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ブックカフェ お客の前での立ち居振る舞いに注意する

『ブックカフェを始めよう!』より 開店してからやること 接客の大切さを見直そう ⇒未唯空間の高度サービスはスタバの愛さんを見ていて感じたこと。お客様ひとりに対応する姿勢が重要

ブックカフエというと、メインのサービスは店に並んでいる本や提供される料理・飲み物であり評価の対象は蔵書の質や量、料理の味だと考えがちである。しかし、お客は、お金を払う対象以外にも、厳しいチェックの目を向けているものである。店内の雰囲気としては、内装や清潔さに気を配るのは当然だが、それ以上に大切だといえるのは、お客への応対である。ここでは接客の大切さについて考えてみよう。

まず、接客の基本として、お客の前ではネガティブな行為はいっさいしてはいけない。それは言葉だけではなく、表情やしぐさなども含まれる。常に笑顔で、きびきびと働こう。オーナーはもちろん、社員、アルバイトの一人ひとりにいたるまで、このことを肝に銘じるようにしたい。なぜなら、カフェに限らず飲食店は、洋服店などと同じく、お客は、お金を支払って商品を購入する前に必ず店員と会話をするからだ。スタッフは、お客と関わらざるをえない業種なのである。来店時や注文の際に店員の印象が悪いと、提供される品物それ自体まで悪いもののように思えてくるものだ。そうなってしまうと、再び来店する可能性はなくなるだろう。

では、どのようにすれば、お客に対して心地いい接客ができるのだろうか。手本とすべきなのは、フランスのギャルソン(給仕)の立ち居振る舞いだろう。まっすぐに姿勢を伸ばして、それでいて体には不自然な力が入っていない。どんなに多くの仕事をこなしていても表情は優雅で、きびきびと動いている。このようなスタイルでお客に接するのが理想である。

見栄えがいい立ち居振る舞いをするには、体の重心のかけ方を改めることである。普通、人は立っているときは体重が足の裏全体にかかる。それを親指の付け根のあたりに意識を集中して立つと、自然に肩が開いてくる。ゆったりとしていて、それでいてしやんとした姿勢になるのだ。不思議と気持ちも穏やかになるので、ぜひ試してみてほしい。実際のギャルソンの姿は「Youtube」で「frnce cafe」などの言葉で検索するといくらでも見ることができるので、それを参考にして従業員全員でしっかりとまとまった時間をとって訓練をしておくべきである。

さらに、気持ちとしては、働いている一人ひとりがその店という舞台を構成する役者である、というような意識をもつといいだろう。

接客では、プラスのことをやるのはもちろんいいが、まずはマイナスのものを排除していくだけでも十分である。この点はぜひ留意してほしい。例えば、片づけるときにガチャガチャと音を立てないように注意するなど、自分が店に入って目の前でされてはいやだと思うことをやらなければいいのだ。

個人経営のブックカフェの場合、それがほかに例を見ない分野で個性的なテーマをもっているとしたら、お客の一人ひとりにより高い満足感を味わってもらえるように努力しなければもったいない。そのためには、きちんとした接客は欠かせない。

ブックカフェに限らず、接客に関わる仕事全般で重視されるのが、常連のお客との距離のとり方である。目の前にいるお客はどのような対応を求め、好むタイプなのかを見極めることが求められる。友達のようにフランクに接してほしいと望んでいるのか、それともきっちりとした「おもてなし」をしてもらいたいのかは、一人ひとり異なる。決まった答えがあるものではないから、頭を悩ませることになる。

お客が求める扱われ方は、それぞれである。どんなに親しくなってもお金を出す側ともらう側の立場の違いを明らかにした丁重な応対を求める人もいれば、逆に、店に何回も行っているのに他人行儀な振る舞いしかされないと反発し、かえってその礼儀正しさを不愉快に思うお客もいる。

だからといって、お客は、自分はこのように接してもらいたいと自ら口にすることはない。目の前のお客の様子からどのようなタイプの人なのかを見抜いて、喜ばれるようなアプローチをしなければならない。いわゆるマニュアル対応の接客でも通用しない。目の前にいる「ひとりの人間」と真正面から向かい合うことで「正しい」接客がはじめて可能になるのである。

お客が本当に満足できる接客を実現するためには、実際にお客と接する時間を多くもって、相手の性格を見抜く力を身につける努力を繰り返していくしかないだろう。それは、いってみれば、真の人間力を身につけるということである。接客は難しいが、それだけに客商売の最大の醍醐味でもある。ぜひとも接客を極めてみてほしい。これは、ロボットにはできないことである。
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テーマ型のカフェが、既存のカフェ空間に取って代わる

『ブックカフェを始めよう!』より 居心地がいいブックカフェをつくろう! ⇒ 本当はやりたいけど、話し相手が居ない私には無理。玲ちゃんにアテネの日本大使館でやってほしい。似合いと思うけど。新しい日本文化になるかも。

もともとカフェは、地域コミュニティーの要として存在してきた。ヨーロッパ各地では、仕事が終わると(地域によっては長い昼休み中でも)、カフェやバーに足を運び、コーヒーなどを味わいながら日々の出来事を語り合う光景がよく見られる。そう、カフェは生活の一部として、人々に密着した存在なのだ。このようなカフェは、近隣の人々が集まる場所である。

さらに、住民に限らず、特定の興味や関心をもった人々が集まってくるカフェも存在する。パリのカフェ、ドゥ・マゴは、ジャン=ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーボワールが足を運び、本を読み、原稿を書いては議論をした場所として有名だ。文学や芸術を語るコミュニティーが築かれていたのである。

カフェの発祥地であるヨーロッパの事例をみると、カフェは地域の人間関係のハブとしての場と特定のものに関心がある人々が集まる場とに大別される。いうまでもなく、ブックカフェは後者のタイプである。

今日の日本では地域社会が崩壊しつつある。なかでも、よその土地から移り住んできた者が多数を占める大都市圏では、地域コミュニティー自体が存在しづらくなっている。また地方には、大都市・中核都市への若年層の流出によって、コミュニティーの維持自体が危機に陥っている地域さえ存在する。このような現状をブックカフェ経営に引き付けて考えてみると、新しく開業する場合は特定の分野に特化したカフェが望ましい。はっきりとしたコンセプトを打ち出すことによって、強力な集客が可能になるからだ。

例えば、介護者だけが集まる「ケアラーズ(介護をする人)カフェ」というものが存在する。介護とは、それを専門にして働いているヘルパーだけでなく、会社をやめて親の世話をしている人もいるように、主婦や会社員といった普通の人々にとっても、いつか自分が当事者になるものだ。誰にでも接点がある分野という点では、ブックカフェと介護カフェは同じタイプのコンセプトを有している。介護は重労働であるだけでなく、体験者にしかわからないことがあり、自分たちの経験や思いを語る場所は、介護者(ケアラー)にとって大切な空間だろう。

特に、家族の介護を担っている介護者は、社会と断絶しがちである。介護の生々しい内実は話しづらいうえに、子どもが親の介護をすることは、あるいは配偶者が相手の介護をすることは当然という見方をされる。現にケアラーズカフェを訪れる人に話を聞くと、介護体験がない人ほど、残酷な言葉を介護者に投げがちだという。ある人は、二十年来の知人から、「親の世話ばかりしないで働いたりボランティアのひとつでもやってみたらどうか」と平然と言われたそうだ。そう言い放った人物は、他界した両親の介護はおろか世話もいっさいせず好き勝手に暮らしてきた人だったから余計に腹立たしかったという。実態を知らない人間から筋違いのことを言われるほど、頭にくることや傷つくことはない。

このような介護者が集まるカフェの例から学べることは、カフェに来るお客同士が話し合う空間を作り出す意義である。胸につかえていることを言ってみる。それを同じ立場で、同じ関心をもって、親身になって聞いて、受け止めてくれる。ときにアドバイスをしてくれる。そのようなことを繰り返しているうちに、「ああ、またあの場所へ行こう」という気持ちになる。このような「人と人とをつなぎ合わせること」が、カフェの目標である。そこに集まる人が関心のある物や情報に特化していくことこそが、カフェ経営では大切なのである。

ブックカフェに限らず、これからの店舗経営で主眼とすべきテーマは、「そこに行けば自分を満たしてくれそうだ」「何か楽しいことがありそうだ」とお客に思ってもらうことである。お客同士の結び付きを強めることで充実感を得て、カフェをたまり場にしてもらうのだ。学生時代の部活やサークル活動には「たまり場」があった。そこに足を運べば誰かがいて、適当に話ができる。話をすることは、お互いに相手の存在を認め合うということだ。だから、話をして、自分の意見が受け入れられたとき、私たちはうれしいと感じるのだ。

あの「たまり場」の感覚を、足を運べば知っている誰かに会えるのではないかという感覚を、お客にもってもらうのである。そのためのきっかけとして必要なものは何なのか。まずはどのような企画で集客し、来てくれたお客の心をつかむのか。初対面同士でも話が弾んで、そのあともお客同士で交流を持ち続けたいと思ってもらうためには、どのような店であることが必要なのか。そのためにはまず、店のコンセプトを明確にすることである。

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「ギャラリー」について考える

『「超」集中法』より 8割の逆襲? ロングテールとブラック・スワン 2:6:2ロジックを考えるヒント

ギャラリーの存在は必要

 私は、高校時代の友人だちと、メールでの「オンライン常時開催クラス会」をやっています。さまざまな話題についてメールで討論しているのです。

 あるとき、私とある友人の間で、議論が起きました。この問題は、2人以外のメンバーには興味がないことだろうと思っていたところ、「発言はしないが、興味があるから続けてくれ」というメールがありました。

 この話題について大部分のメンバーは「ギャラリー」であったわけですが、われわれ2人もギャラリーの存在を意識していたという事実に、そのとき気付きました。そして、2人だけのメール交換よりオンラインクラス会が面白い理由はそこにある、ということにも気付きました。ギャラリーは、積極的に討論に参加しなくても、重要な役割を果たしているのです。

 ギャラリーが重要な役割を果たしている例は、他にもあります。

 バレエでは、普通は主役の2人が重要ですが、見せ場では大勢のギャラリーが舞台の背景にいます。彼らは踊るわけでもなく、ただ立っていたり座っていたりするだけなのですが、彼らがいないと舞台は寂しくなります。華やかな場面にするためには、彼らの存在は不可欠です。例えば、「ドン・キホーテ」というバレエの最終場面は主役2人の踊り(グラン・バード・ドゥ)ですが、背景には数十人のギャラリーがいて、彼らの踊りを見守っています。

 「働かない働きアリ」は、リリーフ要員としての意味を持っています。しかし、バレエのギャラリーは、リリーフ要員ですらありません。主役がけがをしたときにギャラリーの誰かが代役をつとめることなど、絶対に考えられません。彼らは引き立て役であって、モーターではないのです。それにもかかわらず、必要なのです。

 バレエには「ガラ・コンサート」というのがあります。これは、全幕を上演するのではなく、見せ場だけを取り出して上演するものですが、ここではギャラリーはいません。そのため、全幕ものに比べると、華やかさに欠けます。

 これまで使った用語で言うと、「ギャラリーは、ノンコアであるにもかかわらず、重要な役割を果たしている」ということです。決して「いてもいなくても同じな人々」ではないのです。

世界は10割で成立している

 同様のことが、その他の場面でも観察されます。

 例えば、小説で面白い個所は、全体の2割くらいです。しかし、退屈なところも必要です。それを読み飛ばしてしまうと、小説は面白くありません。トルストイの『戦争と平和』は大変長い小説ですが、面白い部分はごく一部で、あとは退屈です。しかし、面白いところだけを拾い読みしても、『戦争と平和』を読んだことにはなりません。

 活劇アクションものなどで、最初から最後まで息づまる場面の連続、などというものもあるのですが、読み終えると、「騒がしかった」という印象しか残りません。

 英語を覚える場合もそうです。「重要な単語だけを抜き出した単語帳で単語を覚えようとしてもできず、文章を覚える必要がある」と第4章の2で述べました。どんな文章を取り上げても、およそ8割はすでに知っている単語でしょうから、それらを含めて全文を覚えるというのは無駄なような気がするのですが、そうしないと2割に当たる重要単語を覚えることはできないのです。

 人体の約7割は水です。しかし、水ばかりでは生きられない。カロリーもタンパク質もビタミンも必要です。

 「大金持ち」も、「その他大勢」がいるからこそ大金持ちになるのです。それが社会の構造なのです。

 政治システムは8割の部分を重視すると言いました。それらが重要でないとして切り捨ててしまうと、社会は成立しません。政治が平等を求めるのは、社会の長期的な存続のためには、意味があることなのです。

 自然の生物種は、きわめて多数です。驚くほどの種の多様性は、自然界の長期的存在のために不可欠な条件のようです。

それでもやっぱり2:8法則

 では、以上で述べたことは、「コアに集中するのは間違い」ということを意味するのでしょうか?

 そんなことはありません。右に、「人間の身体は水だけで支えることはできない。カロリーもタンパク質もビタミンも必要だ」と述べました。しかし、「水が最優先」ということに、間違いありません。

 無人島に漂着したら、まず何をおいても、水場を探すことから始めなくてはなりません。または、雨水を溜める工夫をすべきです。その他の栄養素を探すのは、水が確保できてから後の課題です。

 こんなことは、言われなくても、誰でもそうするでしょう。しかし、現実の仕事や勉強では、その原則を守っていないことが多いのです。簡単なことや片づけやすいことがらやる。あるいは、言い訳を優先する。そうした行動を無意識のうちに取っていることが多いのです。それを変える必要があるというのが、本書でこれまで述べてきたことです。

 つまり、10割はすべて必要なのではあるけれど、同じように重要ではない。それを忘れてはなりません。ギャラリーは重要だけれど、モーターではない。人々は、主役が誰かを見て、バレエを見にいくかどうかを決めるのです。

 世界は10割で成り立っているのだけれど、その中には重要なものと重要でないものがある。それが調和です。

 それに、同じものだけを残せば社会は平等になるのかと言えば、そうではありません。第6章の3で紹介したアリの話は示唆に富んでいます。働き者のアリだけの集団を作っても、あるいは怠けの者アリだけの集団を作っても、そこではまた、「一部が働き一部が働かない」という元のコロニーと同じ集団構造が現れるのです。つまり、2:8構造は、フラクタルになっているのです。これは、2:8法則が自然の基本的法則であることを物語っているのでしょう。
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分類しても、コアは見出せない

『「超」集中法』より 「超」整理法は自動的にコアを見出す ⇒ 未唯宇宙でハイアラキーから配置に切り替えています。

「分類こそ整理」という考えは誤り

 従来、整理について、つぎのように考えられていました。

 「〈整理・整頓〉と言うが、この2つは違う。〈整理〉とは、内容や重要度を考慮して分類し、秩序づけることである。これは、形式的に片づけて見た目をきれいにする〈整頓〉とは違う。そして、必要なのは、整理であって整頓ではない」というのです。

 つまり、ただ並べるだけの「整頓」では必要なものを見出せないから、内容に応じて分類し「整理」せよ、というのです。本書で論じていることとの関連で言えば、「そうすることによってのみ、コアを見出すことができる」というのです。

 私たちは、こうした考えを、小学生の頃から教え込まれてきました。そのため、「分類こそ整理」という考えは正しいと、信じ込んでいます。

 しかし、大人になって知的な仕事を始めるようになると、この原則に従うことは次第に難しくなります。毎日大量の資料が到着する一方で、処理すべき業務が山積みとなり、書類の分類・整理などやっていられなくなります。たまに整理しても、すぐに破綻します。かくして、机の上申書類棚は、資料や書類で溢れかえってくるのです。

 なぜ、こうなるのでしょうか? それは、「分類こそが整理」という考えが、基本的に間違っているからです。

 なぜ間違いなのか? その理由は、つぎのようなことです。

 第1の理由は、「どの分類項目に入れてよいか分からない」ということが頻繁に発生するからです。これは、つぎの場合に発生します。

 一つは、対象となる資料が、複数の内容または属性を持っている場合です。いま一つのケースは、連続的に変化するもののグレイソーン(境界領域)にある場合です。こうした問題があるために「その他」もしくは「雑」という分類項目を残しておくと、どんどん資料が入ってくる。その結果、結局は分類しないのと同じことになってしまいます。

 従来の整理法は、「仮に、こうした問題が解決できるとしたら、分類は役立つ」といっているにすぎません。

コアはダイナミックに変わる

 もっと本質的な問題もあります。それは、「知的な仕事の多くは、同じことの繰り返しではなく、ルーチン化できない」ということです。

 しかも、仕事の内容や問題意識は、流動的で、時間の経過とともに変わります。このため、分類項目を固定できないのです。いったん項目を設定しても、すぐに古くなります。ある問題については、分類を細分化したくなります。他方で、ある仕事が終われば、それに関連した項目はまったく使われなくなります。

 ですから、とりあえずまとまる範囲でまとめて時間順に収納するしか、対応の方法がないのです。情報をどこに分類して格納すればよいかが最初からはっきりしているのは、ルーチンワークの場合です。

 なお、ビジネスにおけるコアもダイナミックに変わります。したがって、ビジネスに2:8法則を応用する場合に最も重要な課題は、変化するコアにいかに対応するか、ということです。

動物の記憶メカニズムと同じ?

 「超」整理法的な情報の整理は、大脳のメカニズムと密接に関連しているようです。実際、「超」整理法は、動物の記憶メカニズムと酷似しているという書評がありました。

 野生動物は、刻々と入ってくる情報を、日中は当面の一貫性を保てる範囲で無分類、時間順で保持するのだそうです。そして、外敵の危険がない夜の間に、脳がこれらを意味付け、取捨選択して、必要なものを長期記憶に転記するのです。

 「超」整理法による書類の整理も、これと非常によく似たプロセスで行なわれています。動物の記憶メカニズムは合理的なものであるはずで、したがって、「超」整理法的な情報の時系列整理もそれと同じ理由で合理的であるはずです。

 情報の分類は、このような過程を通じて自然にできあがってゆくものなのです。「分類こそ整理」という考えは、最初に収納するときに無理に分類しようとするから、問題が生じるのです。

 生物が何億年もの時をかけた進化の過程をへて獲得した方法が、合理的でないはずはありません。「超」整理法が基本的に生物に似ているのは、その合理性の証左といえるでしょう。図書館方式は、徐々に崩壊します。押し出しファイリングは、生物の記憶メカニズム同様に機能するため、使っているうちに徐々に秩序ができあがってくるのです。
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ブックカフェを始めたいけど

本を片付けないと

 全然、ICレコーダーに入れることがない。今日中に本を片付けないといけない。

ブックカフェを始めたい

 『ブックカフェを始めよう!』。図書館好きにとっては、「ブックカフェ」の世界であってほしい。20年以上前に、「どこでも図書館」を提案した時からの思いです。これにスタバでの高度サービスがあればいい。だけど、CCC図書館に見られるように、本をシェアするのは難しい。まず、皆、本を読まないし、読む意味を持っていない。

 図書館戦争のように、本とか図書館は守るべきものになっている。攻撃のために存在していない。図書館戦争も本を禁止することで、日本が滅亡する姿を描いてほしい。

自動車の社会的費用

 『宇沢弘文のメッセージ』では、自動車の社会的費用を扱っている。地域のインフラを独占しているクルマはどう見てもおかしい。そのおかしいことに理論的な根拠を与えたということでしょう。元町の朝の渋滞を見ていれば、インフラの使い方がおかしいのは、一目瞭然です。道路を駐車場にすると同時に、作業しているときは、駐車場を占有している。単に車を買ったというだけで。

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