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北欧型の福祉政策

『医療にたかるな』より

北欧は福祉が充実していることで知られています。世界の福祉政策は、国がほとんど面倒をみる北欧型、自己責任で国が最小限の関与しかしないアメリカ型、ヨーロッパや日本のように国と家族が責任を分かち合って面倒をみる大陸型、この3つの型に大雑把に分類されています。

一口に北欧型といっても、詳しくみれば、国ごとにそれぞれの形があります。

たとえば、フィンランドは施設中心の福祉を充実させていました。リハビリテーションセンターや戦傷者のための病院など、日本でいえば老人保健施設にリゾート施設とリハビリ施設を合体させたような施設がたくさんありました。また、国の委託で運営される民間のリハビリ施設もありました。ほぼすべての施設にプールやサウナがあり、アロマセラフィーや犬櫓ツアーまであるところもありました。これらの施設を、労働者の権利として1年あたり数ケ月間分も家族とともに使うことが可能となっており、予防や検診、健康づくりやリフレッシュに使われています。

これに対し、同じ北欧圏のデンマークでは、「できるだけ長く自分の家で」というスローガンのもと、在宅中心で高齢者をケアしているそうです。1988年からは新規の老人ホームの建設を禁止し、代わりにバリアフリーの高齢者住宅の建設を推し進めています。ホームヘルパーや訪問看護師の人材育成にも力を入れており、介護者養成学校の学生は入学した時点で国家公務員として扱われ、国から給料をもらいながら学校に通える仕組みになっています。その他、ホームヘルプ、配食サービス、ショートステイ、デイセンターなど在宅ケアを支えていくための各サービスも、国から手厚く保護されています。

もちろん北欧型の福祉は経費もかかり、フィンランドやデンマークの消費税は25%、地域の予算の半分が福祉に使われています。国民負担率(租税負担率と社会保障負担率の合計)は、日本の39.3%に対し、フィンランドは59.2%、デンマークではなんと69.5%に達しています(2009年)。

北欧型、アメリカ型、大陸型については、それぞれに長所と短所があり、またそのような制度が形作られた文化的背景と歴史的経緯がありますから、一概にどれが良いとは言えません。しかし、私は、世界一高齢化が進んだ日本は、北欧型に学ぶ点が多くあると感じました。私はそのまま北欧型の「政策」を真似すべきという考えではありませんが、少なくとも社会全体で高齢者を支えていこうという「姿勢」は大いに学ぶべきだと考えています。

北欧の人たちを見ていて素晴らしいと思うのは、「負担なくして受益なし」という常識がきちんと根付いていることです。高齢化による社会保障費の増大が見込まれるとわかった時点で、当たり前のように増税の議論がはじまり実行に移されます。福祉制度は持続可能なものでなければならないという前提に立って、財源の管理を徹底しているのですo「命にかかわることなのに、お金の話をするなんてけしからん」なんて馬鹿なことを言う人は相手にされません。

どうすればムダを省くことができるかも徹底的に検討されます。過剰サービスを排し、国民一人ひとりがその能力を最大限に発揮することが求められます。高齢者や障害者といえども、自分で出来ることは何でも自分でやるのが基本です。日本の介護施設のようにヽ上げ膳据え膳で身の回りの世話を介護スタッフに丸投げすることは許されません。介護スタッフの方も、医学・薬学・精神医学から社会学・文化学まで、日本とは比較にならないほど幅広い専門性を身に付ける必要があり、一人ひとりがより多くの役割と責任を負うことが求められます。

福祉大国という言葉から連想される優しいイメージとは裏腹に、ある意味、甘えが許されない厳しい社会であるとも言えます。
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「抽象」とは「ものの本質」に注目すること

『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』より 「具体」から「抽象」へ

辞書を引いてみよう。「抽象」というのは、「事物または表象のある側面・性質を抽き離して把握すること」とある。このとき、大部分の具体的な情報が捨てられるので、「捨象」という行為が伴う。中身の食べられるところだけを抜き出して、外側の皮の部分を捨てる、と考えるとわかりやすいだろう。

どうして、このように情報を捨てるのかというと、そうすることで、何か本質かがわかりやすくなったり、別の多数のものにも共通する一般的な概念が構築しやすくなるからだ。

一例を挙げれば、数字がそうである。世の中にあるものを、ひとつ、ふたつと数えることを人間は思いついた。数えるものが何であるか、個々に差異はあっても拘らず、そういった具体的な情報を一旦捨てて、個数として取り扱う。そうすれば、数の計算を行うことができる。これが数学だ。数学というのは、ものごとを極限まで抽象化した考え方といって良い。世の中にある諸問題は、数学のとおり簡単にはなかなかいかないが、しかし、それでも我々は、数の計算ができることで、複雑な事象を比較的楽に処理できるようになった。

抽象化するときに失われた情報は、不要だったわけではない。綺麗きっぱり忘れてしまえ、というのではなく、一旦それを棚に上げて考えてみよう、という意味だ。そうしないと、見かけの複雑さに囚われ、問題の本質が見えにくくなり、結果的に判断を誤るからである。

林檎が幾つかあったとき、それを二人で分けるために個数を数える。実際には、それぞれの林檎は大きさも違うし、もしかしたら腐っているものがあるかもしれない。けれども、そういった情報を捨てて、ひとつ、ふたつ、と数えられるような「ほぼ同じもの」だと仮定するわけである。この「仮定」こそが、人間の高度な思考の一手法といえるものだ。

頭の良い人間でも、一度頭に入ったものを「忘れる」ことは簡単ではない。客観的に考える場合には、自分の経験や知識や立場を忘れる必要があるし、抽象的に考える場合には、表面的なもの、目の前に見えているものに囚われないことが大切である。これはたしかに難しい。でも、できないわけではない。人間にはそれだけの能力がある。これができるから人間だ、といっても良い。

身近な例でいえば、「相手の身になって考えること」は、人間以外の動物にはほぼ不可能だろう。しかし、人間にはそれができる。どうしてできるのかというと、人間は「想像する」ことができるからだ。この「想像すること」が、人間の思考の大きな特徴であり、さきほどの「仮定」も、一種の想像である。

想像というのは、現実にないもの、見えないもの、経験したことがないもの、今直接には関係のないもの、そういう未知で不在のものを考えることである。これは、主観的なもの、具体的なものに囚われていると難しい。何故なら、想像する行為が、現実認識にとって障害になるので、逆にこれを規制(自制)しようと生理的に働きかけるからである。つまり、自分が想像するのを、自分で邪魔するのだ。

荒唐無稽な夢を見ることは、誰にだってできる。特に子供の頃には、そういう夢を頻繁に見たはずだ。子供は、夢でなくても、現実離れしたことを考える。それを大人に話すと、「そんな夢みたいなこと言うな」と叱られるから、だんだん周囲との折り合いをつけるようになる。この折り合いが「常識」である。常識が備わってくると、想像力は鳴りを潜めざるをえない。想像したものを自分自身で否定するうちに、だんだん考えないようになる。想像力を使う機会が、普段の生活では滅多にない、といっても良い。想像力など働かせなくても生きていけるし、むしろ変なことを考えない方が生きやすい、とさえいえるかもしれない。

しかし、物事を客観的に、そして抽象的に考えるには、どうしても現実から飛躍する必要がある。それは、実際には個々に違いがある林檎を、同一のものとしてイメージすることと同じだ。そういう「仮の発想」がなければ、物事を抽象的に捉えられない。また、自分の目ではない視点を持たなければ、客観的な全体像は見えてこない(想像できない)。さらに、現実にない概念を捉えるには、体験したもの、教えられたもの、知っているものに囚われることのない新しい感覚を持っていなければならない。これには、異質なものを受け入れる「好奇心」のような姿勢がとても大事なファクタになる。
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本の未来からシェア社会を考える

未唯へ

 Iさんは居なかったけど、グランデだけで充分です。土日はスタバに中途半端に行ったので、コーヒーに飢えていた。

本の未来からシェア社会を考える

 デジタル化することで複製が簡単になる。印刷技術がなくなる。本は著者と個人をつなぐものは買うという行為で成り立っていた。

 著者を生かすために、買っている訳でなく、その間の中継ルートに対する支払、紙に対する支払いが大きかった.それがなくなった時点で、著者と読者をどうつなぐのか。

 当然、娯楽の本と訴える本では状況は大きく異なります。本が社会の変革を起こすためには、訴える本の位置づけを変えていくことです。本と個人をつなげるだけでなく、グループとつなげていく。そのグループが社会を変える原動力になる。

 グーデンベルグの時の聖書と同じ役割です。個人をつなぐだけでなく、グループとつなげていった、ルターの世界です。

 そこにおいて、デジタル図書を扱う図書館の役割は大きく変わる部分と変わらない部分が明確になる。大きく変わるのは、グループをいかに生成するかです。コミュニティのための図書館です。従来、抽象的な生涯学習を戦略化します。

 もう一つはアゴラとしての場所の提供です。古代のアレキサンドリア図書館のアゴラはキリスト教徒が跋扈する場所になった。そこにおいては、教育委員会は関係なくなり、地域のコミュニティが仕切ればいいです。そこで横につなげていくことです。デジタル図書の場合はコミュニティとぴったり合ってきます。

 単なる印刷で、本を渡すのではなく、内容そのものを渡すことになる。本は元々、分化です。読む人で多様なものになります。そこからの行動もバラバラです。コミュニティでまとめられれば、力のなります。一つのコンテンツに対して、いくつもできます。

車でのシェア

 その延長線上で車のシェアを考えた時は複製がネックになります。それを補うのは、共有の考えでしょう。

 車を複製するというアイデアを延長させればいい。車は実際の場所を取ります。デジタル化がいいのは、場所を取らないことです。リアルの本30冊を持ち運んでいた時に、肩を痛めました。デジタル化によって、図書館という場所、本の重さがなくなってきます。

 車を同じようにするにはどうしたらいいのか。カーシェアリングでの効率化と軽車両主体の交通体系です。つまり、人が合わせることです。人の都合をどう見ていくのか。機能として、そこに車があるから。

 これはかなり、大掛かりになります。いかに個人のスケジュールとか都合に合わせていくかです。市民のプライベートに入っていくしかない。そこにあるのは信頼関係です。そうでないと、アンバランスをもたらします。参画している市民コミュニティがコントロールしかない。

 店舗コミュニティでの情報共有が市民コミュニティとの接続を図ります。個別のお客様との信頼関係を超えて、グループでの接続を図ります。

偶然を生かすには

 1,2,3「偶然を生かす」とポータルで起こっていることが重なって見えます。偶然の持つ意味は、自分が生まれてきた意味を含めて、大きいです。

 偶然に偶然を重ねると、必然になってくる。ただし、歴史で方向修正されます。だから、歴史から見ていかないといけないということになります。こまごましたことは、その中にすべて、埋もれます。

 3年前の旅行前日に、偶然に意図を感じました。そういうせこい連中はいくらでもいます。その時から、偶然を読み取ること、結果から原因を探るのを自分の役割としました。つまり、偶然を味方にしました。

 偶然はいくら仕掛けても、方向そのものは変わりません。なるようにしかならない。だから、偶然から未来を見ていくことになります。すべてを知ることはできないのは、人間の限界です。

偶然が全て

 神においても、自分が作った世界だからと言って、すべてのことを知ることはできない。グーグルも同じです。だから、キリストにしても、偶然で奇蹟を起こすだけです。

 ある意味では偶然が全てです。偶然で得たものをすべてとします。それにしても、次から次への私のために偶然が準備されている。今日のパートナーからにしても、同じです。そこで何を得るかです。偶然は従うものではなく、意図を探って、流れを知ることです。
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