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ポピュリズムは格差にどう向き合うか

『ポピュリズムと経済』より グローバル化による格差拡大とポピュリズム

人々は格差をどう見ているか

 どの国においても富裕者と貧困者は存在するので、所得格差はどの国においても見られる。その格差の発生原因は様々であるし、国によってもかなり異なる。格差が大きすぎると好ましくないと判断して、いろいろな格差是正策を政府が採用する国がある一方で、格差の存在を必ずしも悪いとは判断せず、政府がほとんど何もしない国もある。政府がどのような態度や政策を取るのかにも、いろいろな背景がある。格差是正策をとればいろいろな副次効果が出現するのでそれを避けたいという動機がある。しかし政府は国民が格差をどう見ているかに注目して、格差の存在が悪であると判断している国民が多くいると知れば、国民に迎合する(これはポピュリストの考え方に通じるところがある)とまではいわないが、何らかの格差是正策を採用するであろう。そうであるなら、国民あるいは人々が格差をどう見ているか、というのは重要な課題となる。

 まずは研究の進んでいる欧米諸国を見てみよう。これに関しては、アルベルト・アレシナらによる有名な研究があるので、その要点を述べておこう。この研究の最終目標はアメリカ人とヨーロッパ人の間で幸福度がどのように異なるのかを知ることにあるが、それを決める重要な要因として格差を考慮した点に特色がある。すなわち、格差の大きいのと小さいのとで、人々が幸福を感じる程度がどれほど異なるかを調査したのであり、いってみれば人々が格差をどう判断しているかが焦点なのである。

 この研究を大まかにまとめると次のようになる。第一に、アメリカ人もヨーロッパ人も双方ともに、所得格差が大きいという事実があれば幸福の程度は低くなる、ということを認めている。すなわち、なるべくなら所得格差の小さい方が人々の幸福度は高まると判断している。とはいえ、微妙な差はある。つまり、ヨーロッパ人の方がアメリカ人よりもこの不幸の程度はやや高いので、アメリカ人はたとえ国民の間で所得格差が大きくとも、ヨーロッパ人よりもそれを合理的と容認する気持ちがあるということになる。逆にヨーロッパ人は大きな所得格差を容認せず、何らかの政策の実行を求める気持ちが強い。

 第二に、ここで述べたアメリカとヨーロッパの差は、それぞれの地域に住む人々の所得の差、すなわちアンケートに回答する人が高所得者か低所得者かということと、それぞれの人々の思想なり主義の違いによって現れている。具体的には、アメリカでの高所得者は所得格差の大きいことを少しだけ気にする(すなわち問題視する)ものの、低所得者はそれをさほど気にしない(すなわち問題視しない)、という特色がある。一方で、ヨーロッパでの高所得者はアメリカとは逆で所得格差の大きいことを気にしない(すなわち問題視しない)が、低所得者はそれを気にする(すなわち問題視する)という異なる見方を指摘している。

 なぜアメリカとヨーロッパの高所得者と低所得者の間でこうも態度が異なるかといえば、著者たちは、アメリカでは開放社会であることから所得階層の移動があるので、低所得者も頑張ればいつかは高所得者になれると信じているのに対して、ヨーロッパでは階層が固定されていて移動がないため、いつまでたっても低所得者であり続けなければならないと思うので、不満の程度が高いと説明している。この説明はおそらく正しいと思われる。もう一つの理由として、筆者はアメリカ人の気質として、努力して成功した人を賞賛する雰囲気が強いので、成功した人をあえて目の敵にしないのだ、と判断している。

 不可解なのはアメリカ人の高所得者の意向である。基本的にはヨーロッパの高所得者と同様に高所得に満足しているものの、その程度がヨーロッパの高所得者より幾分低いことがやや不思議である。アメリカでは自由競争主義が行き渡っているので、経済的な成功者は自分の努力の賜物として得られた高所得を進んで容認するものと予想されて、それが確認されてはいる。とはいえ少しだけの留保があってむしろ、少し気にする(すなわち問題視する)のはなぜなのか。アメリカ人の高所得者は彼らへの高所得税率に抵抗する程度が強く、明らかに自分たちの権益を守ろうとしていることから、なおさら不可解な意思表明と感じられる。ここで推察するに、ピューリタン精神の流れを受け継ぐアメリカ人(高所得者も含めて)は、高い不平等は人間社会にとって好ましくないと思っていて、アンケート調査には少なくとも表面上だけは自分たちの高所得を卑下していると解釈できるのかもしれない。しかし現実の世界では高い所得による裕福な経済生活に満足しているし、高い所得税率が課せられようとすれば反対行動に出るのがアメリカの高所得者である。このアメリカ人の嫌税感は庶民にまで浸透している。例えば共和党支持の保守派にティーパーティの一派があるが、この人々はとにかく税率を下げてアメリカ政府の関与する規模を小さくする運動を行っている。

 ヨーロッパの高所得者に関しては、階級社会が色濃く残っている社会らしく、階級の上部にいる資本家や特権階級は、自分たちが享受する高資産・高所得は親や祖先という前の世代から引き継ぐことのできた、いわば当然の権利であると理解している。自分たちが恵まれた階級にいることに対して嫌悪感はほとんどないといってよい。

 一方でヨーロッパの低所得者は、この階級社会を好ましく思ってないし、左翼思想を抱く人が多くなって、所得格差の是正を求めることとなる。ヨーロッパでは右翼足確には保守主義)と左翼(正確には社会民主主義)の政治対立はよく見られることであり、左翼が政権をとると税や社会保障によって福祉国家の色彩を強めて、低所得階級に有利な政策が導入されてきたことが歴史的な事実として認識できる。一方でこれが行き過ぎたと判断されると、経済活性化を旗印にして右翼が政権をとり、福祉が後退するのが通常である。

 イギリスの戦後の歴史は、保守党と労働党の政権交代が何度もあったので、ここで述べたことの証拠となるし、大国ドイツとフランスも似たような歴史を有している。

再分配政策の意味

 世の中には高所得者と低所得・貧困者が存在しているのは事実であり、高所得者から低所得・貧困者に所得を移転する政策を再分配政策と呼んでいる。どの国においても前者への高い税率と、後者への低いかゼロ税率によって、所得格差を是正したり、社会保障制度における保険料と給付額に差をつけることによっても再分配効果の働くことがわかっている。税や社会保障以外にも、例えば教育の分野でも再分配効果が作用する。

 もとよりどの程度の再分配政策を実施するかは国によって大きく異なる。国民がそれをどの程度望むのか、その望みに応じた政府の政策次第で、再分配効果の強弱が決定する。先進国に限定すると、日本とアメリカがその程度が弱く、ヨーロッパ諸国はその程度が強い。さらにヨーロッパの中でも、再分配効果のもっとも強いのは福祉国家であるデンマーク・スウェーデンといった北欧であり、次いでドイツ・フランスといった中欧で、イタリア・スペインといった南欧ではその効果は弱くなる。再分配効果の強い国ほど所得分配の平等性が高く、逆にそれの弱い国ほど所得分配の不平等性が高くかつ貧困者の数が多くなるのは当然の帰結となる。

 このように記述してくると、ヨーロッパでは所得分配は平等性の高いことが望ましいと考える人が多く、日本やアメリカでは、所得格差は大きくてかまわないと判断する人が多いと解釈できるかもしれない。所得格差が小さいと、高所得を稼ぎそうな有能で頑張る人の労働意欲が阻害されるので経済活性化にマイナス要因になると考え、そういう高所得者は低所得・貧困の多くの人々は本人の怠惰に原因があるとみなすので、手厚い社会保障給付は不必要との声が日米では強く、強い再分配政策を容認しないのだ、と解釈可能である。
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グローバル化が世界的不平等を生んだ理由

『ポピュリズムと経済』より グローバル化による格差拡大とポピュリズム

一九九〇年あるいは二〇〇〇年あたりまで、なぜグローバリズムの進展がグローバルな不平等(すなわち世界的な格差の拡大)に貢献したのかを考えてみよう。

第一に、これはグローバル化と直接関係ないが、西ヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリア、そして後半期の日本などの諸国の経済成長率が高く、それらの国々の人々の所得が高くなったことが大きい。これはすでに述べたことなので詳しくは述べないが、それぞれの国が経済効率化の達成を成功させて、国の経済成長率を高めてますます強くなったのである。

ここからはグローバル化現象による効果の説明であるが、第二に、グローバル化はモノ、カネ、ヒトの国際間移動が激しくなることを意味するが、まずはモノの移動を考えてみよう。各国の間で貿易量、すなわち輸出入の量あるいは額の増加を意味するので、比較優位の高い国は輸出を増加させることができるのであり、自国での生産量は高くなる。これは自国で働く人の賃金・所得を高くするので、その国の平均所得は高くなる。西ヨーロッパ諸国(特にドイツなどの国)、アメリカ、日本などは輸出増を経験したのである。もとより輸入を増加させた国もあるので、これらの国では自国産業の停滞を意味して、自国民の所得を下げる効果もあった。厳密にいえば、先進諸国の多くは輸出が輸入を上まわったので、それらの国の成長率が高くなり、人々の所得も高くなったのである。

第三に、カネの移動はどうであろうか。カネの移動は多国籍企業が海外投資をして外国での生産活動に入ることと、生産とは関係なく金融資金が外国での高い資産収益率を求めて移動する姿の二つを意味する。前者に関しては、外国での安い労働力を求めての現地生産なので労働費用の節約を多国籍企業は享受できるのであり、本国への利潤や余剰資金の流入が多額になることによって、本国の所得が高くなる。

前者に関しての付随効果として、現地の安い労働力の利用によって現地生産による製品価格を低くできるのであり、その生産品を他国に輸出できる量と額の増加がある。これは現地企業の売上高と利潤の増加を生むので、これも本国での所得を上げることに貢献する。

後者に関しては、国際的な資金移動の量の増加を意味するが、金利差、為替レート差、株式や債券の収益率の差を求めた資金移動による利益は増加している。特に最近はインターネットの普及により、瞬時に資金を移動し、瞬時に利益を計上することもできる時代になっている。これらは資金選択をうまくやっている国における所得の増加を意味するが、これらの国は金融知識をフルに生かせるだけの人材を豊富に持っているし、技術水準も高いので、ますます国は豊かになる素地がある。それが西ヨーロッパやアメリカといってよく、これらの国の所得の高くなるのは自然である。

後者のカネに関することの付随効果として重要な事実がある。それは資金の移動を契機にした金融業における規制緩和やコンピューターを駆使した金融技術の発展によって、先進諸国、特にアメリカやイギリスを中心にして、金融業で働く人々の賃金・所得がかなり上昇したことである。これはミラノヴィッチによる定式化の第二式の第二項に該当し、アメリカやイギリスの金融業で働く人の所得が急激に高まったことによる不平等の拡大である。特に金融業の経営者層の所得の上昇はすさまじかった。アメリカにおいて「ウォール街を倒せ」という運動があって、上位一%の高所得者が残り九九%の庶民を搾取しているとの主張がなされた事実と合致している。

金融業が繁栄して金融機関の経営者が法外に高い収入を得るようになると、それが他産業の経営者にも波及して、アメリカやイギリスの企業経営者は非常に高い額の報酬を得るようになっていたのである。ピケティは特にアメリカの経営トップの報酬の高さを問題にした。あまりにも高い所得や資産を保有する人には高い所得税や資産税を課すべき、と主張したのもピケティであった。

もっとも、金融の規制緩和が行き過ぎて、リーマン・ショックと呼ばれるように投資銀行の大手リーマン・ブラザーズが倒産する事態を迎え、その後の世界経済が大不況に陥る原因となったことを忘れてはならない。金融業の稼ぎ過ぎが批判の的であったところ、リーマン・ブラザーズの倒産によって金融業の経営者の所得が低くなるかもしれないと予想されたが、それはそれほど進行せず、いまだにアメリカの経営者はすさまじく高い報酬を得ている。確かに経営者の働き・経営に対する報酬は少し減少したが、アメリカ企業に特有の自社株保有制度を生かして、経営者はオプション取引による高い報酬を得るようになっており、そのことがアメリカの経営者が高い所得を稼げる理由の一つになっている。

ここで述べたかったことは、グローバルな不平等の増加は一部の資本主義国(特にアメリカ、そして次ぃでイギリス)における自国内の不平等の増加がかなり影響している、ということにある。そしてその大半は、企業経営者の非常に高い所得によって説明されるのである。

最後に、ヒトの移動を考えてみよう。ヒトの移動とは、移民と難民を意味するが、難民は政治、外交との関係があるので、ここでは移民ないし一時的な国際間の労働移動を考える。これには二つの種類がある。すなわち技能の高い人が動く場合と、技能の高くない人の移動の二つがある。さらにEUのような経済共同体においては、加盟国内であれば比較的自由に移動できる措置がある。そこでも技能の高い人と低い人との差はかなり重要である。

所得格差のことに注目するなら、技能の低い人の移動の方が効果は大きい。なぜならば低い賃金の職、あるいは自国民の就きたがらない仕事に外国人が就く可能性が高いので、例えば最低賃金よりも低い賃金しかない職に就くこともありえる。そのような低い賃金の職であっても、移出する国における賃金よりも高いので、移民は発生するのである。すなわち高い技能を持たない外国人が賃金の低い仕事に就くのであり、ヒトの移入はその国の賃金・所得格差を拡大する可能性がある。

これらはアメリカやヨーロッパなどのように外国からの移民労働力の多い国や、あるいはEU内で賃金の低い東ヨーロッパ諸国やギリシャーポルトガル・スベインなどの国から、ドイツ・イギリス・フランス・北欧諸国のように賃金の高い国への労働移動によって現実に見られる現象である。
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デジタル・デバイドからデバイス選択格差へ

『ソーシャルメディア四半世紀』より メディア利用がもたらす格差の拡大 中期的には広がる可能性の高い格差

SNSという巨大プラットフォームとネットワーク化された個人

 今後15年前後のレンジでの中心的仮説は、スマートフォンとSNS/メッセージングアプリで作られるアーキテクチャとその利用者との相互作用によって、すでに起こり始めていると考えられる機会格差がさらに広がり、これが原因となって経済格差も広がるというものである。つまり利用者の行動データが配信側システムのインプットになるため、メディア利用行動によっても格差の広がるディストピアが到来する。

 誤解を避けるために記すと、これは本書が主対象としたューザーサイトに直接の原因があるのではない。そうではなく、SNS/メッセージングサービスが巨大プラットフォーム化したことで、そこに情報とコミュニケーションの両方が相当程度集約されてしまい、しかもそれが2013年以降の情報のコピーと拡散が遍在する環境下で、かつスマートフォンとアプリというアーキテクチャで人びとに頻繁に、つまり高速に利用されていること、そしてそのプラットフォーム事業者がAI開発に熱心であることに原因がある。

 理性的な理解が必要なニュースや真剣で切実なコミュニケーション、もう少し直感的な処理が行われる広告、そしてその行為自体が目的化したコンサマトリーなコミュニケーションといったものが、Iケ所に、しかも大量に流れてくることは人間にとっては深刻な事態である。理性と直感のモードが切り替えにくいそのような環境におかれれば、人は直感的・感情的になってしまうし、大量の情報処理を求められると理性はどこかで音を上げるからである。

 だから多くの日本人にとって、SNSで情報を拡散するときには、「内容に共感したかどうか」(46・2%)と「内容が面白いかどうか](40・4%)が基準になり、ツイッターで公式リツイートされたURLを含むツイートの59%は、そのURLがクリックされることなく公式リツイートされたものとなる。フェイクニュースの転送経験者(米国)23%のうち、フェイクニュースとわかっていて転送した経験を持つ者はその3分の2で、嘘とわかった時のみ転送する者もその3分の1という事態にもなる。

 さらに考察にあたり頭に入れておきたいのが「ネットワーク化された個人主義」という概念である。これは緊密に編まれた集団の拘束から個人が解放され、その個人に対して人的つながりの維持や解消、ないしは複数の人的ネットワークのマネジメントを必要とさせる社会の仕組み、さらにはそこで生きる個人のあり方を指す。本書での分析に照らして言えば、オンライン・コミュニティといった「共同体」がユーザーサイトにおいても希薄化し、グローバルサービスであるSNS利用が進む中で、所属組織での役割よりも個人としての振る舞いが重視され、しかもインターネットヘ常時接続されたスマートフォンが多様な状況や立場での情報受発信を可能にし、SNSを信用基盤とした多様なサービスも利用可能になってきた社会を意味する。

人的ネットワークとアルゴリズムの影響力

 SNS上に築かれている主として既知の者との人間関係は、ソーシャルキャピタル(社会関係資本)論で指摘されるように、個人の地位達成とも関わる。もちろんSNSによって未知の者との新しい人間関係を作ることも可能なので、SNS自体が必ずしも格差拡大をもたらすとはいえない。だがインターネットが現実世界との接合の度合いを強めており、そこでは既知の者との交流の比重が高まっているという点に異論を唱える者は少ないだろう。

 そしてパットナムが主張するとおり、現実社会の人間関係が豊かな者の方がその見返りを得やすいことから、ソーシャルメディア(狭義にはSNS)に持ち込まれた人的ネットワークの差異が、今後の機会格差の拡大につながる可能性は高い。ただしこれは多くの人がすでに経験から実感している、古くから知られる見識の1つのバリエーションとも言えるものだろう。

 人的ネットワークとは別にもう1つ、私たちがソーシャルメディアから入手する情報に働きかけるより現代的なものがある。それが私たちの接触する情報やコミュニケーションを選定するアルゴリズムである。

 パリサーは、アルゴリズムによってパーソナライズ化されたインターネットでは、人は見たいものだけを見て、読みたいものだけを読むようになると指摘し、その状態を情報フィルターによって心地良く閉ざされたシャボン玉という意味で「フィルターバブル」と呼んだ。事実、フェイスブックでは友人Aが他人とシェアしないだろうとアルゴリズムによって判断されたコンテンツは、友人Aの友人たちのニュースフィードに抑制ぎみに表示されたため、人によって意見の割れるようなニュースの表示が少なくなっていた。

 このことを踏まえてフェイスブックは2016年5月に改良アルゴリズムを導入した。しかしファリスらによると2016年米国大統領選挙前のニュース記事のフェイスブックでの共有実態は、右派のトランプ支持者が非常に限られたメディアのみに接触し、そこから発せられたニュースを拡散・共有するというもので、これが過去のツイッターにおける知見と同様であったため、SNSでは情報の分極化が引き続き起きていることが明らかになった。もう少し正確に言えば、平時にはあたりさわりのないソフトニュースが広く共有され、特別な時期である選挙前には政治的話題が分極構造で流通するということだ。

 そのような実情にあるアルゴリズムと利用者スキルの関係については次のような知見がある。すなわち利用者が自分のニーズに合わせて自ら情報環境を作ったときに得られる情報への評価は、メディア技術の利用スキルが低い者では低く、高い者では高い。一方で、利用者に関する情報を基にシステムが自動的に情報選別したときに得られる情報への評価は、スキルの低い者で高く、高い者で低い。ここでの後者がアルゴリズム方式だが、スンダーらの結果は、このフィルターバブルを「問題」だとして認織する層と「問題」だとは認識しない層とが分離していく可能性があることを示している。

 実は前述のファリスらの米国大統領選挙前のSNS分析で最も興味深く、そして考えさせられる事実は、ツイッターとフェイスブックでのニュース共有ネットワーク構造が似通ったことであった。つまり相互に承認し合うことで友人になる現実社会での人間関係を基盤にアルゴリズムで情報削減を積極的に行うフェイスブックと、情報入手先の取捨選択の自由度が高くタイムラインに表示にするツイートの削減を行わないツイッターで分極構造がほぼ同一であることが明らかになった点である。

 このことは2つの方向での解釈が可能である。1つはSNSにおいてはアルゴリズムの有無とはほぼ無関係に、フェイスブックであれツイッターであれ、人間が作る人的ネットワークによって接触する(伝播する)情報はほぼ決定されるというものだ。そしてもう1つは、米国で多くの者がフェイスブックを使い始めて6~7年が経過した2016年の段階では(米国のMAUが1億人を超えたのは2010年半ば)、人びとの接触する情報へのパーソナライズ化のアルゴリズムの影響がまだ小さいというものである。

 筆者はその両方だという仮説を持っており、かつ今後はアルゴリズムの影響が大きくなっていくと考えている。なぜならばソーシャルメディアの下部構造にある広告からの収益拡大と利用者の情報過多を緩和する2つの点からパーソナライズに向かうアルゴリズムの導入は合理的であるからだ。さらにもう1点、技術的イノベーションとそれを信奉する心性により、人びとによって入力される自然言語、写真、動画の投稿および閲覧などの行動のAIによる解析精度がいずれも向上し(向上してぃると見なされ)、その解析結果がアルゴリズムヘ新たなデータとして入力されていくからだ。

デジタル・デバイドからデバイス選択格差へ

 ここからはそのアルゴリズムに入力される人びとの行動に基づくデータについて考えていこう。

 インターネット普及期において「デジタル・デバイド」はインターネット接続の有無による差を指していた。しかし現在の日本ではインターネットの人口普及率が83・5%に達し、オンライン・スキルの高低が生む機会格差へと関心が移ってきている。

 因果関係を示したものではないが、ハーギッタイら官品)は「デジタル・ネイティブ」と呼ばれる幼少期からネット環境で育ってきた者たちであっても、上層階級出身の若者はインターネットを仕事や学びのため、あるいはニュース収集に利用する傾向があり、下層出身者では娯楽のために利用することが多いことを示した。その上でデジタル・ネイティブであれば、誰もが高いスキルを持つと考えられていることをDigital Nativ(「デジタル・ナイーブ」。Nativeから「t」だけが抜けた造語)、つまり「デジタルの無邪気さ」と主張した。日本においても、若い世代の新聞への低評価とモバイルインターネットヘの高評価という傾向は戦前世代と類似しており、その傾向は「デジタルーネイティブ」世代特有のものではなく、年齢による効果が大きいと考えられている。

 2010年代半ば以降において、接触するコンテンツやインターネット利用方法、つまりアルゴリズムヘの入力データヘ直結するのが利用デバイス特性への理解と当該デバイスでの実際の行動である。日本でのフィーチャーフォンでのネット利用において、ウェブの使い方と関連する接続デバイスの選択が格差の要因になりうる「携帯デバイド」という指摘が過去になされたが、同様に経済的制約などから所有端末はスマートフォンのみという者が、スマートフォンとパソコンの持つデバイス特性の違いを体感する機会を持たなくなれば、さらなる機会格差の要因となりうる。

 アフォーダンス概念の提唱者である知覚心理学者のギブソンは、私たちの環境に対する知覚が行動に働きかけると述べ、同概念を人間とコンピュータのインタラクションの場面にも収り入れたデザイナーのノーマンは、(パソコンで書く)電子メールであろうと文書メディアは適切な答えを考える時間をとることをアフォードする(促す)と考えたが、それは「スマートフォンという小さな画面に現れるSNSなどのタイムラインは素早い処理とボタンによる反応という行動をわれわれにアフォードする」と、今日では修正されるだろう。

 しかもなお悪いことに、スマートフォンというデバイス自体がSNSの利用を問わず私たちにすぐ手に取らせることもアフォードする。これについては日本を含む18ケ国の2016年の平均で、スマートフォン利用者の22%が5分に1回は、15分に1回までを含めると44%がこのデバイスを利用していたという事実を示せば十分だろう。つまり「現在」、私たちが身を置いている情報環境は、コミュニケーションや情報の量の増加のみならず、そのことと利用デバイスとの組み合わせで起きている「高頻度化」「高速化」と言った方がより正確で、単位時間あたりのコミュニケーションの回数、あるいは情報への接触回数の闇値を超えた増大である。つまり直感に頼りすぎた、あるいは思慮を経ない行動データのシステムヘの入力がスマートフォンでは行われている可能性が高い。

 なおここでのカギ括弧つきの「現在」は、日本においては「シェア」という名で情報やコミュニケーションのコピーをウェブやSNSにおいて極めて低コストで行うことが技術的に可能になった2010年から遅れること3年ほどがそのスタート地点である。つまり、われわれの日常をそのようなコピー情報とおしゃべりが環境として取り囲み始め、その環境にスマートフォンのアプリによって日常的に4000万人以上の者が接するようになった2013年後半からである。そして2016年以降に私たちの日常で起きていることを考慮するならば、「絶対速度の速い電子的コミュニケーションが常態化することで、現実を構成する空間がまずは解体され、待機や持続といった時間が消滅することで理性が失われ、私たちに残されるのは、馬鹿げたことと嘲笑になる」という思想家ヴィリリオの指摘は現実となっている。
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「好き嫌い」が哲学の根本

「好き嫌い」が哲学の根本

 池田晶子さんが「好き嫌い」が哲学の根本だみたいなこと書いていた。その時はそんなにミーハーなのと感じた。その後、個人の分化とか、存在を考えていると、大きな概念だっていうのがわかってきた。人間を特徴づけるものです。

 なぜ好きなのか、なぜ嫌いなのか。それは心理分析よりももっと根源的なものがあるんでしょうね。池田晶子さんはそこに哲学を見いだした。だから池田晶子さんは好き!

 ムスリムのスンニ派、シーア派にしても、最初はムハンマドの甥のアリーが好きかどうかで別れたような気がします。今は億単位の人間の争いになっている。

 ネアンデルタール人は「大物」が好きだった。現人類は「小物」だけを食べていた。それは好き嫌いなのか、効率性の問題なのか。氷河期が訪れた時、「大物」は絶滅した。それらを主食にしていたネアンデルタール人も絶滅した。好き嫌いが 歴史を変える。

 嫌いという感情では、韓国の日本に対する感情。アテネの玲子さんと話してる時に、ギリシャ人のトルコへの感情と話していた。冷静に見ている。トルコ人は欧州に入り込んでいるが、トルコ自体は嫌いなんでしょう。韓日感情と同じ。

 だから、本はモヤモヤしてる感情の言語化のために。YouTubeでのコメントが何を意味してるのか。平等かどうか、好き嫌いとか、同じように考えて、本にしてる者をいかに見つけるか。
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