未唯への手紙
未唯への手紙
コピー・ライトを「知的所有権」という概念で拡大
『メディアの臨界』より ネット時代の著作権
ネット時代の基本動向について折に触れて含蓄ある発言を続けているミッチ・ケイパーは、「コピーライトの問題は、ネットにおけるヴェトナムである」と言った。これは、なかなか意味深い。まず、コピー・ライトという概念は、アメリカにおいて「知的所有権」という概念として拡大された。この概念に同調することを世界各国に迫っているのはアメリカである。そして、この知的所有権というものは、アメリカがヴェトナムにゴーディン・デェム政権を作ったのと同じように無理がある。憲法には、しっかりした定義があるのに、それを無視して手前勝手に期間を延長するところも、ヴェトナムに似ている。この分で行けば、知的所有権などというものは、いつも強権を発動してごり押しをするアメリカという国のエピソードにすぎないことが判明する日が来るだろう。しかし、ヴェトナム戦争のようなばかげたことはもうしないと思われたアメリカが、湾岸戦争、アフガニスタン攻撃、そしてイラク攻撃と、歴史の忘却をくりかえしているところを見ると、知的所有権も、当分だらだらと生き残るのを覚悟しなければならない。
コピーライトから「インテレクチュアル・プロパティ」へと表現を替え、概念を不当に拡大しても、「知的所有権」という概念の限界地平は見えている。知的所有権には、著作権、特許権、商標権、実用新案権、意匠権、植物新品種権、商号権、回路配置権、ビジネス方法権、微生物特許等々、かぎりない分野の独占権が含まれるが、基本の概念はコピーライト、つまり「複製可能性」に関する権利である。ところが、この「複製」の技術が、二〇世紀後半を境にして、ドラスティックに変化した。
二〇世紀のテクノロジーは、複製を可能にする技術を限界まで押し進めた。当初、複製は、オリジナルのある複製だった。だから、最高の価値はオリジナルであり、複製は贋作、ニセの製造にとどまっていた。が、これがデジタル技術の発達とともに、オリジナルなき複製、複製の複製になっていった。これは、SP/LPレコードからCD/DVDへの変遷を考えれば、容易に理解できるだろう。
レコードには、まず、「マスター盤」があった。レコードは! 一度聴けば、針によってこすられることによって「マスター版」とは異なるものになってしまう。そして、マスター版ですら、アナログ録音の技術のなかでは、マスターテープと同じではない。さらに、生演奏の録音である場合には、そのマスターテープでさえ、オリジナルとは異なる。ここでは、オリジナルである生演奏が最高価値を占めるのである。デジタル録音のCD/DVDでも、このことには変わりがないが、デジタル録音にいたって、最初にアコースティックな生音があり、それが録音されるのではなく、最初からデジタル信号としてしか存在しないような演奏が次第に増えて行く。デジタル媒体で聴くことが、聴覚的に最初の演奏体験であるような演奏だ。ここでは、「オリジナル」ということが意味をなさない。
本の複製とコピーライトの問題は、レコードやCD/DVDとは異なる側面を持っているということについて考えておく必要がある。これは、知的所有権の問題が、依然としてコピーライト、複製可能性の問題であることを明らかにする。
本の複製は、ある意味で、最初から今日のデジタルディスクにおとらず複製中の複製、オリジナルなき複製であった。それは、文字というメディアが持つ抽象化作用と関係がある。文字は、「字面」だけを読むのではなく、その先の概念を読むわけだが、本は、レコードとちがい、多少の汚れや傷によってもその「オリジナル」性が損なわれることはない。たしかに、骨董品/物としては違うのだが、印刷された本は、通常、すべて同じものと見なされる。同じ版の本を何回読んでも、それが「オリジナル」から遠ざかるとは見なされない。その意味では、本は、最初から、コピーライトを設定しにくいメディアだった。ここで著作権というものを設定するためには、本そのものを越える領域が持ち出されなければならない。すなわち「著者=作者」である。
実際には、本の製作には、紙に文字を記した「著者」だけでなく、編集、印刷、製本にかかわった人間が多数存在するわけだが、そのなかで「著者」に特権をあたえ、絶対化することによって「著作権」が可能になる。これは、近代の小説という形式のなかで定着され、それがやがて、他のメディアヘ、さらには思考の形式にも影響をあたえて行った。本は、作者の知性の「複製」であり、また、知識は、思考する「主体」の独占的な産物だというわけだ。かくして本の著作権は、著者に帰属するということになるが、その根拠はきわめて便宜的である。そして、だからこそ、著作権を契約によって、著者以外の者に帰属させるということが「正当」とみなされたりもするのである。もともと取り決めにすぎないわけであるから、それを契約しだいでどう定義しなおしても、変わりがないのである。
ネット時代の基本動向について折に触れて含蓄ある発言を続けているミッチ・ケイパーは、「コピーライトの問題は、ネットにおけるヴェトナムである」と言った。これは、なかなか意味深い。まず、コピー・ライトという概念は、アメリカにおいて「知的所有権」という概念として拡大された。この概念に同調することを世界各国に迫っているのはアメリカである。そして、この知的所有権というものは、アメリカがヴェトナムにゴーディン・デェム政権を作ったのと同じように無理がある。憲法には、しっかりした定義があるのに、それを無視して手前勝手に期間を延長するところも、ヴェトナムに似ている。この分で行けば、知的所有権などというものは、いつも強権を発動してごり押しをするアメリカという国のエピソードにすぎないことが判明する日が来るだろう。しかし、ヴェトナム戦争のようなばかげたことはもうしないと思われたアメリカが、湾岸戦争、アフガニスタン攻撃、そしてイラク攻撃と、歴史の忘却をくりかえしているところを見ると、知的所有権も、当分だらだらと生き残るのを覚悟しなければならない。
コピーライトから「インテレクチュアル・プロパティ」へと表現を替え、概念を不当に拡大しても、「知的所有権」という概念の限界地平は見えている。知的所有権には、著作権、特許権、商標権、実用新案権、意匠権、植物新品種権、商号権、回路配置権、ビジネス方法権、微生物特許等々、かぎりない分野の独占権が含まれるが、基本の概念はコピーライト、つまり「複製可能性」に関する権利である。ところが、この「複製」の技術が、二〇世紀後半を境にして、ドラスティックに変化した。
二〇世紀のテクノロジーは、複製を可能にする技術を限界まで押し進めた。当初、複製は、オリジナルのある複製だった。だから、最高の価値はオリジナルであり、複製は贋作、ニセの製造にとどまっていた。が、これがデジタル技術の発達とともに、オリジナルなき複製、複製の複製になっていった。これは、SP/LPレコードからCD/DVDへの変遷を考えれば、容易に理解できるだろう。
レコードには、まず、「マスター盤」があった。レコードは! 一度聴けば、針によってこすられることによって「マスター版」とは異なるものになってしまう。そして、マスター版ですら、アナログ録音の技術のなかでは、マスターテープと同じではない。さらに、生演奏の録音である場合には、そのマスターテープでさえ、オリジナルとは異なる。ここでは、オリジナルである生演奏が最高価値を占めるのである。デジタル録音のCD/DVDでも、このことには変わりがないが、デジタル録音にいたって、最初にアコースティックな生音があり、それが録音されるのではなく、最初からデジタル信号としてしか存在しないような演奏が次第に増えて行く。デジタル媒体で聴くことが、聴覚的に最初の演奏体験であるような演奏だ。ここでは、「オリジナル」ということが意味をなさない。
本の複製とコピーライトの問題は、レコードやCD/DVDとは異なる側面を持っているということについて考えておく必要がある。これは、知的所有権の問題が、依然としてコピーライト、複製可能性の問題であることを明らかにする。
本の複製は、ある意味で、最初から今日のデジタルディスクにおとらず複製中の複製、オリジナルなき複製であった。それは、文字というメディアが持つ抽象化作用と関係がある。文字は、「字面」だけを読むのではなく、その先の概念を読むわけだが、本は、レコードとちがい、多少の汚れや傷によってもその「オリジナル」性が損なわれることはない。たしかに、骨董品/物としては違うのだが、印刷された本は、通常、すべて同じものと見なされる。同じ版の本を何回読んでも、それが「オリジナル」から遠ざかるとは見なされない。その意味では、本は、最初から、コピーライトを設定しにくいメディアだった。ここで著作権というものを設定するためには、本そのものを越える領域が持ち出されなければならない。すなわち「著者=作者」である。
実際には、本の製作には、紙に文字を記した「著者」だけでなく、編集、印刷、製本にかかわった人間が多数存在するわけだが、そのなかで「著者」に特権をあたえ、絶対化することによって「著作権」が可能になる。これは、近代の小説という形式のなかで定着され、それがやがて、他のメディアヘ、さらには思考の形式にも影響をあたえて行った。本は、作者の知性の「複製」であり、また、知識は、思考する「主体」の独占的な産物だというわけだ。かくして本の著作権は、著者に帰属するということになるが、その根拠はきわめて便宜的である。そして、だからこそ、著作権を契約によって、著者以外の者に帰属させるということが「正当」とみなされたりもするのである。もともと取り決めにすぎないわけであるから、それを契約しだいでどう定義しなおしても、変わりがないのである。
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