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全体主義と指導者原理

『精読 アレント『全体主義の起源』』より 運動としての全体主義 全体主義の組織構造

全体主義運動のそうした組織構造の中では、指導者白身も独特の位置に置かれることになる。

 運動の中心に、それを駆動させるモーターとしてリーダーが座している。彼は特別に接近を許された側近集団によってエリートの隊列から切り離されている。側近たちはりIダーの周りにその「触れることのできない圧倒的優越」に応じた測り知れない神秘のオーラを振りまくのである。親密な側近集団の中での彼の地位は構成員の間に陰謀を紡ぎ出す才能、絶えずそのメンバーを交替する技術に依拠している。彼が指導権を掌握できたのは、デマゴーグとしての才能や官僚的・組織的な才能のおかげというより党内闘争を操る並はずれた才能の故である。そこで勝利するために暴力をほとんど用いなかった点で彼はそれまでのタイプの独裁者とは区別される。ナチ運動でのヒトラーの地位を維持するのにSAもSSも必要ではなかった。反対にSAの長でその忠誠を当てにすることができたレームはヒトラーの党内の敵であった。スターリンもトロツキー(一八七九-一九四〇年)に勝利したが、トロツキーははるかに大きな大衆的なアピールの力をもっていただけでなく、赤軍の長としてソビエト・ロシアで最大の潜在的権力をその手に握っていたのである。

全体主義の指導者に必要なのは、大衆的プロパガンダにおけるデマゴーグとしての能力でも官僚的組織技術でもなく、多層的な運動の中心にあって構成員間の陰謀や闘争を繰る才能である。ヒトラーもスターリンも他に抜きんでていたのはこの能力であった。「しかしながら、指導者の個人的能力はキャリアの最初の段階では絶対的に必要な条件であるし、後になっても重要でないどころではないのだが、全体主義運動が形成されて『指導者の意志は党の法である』という原則が確立した段階では、ヒエラルヒー全体が単一の目的のために十分に訓練されてリーダーの意志がすべての構成員に迅速に伝わるようになった段階ではもはや決定的なものではなくなる」。

もとより指導者の存在の重要性がそれによって減退するわけではない。むしろ指導者の「責任」は増大する。「指導者の最大の任務は、運動のすべての層に特徴的な二重機能を人格として体現することである。彼は運動を外部の世界から守る魔術的な防壁となると同時に、運動と世界を結びつける橋である。指導者は通常のどんな政党指導者とも全く異なるやり方で運動を代表する。彼は党員や職員がその公的資格においてなしたすべての行動、作為・不作為に対する人格的責任を引き受ける」。指導者個人は運動の体現であり、その全体的な責任を担うという独特の「指導者原理]がここに成立することになる。

このような全体主義運動の特質は社会学的に見れば、イニシエーション(奥義通暁)の程度によってヒエラルヒーが形成されるという「秘密結社」のそれに類似している。奥義に通じた少数のサークルを、半ば通じたメンバーが取り囲むというかたちで階層が形成され、これらが全体として、外の現実的世界--運動から見れば敵対的な世界一-に対する緩衝装置として機能するのである。ここで重要なのはリーダーとエリート、一般党員、同伴者(シンパサイザー)の相違と相互の関連である。

 エリートの隊列と党員とシンパサイザーという組織的な区分がなければ、リーダーの嘘は機能しない。侮蔑のヒエラルヒーとして表れるシニシズムの等級付けは、〔事実によって〕絶えず行われる反駁に抗するために、少なくとも単純な軽信と同じくらい必要なのである。ここでは奥義に通じていない市民をフロント組織のシンパサイザーが軽蔑し、朧されやすく過激でもない同伴者を党員が軽蔑し、同じ理由から一般党員をエリートの隊列が軽蔑し、エリートの隊列の内に新たな組織が設立され発展していくに伴い同様の軽蔑のヒエラルヒーが形成される。こうしたシステムの結果、信じやすいシンパサイザーが外の世界に嘘を信じさせてくれるし、党員やエリートの隊列の段階ごとのシニシズムのおかげで、指導者は自分のプロパガンダの圧力に負けて言明したことを実行して体面をとり繕う羽目に陥らずにすむのである。

およそ実行不能な目標を掲げる全体主義のプロパガンダはいずれは事実によって反駁されるだろうという見方は、全体主義運動特有の階層構造の機能を見誤っている。外部の世界に対する嘘とシニシズムのこのような階層的構造の中では、その中心にいるエリートはもはや運動のイデオロギーを信ずることを要求されない。

 エリートを構成しているのはイデオロギー信奉者ではない。彼らに施される教育全体が真実と嘘、リアリティと虚構とを見分ける能力を根絶することに向けられている。事実についてのどのような言明も即座に目的の宣言に変換できるところに彼らの優位はある。ュダヤ人種が劣等人種であるという証明がないとュダヤ人を殺せと命令できない大衆メンバーに対して、ュダヤ人はすべて劣等人種であるという言明をすべてのュダヤ人は殺さねばならないと理解するのがエリートの隊列である。彼らは、モスクワにしか地下鉄はないと言われたら、すべての地下鉄を破壊すべしという命令だと理解するが、だからといってパリに地下鉄があるのを見ても別に驚きはしないのである。

みずからの運動のイデオロギーの内容そのものから自由であることが、全体主義運動のヒエラルヒーの最中心層の特徴である。しかもそれは指導者の無謬性に対する全面的信頼でさえない。「彼らの忠誠の要は指導者が無謬であると信じていることではなく、全体主義組織の圧倒的な方法で暴力装置に命令を下す者なら誰でも無謬になりうると確信しているという点にある。この錯覚は、全体主義体制が権力を握って、成功や失敗は相対的なものであり、実質的な損失がどのようにして組織の利益となるのかを証明することができるようになれば、大いに強化されることになる」。虚構の世界をめぐって展開される全体主義運動の内部では、もはや現実の失敗は問題とはされない。運動が組織され権力を獲得すればするほど、そうした「虚構」はなかば現実として実現されていくことになるだろう。そうした「虚構」の実現に失敗して、リアリティによって復讐されるときに、全体主義は崩壊するのである。

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社会的共通資本の基本的な考え方

『宇沢弘文のメッセージ』より 社会的共通資本という思想

これまで宇沢の実に多方面にわたる活躍を見てきた。それを一言で言うならば、人間が真に豊かに生きることができる条件を、経済学者として具体的に探究する試みであった。そもそも数学から経済学へと専門を変えた理由もそこにあったし、それ以降半世紀にわたって、宇沢の初志が変わることはなかった。

宇沢は、そうした自分の努力が認められたときには、素直に喜んだ。『自動車の社会的費用』が毎日出版文化賞を受賞したとき、天皇ヘレクチャーをした折に、天皇から〝君が言いたいのは、経済学にとって一番大切なのは人間だということだね〟と言われたとき、文化勲章が公害や環境問題への学問的貢献という理由で授与されたとき、環境問題のノーベル賞ともいわれるブループラネット賞を受賞したとき、など。

そのような宇沢の長年にわたる努力が生みだしたものこそ、社会的共通資本という思想であった。その考えは、早くも一九七〇年代初めには宇沢の論文にでてくる。そして、自動車、道路、空港、都市、農村(コモンズの問題を含む)、また公害や環境問題、地球温暖化、さらには学校教育、医療、金融など、社会的共通資本の個々のあり方の検討を通して、宇沢はその思想を彫琢してきた。

以下、『社会的共通資本』(岩波新書、二〇〇〇年)を中心に、最終的に宇沢の数理経済学の主著となる『経済解析展開篇』を含めて、宇沢の社会的共通資本(Social Overhead Capital)の思想ともいうべきものを検討することにしよう。

まず『社会的共通資本』の序章から引用する。

社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。社会的共通資本は、一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立を支え、市民の基本的権利を最大限に維持するために、不可欠な役割を果たすものである。社会的共通資本は、たとえ私有ないしは私的管理が認められているような希少資源から構成されていたとしても、社会全体にとって共通の財産として、社会的な基準にしたがって管理・運営される。

社会的共通資本はいいかえれば、分権的市場経済制度が円滑に機能し、実質的所得分配が安定的となるような制度的諸条件であるといってもよい。それは、アメリカの生んだ偉大な経済学者ソースティン・ヴェブレンが唱えた制度主義の考え方を具体的な形に表現したものである。ヴェブレンの制度主義の思想的根拠は、……ジョン・デューイのリペラリズムの思想にある。したがって、社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。

このような社会的共通資本は大きく三つに分けて考えられる。第一は自然環境であり、第二は社会的インフラストラクチャーであり、第三は制度資本である。自然環境は大気、水、海洋、河川、湖沼、沿岸湿地帯、森林、土壌など。社会的インフラストラクチャーは通常社会資本といわれるもので、道路、交通機関、上下水道、電力、ガスなどである。制度資本は教育、医療、司法、行政、金融などをさす。

さて、それでは社会的共通資本の考え方とはどういうものなのか、同書の第1章に即して見ることにしよう。宇沢は「新しいレールム・ノヴァルム」のために、二〇世紀の最大の問題を「社会主義の弊害と資本主義の幻想」と規定した。一九一七年のロシア革命以来、人々は社会主義に理想をいだき、多くの社会主義国家が誕生した。しかし二〇世紀の末葉になると、社会主義の内部矛盾は誰の目にも明らかになり、ポーランドや東ドイツをはじめ多数の国が社会主義体制から離脱しはじめ、ついにはソ連邦の解体に至った。それらの国の多くは市場経済制度を採用し、資本主義への道を歩んでいるかに見える。

とはいえ、資本主義がその内部に大きな矛盾をかかえていることは、これまで詳しく見てきたとおりである。つまり、「資本主義から社会主義への歴史的移行という古典的なマルクス主義のシナリオに反して、世界がいま直面している問題は、社会主義から資本主義への移行をどのようにしたら円滑におこなうことができるかという、まさに百八十度逆転した問題」(以下、二〇二頁までの引用は『社会的共通資本』による)なのである。

社会主義国家における中央集権的な計画経済は、国家権力の肥大化ときわめて恣意的な権力行使によって、十全に機能しなかった。「過去七十年にわたる社会主義諸国の経験が明白に示すように、計画経済は、中央集権的な性格をもっものはいうまでもなく、かなり分権的な性格をもつものについても、例外なく失敗した。その原因は、一部分、計画経済の技術的欠陥にあったが、より根元的には、計画経済が個々人の内発的動機と必然的に矛盾するということにあった」。それゆえ、市民の生活水準は低く、市民的権利と自由の実現は理想とはほど遠いものであった。

他方、資本主義諸国における実態も矛盾にみちたものである。所得と富の分配の不平等・不公正の趨勢はとどまるところを知らず、利潤動機と投機的動機は人々の生き方を歪め、社会における倫理的な規制を無効にする傾向が見られるようになった。

とするならば、「このような状況のもとで、市民的自由が最大限に保証され、人間的尊厳と職業的倫理が守られ、しかも安定的かつ調和的な経済発展が実現するような理想的な経済制度は存在するであろうか。それは、どのような性格をもち、どのような制度的、経済的特質を備えたものかという問題が、私たちの考察の対象になる」と宇沢は言う。

そして宇沢は右の問題に対する答えとして、ソースティン・ヴェブレンのいう制度主義の考え方をあげる。「私たちが求めている経済制度は、一つの普遍的な、統一された原理から論理的に演繹されたものでなく、それぞれの国ないしは地域のもつ倫理的、社会的、文化的、そして自然的な諸条件がお互いに交錯してつくり出されるものだからである。制度主義の経済制度は、経済発展の段階に応じて、また社会意識の変革に対応して常に変化する。生産と労働の関係が倫理的、社会的、文化的条件を規定するというマルクス主義的な思考の枠組みを超えると同時に、倫理的、社会的、文化的、自然的諸条件から独立したものとして最適な経済制度を求めようとする新古典派経済学の立場を否定するものである」。

そのような制度主義の経済制度は、社会的共通資本とそれを管理・運営する社会的組織のあり方の二つを、特徴としてもつことになる。前者についていうと、「制度主義のもとでは、生産、流通、消費の過程で制約的となるような希少資源は、社会的共通資本と私的資本との二つに分類される。社会的共通資本は私的資本と異なって、個々の経済主体によって私的な観点から管理、運営されるものではなく、社会全体にとって共通の資産として、社会的に管理、運営されるようなものを一般的に総称する。社会的共通資本の所有形態はたとえ、私有ないしは私的管理が認められていたとしても、社会全体にとって共通の財産として、社会的な基準にしたがって管理、運営されるものである」。

後者に関して留意すべきは、社会的共通資本は、それぞれの分野の職業的専門家が専門的知見に基づき、かつ職業的規律にしたがって管理・運営するものであるということだ。「社会的共通資本の管理、運営は決して、政府によって規定された基準ないしはルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない。この原則は、社会的共通資本の問題を考えるとき、基本的重要性をもつ。社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciary)の原則にもとづいて、信託されているからである」。

そして政府の役割は、さまざまな社会的共通資本の管理・運営がフィデュシアリーの原則に忠実に行われているかを確かめ、それら相互間の財政的バランスを保つこととなる。つまり、制度主義のもとでは、政府は統治機構としての国家ではなく、市民の基本的権利の充足を確認する役割をはたすものとなるのだ。

この後宇沢は、農業と農村、都市、学校教育、医療、金融、地球環境という個別の社会的共通資本について論じる。農業と農村のところでは農業基本法の問題をはじめ、コモンズの問題や三里塚農社について触れる。医療のところでは医師と医療技術、医療施設のみならず、看護師や検査技師なども含めたコ・メディカルの問題、保険点数制度に基づく診療報酬制度の問題等々を検討する。金融では、アメリカと日本に例をとって金融危機の問題点を明らかにし、市場制度や金融機関のあり方、マネタリズムや合理的期待形成説のもつ意味などを解明する。地球環境のところでは、地球温暖化を中心に論じられるが、これは既に見たところだ。
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宇沢弘文『自動車の社会的費用』の衝撃

『宇沢弘文のメッセージ』より 自動車の社会的費用 ⇒ 車は誰のモノ、未知は誰のモノ

以下この本の内容を、できるだけ簡潔に紹介することにしよう。宇沢は「まえがき」を次のように書きはじめている。

わたくしは十年間ほど外国にいて、数年前に帰国したが、そのときに受けたショックからまだ立ち直ることができないでいる。はじめて東京の街を歩いたときに、わたくしたちのすぐ近くを疾走する乗用車、トラックの風圧を受けながら、足がすくんでしまったことがある。東京の生活になれるにつれて、その恐怖感は少しずつうすれていったが、いまでも道を歩いているとき、自動車が近くを追い越したりすると、そのときの恐怖感がよみがえってくる。

当時の東京では、人道・車道の区別がない狭い道路を、車がクラクションを鳴らして走ることは珍しくなかった。歩行者は道の端っこに追いやられ、子供たちは遊び場を奪われた。「日本ほど歩行者の権利が侵害されている国は、文明国といわれる国々にまず見当らないといってよい」(以下、本章でとくに注記がない場合、引用は『自動車の社会的費用』からである)。

ポール・サミュエルソンも当時来日したとき、自動車通行にふれて、「まともなアメリカ人だったら、東京の街で一ヶ月間生活していたら完全に頭がおかしくなる」と率直に発言していた。

「まえがき」で宇沢は、本書のエッセンスともいうべきいくっかの点を抜き出して、簡潔に書いている。

「日本における自動車通行の特徴を一言にいえば、人々の市民的権利を侵害するようなかたちで自動車通行が社会的に認められ、許されているということである」。換言すれば、自動車通行のみならず、すべての経済的活動が、大なり小なり必然的に生みだす社会的費用を内部化せずに、第三者にその負担を転嫁してきたのが、戦後日本の高度経済成長の特徴であった。自動車はその象徴的な例なのである。

「社会的費用の発生は資本主義経済制度のもとにおける経済発展のプロセスに必らずみられる現象であるといえる。ところが、経済学の分野で、社会的費用あるいは外部不経済という問題が斉合的な理論体系のなかで論究されたことはなかったといってよい」。外部不経済に関しては、ピグーやヴェブレンも考えていた。しかし社会的費用や外部不経済については、いまだに例外的なものとみなされていて、「依然として正統的な経済理論の枠外に位置しているといえよう」。

したがって自動車の社会的費用を分析しようとするならば、「どうしても正統的な経済理論の限界に突き当らざるをえなくなる」。ジョーン・ロビンソンは経済学つまり新古典派理論が現在直面している状況を「経済学の第二の危機」と呼んだ。一九三〇年代の「第一の危機」はケインズ経済学を生みだしたが、「第二の危機」はいまだにそれに対応する新しい理論をつくり出していない。

宇沢はそうした状況のなかで、帰国後数年間、「公害、環境破壊、都市問題、インフレーションなどの現代的課題を取扱うとき、新古典派の理論体系にはどのような問題点が存在し、どのような限界があるか、ということを考えるとともに、代替的な理論体系の構築を試みるといういささか困難な作業をつづけてきた」。その作業は継続中である。そうしたなかで「自動車の社会的費用にかんする研究と新古典派経済学に対する理論的検討と二つの作業をほぼ同時に進めながら、しかも両方とも未完成の段階で発表することについて大いに躊躇せざるをえなかった」と宇沢は告白する。

いきなり〝社会的費用〟とか〝内部化〟といった言葉がでてきたので、とまどう読者も多いと思うが、本章を読んだ後にもう一度右にあげた「まえがき」を読んでいただきたい。宇沢の言わんとするところが、よく諒解できるはずである。

序章では、「自動車の問題性」と「市民的権利の侵害」が論じられる。前者では次のような文脈で議論が展開される。日本の住宅環境は貧しく、教育や医療など文化および社会的施設も十分でない。おまけに自然は荒廃し、緑はどんどん失われてきた。七かるに高速道路には膨大な資源が投下され、全国にその網をはりめぐらしつつある。都会では狭い裏通りまで舗装されて自動車通行は便利になった。

人々は自分の自動車(マイカー)をもち運転することに喜びを見出している。自動車の保有台数は年々増加し、自動車とその関連産業は日本経済のなかで圧倒的に大きな割り合いを占めるに至っている。

しかし、ここで考えてほしい。人々が競って自動車を利用するとき、車購入の費用やガソリン代といった私的な資源利用のための代価だけではすまないのだということを。なぜなら自動車に乗るためには、必然的に道路という社会的資源を使わなければならないからである。

しかも右に見たように、市民の基本的生活を優先することなく道路建設が進められてきたわが国では、自動車通行が市民生活に与える被害を無視することができなくなっている。ちなみにミシャンは『経済成長の代価』(都留重人監訳、岩波書店、一九七一年)のなかで、自動車をピストルにたとえて右の事情を説明している。とするならば、「自動車を所有し、運転することは、各人が自由に自らの嗜好にもとづいて選択できるという私的な次元を超えて、社会的な観点から問題とされなければならない」。

また可住面積当たりの自動車保有台数でいえば、日本は自動車王国といわれるアメリカの約八倍にもなる。この事実は、有害物質を含む排ガスを放出しながら人家の密集した地域を走る自動車が、どれだけ市民の健康を破壊する公害の原因であるかをも示している。事実、東京の環状七号線周辺の人々は排ガスだけでなく騒音や振動にも苦しめられているのだ。

これに対して、しばしばコスト・べネフィット分析を援用した反論がもちだされる。つまり、自動車を利用する場合の便益の大きさと、それ故に人々は自動車を好んで購入するのだ、という論理である。そして公共投資の配分に関してもこの考え方が使われてきた。しかしここには道路建設と自動車通行によって生じる社会的費用の観点が欠落している。

結論的にコスト・ベネフィット分析的考えについていうならば、これに従うかぎり、「たとえどのように大きな社会的費用を発生したとしても、社会的便益がそれを大きく上回るときには、望ましい公共投資として採択されることになり、実質的所得分配はさらにいっそう不平等化するという結果をもたらす」ことになる。

次に「市民的権利の侵害」について見よう。

近代市民社会の特徴は、市民がさまざまな自由を享受する権利をもっているところにある。この基本的権利には、職業や移動の自由あるいは思想・信仰の自由といったいわゆる市民的自由だけでなく、健康で快適な最低限の生活を営むための生活権が含まれている。つまりシビル・ミニマムの思想(拙著『松下圭一 日本を変える』参照)だ。そこでは、市民が安全かつ自由に歩行する権利としての歩行権は必須のものである。

ところが、「自動車通行によって、歩行者の安全を阻害し、住宅環境を汚染・破壊しているにもかかわらず、あえて自らの私的な便益を求めて自動車を使用している。そして、そのとき発生する被害が無視できないようになっているにもかかわらず、その点に十分な配慮がなされていない」のが日本社会の現実である。

とりわけ日本では、このような自動車の非社会的側面に対して社会的な対応策がとられず、欧米諸国に比較すると自動車の社会的費用の内部化がたち遅れてきた。「このことによって、逆に自動車の所有・使用がきわめて低廉なコストでおこなえることになり、さらに自動車の普及を促進させてきた」のである。

とすれば、自動車の社会的費用の内部化を実現するには、次のような措置を講じた道路をつくることが求められる。まず、歩道と車道との分離、並木の造成などによる排ガス・騒音対策、住宅環境を破壊しないようにする配慮、歩行者の負担をへらすために歩道橋ではなく車道を低くする構造の造出、事故発生の低減のためにセンターゾーンをつくる、などである。
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玲子さんとの会話

10時から玲子さんとの会話です。2時間の予定です。妹に家からピックアップしてもらい、元町のスタバへ。

オレンジFireとソニーとは同じサイズだった。色はオレンジと黒の差。価格は2万円と6万円。

ラインの相手は、さほど多くはない。妹の双子からの入力が多い。小学2年生で「戦争をなぜ、するのか」を聞いてくる。親も面倒だから、回してくるみたい。私が答えるなら、「なぜ、戦争をするのかと、皆が考えないから」と応えるでしょう。

メールは見ないと怒られ、見ても返信しないと怒られるから、面倒くさいとのこと。お互いに、ラインには向かないですね。

飲むのはカプチーノにしている。アテネにも泡立器が在るそうです。ソホクリスにはルールが合って、紅茶は朝、コーヒーは2時ごろ、夜はワイン。ただし、ワインは商売を思い出すので、ビールにしている。ソホクリスはどこへ行っても、ワイナリーが中心になる。仕事熱心。それで旅行先で喧嘩になったこともある。

ギリシャは農業国で工業はない。

レバノンのワインのオーナーの娘から、「リナックマ」のフィギャーを頼まれている。皆、日本のアニメには詳しい。

駅前のスタバは学生が勉強部屋になっている。今は、大学生が占めている。

未唯の新婚旅行から、ニュージーランドに話題が跳び、ダニーデンの大学は居心地がよかったということになった。

シリアの難民の受け入れ先としてのレバノン。そして、ドイツの話。ハイデガーとアーレントが会った、マールブルグ大学には1週間居て、そこでアーストラリアの教授に出会って、博士号につながった、とのこと

ヨーロッパにおける中国の影響力。ギリシャは乗っ取られそう。中国語のメニューが置かれている。ドイツ辺りで技師者国籍とわかると、お金はあるのと言われるので、日本から来たということにしている。待遇がまるで違う。

中国分割の可能性と新しい移民問題。これについては、まるで信じなかった。

ハンガリーワインのワーなリーへの自動車旅行。ずっと、平原が続いていた。ヨーロッパは平らなんです。

妹が加わったので、私の中学時代は寝ながら勉強していたという、いつもの話。私の研究所は楽しかったということと最後の5年間は自分のことしかしていなかったこと。今も、勉強していること。そこで、「存在と時間」の本を見せた。

胸の違和感を言ったら、妹からは「帰って寝な!」と。クロージングを図っている。
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