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社会保障の経済学 なぜ政府が必要なのか

『社会保障の経済学』より

最低限度の生活保障

 次に、社会保障になぜ政府の関与が必要になるかという問題を考えてみよう。この問題については、2つの説明が可能である。第1に、社会保障が目指すべき、最低限度の生活を保障するという目標は、民間の経済主体によって達成される保証がない以上、政府が介入せざるをえないと考えられる。社会に発生するさまざまなリスクを分散する仕組みそのものは、民間の経済主体が構築し、運営することもできる。極端なケースでは、知り合いの2人の間で「困ったときは助け合おう」と合意し、そのとおり実行することもできよう。

 しかし、せっかく助け合いを約束しても、その約束を破る者が出てきてもおかしくない。もちろん、ゲーム論的にいえば、いわゆる「繰り返しゲーム」を想定し、約束違反に対する罰則を私的に設定して、約束を破ることを防止するルールを個人間で作り出すこともできよう。しかし、そうした個人間の関係そのものを打ち切ってしまった者にとっては、そのルールの拘束力はなくなってしまう。さらに、仮に人々の間でリスク分散の仕組みが維持されたとしても、そこで保障される生活が最低限度のものである保証はどこにもない。

 このように考えると、最低限度の生活を保障するということを社会的に目指す以上、政府がそのための財源調達やサービス供給に関与することが必要になってくる。

民間保険の限界

 政府が必要とされる第2の理由は、リスク分散を民間保険に委ねることの問題点である。生命保険や損害保険の例からもわかるように、保険は民間の保険会社によっても提供することができる。にもかかわらず政府が社会保険という強制加入の仕組みを整備する必要があるとする根拠として、「逆選択」(adverse selection)の問題が指摘されることが多い。

 逆選択とは、次のような状況を意味する。たとえば、医療保険が民間で行われ、その加入が任意の場合、病気になる確率が高い人ほどその保険に加入するだろう。そのため、保険会社は収益の維持を目指して保険料を引き上げざるをえない。そうなると、保険の加入者は病気になる確率がさらに高い人に限定され、保険会社はさらに保険料を引き上げるという悪循環が生まれる。このように、民間保険の場合は、リスクの高い人だけが保険に加入し、保険そのものが成立しない危険性を回避できなくなる。したがって、強制加入の社会保険が必要になるということになる。

 こうした逆選択の説明は、「疾病リスクは保険者より加入者(個人)のほうがよく知っている」という形の情報の非対称性を前提としている。しかし、私たちは、自分の疾病リスクを本当に他人よりよく知っているだろうか。また、民間の保険会社は営利を追求するから、疾病リスクの高い人は保険からできるだけ排除したいと考えるはずである。そのために、保険会社は加入を申請した人の健康状態を審査し、リスクの高そうな人は加入を拒否するだろう。この審の段階で、疾病リスクをめぐる情報の非対称性はかなり軽減される。

 このように、民間に医療保険を任せると、逆選択の説明とはまったく反対に、疾病リスクの高い人が排除される危険性がある。こうした状況を「リスク選択」 (risk selection)が働いているという。前述の逆選択より、このリスク選択のほうが現実味を帯びているかもしれない。しかし、説明の仕方はまったく逆であるものの、社会保険の強制加入が是認されるという点では、逆選択とリスク選択の帰結は同じである。

 ただし、保険への強制的な加入が正当化されたとしても、保険制度を政府が独占的に運営すべきであるという根拠は実は明らかでない。保険への加入自体は強制するものの、保険の運営は民間主体に委ねるという形の制度設計もありうる。さらに、そのような強制加入の仕組みを整備しても、社会保険が保険制度であるかぎり、次のような「モラル・ハザード」(moral hazard)という問題を完全に回避できないという点には注意が必要である。

 たとえば、最低限度の所得が社会保険によって保障されているとすれば、所減少のリスクに備える必要がそのぶん低下するから、人々は労働や貯蓄を怠るかもしれない。そうなると、社会全体で見て最低所得水準が達成できないリスクが高まり、保険料を引き上げざるをえなくなるという問題が生じてしまう。所得減少のリスクをカバーしようと保険に入る人にとっては、これは不本点な状況である。このようなモラル・ハザードの発生を回避する仕組みをどう設定するかは、社会保険制度において非常に重要な課題となっている。

公共財としての社会保障サービス

 社会保障のもとでは、社会的なリスクが発生したときに、あるいはリスクを軽減するために、政府がさまざまなサービスを提供することになる。したがって、社会保障は一種の公共財を供給する社会的な仕組みとしての側面を持っている。そのようにとらえると、社会保障サービスもほかの公共財の場合と同じように、その供給を民間にすべて委ねるのではなく、政府が社会保険料や税といった形で人々から財源を強制的に拠出させて供給することが必要となる。

 この点は、医療保険や公衆衛生の場合を考えれば明らかだろう。たとえば、病気やケガの治療、衛生的な生活環境の整備は、個人の便益を高めるだけでなく、社会全体にとっても望ましいという点で、外部経済効果(外部性)を持つ。ところが、人々はそうした経済外部効果を十分考慮して社会保障サービスを需要しようとはしないので、民間で供給される供給量は社会的に最適な水準を必ず下回る。そのため、社会保障サービスの供給に対する政府の関与が必要になる。もっとも、こうした理由で政府の関与が十分に正当化されるためには、政府が社会保障サービスの外部経済効果について、個人より豊富な情報を持っていることが前提となっている点に注意が必要である。
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