未唯への手紙
未唯への手紙
未唯配置のオーラル
未唯配置 M3「未唯空間」
全てを知るために集めてきて、整理し、配置したのが未唯空間。未唯空間の体系はすべてを知るために割り当てられたもの。これは考え抜くことから出て来たものです。
未唯空間は未来を拓く。未来学者としての存在。このやり方そのものの説明。トポロジーとの関係、数学的な要素はこの中には入っていないけど、それは大きいです。それは数学編でやればいい。あくまでも横断的な考え、配置からの考えに徹する。
未唯配置 M4「システム設計」
M4のシステム設計。あまりにも、物理層です。仕事そのものです。ずっとやってきたこと。40年間。行動に属する部分です。これはパートナーとの関係でも言えることです。全体を考えて、先を見ていくこと、それを伝えること。
仕事は皆の要望を叶えるもの。と言っても、個人的なわがままではない。あくまでも、社会をどうしていくかという要望です。そして、具体的なシステムの構成とシステム設計をやってきました。カタチにするための道具です。武器です。
未唯配置 M5「コミュニティ」
コミュニティになっているけど、下から集める部分と上に向かう部分、上からくる部分を下に展開させる。その中間に位置するものです。今まで座標軸として、上から一歩的でやってきたものを中間の存在でやっていく。組織というものを配置の仕方に変えていく時に、必要なものです。
中間のモノで展開していく。だから、地域でなくてもいい。そこから展開していくものをコミュニティと位置づける。中間に蓄えるものとしての知識と意識。その具体的なものとしてのライブラリ。この所はちょっと、偏っています。ライブラリを中間なものとして、上に持って行くものとして、置き換えます。
知識と意識の中にライブラリと意思決定を入れる。それを上に持って行く。政治・経済も社会のなかに一部です。中身の構造として、全体をどういうカタチにしていくのか。
未唯配置 M6「国民国家」
歴史編も同様だが、今まで、国民国家を作ってきた。その中に資本主義と民主主義が入っている。それから、どっちへ持って行くのか。
合意形成というのは曖昧なカタチになっています。小さいのか大きいのか。だけど、自由と平等を求めるために、皆の意見をどう集めるのかの機構は大きいです。合意形成のあり方を変えるだけで、政治形態は変わります。民主主義そのもののあり方が変わります。
未唯配置 M7「持続可能性」
持続可能な循環は、配置というよりも、テーマそのものです。本当などけた方がいいです。とりあえず、考えるヒントを与えるために、とりあえず、置いておきます。
持続可能な循環はかなり、具体的にしないといけない。学校と会社と家庭という、今考えられる基本的な単位をどう変えていくのか。だから、これは配置ではなく、一つの例です。この例から世の中の動きを見ていきます。割と近未来に解決できることです。
若者をどう生かすかは、この循環にかかっています。特に、会社という組織をどう変えていくかです。
会社はその中に、持続可能な循環があります。その中でどう生かしていくのか。働いていることが本当に意味があるのか? 長男の夜勤が意味があるのか? 勤務形態も一緒です。そういうものが関係します。若者の行動力がここにかかってきます。
循環ということは、どこから変えるかによって、大きく様相が変わります。ここまで考えるとすると、配置の例として、未唯空間が在るだけだから、何の要素が足りないかを示すぐらいでいいのかもしれない。別の側面からもっと大きく、輪郭を考えましょう。
未唯配置 M8「環境社会」
最後だけど、これも環境社会になっています。答ありきです。どんな姿になるのかを描いています。それぞれの答です。
グローバル化の結果がどうなるのか、ローカル化の結果がどうなるのか。その時に地域インフラに皆がどう絡んでくるのか。そして、国を超えた世界として、環境社会をどう持ってくるのか。
その一つとして、クルマ社会がある。これだけでも大変です。VWを見ても、トヨタにとっても、本来はクルマ社会をメーカーが変えないといけないけど。
物理層と論理層のアンバランス
この配置のアンバランス。頭の中にどう整理すればいいのか。物理層だけでないのは確かです。論理層がそれぞれの人間にどのようにして影響を与えるかがポイントになる。
パートナーからのメール
今、精神が不安定なのは、パートナーのおかげです。この所、接点が多かった。それが急にいなくなった。居なくなったことに、2週間経って、やっと、気づいた。
8時になったけど、パートナーからのメールはありません。諦めましょう。
同級会で夢を語れない
50年目の同級会の時に、私の夢は「全てを知りたい」という言葉を発することが出来なかった。彼らには何も通じない。
吉野家の牛鍋
退院後の水曜日の昼を決めました。病院に来る前に、吉野家で「ご飯軽めの並・卵」を食べたら、牛すき鍋の割引券をもらった。だから、吉野家の牛鍋です。始まっています。
全てを知るために集めてきて、整理し、配置したのが未唯空間。未唯空間の体系はすべてを知るために割り当てられたもの。これは考え抜くことから出て来たものです。
未唯空間は未来を拓く。未来学者としての存在。このやり方そのものの説明。トポロジーとの関係、数学的な要素はこの中には入っていないけど、それは大きいです。それは数学編でやればいい。あくまでも横断的な考え、配置からの考えに徹する。
未唯配置 M4「システム設計」
M4のシステム設計。あまりにも、物理層です。仕事そのものです。ずっとやってきたこと。40年間。行動に属する部分です。これはパートナーとの関係でも言えることです。全体を考えて、先を見ていくこと、それを伝えること。
仕事は皆の要望を叶えるもの。と言っても、個人的なわがままではない。あくまでも、社会をどうしていくかという要望です。そして、具体的なシステムの構成とシステム設計をやってきました。カタチにするための道具です。武器です。
未唯配置 M5「コミュニティ」
コミュニティになっているけど、下から集める部分と上に向かう部分、上からくる部分を下に展開させる。その中間に位置するものです。今まで座標軸として、上から一歩的でやってきたものを中間の存在でやっていく。組織というものを配置の仕方に変えていく時に、必要なものです。
中間のモノで展開していく。だから、地域でなくてもいい。そこから展開していくものをコミュニティと位置づける。中間に蓄えるものとしての知識と意識。その具体的なものとしてのライブラリ。この所はちょっと、偏っています。ライブラリを中間なものとして、上に持って行くものとして、置き換えます。
知識と意識の中にライブラリと意思決定を入れる。それを上に持って行く。政治・経済も社会のなかに一部です。中身の構造として、全体をどういうカタチにしていくのか。
未唯配置 M6「国民国家」
歴史編も同様だが、今まで、国民国家を作ってきた。その中に資本主義と民主主義が入っている。それから、どっちへ持って行くのか。
合意形成というのは曖昧なカタチになっています。小さいのか大きいのか。だけど、自由と平等を求めるために、皆の意見をどう集めるのかの機構は大きいです。合意形成のあり方を変えるだけで、政治形態は変わります。民主主義そのもののあり方が変わります。
未唯配置 M7「持続可能性」
持続可能な循環は、配置というよりも、テーマそのものです。本当などけた方がいいです。とりあえず、考えるヒントを与えるために、とりあえず、置いておきます。
持続可能な循環はかなり、具体的にしないといけない。学校と会社と家庭という、今考えられる基本的な単位をどう変えていくのか。だから、これは配置ではなく、一つの例です。この例から世の中の動きを見ていきます。割と近未来に解決できることです。
若者をどう生かすかは、この循環にかかっています。特に、会社という組織をどう変えていくかです。
会社はその中に、持続可能な循環があります。その中でどう生かしていくのか。働いていることが本当に意味があるのか? 長男の夜勤が意味があるのか? 勤務形態も一緒です。そういうものが関係します。若者の行動力がここにかかってきます。
循環ということは、どこから変えるかによって、大きく様相が変わります。ここまで考えるとすると、配置の例として、未唯空間が在るだけだから、何の要素が足りないかを示すぐらいでいいのかもしれない。別の側面からもっと大きく、輪郭を考えましょう。
未唯配置 M8「環境社会」
最後だけど、これも環境社会になっています。答ありきです。どんな姿になるのかを描いています。それぞれの答です。
グローバル化の結果がどうなるのか、ローカル化の結果がどうなるのか。その時に地域インフラに皆がどう絡んでくるのか。そして、国を超えた世界として、環境社会をどう持ってくるのか。
その一つとして、クルマ社会がある。これだけでも大変です。VWを見ても、トヨタにとっても、本来はクルマ社会をメーカーが変えないといけないけど。
物理層と論理層のアンバランス
この配置のアンバランス。頭の中にどう整理すればいいのか。物理層だけでないのは確かです。論理層がそれぞれの人間にどのようにして影響を与えるかがポイントになる。
パートナーからのメール
今、精神が不安定なのは、パートナーのおかげです。この所、接点が多かった。それが急にいなくなった。居なくなったことに、2週間経って、やっと、気づいた。
8時になったけど、パートナーからのメールはありません。諦めましょう。
同級会で夢を語れない
50年目の同級会の時に、私の夢は「全てを知りたい」という言葉を発することが出来なかった。彼らには何も通じない。
吉野家の牛鍋
退院後の水曜日の昼を決めました。病院に来る前に、吉野家で「ご飯軽めの並・卵」を食べたら、牛すき鍋の割引券をもらった。だから、吉野家の牛鍋です。始まっています。
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分断の信号弾となった三十八度線分割占領
『韓国大統領実録』より 解放と共にはじまった米軍政と分断 ⇒ 日本分断を避けるために適当に決められた38度線
朝鮮人は国際社会が驚くほどの速さで国家の形態を整えていったが、実際に朝鮮半島を接収したアメリカとソ連はそのようなことに関心を示さなかった。彼らはただ、朝鮮半島を妨害されることなく分割占領することだけに力を注いでいた。
朝鮮半島をアメリカとソ連が分割占領するということは、朝鮮が分断されることを意味している。本来ならばドイツに対してそうしたように、分割しなければならないのは朝鮮ではなく敗戦国である日本であるべきであった。ところがあろうことかアメリカとソ連は朝鮮半島を分割してしまったのである。
朝鮮半島の分断は、アメリカの行き当たりばったりの対応が招いた失策の結果だった。第二次世界大戦当時の朝鮮の独立に関する会議の記録を追っていけばこのことは明らかになる。
当時のアメリカの大統領はフランクリン・ルーズべルトたった。ルーズベルトは、日本が敗北すれば、当分の間朝鮮を信託統治下に置き、その後独立させる計画だった。ソ連を中心として膨張を続ける社会主義勢力を牽制するためである。朝鮮がすぐに独立すれば、社会主義国家となる可能性が高いと判断したのだ。
この構想は、一九四三年十一月二十二日から二十六日にかけて開かれたカイロ会談で具体化した。ルーズペルト、イギリスのウィンストン・チャーチル、中国の蒋介石はこの会談で、朝鮮を解放し、適当な時期に独立させる、と決議した。
しかしルーズペルトが言った「適当な時期」とは、解放のなんと四十年後だったのである。つまり朝鮮の解放とは、アメリカの占領と支配を意味していたのだ。
ルーズベルトはその年の十一月二十八日にテヘランでチャーチル、スターリンと会い、朝鮮人が独立するには四十年ほどの修業期間が必要だ、と語り、スターリンもこれに同意した。もしかしたらこの席でスターリンとルーズベルトは朝鮮半島を分割統治することに暗黙の同意をしたのかもしれない。もちろん分割統治についての公式の論議があったわけではない。この時点でも朝鮮に対する信託統治が明文化されることはなかった。
ルーズべルトは信託統治についての自分の考えを貫徹するために、一九四五年二月八日、当時ソ連領であった黒海沿岸のヤルタ(クリミア半島の保養地)のリヴァディア宮殿で、再びチャーチル、スターリンと会談をした。この会談の主な目的はソ連を連合軍に参戦させることであり、アメリカとイギリスの提議をスターリンは受け入れた。
ヤルタでルーズベルトはスターリンに朝鮮を信託統治するという提案をした。このときルーズベルトは信託統治の期間を二十~三十年と提案し、スターリンは信託統治の期間をできるだけ短くしたほうがいい、とこたえた。信託統治についてのふたりの思惑は正反対だった。スターリンは、朝鮮がすぐに独立したならば社会主義を選択する可能性が高いと判断して信託統治の期間は短いほうがよいと提案し、ルーズベルトもまた同じ理由で信託統治の期間を長く取る必要があると訴えた。しかしルーズべルトが朝鮮について語るのはこれが最後となった。彼はその年の四月十二日に生涯を終えるのである。
アメリカの大統領は副大統領であったトルーマンが引き継いだ。トルーマンはその年の七月二十二日、べルリン郊外のポツダムでチャーチル、スターリンと会談した。ここで三人は日本に対する無条件降伏の要求と、ソ連の参戦問題を討議した。その過程で朝鮮を適当な時期に独立させるという内容も再確認された。
ヤルタ会談でスターリンは百八十日以内に参戦すると約束し、その代わりに東アジアでいくつかの利益を保証されていた。ポツダム会談の時点はまだ約束の日限になっていなかったので、ソ連は参戦していない。スターリンはヤルタ会談から正確に百八十日が経過した八月八日正午を期して、日本に宣戦布告をした。
このとき日本は敗北直前の状況にあった。八月六日に広島、九日に長崎に原子爆弾が投下された。つまりソ連は、すでに準備されていたご馳走を食べるだけだったのである。
ソ連軍は八月九日、百五十万の兵力で日本軍を攻撃した。日本軍の前線は一瞬にして崩壊し、翌十日にはアメリカから、日本の降伏が決定したという通告を受けた。
八月十五日に日本が公式に降伏を宣言するまで、ソ連軍は日本軍と戦った。ソ連軍が戦ったのはわずか六日であった。国際社会では、ソ連軍は終わった戦争に参戦した、という見方が支配的だった。それでもソ連軍の死者は千五百人、負傷者は三千二百人で、短期間の戦闘にしては少なくない被害であった。
ソ連軍が破竹の勢いで朝鮮半島に進軍していた八月十四日、ソ連はアメリカから、朝鮮半島分割占領案の通告を受けた。三十八度線で分割するという案だ。アメリカはソ連が拒否するのではないかと戦々恐々としていたが、ソ連は意外にもあっさりと受諾した。アメリカは三十八度線の南に首都があることに満足し、ソ連は自分たちのほうがより広い地域を占領するという事実に満足したのだ。
アメリカがどうやって三十八度線を選択したのか、正確なことはわかっていない。ポツダム会談で決められた、という説もあり、これを担当したふたりの大佐がわずか三十分で決めた、という話もある。確かなことは、ヤルタ会談の時点でルーズベルトとスターリンは分割占領についての構想を明らかにしており、これが分断につながったという事実だ。
アメリカは朝鮮半島をソ連と分割占領した時点でも、朝鮮が分断されるとは考えてもいなかった、と伝えられている。つまり意図的に分断したのではなく、状況が分断を生み出したというわけだ。この時点でアメリカは朝鮮についてはまったく無知な状態であり、朝鮮のことなど眼中になかった。アメリカの関心は日本に集中していたのである。
アメリカは朝鮮の分断など気にもしていなかった。ただソ連が満州と朝鮮半島を占領し、極東の覇権を掌握するのではないか、と恐れていた。アメリカが朝鮮を分割し、南半部に進駐した目的はソ連を牽制するためであり、それ以外の意味はなかった。
アメリカが朝鮮半島を分断して北側をソ連に与えたのは、日本の分割を防ぐためだった。アメリカは内心、ソ連が日本をドイツのように分割統治しようと言い出すのではないかと恐れていた。そのため朝鮮半島を分割してソ連の口をふさごうとしたのだ。この過程でアメリカが朝鮮の地政学的な重要性や政治的、軍事的意味などを考慮した形跡はない。その意味で朝鮮半島は、アメリカが日本を占領するためにソ連に差し出したギャランティだったのである。
朝鮮人は国際社会が驚くほどの速さで国家の形態を整えていったが、実際に朝鮮半島を接収したアメリカとソ連はそのようなことに関心を示さなかった。彼らはただ、朝鮮半島を妨害されることなく分割占領することだけに力を注いでいた。
朝鮮半島をアメリカとソ連が分割占領するということは、朝鮮が分断されることを意味している。本来ならばドイツに対してそうしたように、分割しなければならないのは朝鮮ではなく敗戦国である日本であるべきであった。ところがあろうことかアメリカとソ連は朝鮮半島を分割してしまったのである。
朝鮮半島の分断は、アメリカの行き当たりばったりの対応が招いた失策の結果だった。第二次世界大戦当時の朝鮮の独立に関する会議の記録を追っていけばこのことは明らかになる。
当時のアメリカの大統領はフランクリン・ルーズべルトたった。ルーズベルトは、日本が敗北すれば、当分の間朝鮮を信託統治下に置き、その後独立させる計画だった。ソ連を中心として膨張を続ける社会主義勢力を牽制するためである。朝鮮がすぐに独立すれば、社会主義国家となる可能性が高いと判断したのだ。
この構想は、一九四三年十一月二十二日から二十六日にかけて開かれたカイロ会談で具体化した。ルーズペルト、イギリスのウィンストン・チャーチル、中国の蒋介石はこの会談で、朝鮮を解放し、適当な時期に独立させる、と決議した。
しかしルーズペルトが言った「適当な時期」とは、解放のなんと四十年後だったのである。つまり朝鮮の解放とは、アメリカの占領と支配を意味していたのだ。
ルーズベルトはその年の十一月二十八日にテヘランでチャーチル、スターリンと会い、朝鮮人が独立するには四十年ほどの修業期間が必要だ、と語り、スターリンもこれに同意した。もしかしたらこの席でスターリンとルーズベルトは朝鮮半島を分割統治することに暗黙の同意をしたのかもしれない。もちろん分割統治についての公式の論議があったわけではない。この時点でも朝鮮に対する信託統治が明文化されることはなかった。
ルーズべルトは信託統治についての自分の考えを貫徹するために、一九四五年二月八日、当時ソ連領であった黒海沿岸のヤルタ(クリミア半島の保養地)のリヴァディア宮殿で、再びチャーチル、スターリンと会談をした。この会談の主な目的はソ連を連合軍に参戦させることであり、アメリカとイギリスの提議をスターリンは受け入れた。
ヤルタでルーズベルトはスターリンに朝鮮を信託統治するという提案をした。このときルーズベルトは信託統治の期間を二十~三十年と提案し、スターリンは信託統治の期間をできるだけ短くしたほうがいい、とこたえた。信託統治についてのふたりの思惑は正反対だった。スターリンは、朝鮮がすぐに独立したならば社会主義を選択する可能性が高いと判断して信託統治の期間は短いほうがよいと提案し、ルーズベルトもまた同じ理由で信託統治の期間を長く取る必要があると訴えた。しかしルーズべルトが朝鮮について語るのはこれが最後となった。彼はその年の四月十二日に生涯を終えるのである。
アメリカの大統領は副大統領であったトルーマンが引き継いだ。トルーマンはその年の七月二十二日、べルリン郊外のポツダムでチャーチル、スターリンと会談した。ここで三人は日本に対する無条件降伏の要求と、ソ連の参戦問題を討議した。その過程で朝鮮を適当な時期に独立させるという内容も再確認された。
ヤルタ会談でスターリンは百八十日以内に参戦すると約束し、その代わりに東アジアでいくつかの利益を保証されていた。ポツダム会談の時点はまだ約束の日限になっていなかったので、ソ連は参戦していない。スターリンはヤルタ会談から正確に百八十日が経過した八月八日正午を期して、日本に宣戦布告をした。
このとき日本は敗北直前の状況にあった。八月六日に広島、九日に長崎に原子爆弾が投下された。つまりソ連は、すでに準備されていたご馳走を食べるだけだったのである。
ソ連軍は八月九日、百五十万の兵力で日本軍を攻撃した。日本軍の前線は一瞬にして崩壊し、翌十日にはアメリカから、日本の降伏が決定したという通告を受けた。
八月十五日に日本が公式に降伏を宣言するまで、ソ連軍は日本軍と戦った。ソ連軍が戦ったのはわずか六日であった。国際社会では、ソ連軍は終わった戦争に参戦した、という見方が支配的だった。それでもソ連軍の死者は千五百人、負傷者は三千二百人で、短期間の戦闘にしては少なくない被害であった。
ソ連軍が破竹の勢いで朝鮮半島に進軍していた八月十四日、ソ連はアメリカから、朝鮮半島分割占領案の通告を受けた。三十八度線で分割するという案だ。アメリカはソ連が拒否するのではないかと戦々恐々としていたが、ソ連は意外にもあっさりと受諾した。アメリカは三十八度線の南に首都があることに満足し、ソ連は自分たちのほうがより広い地域を占領するという事実に満足したのだ。
アメリカがどうやって三十八度線を選択したのか、正確なことはわかっていない。ポツダム会談で決められた、という説もあり、これを担当したふたりの大佐がわずか三十分で決めた、という話もある。確かなことは、ヤルタ会談の時点でルーズベルトとスターリンは分割占領についての構想を明らかにしており、これが分断につながったという事実だ。
アメリカは朝鮮半島をソ連と分割占領した時点でも、朝鮮が分断されるとは考えてもいなかった、と伝えられている。つまり意図的に分断したのではなく、状況が分断を生み出したというわけだ。この時点でアメリカは朝鮮についてはまったく無知な状態であり、朝鮮のことなど眼中になかった。アメリカの関心は日本に集中していたのである。
アメリカは朝鮮の分断など気にもしていなかった。ただソ連が満州と朝鮮半島を占領し、極東の覇権を掌握するのではないか、と恐れていた。アメリカが朝鮮を分割し、南半部に進駐した目的はソ連を牽制するためであり、それ以外の意味はなかった。
アメリカが朝鮮半島を分断して北側をソ連に与えたのは、日本の分割を防ぐためだった。アメリカは内心、ソ連が日本をドイツのように分割統治しようと言い出すのではないかと恐れていた。そのため朝鮮半島を分割してソ連の口をふさごうとしたのだ。この過程でアメリカが朝鮮の地政学的な重要性や政治的、軍事的意味などを考慮した形跡はない。その意味で朝鮮半島は、アメリカが日本を占領するためにソ連に差し出したギャランティだったのである。
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李明博の成長中心の価値観と「持てる者」のための政策
『韓国大統領実録』より 経済至上主義を掲げた李明博のブルドーザー式国家経営
李明博は自分の政府を実用政府と規定したが、実用という表現が平凡で意味も曖昧だという理由で、「李明博政府」と実名を公式な政権の名前として使用した。李明博政権は国政の目標を「新発展体制の構築」と定め、具体的な方向として、国家と社会間の連携協力による発展、質的成長の追求、法治の確立と憲法の遵守、多元主義の価値観と個性、創意の尊重、人材の養成、グローバルスタンダードとナショナルスタンダードの調和、高信頼社会などを掲げた。これは成長中心の政治を遂行するという意味であり、成長を強調するあまり民主主義、人権、福祉、庶民、民意などについての概念が弱くなってしまった。
このような限界は、まずアメリカとの牛肉輸入交渉で表面化した。国民の健康に直結する牛肉輸入問題を、貿易収支の次元だけで考えたために、李明博は就任二ケ月にして激しい国民的抵抗に直面することになった。牛肉交渉の結果に憤怒した国民は、ロウソクを手に街に出て、連日デモを展開し、同時に支持率も一瞬のうちに二〇パーセント台に落ちた。
しかし李明博は国政運営の態度を変えようとはしなかった。二〇〇九年のはじめ、撤去に抵抗する庶民に対する警察の強硬鎮圧により、龍山惨事が起こり、今一度庶民に対する政策の限界を露呈した。彼は、言葉で親庶民政策を叫ぶだけで、法治と成長を強調するあまり、庶民の痛みと民意を理解することができないでいるという批判を受けた。
さらにその年の五月、前大統領の自殺に直面し、政治力の限界があらわになった。政治的に解決しうる問題を、法にだけ依存して過度に追求していったために、「政治的な他殺」を誘発した、という批判の声が上がったのである。李明博はこのような自分のイメージを改善するために、二〇〇九年十一月、五つの国政課題をもう一度提示し、「仕える政府」になると強調した。実践に当たっては零細商人への配慮を強調するなど、変化した姿を見せようと努力した。
しかし政策の基調は変わらなかった。労使の問題を解決しようとするときは、依然として労働者よりは経営者のほうに目を向けており、税金についても庶民よりは富裕層の立場を最初に考慮するという性向が露呈した。教育についても効率性ばかりを強調したため、学校の序列化や、庶民の教育費負担などには背を向ける結果となった。高校多様化プロジェクトを通して自律型私立高校を増やしていき、高校平準化政策を弱めたのがその代表的な事例だ。また英語没入教育を強調し、塾などの私的な教育熱を煽ったという批判も受けた。
対北朝鮮政策においても、成長中心の思考法が露出した。李明博政権の対北朝鮮政策は「非核開放三千構想」と要約することができる。北朝鮮が核を放棄し、開放すれば、対北朝鮮投資によって北朝鮮のひとり当たり国民所得を三千ドルに引き上げる、という内容だ。しかしこれは現実性がまったくない方策であるばかりか、北朝鮮の自尊心を傷つける結果をもたらす。北朝鮮は李明博の対北朝鮮政策に強く反発し、労働新聞で李明博を「逆徒」と表現したほどだった。さらに北朝鮮は海上ミサイルを発射し、開城工業団地から韓国の当局者を追放してしまった。
北朝鮮との関係は悪化の一途をたどった。二〇〇八年七月に起こった金剛山観光客銃撃死亡事件以後、冷えきっていた南北関係は、二〇一〇年三月の天安艦事件によって極度に緊張し、ついに北朝鮮の砲撃によって民間人が死亡する延坪島砲撃事件が発生した。李明博政府は、天安艦事件と延坪島砲撃に対して謝罪を要求して、食糧支援を中断し、対話を拒否した。
対米政策では、米韓同盟の強化を強調し、戦時作戦統制権の返還計画を延期するよう請願するなど、低姿勢一辺倒であった。このような対米外交の基調は、二〇一〇年十二月五日に妥結した米韓FTA再交渉にも悪影響をおよぼした。米韓同盟に執着するあまり、経済的な不利益をみずから招いてしまったのである。アメリカのマスコミさえ「オバマの勝利」と言うほどであった。再交渉の結果は、アメリカの要求をあまりにもたやすく受け入れてしまったとの批判を受けた。このため世論は急激に悪化し、通商交渉本部長であった金宗填が国会で謝罪しなければならないほどだった。
三百余の市民団体が「米韓FTA阻止汎国民本部」を結成して批准反対デモを展開するなど、反発の動きは活発だった。こうした世論を背景に野党も激しく批准に反対し、民主労働党の金先東議員は国会本会議場に催涙弾を投げつけて抵抗した。しかし批准案の処理は非公開で進められ、野党が不参加のまま百五十一人の議員の賛成でなんとか通過させることはできた。
福祉の部門でも弱者に対する配慮は大きく後退した。障碍児無償保育支援金、保育施設拡充費用、障碍者車両支援費、基礎支給生活者医療費支援金などが大幅に削減され、幼児予防接種予算、長期休暇中の欠食児童支援予算、老人療養施設拡充費用なども全額、あるいは一部削減が行なわれた。このような福祉縮小政策は、深刻化している両極化現象と、低出産、高齢化社会の問題点をより悪化させる結果を招いた。
言論政策でも、政府による統制一辺倒の旧態依然たる姿勢を見せた。任期が残っている報道機関の社長を交代させ、自分の側近を社長に任命するということまで強行した。また政府に批判的な番組は放送を短縮したり延期したりする事例が相次ぎ、担当プロデューサーを交代させるというようなこともあった。こうしたことは、公営放送であるKBSではもちろんのこと、MBC、YTN、そして放送通信委員会など、広い範囲で行なわれていった。また新聞社と放送局を同時に経営することを可能にする総合編成チャンネルを推進し、保守メディアの影響力を大きく拡大した。その結果、国際人権監視団体フリーダムハウスは、韓国を言論自由国から部分的言論自由国に降格させた。
このような一連の政策に対する世論の反応は冷たかった。その余波で二〇一〇年の六・二地方選挙でハンナラ党は惨敗した。投票率は歴代の地方選挙のなかでもっとも高い五四・五パーセントで、ハンナラ党が勝利したのはは十六の広域自治団体長のうち六ヶ所だけだった。ハンナラ党の牙城であるはずの慶尚南道と江原道の道知事選挙でも敗北し、忠清圏の三ケ所もすべて敗退した。基礎自治体首長も二百二十六のうち八十二を確保したにとどまった。特にソウル区長選挙では、二十五のうちやっと四ケ所を獲得しただけだった。それに対し第一野党の民主党は、七つの広域自治体首長を確保し、慶尚南道でも民主党系の金斗官が無所属で出馬して勝利した。また教育監選挙でも、教育の中心地といえるソウルと京畿で、民主党系の郭魯舷と金相坤が当選した。ソウル市議会選挙でもハンナラ党は、二〇〇六年の地方選挙では全百六議席のうち九十六議席を獲得したのに、今回はわずか二十七議席に過ぎなかった。京畿道の議会も、四十二対八十二で野党が絶対的な優勢となった。
李明博は自分の政府を実用政府と規定したが、実用という表現が平凡で意味も曖昧だという理由で、「李明博政府」と実名を公式な政権の名前として使用した。李明博政権は国政の目標を「新発展体制の構築」と定め、具体的な方向として、国家と社会間の連携協力による発展、質的成長の追求、法治の確立と憲法の遵守、多元主義の価値観と個性、創意の尊重、人材の養成、グローバルスタンダードとナショナルスタンダードの調和、高信頼社会などを掲げた。これは成長中心の政治を遂行するという意味であり、成長を強調するあまり民主主義、人権、福祉、庶民、民意などについての概念が弱くなってしまった。
このような限界は、まずアメリカとの牛肉輸入交渉で表面化した。国民の健康に直結する牛肉輸入問題を、貿易収支の次元だけで考えたために、李明博は就任二ケ月にして激しい国民的抵抗に直面することになった。牛肉交渉の結果に憤怒した国民は、ロウソクを手に街に出て、連日デモを展開し、同時に支持率も一瞬のうちに二〇パーセント台に落ちた。
しかし李明博は国政運営の態度を変えようとはしなかった。二〇〇九年のはじめ、撤去に抵抗する庶民に対する警察の強硬鎮圧により、龍山惨事が起こり、今一度庶民に対する政策の限界を露呈した。彼は、言葉で親庶民政策を叫ぶだけで、法治と成長を強調するあまり、庶民の痛みと民意を理解することができないでいるという批判を受けた。
さらにその年の五月、前大統領の自殺に直面し、政治力の限界があらわになった。政治的に解決しうる問題を、法にだけ依存して過度に追求していったために、「政治的な他殺」を誘発した、という批判の声が上がったのである。李明博はこのような自分のイメージを改善するために、二〇〇九年十一月、五つの国政課題をもう一度提示し、「仕える政府」になると強調した。実践に当たっては零細商人への配慮を強調するなど、変化した姿を見せようと努力した。
しかし政策の基調は変わらなかった。労使の問題を解決しようとするときは、依然として労働者よりは経営者のほうに目を向けており、税金についても庶民よりは富裕層の立場を最初に考慮するという性向が露呈した。教育についても効率性ばかりを強調したため、学校の序列化や、庶民の教育費負担などには背を向ける結果となった。高校多様化プロジェクトを通して自律型私立高校を増やしていき、高校平準化政策を弱めたのがその代表的な事例だ。また英語没入教育を強調し、塾などの私的な教育熱を煽ったという批判も受けた。
対北朝鮮政策においても、成長中心の思考法が露出した。李明博政権の対北朝鮮政策は「非核開放三千構想」と要約することができる。北朝鮮が核を放棄し、開放すれば、対北朝鮮投資によって北朝鮮のひとり当たり国民所得を三千ドルに引き上げる、という内容だ。しかしこれは現実性がまったくない方策であるばかりか、北朝鮮の自尊心を傷つける結果をもたらす。北朝鮮は李明博の対北朝鮮政策に強く反発し、労働新聞で李明博を「逆徒」と表現したほどだった。さらに北朝鮮は海上ミサイルを発射し、開城工業団地から韓国の当局者を追放してしまった。
北朝鮮との関係は悪化の一途をたどった。二〇〇八年七月に起こった金剛山観光客銃撃死亡事件以後、冷えきっていた南北関係は、二〇一〇年三月の天安艦事件によって極度に緊張し、ついに北朝鮮の砲撃によって民間人が死亡する延坪島砲撃事件が発生した。李明博政府は、天安艦事件と延坪島砲撃に対して謝罪を要求して、食糧支援を中断し、対話を拒否した。
対米政策では、米韓同盟の強化を強調し、戦時作戦統制権の返還計画を延期するよう請願するなど、低姿勢一辺倒であった。このような対米外交の基調は、二〇一〇年十二月五日に妥結した米韓FTA再交渉にも悪影響をおよぼした。米韓同盟に執着するあまり、経済的な不利益をみずから招いてしまったのである。アメリカのマスコミさえ「オバマの勝利」と言うほどであった。再交渉の結果は、アメリカの要求をあまりにもたやすく受け入れてしまったとの批判を受けた。このため世論は急激に悪化し、通商交渉本部長であった金宗填が国会で謝罪しなければならないほどだった。
三百余の市民団体が「米韓FTA阻止汎国民本部」を結成して批准反対デモを展開するなど、反発の動きは活発だった。こうした世論を背景に野党も激しく批准に反対し、民主労働党の金先東議員は国会本会議場に催涙弾を投げつけて抵抗した。しかし批准案の処理は非公開で進められ、野党が不参加のまま百五十一人の議員の賛成でなんとか通過させることはできた。
福祉の部門でも弱者に対する配慮は大きく後退した。障碍児無償保育支援金、保育施設拡充費用、障碍者車両支援費、基礎支給生活者医療費支援金などが大幅に削減され、幼児予防接種予算、長期休暇中の欠食児童支援予算、老人療養施設拡充費用なども全額、あるいは一部削減が行なわれた。このような福祉縮小政策は、深刻化している両極化現象と、低出産、高齢化社会の問題点をより悪化させる結果を招いた。
言論政策でも、政府による統制一辺倒の旧態依然たる姿勢を見せた。任期が残っている報道機関の社長を交代させ、自分の側近を社長に任命するということまで強行した。また政府に批判的な番組は放送を短縮したり延期したりする事例が相次ぎ、担当プロデューサーを交代させるというようなこともあった。こうしたことは、公営放送であるKBSではもちろんのこと、MBC、YTN、そして放送通信委員会など、広い範囲で行なわれていった。また新聞社と放送局を同時に経営することを可能にする総合編成チャンネルを推進し、保守メディアの影響力を大きく拡大した。その結果、国際人権監視団体フリーダムハウスは、韓国を言論自由国から部分的言論自由国に降格させた。
このような一連の政策に対する世論の反応は冷たかった。その余波で二〇一〇年の六・二地方選挙でハンナラ党は惨敗した。投票率は歴代の地方選挙のなかでもっとも高い五四・五パーセントで、ハンナラ党が勝利したのはは十六の広域自治団体長のうち六ヶ所だけだった。ハンナラ党の牙城であるはずの慶尚南道と江原道の道知事選挙でも敗北し、忠清圏の三ケ所もすべて敗退した。基礎自治体首長も二百二十六のうち八十二を確保したにとどまった。特にソウル区長選挙では、二十五のうちやっと四ケ所を獲得しただけだった。それに対し第一野党の民主党は、七つの広域自治体首長を確保し、慶尚南道でも民主党系の金斗官が無所属で出馬して勝利した。また教育監選挙でも、教育の中心地といえるソウルと京畿で、民主党系の郭魯舷と金相坤が当選した。ソウル市議会選挙でもハンナラ党は、二〇〇六年の地方選挙では全百六議席のうち九十六議席を獲得したのに、今回はわずか二十七議席に過ぎなかった。京畿道の議会も、四十二対八十二で野党が絶対的な優勢となった。
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国と地方の税源配分
『財政学をつかむ』より 地方財政制度の概要 ⇒ 国と地方の財政関係には興味があるけど、計算があるのは面倒である。
国と地方の税源配分
地方税制度
地方公共団体のうち、道府県が課す地方税は道府県税、市町村が課す地方税は市町村税と呼ばれる。なお、東京都においては、道府県税の規定が都に、市町村税の規定が特別区に準用され、さらにいくっかの税目については準用規定にかかわらず独立した都税が設けられている。地方税は、原則として地方税法、およびそれにもとづく地方公共団体の条例により設定される。地方税法は、地方税の賦課・徴収の手続き等を定めた法律であり、この法律の枠内で地方税に関わる地方公共団体の条例が制定される。なお、税収の用途が指定されている税は目的税、そうでない税は普通税と呼ばれる。
地方税法は道府県および市町村別に税目を定めている。地方税法に定めのある地方税は法定税と呼ばれ、それが普通税の場合は法定普通税、目的税の場合は法定目的税と呼ばれる。地方税法は、一部の税目を除き、法定税を定める際に参照すべき税率(標準税率)が定められている。地方は、必要に応じて標準税率と異なる税率を設定することはできる。しかし、標準税率を超えて課税する場合にれを超過課税とい引、制限税率が設定されているならば、それを超えて課税することはできないし、標準税率以下で課税する場合は地方債の起債に制限が加えられる。
地方税法に税目の定めのない地方税は法定外税と呼ばれ、それが普通税なら法定外普通税、目的税なら法定外目的税という。地方税法は法定外税の税目を定めてはいないから、その税率も定めてはいない。したがって、法定外税の税率は地方公共団体が任意に定めることになる。ただし、地方税法は、法定外税にも申告納付の方法・延滞金ぐ口算金・徴税吏員による調査り帯納処分等を定めており、この意味で一定の枠は存在する。また、法定外税が新設・変更される場合は、総務大臣との協議のうえ、その同意が必要となる。ただし、①国税または他の地方税と課税対象(課税標準)を同じくし、かつ、住民負担が著しく重くなる場合、②地方公共団体間の物流に重大な障害を与える場合、そして、③国の経済施策に照らして適当でない場合のいずれかを除き、総務大臣の同意は与えられることになっている。
国と地方の税配分
表13-3および図13-1は、2012年度の決算値を用いて国と地方の主要な税を、①個人、②法人、③消費、④資産の課税対象別に記したものである。ここから理解できるように、国税は地方税よりも大きいシェアを有している。まず税収総額では国税は55.5%と5割強シェアを占めている。また、課税対象別に比率を見ると、図13-2に示しているように、個人に関しては5割強、法人に関しては6割強、そして消費に関しては8割弱が国税である。一方、資産税に関しては、そのほとんど(9割弱)が地方税であり、うち7割が固定資産税と都市計画税を有する市町村が占めている。
また図13-3には国と地方(市町村、都道府県)の税収に占める課税対象別の割合が示されている。地方と国の割合を比べると、まず都道府県税に関しては国税よりも法人所得の比率が高く、個人所得の比率が低いことがわかる。一方、市町村税に関しては、消費にかかる税のシェアが低く、固定資産税と都市計画税からなる資産にかかる税が半分以上となっている。
垂直的財政不均衡と財源の偏在
垂直的財政不均衡
既述のように地方歳出は国の歳出よりも大きい一方で。地方税収は国の税収よりも小さく、国と地方の間には垂直的財政不均衡が存在している。 153頁の図13-4に示すように、2012年度決算では地方税は地方歳入の総額の34.5%にしかすぎず、地方歳出のすべてを賄ってはいない。この垂直的財政不均衡は、unit 14で説明する、国庫支出金や地方交付税などの国からの財政移転によって埋められる。2012年度決算では、これら財政移転が地方歳入に占める割合は地方税より若干大きい36.2%であり、そのうち地方交付税が最も大きく(18.3%)、次いで国庫支出金(15.6%)、そして、地方譲与税(2.3%)、となっている。
水平的財政不均衡
この国の財政との比較における地方総体としての不均衡である垂直的財政不均衡とともに、地方政府間の財政的な不均衡である水平的財政不均衡も存在する。地方税が所得、消費、資産などの地域的偏りのある経済活動に課される限り、地方税収には必ず地域的偏りが存在する。
図13-5は、2001年度から2011年度の県民経済計算を用い、都道府県を単位に1人当たりの労働所得、企業所得、および、消費の地域的な散らばり(地域間格差)を示している。ここでは地域間格差の指標として変動係数(標準偏差を平均値で割った値)を用いているが、格差の度合いは、企業所得、労働所得、消費の順に大きい。また、2004年から2008年は比較的景気が回復した時期であったが、企業所得が景気の影響を受けている一方で、労働所得と消費は景気の影響をそれほど受けてはいないことが理解できる。なお、これら1人当たり金額の最大値と最小値の比率は2001年から2011年の単純平均で、労働所得2.1倍、企業所得3.4倍、消費1.8倍の開きかおる。
このような課税標準の偏りに加え、行政需要にも偏りが存在する。日本では人口約370万人の横浜市とともに人口約200人の青ヶ島村が存在するように、人口規模にはかなりの開きかおる。1人当たりの行政費用は人口規模に相関することが知られており、とくに人口規模が小さい地域では、人口が減少するほど1人当たり歳出が増加する傾向にある。これは人口に関する規模の経済(unit 15参照)によるところもあるが、小規模自治体ほど離島や山間部などの自然環境が厳しい地域に位置しており、また若年労働者流出により高齢化率も高いため、同じ公共サービスを提供する場合でも追加的な歳出が必要とされるためと考えられる。さらに、そのような小規模自治体では、十分な税源が存在しない場合が多い。
このような垂直的財政不均衡と水平的財政不均衡が存在するなかで、標準的な行政を遂行するためには、次のunit 14で詳しく説明する国からの財政移転が必要とされることになる。
国と地方の税源配分
地方税制度
地方公共団体のうち、道府県が課す地方税は道府県税、市町村が課す地方税は市町村税と呼ばれる。なお、東京都においては、道府県税の規定が都に、市町村税の規定が特別区に準用され、さらにいくっかの税目については準用規定にかかわらず独立した都税が設けられている。地方税は、原則として地方税法、およびそれにもとづく地方公共団体の条例により設定される。地方税法は、地方税の賦課・徴収の手続き等を定めた法律であり、この法律の枠内で地方税に関わる地方公共団体の条例が制定される。なお、税収の用途が指定されている税は目的税、そうでない税は普通税と呼ばれる。
地方税法は道府県および市町村別に税目を定めている。地方税法に定めのある地方税は法定税と呼ばれ、それが普通税の場合は法定普通税、目的税の場合は法定目的税と呼ばれる。地方税法は、一部の税目を除き、法定税を定める際に参照すべき税率(標準税率)が定められている。地方は、必要に応じて標準税率と異なる税率を設定することはできる。しかし、標準税率を超えて課税する場合にれを超過課税とい引、制限税率が設定されているならば、それを超えて課税することはできないし、標準税率以下で課税する場合は地方債の起債に制限が加えられる。
地方税法に税目の定めのない地方税は法定外税と呼ばれ、それが普通税なら法定外普通税、目的税なら法定外目的税という。地方税法は法定外税の税目を定めてはいないから、その税率も定めてはいない。したがって、法定外税の税率は地方公共団体が任意に定めることになる。ただし、地方税法は、法定外税にも申告納付の方法・延滞金ぐ口算金・徴税吏員による調査り帯納処分等を定めており、この意味で一定の枠は存在する。また、法定外税が新設・変更される場合は、総務大臣との協議のうえ、その同意が必要となる。ただし、①国税または他の地方税と課税対象(課税標準)を同じくし、かつ、住民負担が著しく重くなる場合、②地方公共団体間の物流に重大な障害を与える場合、そして、③国の経済施策に照らして適当でない場合のいずれかを除き、総務大臣の同意は与えられることになっている。
国と地方の税配分
表13-3および図13-1は、2012年度の決算値を用いて国と地方の主要な税を、①個人、②法人、③消費、④資産の課税対象別に記したものである。ここから理解できるように、国税は地方税よりも大きいシェアを有している。まず税収総額では国税は55.5%と5割強シェアを占めている。また、課税対象別に比率を見ると、図13-2に示しているように、個人に関しては5割強、法人に関しては6割強、そして消費に関しては8割弱が国税である。一方、資産税に関しては、そのほとんど(9割弱)が地方税であり、うち7割が固定資産税と都市計画税を有する市町村が占めている。
また図13-3には国と地方(市町村、都道府県)の税収に占める課税対象別の割合が示されている。地方と国の割合を比べると、まず都道府県税に関しては国税よりも法人所得の比率が高く、個人所得の比率が低いことがわかる。一方、市町村税に関しては、消費にかかる税のシェアが低く、固定資産税と都市計画税からなる資産にかかる税が半分以上となっている。
垂直的財政不均衡と財源の偏在
垂直的財政不均衡
既述のように地方歳出は国の歳出よりも大きい一方で。地方税収は国の税収よりも小さく、国と地方の間には垂直的財政不均衡が存在している。 153頁の図13-4に示すように、2012年度決算では地方税は地方歳入の総額の34.5%にしかすぎず、地方歳出のすべてを賄ってはいない。この垂直的財政不均衡は、unit 14で説明する、国庫支出金や地方交付税などの国からの財政移転によって埋められる。2012年度決算では、これら財政移転が地方歳入に占める割合は地方税より若干大きい36.2%であり、そのうち地方交付税が最も大きく(18.3%)、次いで国庫支出金(15.6%)、そして、地方譲与税(2.3%)、となっている。
水平的財政不均衡
この国の財政との比較における地方総体としての不均衡である垂直的財政不均衡とともに、地方政府間の財政的な不均衡である水平的財政不均衡も存在する。地方税が所得、消費、資産などの地域的偏りのある経済活動に課される限り、地方税収には必ず地域的偏りが存在する。
図13-5は、2001年度から2011年度の県民経済計算を用い、都道府県を単位に1人当たりの労働所得、企業所得、および、消費の地域的な散らばり(地域間格差)を示している。ここでは地域間格差の指標として変動係数(標準偏差を平均値で割った値)を用いているが、格差の度合いは、企業所得、労働所得、消費の順に大きい。また、2004年から2008年は比較的景気が回復した時期であったが、企業所得が景気の影響を受けている一方で、労働所得と消費は景気の影響をそれほど受けてはいないことが理解できる。なお、これら1人当たり金額の最大値と最小値の比率は2001年から2011年の単純平均で、労働所得2.1倍、企業所得3.4倍、消費1.8倍の開きかおる。
このような課税標準の偏りに加え、行政需要にも偏りが存在する。日本では人口約370万人の横浜市とともに人口約200人の青ヶ島村が存在するように、人口規模にはかなりの開きかおる。1人当たりの行政費用は人口規模に相関することが知られており、とくに人口規模が小さい地域では、人口が減少するほど1人当たり歳出が増加する傾向にある。これは人口に関する規模の経済(unit 15参照)によるところもあるが、小規模自治体ほど離島や山間部などの自然環境が厳しい地域に位置しており、また若年労働者流出により高齢化率も高いため、同じ公共サービスを提供する場合でも追加的な歳出が必要とされるためと考えられる。さらに、そのような小規模自治体では、十分な税源が存在しない場合が多い。
このような垂直的財政不均衡と水平的財政不均衡が存在するなかで、標準的な行政を遂行するためには、次のunit 14で詳しく説明する国からの財政移転が必要とされることになる。
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年に一度は読み返す小説『赤毛のアン』
『人生の道しるべ』より
宮本 あの小説は、ちょっとあり得ないようなことが起きます。といって、ファンタジーでも、マジックジアリズムでも、幻想でもない。これは一体なんだろうなと考えたとき、ぼくはふと自分が必ず年に一回は読み返す小説のことを思い出したんです。
吉本 えーっ、なにをお読みになるのか、書名をぜひ知りたいです。
宮本 じつは三冊あって、ひとつはモンゴメリの『赤毛のアン』。
吉本 それは意外なようでも、すごく納得できるようでもあり……。
宮本 もうひとつは島崎藤村の『夜明け前』です。そして最後のひとつは、やっぱりこれだけは自分から手放してはいけないと感じている、西行の歌集です。アンのシリーズは、『赤毛のアン』だけでなく、村岡花子訳の全十巻、全部読む。
吉本 お好きな巻だけ読み返すのではなく? でもこの三冊だというのが、ちょっとだけわかるような気がします。むしろそのセレクトによって輝先生が理解できる。
宮本 アンの世界に染まってしまってそこから出たいなというときに、『夜明け前』をIから読みます。いちばんしっくりくるのは『夜明け前』の文章です。そこから、西行の歌集へぱっと移ることもあります。ぼくにとってのこれらは三食みたいなもの。
吉本 へえ……でもその組み合わせすばらしいですね。無人島でもいけるかも。
宮本 アンのシリーズって、読まれましたか? ぼくはあれを読むと幸せになるんですよ。アンの心の世界というか、心の中に王国を持っていることのすごさというか。アンは一巻、二巻で二巻と巻を追うごとに年ごろとなり、六巻で結婚を迎えます。七巻からはアンが物語の中心ではなくて、周りの人たちや、アンの子どもたちの話が続くのですが、なかでも第十巻の『アンの娘リラ』ではアンの末娘リラが中心となります。第一次世界大戦が始まり、兄ふたりは自ら志願して戦地に赴く。リラにとって夢見ていたのとは違う青春です。兄のひとりは戦死してしまうのですが、もうひとりの長男のジェムにはものすごくかわいがっていたマンディという飼い犬がいて。その犬が、ジェムを待ちつづけて、四年間駅から離れないんです。いくら連れ戻しても駅に帰ってしまう。忠犬ハチ公の話が先か、この物語が先かはわかりませんが、似た話ですね。アンやその夫は、駅舎に犬小屋を作ってやり、食べものを運ぶんです。マンデイは復員兵の姿をずっと待つ。そしてある日、ジェムが突然に帰ってくるんですよ。待ちつづけ、もうよぼよぼのおじいさんになった犬が、子犬のように走っていきます。ぼくは、その幸福みたいなものを、『花のベッドでひるねして』にも感じたのです。
吉本 そんなにスケールの大きなものを感じていただけるなんてうれしいです。
宮本 ええ。ばななさんという作家は、この『花のベッドでひるねして』のなかで、おそらくそういう幸福を描こうとしていると思いました。悪い人間、困っている人間、一人では生きられない人間、だけど一人で生きるしかない人間を、全部包み込もうとしているんだなと。あり得ないことが起きるにもかかわらず、どうしてファンタジーにならないか、絵空事にならないかをずっと考えて、そういう結論に落ち着きました。あとがきにも、「これは自信作だ」というようなことが書かれてあって。
吉本 それは、そういうことを書いておかないと、と自分を奮い立たせたような気持ちもあるんですが(笑)。
宮本 でもやっぱりいいものでしたよ。それは結局、ばななさんの幸福の捉え方が変化したからではないでしょうか。なにも文学的達成を目指したものだというのではなくて、生きて死んでいくことをどう捉えるかということに対する思想的な発酵があったんだろうなと。音を立てて変わるのではなく、少しずつ醸成されるようにかたちを変えてきた感じかな。そしてそれはすごく素晴らしいことだと、最初にお伝えしたかったんです。
吉本 うれしいお言葉をありがとうございます。いま、輝先生がアンのシリーズをお好きと聞いて、すとんと納得しました。秘密の一端が見えたというか。一族のひとりひとりが成長していき、そこにいろんな深い話が織り込まれる点は、輝先生の作風に近いかもしれませんね。全体的に陰気じゃなく、陽気である点も。しかもその輝先生が、私の作品にその明るさを読みとってくださったと思うと、緊張してなかなかうまく話せそうにないのですが…・…
宮本 亡くなったおじいさんが出てきますね。不思議な存在感があります。一家の大きな支柱であり、とりわけ幹の精神的な支えとなるような。あのおじいさんの魅力はなんともいえません。こういう人が『赤毛のアン』にも出てきたなと思って探したけれど見つからなかった(笑)。
吉本 じゃあ、私も一巻から読んで探してみます。アン結婚後の物語は読んでいないので、そのあとも読んでみよう。まとまった時間ができたら、一気にアンの世界に行けるのが楽しみです。
宮本 ぼくは六巻がいちばん好きですね。しかしアンはともかく、ばななさんはお父さんの死がなにかこの作品に及ぼしたものがあると思いますか? いまお話しになった、幹にご自身を少しシンクロさせたこと以外には。
宮本 あの小説は、ちょっとあり得ないようなことが起きます。といって、ファンタジーでも、マジックジアリズムでも、幻想でもない。これは一体なんだろうなと考えたとき、ぼくはふと自分が必ず年に一回は読み返す小説のことを思い出したんです。
吉本 えーっ、なにをお読みになるのか、書名をぜひ知りたいです。
宮本 じつは三冊あって、ひとつはモンゴメリの『赤毛のアン』。
吉本 それは意外なようでも、すごく納得できるようでもあり……。
宮本 もうひとつは島崎藤村の『夜明け前』です。そして最後のひとつは、やっぱりこれだけは自分から手放してはいけないと感じている、西行の歌集です。アンのシリーズは、『赤毛のアン』だけでなく、村岡花子訳の全十巻、全部読む。
吉本 お好きな巻だけ読み返すのではなく? でもこの三冊だというのが、ちょっとだけわかるような気がします。むしろそのセレクトによって輝先生が理解できる。
宮本 アンの世界に染まってしまってそこから出たいなというときに、『夜明け前』をIから読みます。いちばんしっくりくるのは『夜明け前』の文章です。そこから、西行の歌集へぱっと移ることもあります。ぼくにとってのこれらは三食みたいなもの。
吉本 へえ……でもその組み合わせすばらしいですね。無人島でもいけるかも。
宮本 アンのシリーズって、読まれましたか? ぼくはあれを読むと幸せになるんですよ。アンの心の世界というか、心の中に王国を持っていることのすごさというか。アンは一巻、二巻で二巻と巻を追うごとに年ごろとなり、六巻で結婚を迎えます。七巻からはアンが物語の中心ではなくて、周りの人たちや、アンの子どもたちの話が続くのですが、なかでも第十巻の『アンの娘リラ』ではアンの末娘リラが中心となります。第一次世界大戦が始まり、兄ふたりは自ら志願して戦地に赴く。リラにとって夢見ていたのとは違う青春です。兄のひとりは戦死してしまうのですが、もうひとりの長男のジェムにはものすごくかわいがっていたマンディという飼い犬がいて。その犬が、ジェムを待ちつづけて、四年間駅から離れないんです。いくら連れ戻しても駅に帰ってしまう。忠犬ハチ公の話が先か、この物語が先かはわかりませんが、似た話ですね。アンやその夫は、駅舎に犬小屋を作ってやり、食べものを運ぶんです。マンデイは復員兵の姿をずっと待つ。そしてある日、ジェムが突然に帰ってくるんですよ。待ちつづけ、もうよぼよぼのおじいさんになった犬が、子犬のように走っていきます。ぼくは、その幸福みたいなものを、『花のベッドでひるねして』にも感じたのです。
吉本 そんなにスケールの大きなものを感じていただけるなんてうれしいです。
宮本 ええ。ばななさんという作家は、この『花のベッドでひるねして』のなかで、おそらくそういう幸福を描こうとしていると思いました。悪い人間、困っている人間、一人では生きられない人間、だけど一人で生きるしかない人間を、全部包み込もうとしているんだなと。あり得ないことが起きるにもかかわらず、どうしてファンタジーにならないか、絵空事にならないかをずっと考えて、そういう結論に落ち着きました。あとがきにも、「これは自信作だ」というようなことが書かれてあって。
吉本 それは、そういうことを書いておかないと、と自分を奮い立たせたような気持ちもあるんですが(笑)。
宮本 でもやっぱりいいものでしたよ。それは結局、ばななさんの幸福の捉え方が変化したからではないでしょうか。なにも文学的達成を目指したものだというのではなくて、生きて死んでいくことをどう捉えるかということに対する思想的な発酵があったんだろうなと。音を立てて変わるのではなく、少しずつ醸成されるようにかたちを変えてきた感じかな。そしてそれはすごく素晴らしいことだと、最初にお伝えしたかったんです。
吉本 うれしいお言葉をありがとうございます。いま、輝先生がアンのシリーズをお好きと聞いて、すとんと納得しました。秘密の一端が見えたというか。一族のひとりひとりが成長していき、そこにいろんな深い話が織り込まれる点は、輝先生の作風に近いかもしれませんね。全体的に陰気じゃなく、陽気である点も。しかもその輝先生が、私の作品にその明るさを読みとってくださったと思うと、緊張してなかなかうまく話せそうにないのですが…・…
宮本 亡くなったおじいさんが出てきますね。不思議な存在感があります。一家の大きな支柱であり、とりわけ幹の精神的な支えとなるような。あのおじいさんの魅力はなんともいえません。こういう人が『赤毛のアン』にも出てきたなと思って探したけれど見つからなかった(笑)。
吉本 じゃあ、私も一巻から読んで探してみます。アン結婚後の物語は読んでいないので、そのあとも読んでみよう。まとまった時間ができたら、一気にアンの世界に行けるのが楽しみです。
宮本 ぼくは六巻がいちばん好きですね。しかしアンはともかく、ばななさんはお父さんの死がなにかこの作品に及ぼしたものがあると思いますか? いまお話しになった、幹にご自身を少しシンクロさせたこと以外には。
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