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時間があるのに、考えがまとまらない

折角に休みなのに、本が読めない

 感染症で体温が38.4度まで上がっているので、会社を休みました。往復のバス2時間には耐えられそうもない。明日どういう状況になるかわかりません。

 会社に8時過ぎに電話したら、男性が出てきたので、「熱があるので休みます」とだけ、告げました。ひたすら、寝ながら、Kindleで本を読んでいたが、フッサールまでは行きません。気分がのらない。これで、孤立と孤独の課題に答えが出るのか。

 何しろ、先がないのは分かったので、フッサールぐらいは超えないといけない。

 池田晶子さんではないけど、あれぐらいの年齢で、ソクラテスに恋して、亡くなるのが、一番分かり易い。この歳になって、時間があるのに、全然はかどらない。身体に少しでも障害があると、寝てばかりです。

 前立腺の入院の時も、考えをまとめようとしているけど、多分、怠けてしまうでしょう。その際は亡くなった方がいいみたいです。幸いにも、悲しむ人はいないところまで来ています。

 考えをまとめても、持って行き先がないのは分かっている。それは孤立と孤独の世界だから。それを確認したいための試みです。頭が働いていない。周りの風景は見えていない。
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漂白される社会

『漂白される社会』より

現代社会に起こっている、ここまで述べてきたような社会現象を「漂白」と名付けよう。唐突なメタファーのようにも見えるかもしれないが、そう名付けることなしには見過ごし、理解しきれぬ事柄があり、また、そう名付けることで、その存在をあぶり出し、取り組むことが可能になる事柄がある。

現代社会とは漂白される社会だ。「漂白」とは「周縁的な存在」が隔離・固定化、不可視化され、「周縁的な存在」が本来持っていた、社会に影響を及ぼし変動を引き起こす性質が失われていくことを示す。これは、物質的なものに限ることなく、精神的なものにも至る。それは、これまで社会にあった「色」が、失われていこうとする社会であるとも言える。

まず「色」について。ここでは「色」について二つの意味をひこう。一つは、中心的な位置にいないこと。つまり、「色物」「色商品」という際の色であり、政治的・社会的立場について「あの人と、あそこの団体と関わると色がつく」という時の「偏り」とも言い換えられる色だ。もう一つは、社会における情事・狼雑さ・表立って忌避されるもの。つまり、[色事]「色街」という時の「色」だ。

「色物」「色事」のような言葉に現れる「偏りや狼雑さ」。社会の中で周縁的な立場に置かれながらもこれまではその存在を許され、あるいは、蔑まれながらも人々を魅了してもきた「偏りや狼雑さ」。その「偏りや狼雑さ」が社会から失われる。

この「偏りや狼雑さ」は「周縁的な存在」にこそ顕著に現れる。そこから「偏りや狼雑さ」が「失われる」というのは、「周縁的な存在」自体が社会からなくなることを意味するのではなく、「偏りや狼雑さ」を持つ「周縁的な存在」が隔離・固定化されたり、不可視化されることを示す。

「周縁的な存在」が現代に残る「無縁」の一つの形態だとするならば、それが本来見せていた「人の魂をゆるがす文化」や「生命力」も衰えつつあると言える。ただしそれは、凄まじい権力者や巨大な資本による抑圧、虐げを伴うダーティーな陰謀によってなされるのではなく、「自由」と「平和」を求める人々の、あるいは「豊かさ」を求める人々のピュアな欲望によって、自動的かつ自発的に構築されていく。

例えば、第三章の例に沿えば、「死」という個人にとっても社会にとっても、最も「周縁的な存在」の一つすらも、隔離・固定化や不可視化されつつある。そして、その中では、この個別的な現象を「(二度目の)漂白」と呼んだが、これをこの「周縁的な存在」が隔離・固定化、不可視化へと追われていく現象の呼称としよう。

当然、漂白は「生」の最中にもまた同様に存在する。

破綻・破滅に至らないドラッグ・ギャンブルは、「普通の人」を取り込みながら、点在する社会に不可視に根付き、暴力性は先を見据えたバランス感覚や組織の効率的運営を求められながら消えていく。「多様性の存在」が魅力とされる社会運動やシェアハウスは、実は単一性の中に回収されつつ一つの均衡状態に至り、売春島や偽装結婚のように、これまでの社会が支えきれなくなった社会構造の中で生じるリスクは資本を媒介に分配される。それを本書は示していたはずだ。

かつてあったような明確な達成目標や物語・歴史観が、社会に設定されなくなりつつある。「自由」(例‥もっと民主的になれ、カネをくれ、海外に行きたい)や「平和」(例‥暴力がない社会を、安心して暮らせる街を)は行き先を見失い、ただアディクショナルに「自由」や「平和」を求めるなかで、「漂白」の無限増殖運動は始まり、続いてゆく。

「漂白される社会」の中で、私たちはこれに抗うことができるのだろうか。そもそも、その「快適な社会」のあり方に抗うべきなのか。その答えは新たな「旅」の中でしか見出せないと思っている。

本書をガイドとして、一人でも多くの人にそれぞれができる範囲での[旅]に出てもらえれば嬉しく思うし、また、その話を聞きながら、私も体力と知力の続く限り新たな「旅」へと出発し、ガイドを続けたいと思う。
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