未唯への手紙
未唯への手紙
分類しても、コアは見出せない
『「超」集中法』より 「超」整理法は自動的にコアを見出す ⇒ 未唯宇宙でハイアラキーから配置に切り替えています。
「分類こそ整理」という考えは誤り
従来、整理について、つぎのように考えられていました。
「〈整理・整頓〉と言うが、この2つは違う。〈整理〉とは、内容や重要度を考慮して分類し、秩序づけることである。これは、形式的に片づけて見た目をきれいにする〈整頓〉とは違う。そして、必要なのは、整理であって整頓ではない」というのです。
つまり、ただ並べるだけの「整頓」では必要なものを見出せないから、内容に応じて分類し「整理」せよ、というのです。本書で論じていることとの関連で言えば、「そうすることによってのみ、コアを見出すことができる」というのです。
私たちは、こうした考えを、小学生の頃から教え込まれてきました。そのため、「分類こそ整理」という考えは正しいと、信じ込んでいます。
しかし、大人になって知的な仕事を始めるようになると、この原則に従うことは次第に難しくなります。毎日大量の資料が到着する一方で、処理すべき業務が山積みとなり、書類の分類・整理などやっていられなくなります。たまに整理しても、すぐに破綻します。かくして、机の上申書類棚は、資料や書類で溢れかえってくるのです。
なぜ、こうなるのでしょうか? それは、「分類こそが整理」という考えが、基本的に間違っているからです。
なぜ間違いなのか? その理由は、つぎのようなことです。
第1の理由は、「どの分類項目に入れてよいか分からない」ということが頻繁に発生するからです。これは、つぎの場合に発生します。
一つは、対象となる資料が、複数の内容または属性を持っている場合です。いま一つのケースは、連続的に変化するもののグレイソーン(境界領域)にある場合です。こうした問題があるために「その他」もしくは「雑」という分類項目を残しておくと、どんどん資料が入ってくる。その結果、結局は分類しないのと同じことになってしまいます。
従来の整理法は、「仮に、こうした問題が解決できるとしたら、分類は役立つ」といっているにすぎません。
コアはダイナミックに変わる
もっと本質的な問題もあります。それは、「知的な仕事の多くは、同じことの繰り返しではなく、ルーチン化できない」ということです。
しかも、仕事の内容や問題意識は、流動的で、時間の経過とともに変わります。このため、分類項目を固定できないのです。いったん項目を設定しても、すぐに古くなります。ある問題については、分類を細分化したくなります。他方で、ある仕事が終われば、それに関連した項目はまったく使われなくなります。
ですから、とりあえずまとまる範囲でまとめて時間順に収納するしか、対応の方法がないのです。情報をどこに分類して格納すればよいかが最初からはっきりしているのは、ルーチンワークの場合です。
なお、ビジネスにおけるコアもダイナミックに変わります。したがって、ビジネスに2:8法則を応用する場合に最も重要な課題は、変化するコアにいかに対応するか、ということです。
動物の記憶メカニズムと同じ?
「超」整理法的な情報の整理は、大脳のメカニズムと密接に関連しているようです。実際、「超」整理法は、動物の記憶メカニズムと酷似しているという書評がありました。
野生動物は、刻々と入ってくる情報を、日中は当面の一貫性を保てる範囲で無分類、時間順で保持するのだそうです。そして、外敵の危険がない夜の間に、脳がこれらを意味付け、取捨選択して、必要なものを長期記憶に転記するのです。
「超」整理法による書類の整理も、これと非常によく似たプロセスで行なわれています。動物の記憶メカニズムは合理的なものであるはずで、したがって、「超」整理法的な情報の時系列整理もそれと同じ理由で合理的であるはずです。
情報の分類は、このような過程を通じて自然にできあがってゆくものなのです。「分類こそ整理」という考えは、最初に収納するときに無理に分類しようとするから、問題が生じるのです。
生物が何億年もの時をかけた進化の過程をへて獲得した方法が、合理的でないはずはありません。「超」整理法が基本的に生物に似ているのは、その合理性の証左といえるでしょう。図書館方式は、徐々に崩壊します。押し出しファイリングは、生物の記憶メカニズム同様に機能するため、使っているうちに徐々に秩序ができあがってくるのです。
「分類こそ整理」という考えは誤り
従来、整理について、つぎのように考えられていました。
「〈整理・整頓〉と言うが、この2つは違う。〈整理〉とは、内容や重要度を考慮して分類し、秩序づけることである。これは、形式的に片づけて見た目をきれいにする〈整頓〉とは違う。そして、必要なのは、整理であって整頓ではない」というのです。
つまり、ただ並べるだけの「整頓」では必要なものを見出せないから、内容に応じて分類し「整理」せよ、というのです。本書で論じていることとの関連で言えば、「そうすることによってのみ、コアを見出すことができる」というのです。
私たちは、こうした考えを、小学生の頃から教え込まれてきました。そのため、「分類こそ整理」という考えは正しいと、信じ込んでいます。
しかし、大人になって知的な仕事を始めるようになると、この原則に従うことは次第に難しくなります。毎日大量の資料が到着する一方で、処理すべき業務が山積みとなり、書類の分類・整理などやっていられなくなります。たまに整理しても、すぐに破綻します。かくして、机の上申書類棚は、資料や書類で溢れかえってくるのです。
なぜ、こうなるのでしょうか? それは、「分類こそが整理」という考えが、基本的に間違っているからです。
なぜ間違いなのか? その理由は、つぎのようなことです。
第1の理由は、「どの分類項目に入れてよいか分からない」ということが頻繁に発生するからです。これは、つぎの場合に発生します。
一つは、対象となる資料が、複数の内容または属性を持っている場合です。いま一つのケースは、連続的に変化するもののグレイソーン(境界領域)にある場合です。こうした問題があるために「その他」もしくは「雑」という分類項目を残しておくと、どんどん資料が入ってくる。その結果、結局は分類しないのと同じことになってしまいます。
従来の整理法は、「仮に、こうした問題が解決できるとしたら、分類は役立つ」といっているにすぎません。
コアはダイナミックに変わる
もっと本質的な問題もあります。それは、「知的な仕事の多くは、同じことの繰り返しではなく、ルーチン化できない」ということです。
しかも、仕事の内容や問題意識は、流動的で、時間の経過とともに変わります。このため、分類項目を固定できないのです。いったん項目を設定しても、すぐに古くなります。ある問題については、分類を細分化したくなります。他方で、ある仕事が終われば、それに関連した項目はまったく使われなくなります。
ですから、とりあえずまとまる範囲でまとめて時間順に収納するしか、対応の方法がないのです。情報をどこに分類して格納すればよいかが最初からはっきりしているのは、ルーチンワークの場合です。
なお、ビジネスにおけるコアもダイナミックに変わります。したがって、ビジネスに2:8法則を応用する場合に最も重要な課題は、変化するコアにいかに対応するか、ということです。
動物の記憶メカニズムと同じ?
「超」整理法的な情報の整理は、大脳のメカニズムと密接に関連しているようです。実際、「超」整理法は、動物の記憶メカニズムと酷似しているという書評がありました。
野生動物は、刻々と入ってくる情報を、日中は当面の一貫性を保てる範囲で無分類、時間順で保持するのだそうです。そして、外敵の危険がない夜の間に、脳がこれらを意味付け、取捨選択して、必要なものを長期記憶に転記するのです。
「超」整理法による書類の整理も、これと非常によく似たプロセスで行なわれています。動物の記憶メカニズムは合理的なものであるはずで、したがって、「超」整理法的な情報の時系列整理もそれと同じ理由で合理的であるはずです。
情報の分類は、このような過程を通じて自然にできあがってゆくものなのです。「分類こそ整理」という考えは、最初に収納するときに無理に分類しようとするから、問題が生じるのです。
生物が何億年もの時をかけた進化の過程をへて獲得した方法が、合理的でないはずはありません。「超」整理法が基本的に生物に似ているのは、その合理性の証左といえるでしょう。図書館方式は、徐々に崩壊します。押し出しファイリングは、生物の記憶メカニズム同様に機能するため、使っているうちに徐々に秩序ができあがってくるのです。
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