2009年以降の大塚食品は、上場した大塚ホールディングスの連結対象子会社となっている。

 【A社】ハウス食品工業は1947年に大阪で浦上糧食工業所として設立された会社である。祖業は薬種化学原料で、源流は浦上商店が創業した1913年までさかのぼる。漢方生薬原料の一部がカレー粉に使われるのに触発されて、1931年に「ハウスカンー」の生産を軌道に乗せている。戦後は取扱商品を増やす一方で、1960年に固型ルウカレーを追加して、業績が飛躍した。長寿商品の「バーモントカレー」は1963年に送り出している。企業戦略としては、販路と工場を共有する水平多角化に相当する。

  レトルトカレーはハウス食品工業にとって主業の包装形態を変えた水平展開に相当する。1989年当時、売上高の25%をレトルト食品部門に依存していたが、その部門内でレトルトカレーの販売シェアは45%程度と思われる。部門を牽引するのは「ククレカレー」で、全社を牽引するのは「バーモントカレ-」を筆頭とする香辛食品部門であった。

  なお、ハウス食品工業は2013年にハウス食品ダループ本社に社名を変更している。

・事業戦略

 【製品】レトルトカレーはレトルト食品の代表的なカテゴリーで、レトルト食品自体は「プラスチックフィルムもしくは金属箔、またはこれらを多層に合わせたものを袋状、その他の形に成形した容器(気密性および遮光性を有するものに限る)に調製した食品を詰め、熱溶融により密封し、加圧加熱殺菌したものをいう」と定義されている。加圧加熱殺菌による保存性の向上という点では缶詰と同じながら、軽量で空き容器の減容に困らないという点では缶詰を凌駕する。米国では、軍用食を研究していた陸軍ネイティック研究所が1959年に開発プロジェクトを立ち上げて、アポロ11号に搭載されたという。

  隣接市場には、いわゆるインスタントカレーがあり、レトルトカレーの1.8倍ほどの規模を誇っていた。両者を併せるとカレーカテゴリーは1,150億円を超えており、即席食品のなかでは3、550億円という絶対王者の麺カテゴリーに次ぐ市場を形成していた。

  製品には味覚で差異化する余地が大きく残っている。それにもかかわらず、レトルトカレーの市場は上位2社で8割以上を押さえ込んでおり、設備投資負担が参入障壁を形成しているように見えなくもない。しかしながら、レトルトでないカレーの市場でも上位2社で9割以上を占めている。寡占化の真因は味で、川上のスパイスを内部化しないと生き残るのは難しいのであろう。

 【B社】レトレトカレーについて大塚食品は他社に先駆けて1968年に「ボンカレー」を80円で試験発売した。ボンはおいしい、すぐれたという意味のフランス語である。当初のパウチは2層構造で、賞味期間は15日しかなかったが、翌年には3層構造のパウチに切り替えて、賞味期限は2年に延びた。1970年には「ポンシチュー」でレトルト食品の横展開に乗り出したが、競合の芽を摘むべく1978年には香辛料やフルーツを贅沢に使った「ボンカレ-ゴールド」を、1988年には「ボンカレービーフ」を追加投入している。

  生産面では、自社の徳島工場を主力とする。そこで大塚食品はレトルト釜を自製するところからスタートしている。その際、ベースになったのは兄弟会社の大塚薬品が持つ点滴液の殺菌技術と紹介されているが、裏で東洋製罐が開発を支えていたようである。

  販売面では、専属の営業部隊が涙ぐましいまでの活躍を見せて、レトルト食品の市場を開拓してきた。

  即席製品カテゴリーでは、ほかに即席デザートと電子レンジ用食品でハウス食品工業の牙城に挑戦していた。

 【A社】レトルトカレーについてハウス食品工業は1971年に「ククレカレー」を100円で発売している。その前年には「ククレシチュー」を発売しており、カンーはレトルト食品の第2弾であった。「ククレカレー」は林檎とマンゴーチャツネの甘みを前面に出しており、看板の「バーモントカレー」の系列に連なるが、それとは別系統で牛肉とマッシュルームと生クリームを前に出した「カレーマルシェ」を1983年に追加投入している。

  生産面では、業務用を含めたレトルト食品をすべてサンハウス食品に委ねていた。これは1970年に設立された関連会社で、ハウス食品工業は株式の50%を所有していた。 1983年以降は新設された静岡工場が戦列に加わった。

  販売面では、大手の食品問屋を頼っている。

  即席製品カテゴリーでは、インスタントカレーと即席デザートと電子レンジ用食品で首位を堅持し、袋入り即席麺で第3集団の先頭に立っていた。

 【時機】逆転が起きた頃、レトルトカレーの市場には江崎ダリコや水谷園本舗なとの参入が相次いでいた。その余波で、定番の「ボンカレー」と「ククレカレー」が売場設営競争を演じるフェーズから、消費者の目移りを誘う製品開発競争に焦点が移りつつあった。

 【収益】このケースにおける逆転は、新規参入に刺激されて市場全体が伸び続けるなかで起きている。大塚食品が早々に停滞フェーズに突入したのに対して、ハウス食品工業は緩やかながら伸び続け、伸び率の差で逆転した。即席食品は流動性の低いカテゴリーで、そこで起きた逆転は珍しい。

  この逆転は収益面から見ると祝福に値する。ハウス食品工業は逆転後も食品メーカーとしては高水準の売上高営業利益率を保ってみせた。逆に大塚食品は、大塚グループ内で第3階層から第2階層に上がるかと思われたが、結局のところ大塚化学の傘下に置かれたままで、第3階層から抜け出せていない。

 【好手】1981年12月、ハウス食品工業は袋井工場の建設を開始した。総投資額の100億円を賄うために、同年8月には転換社債を発行して50億円を調達し、翌年4月には500万株の公募増資で残る50億円を調達した。

  1983年1月に完成した袋井工場に、ハウス食品工場は基幹製品の「ククレカレー」を投入して、少品種大量生産によるコスト競争力の向上を実現した。そして空いたサンハウス食品には「カレーマルシエ」などを投入して、製品ラインの両翼、すなわちハイエンドの定番とハイサイクルの短命商品を拡充していった。

  「ボンカレー」を価格競争と品種競争で挟撃された大塚食品は、不動に見えた首位の座をあえなく明け渡すことになり、そのまま2位の座もヱスビー食品に奪われてしまった。ハウス食品工業との差は、直近では優に10%ポイントを超えている。

・戦略旗手 第2世代同族経営者

 【人物】このケースで好手を放ったのはハウス食品工業を創業した浦上靖介氏の長男、28歳で社長に就任した郁夫氏である。上場に漕ぎつけたのは郁夫氏であり、実質上の創業経営者と言ってもよい。

  新工場の建設に際して郁夫氏は自ら「量産型の品種は袋井工場に集中する。消費の多様化はさらに進むので、既存工場はさらに多品種生産型の工場に転換を図る。サンハウス食品は機動力を発揮させ、レトルト食品分野の拡大を図る」と構想を明瞭に語っていた。

  類い稀なる経営者と称賛を集めていたが、御巣鷹の尾根に墜落した日本航空123便に乗り合わせており、郁夫氏は47歳で早世した。

 【着想】郁夫氏の決断は熟慮に基づいている。それは「大塚製薬さんの強力な先発製品がありますので、あるところまで行くけれども、抜けません。壁が厚いんです)というコメントから窺い知ることができよう。厚い壁の破り方を考えに考え抜いていたことは、明らかである。

  そして郁夫氏の辿り着いた答えが、機が熟すのを待って仕掛ける搦め手の戦略であった。興味深いことに郁夫氏は「食品業は基本的に変わりにくい面を持っているようである。その変化はカタツムリの歩みのようなもので、じっとみていると動いているようには見えないが、しばらく経ってみるともうそこにカタツムリはいない。食品業はこういう変化をする仕事ではなかろうかと私は考えている」と語っていた。念頭にあったのは、純カレー(カレーパウダ-)の盟主であったヱスビー食品をインスタントカレーで抜き去った父親の成功体験に違いない。

  さらに郁夫氏は別の機会においても「簡便な食事であればあるほど、スパイスで個性を出さなくてはならないんです(中略)スパイスというものは、量、金額ともに、そう大きなものではないので、地道に着々と伸ばしていく、カタツムリが歩くのを眺めるような気持ちで、じっくりと取り組んで、質の良い仕事をしていきたいと思っています」と吐露している。レトルトという包装技術の革新で優位を築いた大塚食品を追い落とすうえで、郁夫氏はスパイス資産による差異化に活路を見出していたものと思われる。
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地域コミュニティの再構築の必要性

『地域協働のマネジメント』より 地域コミュニティの再構築--つながりから協働の「場」へ

地域では、住民や企業等から構成される町会を中心に様々な組織・団体が連携して親睦を図りながら、祭り等の文化の継承や、安全安心のための防災・防犯活動、要援護者の見守り、高齢者・子育て支援等、行政と協働しながら地域活動が行われてきた。近年、大都市都心部では、タワーマンションと言われるような超高層のマンションが建ち、地域を構成する住民が急激に変化しているところが散見される。そして、地域活動の中心組織である町会への加入率が低下し、マンションでの自治会組織率は低く、隣近所のつながりがほとんどないところが見られる。また、長年、地域活動の中心を担ってきた人たちの高齢化が進み、担い手の継承が課題になっている。これからは、新住民はもとより、昼間人口を構成している在勤、在学の人たちを含めて地域コミュニティを再構築することが求められるだろう。本章では、地域でのつながりから、地域活動における協働を生み出すために様々な年代や属性の人たちが参加する「場」に注目した。

多様な人たちで構成される地域

 「地域」は様々な捉え方があるが、例えば大阪市では、旧小学校区を地域と捉え、主な地域活動を一つの連合振興町会が担ってきた。都心部では、子どもの減少により廃校と統合を繰り返し、一つの小学校区が複数の連合振興町会で構成されるようになり、小学校を中心とした地域コミュニティの再構築が必要になったところもある。一方で、町会加入率の低下にも表れているように、地域への関心が希薄化し、どの町会に属しているかわからない新住民も増加している。

 近年、大都市都心部では、タワーマンションの竣工により、住民が急増している地域が生まれ、従来から住んでいた住民と新住民のつながりがほとんどないところや、マンション内では、隣でも顔が見えない状況が生まれている。例えば、大阪市北区では、世帯の約9割が集合住宅居住で, 350以上の分譲マンションが確認されているが、自治会を形成しているところは少なく、セキュリティの徹底等により、周辺地域とも交流のきっかけを作りにくい現状がある。

 また、夜間人口の少ない地域では、住民間だけでなく、企業で働いている人や大学、専門学校や高校の学生を含めて、コミュニティを再構築しようとしている。働いている人や学生にとっても、非常時の助け合いはもとより、日常の大半を過ごしている職場や、学校のある地域にもつながりのある人たちがいて、参加できる「場」があることは安心で、地域への関心が高まるだろう。そして、地域にとっては、地域活動の担い手が増えれば心強い。人口減少時代において、働き・学ぶところと、住んでいるところの両地域のコミュニティに属することは、必要不可欠になってくるのではないだろうか。

「場」を構成する要素と役割

 地域への関心が希薄な住民や、働いている人、学生に地域活動に関わってもらうにはどうしたらよいだろうか。まずは、多様な人が参加し、相互につながる「場」を地域の中に多様にっくることを提案したい。そのためには、「場」の運営に関わる人たちを発見し、育成することが求められる。

 「場」を構成する主要な要素を午前・午後・夜間、そして、平日・土・日祝日といった日時や、毎月・毎年・不定期といった頻度などの「時」と、公園のような公共空間や広さや雰囲気などの「空間」、そして、年代や属性の関心に応じた目的などの「テーマ」とすると、多様な人たちの参加を促す「場」の条件は何であろうか。そして、「場」に参加した人たちにつながりが生まれ、その後、「場」を共に運営するような協働に発展するには、どのような「場」のマネジメントが必要だろうか。

 「場」は、主宰者・実行委員長等を中心に、共に企画・運営を担うコアメンバーとして実行委員等がいて、部分的に運営を支援するサポーター、そして参加者で構成される。「場」での立場はいつも同じではなく、ある「場」では主宰者であり、他の「場」では実行委員になったり、サポーターになったり、参加者となっているだろう。また、例えば伝統の祭りの「場」では、最初はサポーターで関わりながら、いつの日かコアメンバーとなり、年を経るごとに関わりが強くなるといったように、地域では、長年かけてそれぞれの層を育てていると捉えられる。

地域に多様な「場」をつくる

 地域で、多様な人たちのつながりを生み出し、そのつながりから「場」の運営を通して、地域の活動を共に担うような協働に発展するためには、どのような「場」の条件やマネジメントが求められるのだろうか。これらを明らかにするために、時間・空間・テーマの3つの要素を様々に組み合わせた「場」のマネジメントを行った。

 様々な「場」を運営した地域は、大阪市西区の東部にある明治連合振興町会地域と西六連合振興町会地域で、明治地域にあった大阪市立大学都市研究プラザのサテライト研究室である「クリエイティブセンター阿波座(CCA)」を拠点に, 2010年8月~2016年3月まで、地域内外の多様な人たちが参加し、そこで生まれたつながりから「場」を共に運営するような協働が生まれることを目的に、様々な「場」を運営した。

 フィールドとなった明治と西六の地域は、大阪市の中心業務地区であるキタとミナミのほぼ中間に位置し、働いている人約5万人、住民約3万人という典型的な住商混合地域だ。産業は、釣具、ネジ一機械工具や陶磁器問屋等の地場産業の他、近年は、デザイン等のクリエイティブオフィスやこだわりの店舗が集積している。そして、中高層のマンションが次々と竣工して人口は急増し、地域を構成している人たちが多様化している地域である。
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