未唯への手紙
未唯への手紙
「ギャラリー」について考える
『「超」集中法』より 8割の逆襲? ロングテールとブラック・スワン 2:6:2ロジックを考えるヒント
ギャラリーの存在は必要
私は、高校時代の友人だちと、メールでの「オンライン常時開催クラス会」をやっています。さまざまな話題についてメールで討論しているのです。
あるとき、私とある友人の間で、議論が起きました。この問題は、2人以外のメンバーには興味がないことだろうと思っていたところ、「発言はしないが、興味があるから続けてくれ」というメールがありました。
この話題について大部分のメンバーは「ギャラリー」であったわけですが、われわれ2人もギャラリーの存在を意識していたという事実に、そのとき気付きました。そして、2人だけのメール交換よりオンラインクラス会が面白い理由はそこにある、ということにも気付きました。ギャラリーは、積極的に討論に参加しなくても、重要な役割を果たしているのです。
ギャラリーが重要な役割を果たしている例は、他にもあります。
バレエでは、普通は主役の2人が重要ですが、見せ場では大勢のギャラリーが舞台の背景にいます。彼らは踊るわけでもなく、ただ立っていたり座っていたりするだけなのですが、彼らがいないと舞台は寂しくなります。華やかな場面にするためには、彼らの存在は不可欠です。例えば、「ドン・キホーテ」というバレエの最終場面は主役2人の踊り(グラン・バード・ドゥ)ですが、背景には数十人のギャラリーがいて、彼らの踊りを見守っています。
「働かない働きアリ」は、リリーフ要員としての意味を持っています。しかし、バレエのギャラリーは、リリーフ要員ですらありません。主役がけがをしたときにギャラリーの誰かが代役をつとめることなど、絶対に考えられません。彼らは引き立て役であって、モーターではないのです。それにもかかわらず、必要なのです。
バレエには「ガラ・コンサート」というのがあります。これは、全幕を上演するのではなく、見せ場だけを取り出して上演するものですが、ここではギャラリーはいません。そのため、全幕ものに比べると、華やかさに欠けます。
これまで使った用語で言うと、「ギャラリーは、ノンコアであるにもかかわらず、重要な役割を果たしている」ということです。決して「いてもいなくても同じな人々」ではないのです。
世界は10割で成立している
同様のことが、その他の場面でも観察されます。
例えば、小説で面白い個所は、全体の2割くらいです。しかし、退屈なところも必要です。それを読み飛ばしてしまうと、小説は面白くありません。トルストイの『戦争と平和』は大変長い小説ですが、面白い部分はごく一部で、あとは退屈です。しかし、面白いところだけを拾い読みしても、『戦争と平和』を読んだことにはなりません。
活劇アクションものなどで、最初から最後まで息づまる場面の連続、などというものもあるのですが、読み終えると、「騒がしかった」という印象しか残りません。
英語を覚える場合もそうです。「重要な単語だけを抜き出した単語帳で単語を覚えようとしてもできず、文章を覚える必要がある」と第4章の2で述べました。どんな文章を取り上げても、およそ8割はすでに知っている単語でしょうから、それらを含めて全文を覚えるというのは無駄なような気がするのですが、そうしないと2割に当たる重要単語を覚えることはできないのです。
人体の約7割は水です。しかし、水ばかりでは生きられない。カロリーもタンパク質もビタミンも必要です。
「大金持ち」も、「その他大勢」がいるからこそ大金持ちになるのです。それが社会の構造なのです。
政治システムは8割の部分を重視すると言いました。それらが重要でないとして切り捨ててしまうと、社会は成立しません。政治が平等を求めるのは、社会の長期的な存続のためには、意味があることなのです。
自然の生物種は、きわめて多数です。驚くほどの種の多様性は、自然界の長期的存在のために不可欠な条件のようです。
それでもやっぱり2:8法則
では、以上で述べたことは、「コアに集中するのは間違い」ということを意味するのでしょうか?
そんなことはありません。右に、「人間の身体は水だけで支えることはできない。カロリーもタンパク質もビタミンも必要だ」と述べました。しかし、「水が最優先」ということに、間違いありません。
無人島に漂着したら、まず何をおいても、水場を探すことから始めなくてはなりません。または、雨水を溜める工夫をすべきです。その他の栄養素を探すのは、水が確保できてから後の課題です。
こんなことは、言われなくても、誰でもそうするでしょう。しかし、現実の仕事や勉強では、その原則を守っていないことが多いのです。簡単なことや片づけやすいことがらやる。あるいは、言い訳を優先する。そうした行動を無意識のうちに取っていることが多いのです。それを変える必要があるというのが、本書でこれまで述べてきたことです。
つまり、10割はすべて必要なのではあるけれど、同じように重要ではない。それを忘れてはなりません。ギャラリーは重要だけれど、モーターではない。人々は、主役が誰かを見て、バレエを見にいくかどうかを決めるのです。
世界は10割で成り立っているのだけれど、その中には重要なものと重要でないものがある。それが調和です。
それに、同じものだけを残せば社会は平等になるのかと言えば、そうではありません。第6章の3で紹介したアリの話は示唆に富んでいます。働き者のアリだけの集団を作っても、あるいは怠けの者アリだけの集団を作っても、そこではまた、「一部が働き一部が働かない」という元のコロニーと同じ集団構造が現れるのです。つまり、2:8構造は、フラクタルになっているのです。これは、2:8法則が自然の基本的法則であることを物語っているのでしょう。
ギャラリーの存在は必要
私は、高校時代の友人だちと、メールでの「オンライン常時開催クラス会」をやっています。さまざまな話題についてメールで討論しているのです。
あるとき、私とある友人の間で、議論が起きました。この問題は、2人以外のメンバーには興味がないことだろうと思っていたところ、「発言はしないが、興味があるから続けてくれ」というメールがありました。
この話題について大部分のメンバーは「ギャラリー」であったわけですが、われわれ2人もギャラリーの存在を意識していたという事実に、そのとき気付きました。そして、2人だけのメール交換よりオンラインクラス会が面白い理由はそこにある、ということにも気付きました。ギャラリーは、積極的に討論に参加しなくても、重要な役割を果たしているのです。
ギャラリーが重要な役割を果たしている例は、他にもあります。
バレエでは、普通は主役の2人が重要ですが、見せ場では大勢のギャラリーが舞台の背景にいます。彼らは踊るわけでもなく、ただ立っていたり座っていたりするだけなのですが、彼らがいないと舞台は寂しくなります。華やかな場面にするためには、彼らの存在は不可欠です。例えば、「ドン・キホーテ」というバレエの最終場面は主役2人の踊り(グラン・バード・ドゥ)ですが、背景には数十人のギャラリーがいて、彼らの踊りを見守っています。
「働かない働きアリ」は、リリーフ要員としての意味を持っています。しかし、バレエのギャラリーは、リリーフ要員ですらありません。主役がけがをしたときにギャラリーの誰かが代役をつとめることなど、絶対に考えられません。彼らは引き立て役であって、モーターではないのです。それにもかかわらず、必要なのです。
バレエには「ガラ・コンサート」というのがあります。これは、全幕を上演するのではなく、見せ場だけを取り出して上演するものですが、ここではギャラリーはいません。そのため、全幕ものに比べると、華やかさに欠けます。
これまで使った用語で言うと、「ギャラリーは、ノンコアであるにもかかわらず、重要な役割を果たしている」ということです。決して「いてもいなくても同じな人々」ではないのです。
世界は10割で成立している
同様のことが、その他の場面でも観察されます。
例えば、小説で面白い個所は、全体の2割くらいです。しかし、退屈なところも必要です。それを読み飛ばしてしまうと、小説は面白くありません。トルストイの『戦争と平和』は大変長い小説ですが、面白い部分はごく一部で、あとは退屈です。しかし、面白いところだけを拾い読みしても、『戦争と平和』を読んだことにはなりません。
活劇アクションものなどで、最初から最後まで息づまる場面の連続、などというものもあるのですが、読み終えると、「騒がしかった」という印象しか残りません。
英語を覚える場合もそうです。「重要な単語だけを抜き出した単語帳で単語を覚えようとしてもできず、文章を覚える必要がある」と第4章の2で述べました。どんな文章を取り上げても、およそ8割はすでに知っている単語でしょうから、それらを含めて全文を覚えるというのは無駄なような気がするのですが、そうしないと2割に当たる重要単語を覚えることはできないのです。
人体の約7割は水です。しかし、水ばかりでは生きられない。カロリーもタンパク質もビタミンも必要です。
「大金持ち」も、「その他大勢」がいるからこそ大金持ちになるのです。それが社会の構造なのです。
政治システムは8割の部分を重視すると言いました。それらが重要でないとして切り捨ててしまうと、社会は成立しません。政治が平等を求めるのは、社会の長期的な存続のためには、意味があることなのです。
自然の生物種は、きわめて多数です。驚くほどの種の多様性は、自然界の長期的存在のために不可欠な条件のようです。
それでもやっぱり2:8法則
では、以上で述べたことは、「コアに集中するのは間違い」ということを意味するのでしょうか?
そんなことはありません。右に、「人間の身体は水だけで支えることはできない。カロリーもタンパク質もビタミンも必要だ」と述べました。しかし、「水が最優先」ということに、間違いありません。
無人島に漂着したら、まず何をおいても、水場を探すことから始めなくてはなりません。または、雨水を溜める工夫をすべきです。その他の栄養素を探すのは、水が確保できてから後の課題です。
こんなことは、言われなくても、誰でもそうするでしょう。しかし、現実の仕事や勉強では、その原則を守っていないことが多いのです。簡単なことや片づけやすいことがらやる。あるいは、言い訳を優先する。そうした行動を無意識のうちに取っていることが多いのです。それを変える必要があるというのが、本書でこれまで述べてきたことです。
つまり、10割はすべて必要なのではあるけれど、同じように重要ではない。それを忘れてはなりません。ギャラリーは重要だけれど、モーターではない。人々は、主役が誰かを見て、バレエを見にいくかどうかを決めるのです。
世界は10割で成り立っているのだけれど、その中には重要なものと重要でないものがある。それが調和です。
それに、同じものだけを残せば社会は平等になるのかと言えば、そうではありません。第6章の3で紹介したアリの話は示唆に富んでいます。働き者のアリだけの集団を作っても、あるいは怠けの者アリだけの集団を作っても、そこではまた、「一部が働き一部が働かない」という元のコロニーと同じ集団構造が現れるのです。つまり、2:8構造は、フラクタルになっているのです。これは、2:8法則が自然の基本的法則であることを物語っているのでしょう。
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