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素人レビュアーの大量出現は平等主義の開花?

『好き嫌い』より 誰もが批評家--無数の不平家でインターネットは大にぎわい

クラウドソーシングにおける素人レビュアーの大量出現は、概して平等主義の開花ととらえられ、それぞれが独自の主義と趣味をもつ大家の専横から消費者を解放した。イギリスのジャーナリスト、スザンヌ・ムーアが《ガーディアン》紙で明言している。「専門家の論評があらゆる分野で排除されている。誰も彼もがあらゆるものに対して無料で論評しているのに、誰が専門家の意見を必要とするだろうか。これこそまさに民主的ではないか。批評の性質が変わってきたために、専門性の序列がくずれつつある」

スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットが一九三〇年に発表した警鐘の書『大衆の反逆』を読んでいると、イェルプのようなものの出現を見越した声がうしろで響いているのが聞こえてくるようだ。がっては「小集団で世界のあちこちに分散していた」大衆は「塊になって」出現し、「突如、目に見えるものになり」、以前は「社会という舞台の背景」にいたのに「いまは舞台前方にしゃしゃり出て主要人物になっ『た』。あたえられて然るべきものをあたえられずに不機嫌になった食事客は、いまや集団の意思によってレストランの運命を左右できる。批評する権利のこの平等化を、保守派は痛烈に批判する。《グルメ》誌の元編集長のルース・ライクルは勇ましく言い放った。「イェルプを信用している人は、ばかだ。イェルプに書き込む人の大半は自分が何をいっているのかまったくわかっていない」

インターネットによって専門家の権威と批評の正当性が必要とされなくなったといってよいかどうか、そこは簡単な話ではない。そもそもエネルギーを使ってイェルプにレビューを書き込む行為は、とりもなおかず誠実であろうとする努力である。マンハッタンのミッドタウンにあるインド料理店のレビュアーは、自らがレビューを書くにふさわしい人物であることを三つの点を挙げて主張する。

「私は食通で、(インド人である)私を満足させてくれるインド料理はなかなかない。この店では最低でも週に一度は食事をする。素材の取りあわせがじつに斬新で、それでいて正真正銘のインド料理だ」。この男性はただの食通ではない。インド人の食通であり、本物の料理評論家のように同じ店に何度も足を運んでいる。だから「正真正銘の」という疑わしい言葉をとやかくいう者はいない。この言葉やそれに類する言葉はなかなか信用ならないものだが、イェルプに載っているレストランについては高い評価につながるらしい。

イェルプはこのような、経済学でいうシグナリングだらけだ。似たり寄ったりの大勢のレビュアーの上をいくために、レビュアーとして適任であることを印象づけようとするそれとない言いまわしにあふれている(「そのシェフは前にOOで働いていたころから知っている」とか、「私の知る数ある河南料理店のなかで、ここはトップクラスだ」など)。これは「慣習的シグナリング」である。ただそういっているという以上に言葉の内容を立証するものは何もない。あなたが「I愛NYC」とプリントされたTシャツを着ていたら、あなたの熱烈な気持ちは疑いようがないだろう。だが、ネット上のシグナルにはお金にしろエネルギーにしろ、「コスト」はほとんどかからない。だから信頼性もほとんどないのだ。それでもこれらのシグナルが信頼性をすっかり失わずにすんでいるのはなぜだろうか。MITメディアラボのジュディス・ドナスが論じているとおり、これらのシグナルがうそではないと見なされるのは、結局はたんに「うそをつく動機になるものがほとんどないから」でしかない。ならば信憑性を疑う動機もほとんどないというわけだ。匿名が基本で、なおかつドナスがいうように 「すべてがシグナルである」ネット上で、どうすればレビューの質を手早く見極められるだろう?

イェルプは民主的な大集団を集める一方で、「エリート」レビュアーという階層を設けて序列を再導入することもしている。認定バッジ--一種のシグナルーを表示されるエリートは、協議会と呼ばれるチームによって選ばれる。「どのように選ぶかは私たちも知りません」というイェルプの広報担当者の口ぶりは、まるで秘匿されているミシュラン調査員の採用方法について答えているかのようだ。これは少しばかり矛盾している。いまの世の中は、従来の専門家の権威--マスメディアから行政や医療機関まですべてにおける権威--がぐらついている。それなのに、ネット上のレビューサイトは(アマゾンの「トップレビュアー」やトリップアドバイザーの「トップコントリビューター」などの選任によって)ただかたちを変えた専門性をまたつくりだそうというのだろうか。「素人の専門性」とはおかしな話だ。

この新種の専門家を私たちはどの程度、信用しているだろうか。ネットで飲食店やホテルや本のレビューを見るとき、星の数を見るだけか、それとも個々の雑多な意見にも目を通すだろうか。ネット上のロコミの威力が、集めた大勢の意見を定量化して一人のせまい視野から私たちを解放できることから生まれるなら、どれか一つのレビューを読む有用性はどこにあるのだろうか。

ルカはイェルプの研究のなかで、被験者の反応が「ベイズ学習理論」と整合的であった事例にふれている。つまり、被験者が情報の多そうなレビューにより強く反応したケースがそれにあたる。イェルプのエリートレビュアーの影響は、統計的には一般のレビュアーの二倍だった。一方、イェルプで突出した影響力を示すグループがもう一つある。クーポン共同購入サイト、グルーポンの利用者だ。グルーポンユーザーがイェルプに書き込んだレビューは、イェルプの平均的なレビューよりも長く、より好意をもたれていることがある研究で示されている。この影響は非常に重大だ。グルーポンの利用者は、レストランヘのレビューの平均値を引き下げてもいるようだからである。不思議なことに、彼らの評価が辛いというのではない。現にイェルプに書き込まれたレビューはグルーポン利用者のほうがそうでない人よりも「穏やか」だとその研究報告は指摘している。

大衆が批評の対象を批評家の圧政から解放したという見方は、卑小な権威意識をもちはじめているらしいレビュアーが多いせいで揺らいでいる。イェルプやトリップアドバイザーのレビューを読むと、とくに星一つのレビューに多いが、恨みがましさが容易に感じとれる。案内係の女性が「夜の女子会」グループを「へんな」目つきで見た、赤ちゃんを連れていたのに、ウェイターはかわいいですねのひと言もなかった、ウエイターが客に対して「値踏みするような態度」だった、迎え方が大げさだった、逆に心がこもっていなかった、ウェイターが「ウェイターとしてぎこちなかった」など、料理とほとんど関係のない話がいくらでもある(これらはみな私がサイトで見つけた実例である)。これは労働紛争だ。利用客が投下した資本と、そして得るべきものへの彼らのどこまでも主観的な期待とのあいだの紛争である。

いまやサービス経済の大半は「情動労働」--組織に強制されて「客」に笑顔で対応する従業員--を中心としているため、「商品」の評価はますます主観的かつ個人間のものになる。ジャーナリストのポール・マイヤースコフは次のように述べている。「労働はもはやものを生み出すことではなく、もしくはそれにとどまらず、肉体的および精神的なエネルギーを人々へのサービスに提供することになろうとしている」。正当な精神的子不ルギーを提供されなかったと感じる人にとって、イェルプはくどくどと愚痴をならべる場所になっている。そのレビュアーがその日たまたま機嫌が悪かっただけではないと、どうしてわかるだろう?

ネットレビューの信用問題で最も由々しいのがレビューの捏造だ。競合する飲食店経営者、妬心の強い物書き、女性にふられたホテル客などがでっち上げのレビューを書く。イェルプのレビューのほぼ四分の一がイェルプ独自の信頼性フィルターで排除されている。ルカとゲオルギオス・ゼルバスの研究によると、このような虚偽の評価の頻度には予測しやすいパターンが見られる。飲食店の評判がよくないほどレビューの数が少なく、にせの肯定的なレビューが投稿される可能性が高くなる。タイプの似たレストラン(たとえば「タイレストラン」と「ビーガンレストラン」)で地理的にも近いとにせの否定的なレビューが投稿されやすい。同様のパターンはトリップアドバイザーのサイトにも見られる。

うそを書く理由がはっきりしない場合もよくある。エリック・アンダーソンとダンカン・シミスターによるアパレルサイトの研究では、全レビューの五パーセントでレビュアーがその商品を買っていなかった(ただし、そのサイトのほかの商品はたくさん買っていた)。それらのレビューはほかよりも否定的な傾向にあり、アンダーソンらはその客は事実上の「ブランドマネージャー」の役割を果たしているのではないかと考えている。アカロフのいう客の「報復」の一種だ。
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