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コミュニティビジネスでもうける

コミュニティビジネスでもうける

 国からの分配の余裕はない。借金が増えるだけです。それを解決しようとして、国はハイパーインフレを起こすだけです。国民の資産を食いつぶします。

 地域でのコミュニティビジネスで新しい付加価値も可能です。その時に国だけでなく、グローバル企業も地域のために使いこなします。老人ホームにおける給食一つとっても、地域の条件でさまざまなやり方が可能になってくる。グローバルはローカルを支援するためにある。

 これは、店舗コミュニティでも一緒です。情報共有の付加価値をどうつけていくのか。

 多くの車が売れるというよりも、お客様との信頼になるので、評価できるのは店舗でしかない。市民コミュニティと一緒になり、企業として、社会を変革することができます。

情報共有からの問題意識

 店舗コミュニティにコラボレーションを起こして、スタッフを分化させるには何が必要なのか。企業で、一つの目的でやっていることを増やすことです。

 高級車の販売店舗で、作業している時に、後ろで、店長はスタッフにもっと、雑誌を読めということを力説していた。お客様の多様なニーズに合わせることです。釣りとか英会話に関することでもいいし、交通とか社会に関することでいい。

 やはり、大きな要素はこのままの車で、社会の役に立つのかという問題意識です。車に関わっている人ほど、問題意識を持ちながら、目をつぶっている。

 研究開発部門にいた時にR&Dを行った人がハイブリッドを作った。その技術者の思いは、売ることよりも、社会への問題提起だった。

軽いデバイス

 地域でのコミュニティでは、バスだけでなく、交通そのものをどうしていくかを考えていかないといけない。ハードパスよりもソフトパスの発想です。

 任せるのではなく、自分たちで作り出すことです。そのためには、車とか電車とかバスというのは、場所を取りすぎるし、お金を使いすぎる。公共機関に拘る必要はありません。50台の車で渋滞している風景と50人が歩いている風景を対すれば、一目瞭然です。

 店舗コミュニティでは、同様な問題提起をスタッフに対して、いかにやっていくのか。

 地域コミュニティが自らやり、それがソーシャルビジネスになるためには、デバイスは選ばないといけない。バスとか車とか電車などの公共機関よりも、自転車などのもっと小さいものでの活用シーンを提案していく。

 パソコンに対して、タブレット・ケータイと同様に、企業にニーズをぶつければいい。印刷が変わったように、移動そのものを市民から変えていくことです。そのために、地域のインフラを変えていけば、千年世界は可能です。

クライシスへ対応として、社会変革

 東北のクライシスに対しても、いかに店舗を立ち上げ、売ることしかなかった。お客様の情報を把握して、支援するという動きはなかった。折角、お客様情報を持っていても、市民には役に立たなかった。

 復興という名前で、仙台をボストンにするとか、言うだけです。そんなことよりも、日本を変えることです。いかに脆弱な土台の上に日本があることを認識して、その危機感で社会を変革することです。ハイパーインフレを含むクライシスを認識することです。

なぜ、考えないのか

 根本的なところをなぜ、考えない。なぜ、行動しないのか。一つのことしか考えらないというキャパシティがないからではなく、組織から許された、自分を規定することしかやれないという呪縛があるからです。

 呪縛であるから、自分で破れるし、自分でしか破れない。それができる安心・安全社会をグローバルが支援していないからです。そんなものは組織を破って、成果を上げらばいい。正義は勝つ!

 組織の目的よりも、個人の目的の方が多様です。これは電算部の部品構成解析で習得したことです。その時に考えたのは、見方を変えれば、いくらでもシンプルになるということです。

 社会とか生活者とかマーケティングが情報共有で変わろうとしている。組織もその制約を破ろうとしている。そうでないと、生き残れない地点に近づいている。

個人をつなげるには

 個人をどのようにネットワークでつなげていくのか。国と企業と個人の三層構造において、ネットワーク・ループでつながっていきます。

 組織の分化としては、グーグルの20%ルールは正しい。
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〈私〉が存在することの意味

『哲学の密かな闘い』より

人間は動物ですから、生物学的な理由で生まれてきます。生物としての人間の一器官である脳は意識を生み出すので、脳があれば人間としての精神状態や心理状態が生まれます。ですから、世の中に人間がたくさんいて、多くの脳が意識を生み出していることは不思議ではありません。これは科学的に説明できる事態です。

しかし、一つ、不思議なことがあります。そのように意識をもつたくさんの人間のうちの一人が、なぜか、私である、ということです。多くの人間がいて、様々な意識や心や精神が存在するが、その中で私であるという特別な在り方をした人間はただ一人です。どうして、そんな例外的な在り方をしたやつが、一人だけ存在しているのでしょうか?

どのように例外的なのか? まず、その点を考えてみましょう。

人間はみな目で世界を見ているとされていますが、実を言えば、現実に見えている目は、私白身の目だけです。他の人の目からは、現実には、何も見えません。私に見えている世界を、他人たちも同じように認知してはいるでしょうが、どのように見えているのか、その見え方は、私には永遠にわかりません。目には世界が見えるはずですが、現実に世界が見える目は、一対しかありません。

音を聞くことで考えても同じことです。現実に音が聞こえる耳は、私の耳だけです。どうして、こんな例外的な目や耳が存在するのでしょう?

殴られたときに痛いと感じる身体も一つだけです。その身体以外の身体が殴られても、現実に痛くはありません。現実に、本当に痛く感じる例外的な身体が」つだけ存在するのです。痛みを感じる生理機構は、どの身体も平等に存在しているはずなのに。この違いはどこから生じるのでしょう?

同様にして、現実に自由に動かせる身体も一つしかありません。現実に見ることができ、現実に聞くことができる。本当に痛いと感じて、実際に動かせる。これらすべてが」つに集結している特別の身体があって、その身体がすなわち〈私〉の身体です。なぜ世界の中で一つの身体だけが他の身体とは違う在り方をしているのか。これが今回のテーマです。

わかりますか。誰にとっても自分の目だけが現実に見え、誰にとっても自分の身体だけが殴られると本当に痛い、……という話をしているのではありませんよ。そういう「誰にとっても」の視点に立つこと自体ができないじやないか、という話をしているのですよ。

最初に断言してしまうと、この問題を科学的に解明することはできません。また、問題が存在するだけで、解答があるわけではありません。しかし、この問題こそがあらゆる問題の中で最も重要な問題でしょう。なぜなら、このように例外的な在り方をしている私という人間が存在しなければ、何もないのと同じだからです。

解答不可能な問題ではありますが、しかし、ある仕方で議論することはできます。なぜなら、この問題と構造上類似した問題が世の中にいくつか存在するので、その類似性を示して、問題の構造を示すことができるからです。
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