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道元の強靫な思考

『日本精神史』より 『正法眼蔵』--存在の輝き ⇒ 道元の思考の方が世界宗教っぽい

道元の強靫な思考は、こういう現実肯定の存在論を生み出すところまで行った。現実を超えたむこうに超越的な彼岸や来世を見るのではなく、現実のそのむこうにさらなる現実をうかがうその思考は、宗教的思考というより哲学的思考というにふさわしいが、道元にしてみれば、それこそが仏法の真髄にせまる思考にほかならなかった。仏法を思考するとは、現実に背を向けるのではなく、現実にいっそう肉薄することだ。同時にそれは、乱世にあって乱世に呑みこまれることなく、ものごとの本質を洞察することによって、生きるに値する世界を現出させようとすることだ。法然や親鸞の思考が、乱世に生きる人びとの悲惨と苦難と絶望を目の前にして、一切衆生平等往生を強く希求し、阿弥陀仏の大悲大慈を絶対的な真実と見なすことによって専修念仏や悪人正機の思想をたぐり寄せ、もって時代の不幸と不条理を克服しようとしたとすれば、道元は、時代の混乱と迷妄に正面から向き合い、混乱と迷妄のその奥にゆるぎない真実を探り出すことによって、時代の不幸と不条理を克服しようとしたのだった。仏法の行きわたった世界においては、「迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり」であるとともに、「まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし」であるといえるのも、そして「諸仏諸祖の行持によりてわれらが行持見成し、われらが大道通達」し、逆に、「われらが行持によりて、諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達する」といえるのも、現実の奥にいっそう現実的な存在の輝きを洞察する、透徹した思考の働きによることだった。道元にとって、思考することが心に充実を得ることであり、安らぎを得ることだった。

透徹した力強い道元の思考は、その一方でまことに融通無碍な動きをする。無軌道といいたくなるほどに自在な動きをする。すでに引用した第一「現成公按」の「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」というリズミカルな文など、思考の自在な動きの好見本とすることができるが、もう少し気楽な事柄に取材した例として、同じ第一「現成公按」に次の文がある。現代語に訳して引用する。

 魚が水を泳ぐのに、どこまで行っても水の果てはないし、鳥が空を飛ぶのにどんなに飛んでも空の果てはない。とはいっても、魚や鳥は昔から水や空を離れることはない。ただ、水や空を広く使う必要があるときは遠くまで行き、小さく使うだけのときは近くを動く。そうやってそれぞれがその場の全体を使いつくし、どこといって動きまわることのない場所はないのだが、鳥はもし空を出ればたちまち死んでしまうし、魚はもし水を出ればたちまち死んでしまう。とすれば、以水為命(水が命である)であることが分かるし、以空為命(空が命である)ことが分かる。また、以鳥為命(鳥が命である)とも、以魚為命(魚が命である)ともいえる。また、以命為鳥(命が鳥である)とも、以命為魚(命が魚である)ともいえる。こうしてさらに先へと進むことができる。(岩波・日本思想大系『道元上』三七上二八ぺよン)

空に果てがないというのは、天空を見上げた感覚として分からないではない。しかし、水に果てがないというのはどういうことか。文脈からして、海の広さをいうのではあるまい。道元はみすからが泳ぐ魚の身になって、水に果てがない、といっているのだ。とすれば、水域の大小は問題ではない。小さな池の魚でも、小川の魚でも、大海の魚でも、泳ぎまわるその場所を果てしないと感じている。そう道元は考えるのだ。鳥も同じで、天空がどこまでも続くから果てしないのではなく、広く飛ぶ鳥は広いなりに、小さく飛ぶ鳥は小さいなりに、空を果てしないと感じているというのだ。

そのように無理なく魚や鳥に内在する道元の思考は、さらにそこを出て鳥の居場所である空や、魚の居場所である水へと内在していく。以鳥為命(鳥が命である)と以魚為命(魚が命である)の二語は、それぞれ空の立場と水の立場に立っていわれたものだ。空と水はいろんな動植物を内にふくみ、それらが動き、生き、暮らす場としてあるが、空の側から鳥に注目すれば、鳥こそが空を本領とするにふさわしい空の命であり、水の側から魚に注目すれば、魚こそが水を本領とする水の命だと考えられる。魚から水へ、鳥から空へ、そのように自在に動くのが道元の思考だ。さらには、以命為鳥(命が鳥である)といい、以命為魚(命が魚である)という。思考は今度は命に乗りうつっている。空と鳥のあいだを、あるいは水と魚のあいだを自由に行き来する命に乗りうつって、命が二定の形を取って現に存在するに至ったもの、それが鳥であり魚であるといっているのだ。漢字四文字を使った展開はそこで終わっているが、道元自身、「さらに先へと進むことができる」といっているように、以命為空、以命為水とか、以鳥為鳥、以魚為魚といった思考の展開は十分に可能なのだ。

現実のすべてが存在の輝きをもってあらわれ出る世界は、そのような融通無碍の思考によって洞察され表現されるものにほかならない。思考が融通無碍の動きによって現実の世界に肉薄するとき、現実の一つ一つの存在が新鮮な輝きをもってあらわれてくるのだ。修学・修行のなかで自己と仏祖がつながり、やがて自己が忘れられていくように、同じ修学・修行のなかで自己と世界が、自己と全自然が、自己の一つ一つの存在がつながり、やがて自己が忘れられていく。池に魚が泳ぐのが見える。空に鳥が飛ぶのが見える。わたしたちの目は魚を追い、鳥を追う。が、水がなければ魚は生きられす、空がなければ鳥は生きられない。そう考えるとき、魚のむこうに水が、鳥のむこうに空が、価値あるものとしてあらわれ出る。さらに、魚と水、鳥と空との関係そのものへと考えが及べば、そこに行き交う命が価値あるものとしてあらわれ出る。そのような魚、鳥、水、空、命のあらわれが存在の輝きにほかならない。驚くべき自由な、自立した思考だが、道元はそれが自分だけに特有の思考ではなく、万人に共有される思考だと考えていた。思考とは本来そのように自由な自立した運動体だと考えていた。そう考えていたからこそ、存在することそのことが価値であるような現実空間をのびやかに動きまわるおのれの思考の軌跡を、くりかえし倦きることなく人びとに提示しようとしたのだ。

『正法眼蔵』は読みやすい書物でも分かりやすい書物でもない。途中で投げ出したくなることも珍しくない。しかし、霧のなかに迷いこんでいまいる場所も行く先も皆目見当がつかないようなときでも、書き手のひたむきさは疑えない。ごまかしたり惑わしたりする気などまったくなく、まっすぐ考え、まっすぐこちらに向かって語りつづけるのが『正法眼蔵』だ。見てとれるのは、思考が純粋な形を取ってそこにあらわれているさまだ。読み手としては、迷っても惑っても考えつづけていくしかなく、実際、考えつづけるうちに多少とも論の筋道をたどれるようになる。思考と思考が通じ合うのだ。道元は現実のすべてが存在の輝きを具えてたがいに響き合うことこそ、世界の本来のありかただと考えたが、そのありかたは書物を媒介にした書き手と読み手のあいだにも成立しうると考えていた。いや、書き手と読み手のあいだでは思考が通じ合う以上、その通じ合いはとりわけ純粋な、まさしく身心脱落の名に値する通じ合いだと考えていた。乱世とも濁世ともいわれる時代にあって、強い現実肯定の意志につらぬかれ、なにかが、なにごとかが存在するとすれば、存在するというそのことに価値があるとする、雄渾で豊饒な存在論ないし世界観は、そのような思考への信頼なくしてはなりたちえないものであった。

道元は厳しい戒律をおのれに課し、仏道一筋の日々を生きぬこうとする仏者だった。しかし、『正法眼蔵』は信仰の書というより思索の書と呼ぶのがふさわしい。信仰の力よりも思索のエネルギーが読者にせまってくるのが『正法眼蔵』なのだ。法然も親鸞も十分に思索の人だったが、その思索が仏書に依拠するものであったことは否定できない。道元の思索は、仏書を手がかりとしつつみすからの足で立とうとする。読むうちに、仏の慈悲よりも存在の輝きに心が開かれるのも、そのことと深く関係する。
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法然の称名念仏を仏法の中心とする考え

『日本精神史』より 法然と親鸞--万人救済の論理 ⇒ 大乗仏教というのは、本当に仏教なのかという思いがあり、民衆を救うための宗教に捻じ曲げられたような気がしている。

専修念仏の思想にこめられたそのような志向性は、政治的・社会的に大きな力をもつ既成の仏教界には理解しにくいものだった。理解しにくいその思想に、しかし、人びとがしだいに引き寄せられていく。その勢いが自分たちの足元をゆるがすまでになれば、旧仏教の側も黙ってはいられなかった。旧仏教と専修念仏とのあいだに目に見える対立の構図が出来上がっていく。南都の大僧団が念仏禁断を院に訴えた「興福寺奏状」の一節を現代語に訳して引く。

 第七の過失が念仏の誤解だ。ます、念じられる仏には名前があり実体がある。実体には内容と理法が具わっている。次に、念じかたについていうと、口称(口に出す念仏)と心念(心に思う念仏)がある。心念には繋念と観念がある。観念には散位から定位へ、有漏から無漏へと至る段階があって、低位から高位へと向かう。とすると、口に名号を唱えることは、観でも定でもないから、粗雑で浅薄な念仏ということになる。場合により人によりそれで十分ということもなくはないが、きちんと考えれば、ちがいがあるのが分からないはすはない。専修念仏の徒はそう非難されたとき、広く考えをめぐらさす、ただ、「弥陀の本願が四八あるなかで、念仏往生は第一八願だ」と答えるだけだ。ほかのいくつもの大願を伏せて第一八願だけを本願とするのはどういうことか。その第一八願において「乃至十念(一〇回口に唱えるだけでも)」とあるのは、最低の場合をいったものだ。観念が本来で下位に口称があり、多念が優れるが十念でもまあょいということだ。それこそが弥陀の慈悲の深さであり、仏の力の大きさなのだ。(岩波・日本思想大系『鎌倉旧仏教』三八I三九ページ)

整然たる理路の展開だ。念仏というものについて、仏典に即しつつ無理のない論が展開されている。比べていえば、法然の『選択本願念仏集』のほうが無理で奇怪な論の展開だといえなくはない。容易に見てとれるその無理で奇怪な論法が、かえって批判者の側を自重させ、無理のない論の展開へと導いた、と考えたくなるほどだ。

とはいえ、法然の側には、一見して無理で奇怪な論法に訴えてでも仏教を普通の人びとのもとで生きるものにしたい、という痛切な思いがあった。そして、その思いこそ伝統的な仏教界のもっとも理解しにくいものであった。「興福寺奏状」はたんなる専修念仏批判の書ではなく、法然一派の活動の禁止と主たる活動家の処罰を求める政治的な文書だから、法然の側でもそれなりの政治的対応をせまられたろうが、文書に見てとれる相手方の無理解と、彼我の拠って立つ位置の隔たりからすれば、法然は旧来の仏教とおのれの仏教はもはや生きる世界がちがうと考えたのではなかろうか。そして、それは頭を痛めるべきことでも悲しむべきことでもなく、素直に受け容れるほかないことだと考えたのではなかろうか。伝統的な日本仏教のありようからすれば、専修念仏の思想はそれほどに独創的であり異端的であった。

その独創的で異端的な考えが庶民のあいだで徐々に受け容れられ、やがて、貴族や武士や在俗の僧たちにも受け容れられていく。教えを説く法然の人間的な魅力もあったろうが、時代の暗さと救いのなさが「平等往生」の考えを強く後押しした事実を見逃すわけにはいかない。黒谷を出て普通の人びとと交わるなかで、法然は専修念仏の思想が時代の求めていたものだとの確信を強めていったにちがいない。専修念仏の思想はもともと、貧しく、愚かで、無智無戒の庶民を救わねば、という熱意から生まれたものだ。庶民の救済を願うその教えが庶民に受け容れられるとすれば、法然にとって、これ以上の満足と喜びはなかった。黒谷を去ったあと、法然は、九条兼実の求めに応じて書いたさきの『選択本願念仏集』のほかにはまとまった著作を記していないが、日々労働に追われる庶民たちとの、仕事の合間を縫ってのつきあいは、著作活動に勝るとも劣らぬ充実感をともなっていたはすだ。残された個人宛の消息文から、人びとと丁寧に、また真剣につきあう法然のすがたが浮かび上がる。

いま、武蔵国の武士・津戸三郎に宛てた返事文の冒頭部分を現代語に訳して引用する。

 あなたの手紙をじっくり読みました。お尋ねの事柄についておおよその所を記します。熊谷入道や津戸三郎は無智の者だから念仏を勧めたけれど、有智の人には念仏だけを勧める必要はない、とわたしが言ったとのことですが、それは大きな間違いです。なぜかというと、そもそも念仏の行は有智か無智かにかかわるものではなく、阿弥陀様のお誓いになった本願も、広く一切衆生を救うためのものだからです。無智の人には念仏を、有智の人のためにはほかの行を、ということはない。念仏はあらゆる衆生のためのものであり、有智・無智、有罪・無罪、善人・悪人、持戒・破戒、尊い人も賤しい人も、男も女も、仏の在世中の衆生も、仏の死後間もない時代の衆生も、末法万年が過ぎて仏法僧の三宝が消滅した時代の衆生に至るまで、すべての人を救うのが阿弥陀様の本願です。……だから、わたしの所にやって来て往生の道を尋ねる人にたいしては、有智の人であろうと無智の人であろうと、ただただ念仏を唱えるようにと言っているのです。(岩波・日本思想大系『法然一遍』一六九-一七〇ページ)

手紙はまだまだ続き、なかに仏典からの漢文のままの引用もある。相手の質問に真正面から答えようとする真率にして爽やかな文章だ。

相手に専修念仏の真髄を説き明かすことが眼目であるのはいうまでもないが、同時に、そういう相手を得て、おのれの思想を反匍し深めていくことにまたとない喜びを感じている文章だ。阿弥陀仏の本願がとりわけ貧しく愚かで無智無戒な人びとの救済にあるという思いは、いうならば法然の体の隅々にまで行きわたっていて、そういう庶民のもとで、かれらとともに仏法を考え、かれらとともに両手を合わせ念仏を唱えることが、法然にとっては、そのまま仏道を生きることであった。法然はもう、比叡山や興福寺や平安の宮廷や鎌倉の幕府を相手にする必要はなかったし、黒谷に帰っていく必要もなかった。

死の直前に、弟子・源智の求めに応じて書いた「一枚起請文」は以下のごとくだ。短い全文を現代語訳で示す。

 中国や日本の多くの智者たちの論じる観念の念仏(仏を思い浮かべる念仏)でもなく、また、学問を通じて意味を理解した上で口にする念仏でもない。極楽に往生するためなら、南無阿弥陀仏と言うときに、必ず往生するぞと思って唱えるだけでよく、それ以外に必要なことはない。三つの心、四つの修行法といったものがあるにはあるが、それらはすべて、必ずや南無阿弥陀仏によって往生するぞと堅固に思うことのうちにふくまれる。それ以外に深く思い・めぐらしたりすると、釈迦・弥陀の二尊の憐みに外れ、本願の救いからもれてしまう。念仏を信じる人は、たとえ釈尊一代の法をくわしく学んだ人であっても、自分のことをなにも知らない愚か者だと考え、無智な尼入道の一人となって、智者らしいふるまいをすることなく、ひたすら念仏するのがよい。

文の流れがときにぎくしゃくするが、易行としての称名念仏を仏法の中心とする考えは、いささかもゆるがない。専修念仏の思想にたどりついた山修山学の三〇年も、人びとと交わりつつその思想を鍛え上げた布教の三七年も、死を前にした法然には、満ち足りた時間として想い起こされていたにちがいない。

法然の臨終のさまについては二つの点が注意を引く。一つは、門弟たちが五色の糸を仏の手にかけ、反対の端を法然に握らせようとしたところ、法然はわたしにはそんな儀式は必要がないといって糸を手に取らなかったこと、もう一つは慈円の『愚管抄』に記された、「往生なさるぞといって人びとが集まったけれども、極楽往生を証拠立てるような出来事(紫雲がたなびき、音楽が聞こえ、妙香が満ちるといったこと)はなかった」ということの二つだ。庶民の世界に生きることを根本の倫理とした法然にふさわしい最期だった。
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ハイデガーからアーレントヘ

『アーレント=ハイデガー往復書簡』より ⇒ ハイデガーの講義を聞いて、すっかり惚れ込んだハンナ・アーレント へのハイデガーからの書簡 フライブルグ大学

1 ハイデガーからアーレントヘ

 二五年二月一〇日

 親愛なフロイライン・アーレント!

 どうしても今晩のうちに出かけていって、あなたの心に語りかけずにはいられません。

 私たちのあいだでは、すべてが率直で、明白で、純粋でなくてはいけない。そうであってのみ、私たちは出会うのを許されたというそのことにふさわしくなれるのです。あなたが私の教え子になり、私があなたの教師になったことは、私たちに起きたできごとのきっかけにすぎません。

 私には、あなたを所有することはけっして許されますまい。しかしあなたは今後ずっと私のいのちの一部となるでしょう、そして私のいのちは、あなたをよりどころにして成長してゆくのです。

 私たちの存在をつうじて私たちがどんな別のありようになりうるのか、私たちにはけっしてわかりません。しかし、私たちがどのくらい破壊的・阻害的に作用してしまうかは、少し思慮を働かせればわかることです。

 あなたの若いいのちがどのような道をとるのかは、まだ見えていません。その道を私たちは柔順に受けいれましょう。そしてあなたにたいする私の忠実さは、ただひとえに、あなたが自分自身に忠実なままでいられるよう、力添えをすることでなくてはなりません。

 あなたの《心の動揺》が消えたということは、あなたが娘らしい純な本質のもっとも内なる核を見いだしたということです。そしてあなたはいつか理解し、感謝することでしょう--私にではありません--《面会時間》のときのあの訪問が決定的な一歩だったということに。あのときあなたは、敷かれた軌道から身をそむけて、男だけが耐えうる学問的研究のおそろしい孤独に足を踏み入れたのです--男ですら、その重荷と、生産的たろうとする死に物狂いの努力をもちこたえてはじめて耐えうる孤独に。

 《喜びなさい!》--これがあなたへの私の挨拶となりました。

 そしてみずから喜ぶときにのみ、あなたは喜びを与えうる女性、そしてまわりのすべてが歓喜、安心、やすらぎ、そして生への尊敬と感謝となるような女性になるでしょう。

 そのようであってはじめてあなたは、大学が与えうるもの、与えるべきものを、わがものにするための正しい用意ができたことになります。そこにこそ真正さと真剣さがあるのであって、あなたの同性の多くに見られる強迫じみた猛勉強にではありません--そんな熱心さはいつかは崩れ去って、彼女たちを途方にくれさせ、みずからに不誠実たらしめるのです。

 そして独特の精神労働に取り組もうとするのであればなおのこと、女にもっとも固有な本質を根本的に保持することが決定的に重要です。

 出会うのを許されたということを、私たちは贈りものとして胸の奥ふかくに大事に守ってゆきましょう。清らかに息づいているその贈りものを自己欺瞞などによって醜く歪めたくないものです。つまり、魂の友情などといった幻想は抱かないことにしましょう、そんなものは人間のあいだには成り立ちえないものなのですから。

 私はあなたの純真な瞳、あなたの愛らしい姿かたちを、あなたの曇りない信頼、あなたの乙女らしい本質の善良さと純粋さから、切り離すことができないし、切り離したくもありません。

 だが、そうすると、私たちの友情という贈りものは、私たちがそれを守ることで成長したいと思うような一つの義務となります。そしてそれはただちに私に謝罪をうながします。散歩の途中で私が一瞬われを忘れてしまったことを、赦してください。

 でも、どうかあなたへの感謝を言わせてほしい、そしてあなたの曇りない額にくちづけするとき、願わくばあなたの本質の純粋さを、私の仕事に取りこむことが許されますように。

 喜びなさい、よきぴとよ!

 あなたのM・H

2 ハイデガーからアーレントヘ

 二五年二月二一日

 愛するハンナ!

 なぜ愛は、ほかの人間的可能性のすべてを越えるほど豊かで、当事者たちにとって甘美な重荷になるのだろう? それはぼくたちが自分を、自分の愛するものへ、それでいて自分でありつづけるものへと変えてゆくからだ。そのときぼくたちは愛する相手に感謝したくなり、その人を満足させるにはどんなことをしても足りないと思うのだ。

 おたがいに感謝するだけではすまない。愛は感謝を自分自身への忠実さに、相手への無条件の信頼に変える。こうして愛は、愛にもっとも固有の秘密をたえず増大させてゆく。

 近さはここでは、相手から最大限遠くにいることだ--その遠さは、視界をけっしてぼやけさせるものではない--むしろ《きみ Du》を、一つの啓示のように透明に--しかしとらえがたく--〈ただそこにいること Nur-Da〉にしてしまうのだ。他者が突如われわれの人生に閑入してきて眼前にいるということは、どんな感情をもってしても克服できることがらではない。人間の運命は、人間の運命にみずからを委ねるのであって、純粋な愛のなすべき務めは、この〈みずからを委ねる Sichgenben〉ということを、最初の日とおなじように活きいきと保ちつづけることなのだ。

 もしきみが一三歳でぼくに出会ったとしたら、もしそれがいまから一〇年後であったとしたら--そういう謎解きはやってみてもしかたない。そうではない、いま出会ったのだ、きみの人生が静かに女のそれになろうとしているときに、きみが予感、憧憬、開花、笑い声を--きみの少女時代を--失うことなく、女らしくくつねにひたすら与える Immer-nur-Schenken〉というありようの善良さ、信頼、美しさの源泉として、きみの人生にともに持ちこむべきときに。

 この瞬間にたいして、ぼくになにができる?

 つねに心をくばること。きみのなかでなにか一つでも壊れることがないように。きみの過去が困難や苦痛として抱えているものが純化してゆくように。異物だの他人の口出しだのが、入りこんだりしないように。

 きみの環境で女性的本質のもつ可能性は、《女子学生》たちが思っているのとはまったくちがうし、彼女らが予想しているよりはるかに有利なのだ。きみにぶつかって、空虚な批判は砕け散り、僣越な否定は退散するがいい。

 男の問いは、ひたすらな献身に接して畏敬を学び知らなくてはならない。一面的な仕事への没入は、女性的存在の根源的な全体性に触れて、世界のひろがりを学び知らなくてはならない。

 好奇心、うわさ話、学校での見栄の張り合いは、根絶できまい。高貴さを自由な精神生活に与えることは、女だけが、そのありようにおいてよく果たしうるものだろう。

 新しい学期がはじまるころは、もう五月だ。ライラックが古びた塀越しに咲きこぼれ、人目をしのぶ庭々に、果樹が枝もたわわに花をつけるだろうね--そしてきみは薄い夏服姿で古い門を通ってゆく。夏の夕暮れがきみの部屋へ入ってきて、きみの若い魂の鐘を鳴らし、ぼくたちのいのちのひそかな明るさを告げ知らせるだろう。やがて草花が目ざめ、きみのかわいい手がそれを摘む。森の土には苔が。きみのしあわせな夢がそこを歩むだろう。

 そして、ぼくはまもなく孤独な山歩きで、山に挨拶するだろう。その岩だらけの静寂にきみもいつか相まみえ、その稜線に、きみの本質の抑えられていたものがこだまして、ふたたびきみへもどってくるだろう。そしてぼくは山の湖を訪れて、断崖のもっとも険しい急斜面から、しずかな湖底を見おろすだろう。

 きみのM
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四五年を経たのちもかつてと変わらずに ハンナ


『アーレント=ハイデガー往復書簡』より 116 アーレントがハイデガーに捧げる ⇒『存在と時間』中山元訳の解説でこの資料を知ったので、豊田市図書館で借りてきました。出逢って、45年。80歳と63歳です。素晴らしい! 

あなたのために 一九六九年九月二六日に寄せて

四五年を経たのちもかつてと変わらずに ハンナ

みなさん! マルティン・ハイデガーは今日八〇歳となり、そして八〇回目のこの誕生日とともに、教師としての公的な働きの五〇年記念日をめでたく迎えます。プラトンはかつて申しました。

 「なぜなら、始まりというものはやはり人間のあいだにいますひとりの神であって、すべてを救ってくださるものだからである」

ですから私は、話をこの公的活動の開始から、つまりメスキルヒで彼の生まれた一八八九年という年ではなく、フライブルク大学で教師としてドイツのアカデミズムの公的な場に登場した一九一九年という年から、始めさせていただきたいと思います。というのも、ハイデガーの名声は一九二七年の『存在と時間』の出版よりももっと前からのものだからです。この著書の稀有な成功は--それがただちに巻き起こしたたいへんな評判だけでなく、とりわけ、今世紀の出版物にはほとんど類のないほど長く持続しているその影響力は--、もしそれ以前にいわゆる教師としての成功がなかったとしたら、ありえたかどうか疑問です。いずれにしても当時学生だった者たちの意見では、本の成功はひとえに教師としての成功を確証するものだったのです。

この名声にはどこか奇妙なところがありました。二〇年代初期のカフカ、あるいはその一〇年まえのパリでのブラックやピカソの評判とくらべても、おそらくもっと不思議だったといえるかもしれません。たしかに彼らもまた、ふつう公共性という語でくくられている世間一般の人びとには知られてなく、それでいて並はずれた影響力をふるいました。しかしハイデガーの場合には、名声の土台たりうる作品といったものはまだ一つとしてなかったのです。手から手へ渡っていった講義筆記録を別とすれば、著作はなにもなかった。しかも講義は一般によく知られたテクストを扱っていて、聴いた者が語り伝えうるような教義をふくんでいたわけではありません。あったのは一つの名前ばかり、しかしその名前が、あたかも世間の目から隠された王の噂のように、ドイツ中を駆けめぐったのです。これは、たとえばゲオルゲ・クライスのように一人の《師》を中心に寄りつどい彼に信従する《クライス》とは、まったくちがいます。こういう集団は、世間にはよく知られていながらも、秘密の匂いのするオーラによって世間から隔てられていて、そこに属する仲間だけがその秘密を知っていることになっている。しかしハイデガーの場合には、秘密も会員組織もありませんでした。噂を聞いた者たちはみんな学生でしたから、たがいに顔見知りで、ときには友情も生まれたし、のちにはそこここに派閥が形成されもしたでしょうが、ハイデガー・クライスとか秘儀とかいったものは、けっして存在しなかったのです。

では、だれの耳に噂は達したのか、そしてどんな噂だったのでしょうか。第一次世界大戦後の当時、ドイツの大学には叛乱こそ起きていなかったものの、大学の教育・学習体制への不満はたいへんひろまっていました。それもたんなる職業教育以上のことをおこなうすべての学部において、そして勉学に就職準備以上の意味を期していたすべての学生のあいだに。哲学はパンを得るための学ではなく、むしろ、飢えている者たちが断固学ぼうとした学であって、まさにそれゆえに彼らはじつに厳しい要求をもっていました。

彼らにとって、学びたいのは世聞知や人生知ではけっしてなかったし、あらゆる謎の解決策をもとめている者には、世界観だの世界観上の党派だのが選りどり見どりに提供されていて、それを選ぶにはなにも哲学を学ぶ必要はなかったのです。しかし、なにをもとめているのかとなると、彼らは自分でもわからなかった。大学が通常提供してくれたものといえば、さまざまな学派--新カント学派、新ヘーゲル学派、新プラトン学派、等々--あるいは旧態依然たる諸学科で、そこでは哲学は認識論、美学、倫理学、論理学などといった専門領域にきちんと分割され、それらの仲を調停して哲学を成り立たせるよりはむしろ、底なしの退屈さで駄目にしてしまっていたのです。どちらかといえばのんびりした、それなりにまったく堅実でもあるこのやり方にたいして、当時、ハイデガーの登場以前にも少数ながら反逆した人はいました。年代順にいえば、まず、フッサールと彼の「事象そのものへ」の呼びかけ、つまり「理論から離れ、書物から離れよ」、そして哲学を他の大学諸学科と並び立ちうる厳密な学として確立せよ、という呼びかけです。これはもちろんじつにナイーヴに、まったく反逆の意図なしに言われたのでしたが、まずはシェーラーが、少し遅れてハイデガーが拠りどころにできたことではありました。つぎにはハイデルベルクに、哲学とは別の伝統の出身で意識的な反逆を試みたカール・ヤスパースがいました。みなさんもご存知のとおり、彼は長いことハイデガーと親交がありましたが、それは講壇が哲学について喋々するだけであったさなか、ハイデガーの企図にある反逆的なところが、根源的に哲学的なものとしてヤスパースの心に訴えたからにほかなりません。

これら少数の人びとに共通な点は--ハイデガーのことばを借りて言えば--彼らが「学識の対象と、思索される事象」とを区別できたこと、そして学識の対象は彼らにとってどうでもいいものだったことです。噂は当時、伝統の崩壊とすでにはじまっていた(暗い時代)について、多少ともはっきり自覚していた者たちのところにとどきました。

彼らはこの自覚のゆえに、まさに哲学ということがらにおいては学識など無駄なお遊びだとみなしていたのです。その彼らが大学でほかならぬこの学科の訓練をうける気になったのは、ひとえに、彼らにとっては(思索される事象)が--今日のハイデガーなら《思索という事象》と言うでしょうが--重要だったからなのです。噂は彼らをフライブルクのあの私講師のもとへ、少しのちにはマールブルクヘ誘い寄せました。その噂はこう言っていました。フッサールが宣言した事象へ現に到達している者がいる、その男は、それが大学人のではなく思索する人間の関心事であること、しかも今日や昨日にはじまったものではなく大昔からの関心事であることを知っている、そして彼が過去を新たに発見しているのは、まさに伝統の糸が絶たれているからこそなのだ、と。手法として決定的な役割を果たしたのは、たとえばプラトンを扱うとき、プラトンについて語り彼のイデア論を説明するのではながらだことです。そうではなく、一つの対話篇を一学期まるごとかけて一歩一歩読みすすめながら、問いかけてゆく、そしてついには、そこにあるのはもはや数千年まえの教えではなく、きわめて現在的な問題提起だけになるのです。今日ではこれはおそらくごくおなじみの方法のように聞こえるでしどっ、多くの人がいまではこういうやり方をしていますから。でも、ハイデガー以前にそれをした人はいなかったのです。噂はそれをじつに単純にこう言っていました。思索がふたたび生命を得た。死んだと思われていた過去の教養財がよみがえって語りはじめた。それらの財宝はわれわれが不信感をもって推測していたのとはまるで別のことを述べているのがわかってきた。一人の教師がいる、この人からなら、考えるということを学べるかもしれない、と。

ですから世間の目から隠された王というのは、思索の国の王でした。この王国は完全にこの世のものながら世に埋もれていて、そもそも存在するのかどうかも正確には知りようがない、しかし、その住民は人が思っているより多いものです。そうでなければ、ハイデガー的な思索と、思索しつつ読むという読み方が、どうしてあのように比類のない、しばしば地下に隠れたままの影響力を発揮しえたのか、説明がつかないでしょう。それは弟子たちの範囲をはるかに越え、一般に哲学という名で理解されているものを越えて、ひろく及んでいたのです。
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豊田市図書館の27冊

121.02『日本精神史 上』

121.02『日本精神史 下』

391.6『インテリジェンスの最強テキスト』

509.04『インダストリー4.0』決定版 第4次産業革命の全貌

493.7『14歳からの精神医学』心の病気ってなんだろう

908.8『書き出し「世界文学全集」

220『東アジアの歴史』世界の教科書シリーズ 韓国高等学校歴史教科書

302.33『スコットランドを知るための65章』

019.9『本の雑誌 増刊 本屋大賞2015』

336.3『マインドフル・リーダーシップ』“今”に集中するほど、成果が最大化される

341『私たちと公共経済』

493.23『図解でわかる心臓病』心臓を守る おいしいレシピつき

801.03『よくわかる社会言語学』

588.32『Bekery book vol.9』ベーカリーとパン職人のための自分を成長させる方法

596.04『覚悟のすき焼き』食からみる13の人生

611.61『亡国のの農協改革』畢生の問題作 日本の食糧安保の解体を許すな

007.5『「超」集中法』成功するのは2割を制する人

914.6『明日という日があるじゃないか』

114.2『輪廻転生』〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語

673.95ナ『介護ビジネスの罠』

331.04『宇沢弘文のメッセージ』

791.2『日本人のこころの言葉 千利休』

140『「ブレない自分」をつくるコツ』一瞬で人生を激変させる方法

289.1『専横のカリスマ 渡邉恒雄』

767.8『プリンス論』

024.8『ブックカフェを始めよう!』

281.04『万骨伝』饅頭本で読むあの人この人
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岡崎市図書館の10冊

豊田市図書館の2冊

 134.96『アーレント=ハイデガー往復書簡』1925-1975

 159『人生の9割は出逢いで決まる』

岡崎市図書館の10冊

 519.8『ナチスと自然保護』景観美・アウトバーン・森林と狩猟

 150『モラル・トライブズ 下』共存の道徳哲学へ

 289.3『エニグマ アラン・チューニング伝 下』

 140『実験・実習で学ぶ心理学の基礎』認定心理士資格準拠

 469『生きる理由』最先端科学が明かす君の命の軌跡

 380.1『日本人とはなにか』

 311.8『精読 アレント『全体主義の起源』』

 147『「君が代」』その音霊は、潜在意識を高次元へと導く《光の種子》となる! 宇宙深奥からの秘密の周波数

 748『沖縄のことを教えてください』

 391.2『海戦の歴史大図鑑』
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日本-ギリシャ-レバノンをつなぐ

タブレットは粘土板

 タブレットは「粘土板」に戻りました。そういう意味では、ヒッタイトとかフェニキアを感じます。つまり、印刷物。

Fireの持つ意味

 キンドルというよりも、Fireです。FireにSa-を付けるとサファイアです。因縁がありますね。アマゾンがFireと付けた、本当の意味は何か。わたしならば、4つの要素を説明でき、循環を意味するけど。

アーレントからハイデガーへの手紙

 アーレントからハイデガーへの手紙は難しいことを言おうとしている。それに対して、ハイデガーの方は愛情に満ちた、優しい表現になっている。私の場合と同様な、非対称性を感じます。

第10章で難航

 第10章もまだまだかぶっています。その分、拡がります。その為には、「存在と時間」、特に存在の部分の言葉を合わせていきましょう。

「笑顔=0」は間違い

 マクドナルドは「笑顔=0」という概念が間違っています。笑顔は高いものです。200円ぐらいします。スタバでは、コーヒーは50円で、笑顔が200円で、後は設備費です。

日本-ギリシャ-レバノンをつなぐ

 日本はシリアの難民援助で、レバノンにお金を出すみたいです。難民を一番受け入れているのはレバノンです。それは表に出て来ていない。シリアとレベノンの位置関係はスペインとポルトガルの関係に似ている。

 レバノンはキリスト教徒とムスリムが半々の世界です。そこにシリアから移民がなだれ込んでくると、とうぜん、問題が起こるでしょう。それを吸収してしまう、力強さを持つためにはどうしたらいいのか。

 やはり、トルコに見習って、国を豊かにすることです。トルコの食事文化は魅力があります。ベイルートは中東のパリとして、それに値する。爆撃ではなく、文化でもって、変えていく。それをソホクリスから伝えてほしい。

 日本とギリシャとレバノン。中々、いい組み合わせだと思いますよ。

デジタルライブラリ

 デジタルライブラリは、オレンジタブレットの中に作りましょう。

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