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ソーシャルメディアと政治参加

『入門メディア/コミュニケーション』より ソーシャルメディアと政治参加

何が人々をつなぐのか

 こうした事例では、ソーシャルメディアが市民の情報交換の場となり、討論の場を提供していた。一見するとソーシャルメディアが運動の原動力であるかのように映るが、実際のところソーシャルメディアは運動の潤滑油であった。

 一部の例ではあるものの前節で概観したように、ソーシャルメディアが定着する過程で、ネット上の言論を媒介し、ネットでの呼びかけが社会的な運動になるという事態が頻発するようになった。ソーシャルメディアが市民の情報交換の場となり、討論の場を提供していた。

 同時に抗議運動が発生すると、それに賛同する市民と反対する市民が形成されることも事実である。ソーシャルメディアがつなぐ抗議運動あるいはソーシャルメディアでの言論そのものが、社会における分断や分化を映し出す鏡となっている。社会の不安定性が増加し、政治的には将来に対する不確実性が高まるという傾向が見られるようになった。

 このように整理してみると、一見するとソーシャルメディアが運動の原動力であるかのように映るが、ソーシャルメディアには運動の潤滑油である面と社会を不安定にさせる面とがあることが分かる。本節では、ソーシャルメディアはどのような潤滑油なのかについて、やや抽象的な議論を行う。この作業は、本章のテーマである「ソーシャルメディアと政治参加」を考察する上で避けて通ることはできないと考えるからである。

 社会生活の中のメディア

  社会生活の中のメディアに着目して理論的な考察を加えた学者にニック・クドリーがいる。彼が2012年に出版した著作『メディア・社会・世界一社会理論とデジタル・メディアの実践』は、メディア利用者の日常的な行動とメディア利用の分析にあたり、社会的な文脈を重視するメディア理論の構築を試みている。

  クドリーは読者に疑問を投げかける。「人々は日常的な行動を起こす文脈の中で、メディアをどのように利用しているのだろうか」と。その上でクドリーは、日常生活ではメディアに関わるさまざまな意味構築があるという点を指摘している。そのために当たり前のことではあるが、日常生活には多様な「声」が存在しているのである。

  とりわけクドリーが注目するのは、1980年代以降に導入された新自由主義政策のもとで、社会、政治、経済の価値が市場原理に基づく価値として再定義されてきている実態である。新自由主義政策のもとで社会的な格差が拡大し、社会生活のさまざまな場面で競争、透明性、説明責任など新自由主義的な物差しが当たり前のように機能し始めている。一方で、そうした新しい物差しや価値に対して反対や抵抗する「声」が形成されてきていることも事実である。

  こうした状況で起こっているのは、新自由主義的な価値とそれに対抗する価値とのせめぎ合いである。そのせめぎ合いにソーシャルメディアに代表される新しいメディア環境が加わった。新七いメディアが多様な「声」を表明する場を提供したのである。

 感情と参加

  そうした多様な「声」が発現される場の一つとしてソーシャルメディアは位置づけられる。そうした「声」を市民の「感情」として捉えたのが、チチ・パパチャリッシの『感情的な人々』である。本書の中でパパチャリッシは、ソーシャルメディアがどのように市民にとって自らの意見や感情を表現する新しい方法となっているのかに関心を寄せ、その解明に努めている。彼女はそのことを「感情のソフトな構造」と名づけているが、そこでは次のようなことが起こる。すなわち、①ソーシャルメディアでの情報に接することで、現在起きている出来事の物語に自分も関係していると「感じる」、そして②TwitterやFacebookなどのソーシャルメディア上で入手可能な言葉、写真、ビデオに感情移入することで、自分が物語の一部に「なる」。

  このように私たちはマスメディアでのニュースやソーシャルメディアでの情報に接すると、「いま」身近なところで起こっている事案のことを知る。その事案に対して嫌悪感を感じても共感を持っても、身近痙出来事として「感じる」ことが第一歩となる。その次に、事案に対して共感する場合には、関連情報をソーシャルメディアで設定したり探したりするようになる。そうなると出来事が展開する物語を理解し、自ずと感情移入する。この状態が物語の一部に「なる」ということであり、そこでは自分も物語を構成する要素となるのである。

  パパチャリッシは、社会運動の展開の連鎖をもたらしているのは通信技術の発展ではなく、それぞれの運動についての語りと物語である、とする。ソーシャルメディアには、人々の感情を政治的な対話や行動に結びつける機能がある。ソーシャルメディアを通じて、個人的な感情が運動に関連するネットワーク化されたコミュニケーションの輪の中に取り込まれる、ということである。そのために、抗議運動などに関する対話を目にしたり耳にしたりしてそれに感情的に反応すること自体が政治的な発話となる。

  パパチャリッシはいう。オンラインの対話に参加し、そこでの対話の展開を追う行為自体が、運動の作る物語の中に入り込む行為であり、それによって人々に運動に参加している、つまり「政治に参加していると感じさせる」のである。

 歪なつながり

  ところが、政治に参加しているという感覚は、自由民主主義的な思想が想定したような市民の統合を生み出さなかった。オックスフォード英語辞典が2016年の言葉として「ポスト・トゥルース(post-truth)」を選んだ事実は象徴的であった。その定義は、客観的な事実よりも、感情や個人的信念に訴えるものが影響力を持つ状況とされている。この定義はソーシャルメディアと私たちの政治意識を考える際にも重くのしかかる。

  運動に共感し、オンラインを媒介にして運動の作る物語に参加するという行為は、一つの方向へ向かって人々をまとめる場合もあれば、逆にそこで作られた物語に共感できない人々を排除するという作用もある。これがソーシャルメディアを媒介にした社会や世界の分断状況を生み出すことも否定できない。

  つとに指摘されてきているように、インターネットの普及によってインターネットの世界に閉じこもる市民も増加している。そうした市民はネットを介しての他者とのつながりはあっても、それは自分の好みに合わせてカスタマイズされたつながりであるかもしれない。カスタマイズされた情報は、イーライ・パリサーの言葉を借りるとパーソナライズされた情報となる。インターネット上では自分が見たい情報だけをフィルタリングしてみせる環境が整っている。これによって情報がパーソナライズされるのだが、そうしたパーソナライゼーションによって(我々にういてコード1)が知っていることが我々のメディア環境を作り、そのメディア環境が未来における我々の好みを形成する」。

  そうなると私たちはネット上で情報を検索すればするほど、既知の情報の上に近い未来を見るということになってしまうという危険性が含まれることになる。そして自ずと自分の興味のある情報のみに接する状況に身を置くことになり、ネット上で見かける情報は自分の好みや主張に近いものばかりとなり、視野が狭くなっていく。それは自身の意見の先鋭化を生み出す。それだけではなく、自分とは異なる意見や主張には耳を傾けず、謙虚に学ぶ姿勢が失われていくことも意味する。

  このような個人の姿勢は異なる他者の排除につながることは指摘するまでもない。その結果、2016年には先進民主主義国家で社会の分断が鮮明になる事案が発生した。それは、イギリスでの欧州連合からの離脱を問う国民投票、同年アメリカでの大統領選挙でのトランプ候補の勝利である。そこでは市民の間での対話が成立しにくくなり、他者を理解するのではなく他者の意見に耳を傾けようともしない頑なな市民の姿が浮かび上がった。

  2016年のイギリスとアメリカの場合は、投票という民主主義制度にのっとった政治参加である。本来ならば手続き的には何の薩髄もなく選挙の結果を有権者たる市民は受け入れるべきである。ところが投票結果に不満を持つ市民の声は高まった。それが政府や政治に対する抗議運動を誘発する感情を強めた。そして民主社会があたかも分断されたかのような様相を呈したことは否定できない。そこには、ソーシャルメディアやネットを通じて互いを非難し、他者の意見を理解しようとしない市民の姿もあった。

  このように、歪なつながりもソーシャルメディアのもたらす政治参加の一つの帰結であるともいえる。自由な意見表明ができる場としてのソーシャルメディアの普及が、理性的な市民というよりも感情に左右されやすい市民を醸成しているという現実は重い。

新たな「我々」の構築へ向けて

 本章で見てきたように、ソーシャルメディアを通じて市民の政治参加の幅が広がったことは事実である。しかし同時に、ソーシャルメディアとインターネットは社会や世界の分断を助長している。

 いずれの場合も、それぞれの場では感情に基づいて行動する市民の姿がある。その感情が抗議運動に向かう場合もあれば、他者への差別と排除となることもある。そこには集合的なアイデンティティに関して、「友と敵」あるいは「我々と彼ら」という分類がある。それが現在の私たちの民主主義の姿である。

 しかしだからといって、暗く不安な未来が待っているわけではない。シャンタル・ムフが指摘するように、「我々」なる集合的なアイデンティティとは本質的なものではなく、政治的な実践を通して形成される。そう考えると、ソーシャルメディアが媒介となる政治参加の多様化と活性化は、他者との新しい関係を模索し、新しい「我々」を構築する契機となる。私たちの未来は私たち一人ひとりの意識と行動にかかっているのである。
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